82 / 120
6-愛してほしいの(6)
遊馬さんがエロいって?
胸触られるのすら恥ずかしがる人なのに?
どっかの密室でお偉いさんを誘惑してるならともかく、こんな皆がいる事務室なんかでエロいことしないでしょ。冷静な遊馬さんは、清廉潔白なはずだよ?
ねえ? って部屋の奥を見た。
俺が座ってるのは端の方だから、事務室のほぼ全体を見ることができる。
あれ、雰囲気おかしい?
なんだか妙に静かで、皆大人しく座ってPCに向かって作業してる。
立ち歩いてる人はほとんどいない。
いつもはもっと活気があるというか、自由にしてる気がするんだけど。
ん。ちょっと。どういうこと?
気づいちゃった。皆、ちらちらと遊馬さんのこと気にしてる。
それで、男性は宗さんみたいに前のめりに、女性は目を潤ませて頬を赤く染めてる人が多い。
高山さんが言った「部長がエロい」って言葉が急に気になりだした。
そうなの? 皆遊馬さんのこと意識してるの?
「まだ分かんないなら、部長のとこ行ってきなよ。検印してもらいたい書類あるからさ」
高山さんはそう言って、作業終了報告書を俺に渡した。顧客に返す書類なんだけど、顧客側の都合でまだ紙使ってるんだよね。課長とか部長とか諸々の承認が必要だから、これだけは未だにはんこをもらって回らないといけない。
「行ってきます」
遊馬さんのいる方へとことこ歩いていく。
やっぱり皆、変だ。
ここ法人事業部は、規律を重んじるというよりは、リベラルな風潮が強い。活発に意見交換をする人から、軽い雑談に興じる人、寡黙に仕事と向き合う人まで、それぞれ自由なスタイルで仕事をしている。
それがどうだろう。
圧倒的な沈黙がこの場を占めている。
それでも重苦しくないのは、なんと表現していいのか、全体にそわそわした雰囲気が漂っているからだ。
前のめりな男性社員も、頬を染めてる女性社員も、皆一様に遊馬さんをちらちらと気にしてる。
もちろん、遊馬さんが周囲の目を惹くほど魅力的なのは知ってる。
でも、だよ。
皆毎日遊馬さんと仕事をしていて、こんなそわそわもじもじしてないよね。
ちらっちら遊馬さんを横目に見ては、思春期の中学生みたいにさりげなく股間隠してうつむいたりしてないよね。
どういうこと?
……なんて言ってる俺は、怖くてまだ遊馬さんを見てないんだけど。
俺、お色気には人一倍弱い自信があるからさ。
さすがにこの場で遊馬さんを押し倒せないじゃない?
ああ、どうしよう。もし遊馬さんがさっきのお手洗いでの様子よりもエロかったら。
今度は抱きしめるわけにも、キスするわけにもいかないんだよ?
真面目な一社会人として、毅然とした態度を……ううううう、もうだめだ。遊馬さんのところに着いちゃった。
はう。
「先日の作業報告に、へ、へんいんを、おねがいしまふ」
舌が回らなくて、うまく喋れない。
こ、腰が。
「ああ、緊急で依頼されたモジュール差し替えですね。突然のことでしたが、対応お疲れさまでした」
金曜の夕方に連絡があって、休日出勤にまで発展した件なんだけど、もうそんなのどうでもいい。
遊馬さんの九十八パーセントが、性的魅力でできています。
残り二パーセントは何かって? 知らないよ。水かなんかじゃないの。
遊馬さん、そんなお顔でも笑えるんですね。
そりゃ枕営業もできますよね。そんな妖艶に微笑めるなら、誘惑なんて簡単ですものね。
「白田さん?」
だめ、そんな目をして俺の名前を呼ばないで。
心なしか潤んだ目で、薄紅色の花びらのような唇で、うっすらと上気した頬で、心を奪うセイレーンの歌声のように美しい響きの声で、俺を誘惑しないで。
綺麗な花には刺がある、どころの話じゃない。
猛毒だよ。白百合じゃなくてトリカブト。
だって今すぐにでも抱きしめて、キスをして、俺と遊馬さんの間を阻む全てを取り去って、押し倒したいもの。
猛毒。社会的に死ねる猛毒。
「白田さん、どうかしました?」
真っ赤な顔した俺を、遊馬さんが心配してくれてる。
でももう無理。限界です。
「ありがとござます! ら、らいじょぶれす!」
書類を受け取った俺は、ぎりぎり失礼にならない速さでその場から逃げるように立ち去った。
ともだちにシェアしよう!