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9-彼が望んだもの(4)
はぁ……。
家に着いて、暗い部屋の明かりをつけた。
抱えていた荷物をソファの横に置いて、ソファにひっくり返る。
目を閉じると、あの先輩とやらに最初に声をかけられた時の遊馬さんの怯えた顔が浮かんだ。あんな遊馬さん、初めて見た。
無遠慮に刺さる先輩の視線が痛そうだった。
何の先輩なんだろう? 会社? 大学? 高校? それとももっと前?
地獄の底、なんだって。遊馬さんのせいで。でも、それを聞いても、あの人への同情心はまったくわかない。
今頃、どうしてるんだろう。遊馬さん大丈夫かな。あの人さっさと帰ってくれてればいいけど。でも、あのとげとげしい感じ、恨みがつのってそうだった。遊馬さん虐められてないよね?
考えてると悪い方向にしか頭が働かないから、体を動かすことにした。
買ってきたものを整理する。服数着と黒猫パジャマ。
黒猫ちゃん。可愛い黒猫ちゃん。もこもこふわふわしてて、触ると気持ちいい。
これ着て、遊馬さんと一緒のベッドで寝るんだ。遊馬さんと一緒。
もこもこに顔を埋めてしばらく遊馬さんのことを考えていた。
今朝起きた時の笑顔。二人で洗濯物を干している時の横顔。
昨日の夜の辛そうな寝顔。先輩に捕まった時の血の気の引いた白い顔……。
ッポーン!
チャイムが鳴った。嫌な予感しかしない。
◇ ◇ ◇
「話せば長くなるんだ、立ち話もなんだろ? それとも聞きたくないのか? 城崎の話」
そう言って強引に入ってきた先輩は、部屋をぐるっと見渡して、ソファに勝手に座った。
俺は慌ててそのソファに置いていた黒猫パジャマを回収して、手早くクローゼットにしまった。
「はは。かわいーじゃん、お前。城崎がこういう趣味だとは気づかなかったな。城崎が恋人作ったら速攻で別れさすつもりだったんだが、それを知ってか知らずかあいつなかなか作らねぇの。見張ってんのにも疲れて、しばらく放置してたんだけど。あっはは。油断したな」
笑ってるけど笑ってない。きつい目の奥でどす黒い何かがぐるぐる渦を巻いてる。覗きこむのも怖気が走る何かが。
「俺に話があるならさっさとお願いします」
「あぁ? 話の前にさ、俺が誰なのか、なんでお前の家を知ってるのか、聞けよ」
俺は右に十度くらい首をかしげて見せた。
「やっぱ可愛くねぇな、お前。ま、いいや。俺は水野孝仁。お前、水野グループって、知ってる?」
知ってるも何も、俺と遊馬さんが勤めてる東栄コーポレーションは水野グループの傘下だ。
「同姓の他人とか、そういうくだらねえオチはないから安心しろ。個人情報の保護だとか言ってるが、やり方さえ知ってれば、必要な情報は手に入るんだ。城崎からお前の名前だけは聞けたから、後は調べるだけ。白田有理くんのお家まで無事来れたわけだ」
「で、俺に何の話があるんですか」
水野はにっこりと笑った。
「君の恋人の城崎遊馬くんについて、ちょっと昔話をしてあげようと思ってさ」
吐き気がする。
「結構です。お引き取りください」
「はいはい。俺と城崎が高校の時の話なんだがな」
水野は強引に話し始めた。
「俺は三年、城崎は初々しい一年。入学式前から噂がすげーの。美人が入学してくるって。うけるだろ? 男女共学なのにだぜ? あの年次の女どもはちょっと気の毒だったな。だって多少綺麗なくらいじゃ、あの城崎の面には勝てねえだろ? じゃあ対立するかと思ったら、拍子抜けだった。城崎取り巻いてちやほやしてんの。まあな、女でも男でも、城崎に好意をもって近づこうとするやつは取り巻きに弾かれてたから、ふん、そういう策略だったのかもしれねえ」
飲み物くれ、と水野が手を出すから、これ見よがしにコップに水道水をくんで渡した。
「ああ、わざわざ水道水を悪いな、ありがとう。……あの時の俺は純粋、いや、稚拙だった。城崎に惚れたところまではまだいい。セーフだ。だが幼稚な俺は、そのままその想いを城崎に告白しようとしたんだ。城崎一人を呼び出して、好きだって、告白した」
コップの水を一気に飲み干した水野は、がくりと天井を仰いだ。コップの中身がたとえ汚水でも構わず飲み干しそうだった。
「ま、フラれたんだがな。それはそれでいい。ここまでは良かったんだ」
がしがしと髪が乱れるのも構わず頭を掻いて、水野は続けた。
「馬鹿な俺は、城崎の取り巻きの一人が木陰にいることに気づかなかったんだ。噂はすぐに広まった。俺が城崎に告白したって。俺がゲイだって。城崎は俺の告白を聞いて断っただけだったから、ゲイ……あいつはバイか? まあどっちにせよ知られずに済んだ。さあ、こっから地獄の始まりだ。俺と仲が悪いやつが、その噂をわざわざ俺の両親に知らせてくれたんだ。うちの両親……親戚もだ、みんな揃ってありえんほどに頭が古くて固かった。同性愛なんざ認めない、大学卒業と同時に、親の決めた女と結婚して跡継ぎをつくれ、できなきゃ勘当だ、とさ」
水野は、ぱき、と首の骨を鳴らした。
「歯向かえなかった俺は、言われた通りに結婚した。子どももできた。じゃあ城崎は? たまたま運よく同性愛者だってばれなかった城崎は? もちろん恋愛なんざ許さねえ。人を雇って監視させて、恋人ができそうになったら即潰させた。大学卒業後は、うちの傘下に就職するように言った。あいつはその通りにした。そりゃそうだよなぁ? 俺の人生壊しといて、自分は自由を謳歌するなんて、許されるわけがないもんなぁ? 東栄に就職した城崎には、また見張りをつけた。あいつはもう恋人を作ることは諦めたみたいだった。まあそうだよな、片っ端から潰したもんな。じゃあ後はどうしようか。俺は考えた。高校時代、陰で噂されて、家では厄介者扱いされた俺は考えた。お前も陰で噂されろ。なあ、これが単純なくせに結構精神的にクるんだ。ちょっと想像すればわかるよな。どこにいても、絶えずひそひそ声がついて回るんだ。幻聴かってくらいついてくるんだ。城崎の近くのやつを買収して、城崎の動向を逐一報告させた。それで俺は、その時々で城崎に有益な人物を洗い出して、城崎に、そいつと寝させた。もちろん誘惑するところから手前でやらせた」
もう、いいかな? 殴っていいかな? 握りこぶしを固めた俺を見た水野は、鼻で笑った。
「殴るか? 何も解決しないし、お前もきっと胸糞悪いままだが。殴るか?」
……俺が拳をほどくと、水野はもう一度鼻で笑った。
「分かってくれてありがとう。はは。後はお前も知っての通りだ。城崎には枕営業の噂がついて回った。城崎が昇進した時は笑ったぜ。特例の昇進だったんだが、それを決めたやつらは、城崎の噂を知らなかったんだ。案の定、枕で昇進したって当然のごとく噂が流れた。あれは純粋に城崎の実力だったのにな。気の毒な話だ。誰が? 俺だよ。家に縛られて恋愛すらできない俺だよ。お前らはさっさと別れろ。別れないなら、理不尽な減給とか、意にそぐわない異動とか、あるかもな? ああ、怖い怖い。はは」
話し終わった水野は立ち上がって俺の横を通り、玄関から出て行った。
哀れで、引き留める気すら起こらなかった。
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