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第8話
それから、数週間が過ぎた頃のことだった。
ある日の夕食後に、兄が、僕に話があると言った。
僕は、ぎくっとした。
普段は、のんびりとしている兄が、その時は、何か、思い詰めたような表情をしていた。兄の強張った表情に僕は、とめどもなく嫌な予感がしていた。
「これ、お前なのか?晴」
僕と向き合ってテーブルについている兄が、僕の前にDVDを差し出した。それは、僕の最初の出演作品だった。表紙には、縛られて頬を染めている僕の写真が載っていた。
僕は、兄の顔が見れなかった。兄は、怒ったようにきいた。
「どうなんだ?晴」
「これは、僕、だよ、兄さん」
僕の返事をきいて、兄は、深いため息をついた。
「お前、なんてことを」
兄は、言った。
「なんで、こんなことをしたんだ?晴」
「それは・・」
僕は、口ごもった。うつ向いて、顔を上げることのできない僕に、兄は、言った。
「何か、へんだと思っていたんだ。急に、友達と旅行に行くとか、以前のお前には、なかったからな」
兄に言われて、僕は、ますます小さくなっていた。
「金、か?」
兄は、言った。
「金のためなのか?晴」
「兄さん」
「金のために、こんな、恥知らずなことをしたのか?」
兄は、激昂して言った。僕は顔をあげて、兄を見た。
「違うんだ、兄さん」
「何が、違うんだ?晴。それ以外の何の目的があって、こんな変態DVDに出演したっていうんだ?」
「兄さん、兄さんこそ、僕に、何か、隠してるんじゃない?」
僕は、今まで、聞きたくても聞けなかった質問を兄にぶつけた。
「その、借金のこと、とか」
「借金?」
兄は、僕を冷ややかな目で見て、言った。
「なんのことだ?」
僕は、兄に、最初から全部、話した。
借金取りがきたこと。彼らが、兄と僕を勘違いしたこと。兄の借金のかたに、そういうところへ売り飛ばされたこと。
話を聞くうちに、兄の顔色が青ざめていくのがわかった。僕は、なんだか、兄に申し訳ないような気がしていた。
僕が、全て話終えた時、兄は、がっくりと肩を落とし、僕から目を反らした。
兄は、静かに、僕に語り始めた。
兄の会社の先輩に川田という人がいた。
高校中退で若くして働き始めた兄にとって、その川田という人は、恩人だったのだという。社会人としての必要な知識、マナーなどを彼は、兄に教えてくれた。もちろん、仕事でも、世話になっていたらしい。慣れないことばかりだった兄を、会社で通用するように鍛えてくれたのは、その人だったのだという。
その人が、一年ほど前に、独立して事業を起こしたのだという。その時に、いろいろなところから資金を集めたのだが、どうしても 足りない部分を消費者金融から借金することになり、兄は、その保証人になったらしい。
最初の内は、調子よく、事業も、軌道にのる様子だったらしい。
おかしくなったのは、その会社が最初の不渡りを出した頃のことだった。借金の返済が滞るようになり、徐々に、会社の経営は、立ち行かなくなっていった。
その人が、姿を消したのは、最近のことだという。
多くの債権者が彼の行方を追っていた。
兄も、きっと、自分が保証人になっている借金を債権者が取り立てに来ることを覚悟していた。
そして、兄の前にあの男、山本が現れた。
兄は、その日、自棄になって一人、居酒屋で酒を飲んでいたのだという。そこに、山本が現れて言ったのだという。
「お困りのご様子ですが、何か、力になれることがあるかもしれません」
それが、男優の話だったのだという。
五十万の借金が、五百万まで増えていて、頭を悩ましていた兄は、仕方なくその話を了承したのだった。
だが、それ以降、一向に、山本が連絡してくることもなかったため、兄は、あれは、酔っぱらった自分の見た夢だと思っていたらしい。
まさか、山本が、兄と僕を勘違いしていたとは、兄にも思いもよらなかったのだという。
「すまなかった、晴」
兄は、項垂れて言った。
「お前に、辛い思いをさせて、本当に、すまなかった」
僕は、頭を振った。
「違うよ、兄さんが悪いんじゃない。僕が、自分でこうなることを選んだんだ。だから、兄さんが謝ることなんてないんだよ」
「晴」
兄は、僕を抱き締めて泣いていた。
僕は、兄に、全てを話したけれど、たった一つ、沢村のことだけは、話すことができなかった。
「もう、契約した仕事は、済んだのか?」
兄に聞かれて、僕は、答えた。
「あともう一本撮影が残ってるんだ」
「そうか」
兄は、考え込んでいたが、やがて、僕に言った。
「それは、俺が、行こう」
兄の言葉に、僕は、笑って言った。
「いいよ。僕がした契約だから、僕が最後までやらなきゃ」
「でも、それじゃ」
言い張る兄に、僕は、言った。
「いいから、兄さんは、もう、心配しないで」
僕は、何とか、兄を納得させた。
僕たちは、その夜、久しぶりに布団を並べて、眠った。
兄は、ひたすら、僕に謝り、僕の体の心配をしてくれていた。僕は、言った。
「会社のスタッフの人たちも、いい人ばかりだし、そんな、酷いことはされてないよ」
半分は、本当、半分は、嘘、だった。
だけど、その言葉で、兄が安心できるのなら、僕が、それを言う価値は、あるのだ。僕は横で眠る兄の寝息を聞きながら、考えていた。
たった一つ、兄に話すことができなかったこと。
僕の恋人のことを。
兄が知れば、なんと思うだろうか。
真面目な兄のことだ。
きっと、反対されることだろう。
だけど、僕は、兄に理解してほしかった。それは、兄が、僕のたった一人の家族だったからだ。
兄に、否定されれば、僕の、この感情は、どうなってしまうのだろうか。
だけど、僕のはじめての男である沢村に対するこの思いを、兄に、どう説明すればいいというのだろうか。
僕たちは、普通の恋をしていない。
それは、奇妙な恋だった。
あの異常な状況で、僕たちは、恋に落ちていったのだ。
沢村に、会いたい。
僕は、体の奥が疼く様な感覚を覚えて、吐息をついた。
彼は、僕が本当は、誰であるのかを、まだ、知らない。その意味で、僕は、彼を騙しているのだ。
僕は、次に、彼に会うときには、真実を話そうと心に決めていた。
僕は、早く、彼に、僕の本当の名前を呼んで欲しかった。そして、抱き締めて欲しいと望んでいた。
だが、次に、彼に会うのは、僕の最後の撮影の時だった。
僕は、不安で押し潰されそうだった。
もしも、沢村が、仕事での関係がなくなった僕のことを捨てたら、と思うと、僕は、胸が張り裂けそうになった。
次の撮影の連絡が入ったのは、それから、数日後のことだった。
『今度こそ、俺が、お前を哭かせてやる。覚悟して、来い』
その沢村からのメールに、僕は、体の奥底から、疼いてくるのを感じていた。
僕は、沢村に早く、触れて欲しかった。そして、沢村にも、僕を欲してもらいたいと思った。
例え、仕事だけの関係だったとしても、かまわない。
それでも、僕は、彼を好きだった。
たぶん、他の誰にも、この僕の思いは、理解されないのかもしれない。
だけど。
これも、恋なのだ。
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