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#8 「どうしてだよ…!」 何度やっても…こんな音色、出せない…! スタジオに籠って何時間も経つというのに、俺は、たった8小節の短いフレーズを、弾きこなせないでいた… 何度やっても、何度やっても、全然違うんだ。 森山氏の交響曲…その第三楽章には、バイオリンのソロ演奏がある。 俺は、第一楽章から第四楽章までバイオリンのパートで参加した上で、そのソロも、ソリストとして…演奏する予定なんだ。 なのに… こんなに短いソロなのに… 全然、うまく弾けない…!! 項垂れながら椅子に腰かけた俺は、イラつきを誤魔化す様に…右手に持った弓をブラブラと揺らした。 譜面台に置いた携帯電話で現在の時刻を確認すると、スタジオに籠って…もう、4時間は経過していた。 「くそっ…何でだよ…!」 8小節のソロなんて…ちょろいと思ってた…なのに、ドツボに嵌ったんだ。 まず、とっかかりとして、元の音源を参考にして、情緒を込めた旋律を奏でようとした。 すると、圧倒的な表現力の差に、早々に頓挫したんだ。 あの音色が…真似出来なかったんだ。 たった一音に乗った厚さも、滑らかさも、丸みを持った雰囲気さえ…辿り付けもしなければ、掠りもしなかったんだ… では、方針を変えて…譜面通りのフレーズを弾こうとする。 すると今度は、急に安っぽい音色に成り代わって…この交響曲の質さえも下げかねないクオリティのソロへと姿を変えるんだ… ソリスト殺しだ… この、何てこと無いソロは、俺を殺しに来てる… いいや…違う。 この、音源の音色が…俺を殺しに来てるんだ。 お前になんて…到底真似出来ないだろ?って、そう言ってるんだ… 眉間にしわを寄せた俺は、ぐったりと項垂れて、自分の足元をぼんやりと見つめた… 「恋人です。」 ふと、そう言った森山氏の顔が、目の前に浮かんだ… 森山惺山…あの、天使の恋人であり、この交響曲の作曲家。 あいつがギフテッドであると…嬉々として語った彼の表情は、今まで見ていた表情のどれよりも明るく見えた。 誇らしい…と表現出来る様な、自慢する様な、そんな表情をしていた。 そりゃ…そうか… 口元を緩めて笑った俺は、譜面に目を落としながら胸の中で呟いた… …ねえ、お前がこのバイオリンを弾いただなんて…嘘だよな。 こんな凄い音色、お前に、出せる訳…無いよな。 角の無い…丸みを帯びた…朗らかで、軽い…でも、決して存在感が無い訳じゃない。そんな温かくて、優しい音色だ。 俺には出せない…音色。 「はぁ…」 ため息を吐いた俺は、椅子に腰かけながら首にかけたヘッドホンを耳に当てた。そして、再び…音源を再生させて、あの子が弾いたであろう…ソロパートを耳に届けた。 「…上手いんだ…」 情緒の表現が卓越してる… 繊細な弓運びは…まるで、張られた馬の毛一本までも使いこなしているかの様に…幅の広い表現を見せる。 音色の高低差じゃない…音の奥行きが並外れているんだ。 馬鹿野郎… どうすれば、こんな風に弾けるんだよ… 弓使いだけじゃない。 手に加わる微かな力加減と、その強弱の移行の仕方が…まるで息をする様にスムーズなんだ。 歌う様に…何て、よく表現するけど、これはもっと繊細だ。息をする様に…と言っても過言では無い程、自然で、当たり前で、どこにも違和感のない…完璧な形。 細かく分析すればする程、嫌になるよ。 こんな音色…出せない。 コンコン… そんなノックの音に、俺は眉を顰めてヘッドホンを首に下げて、ため息を吐きながらこう言った。 「…どうぞ…?」 ガチャリ… 重たい扉を押して、顔を覗かせたのは…森山氏だった。 「藤森さん…どうですか…?」 苦戦してるのが分かるのか…彼は、少しだけニヤけた顔でそう聞いて来た。 だから、俺は澄ました顔でこう答えてやった。 「…なに、ソロは簡単なフレーズなので、大丈夫ですよ…。」 そんな俺の言葉に目を丸くした森山氏は、クスッと笑ってこう言った。 「そこには、チェロも少しだけ入るんですが、ほぼ、バイオリンの独奏です。オーケストラの仕上がりは、これから…と言った所です。そうですね…11月あたり…足並みが揃い次第、合同練習に入れれば良いかなと考えています…。」 11月か… スケジュールを確認した俺は、項垂れたまま、第三楽章のソロパートの楽譜を横目に眺めた。すると、森山氏は、俺の目の前に来て…こう言ったんだ。 「ところで…第三楽章のソロを、一度、弾いていただけますか…?」 はは… 森山氏は、当日、指揮者を務める。 だから…俺のソロの仕上がりが気になって仕方が無いのかな…? それとも… 自分の愛する豪ちゃんのソロを…俺が弾きこなせる訳がないとでも踏んでいるのかな…? 心なしか…あんたが、意地悪に見えて来るぜ。 「…独特でしょう…?あの子の、音色は…」 森山氏は、俺を横目に見ながら得意気にそう言った。だから、俺は鼻で笑いながらこう答えてやったんだ。 「えぇ…でも、一度機械に入った音源は、生とは違って聴こえる事は常でしょう?こんな事言いたくないけど…いくらでも弄る事の出来る…音だ。」 すると、彼はケラケラ笑いながら椅子に腰かけて…こう言った。 「これは、あの子のそのままの音ですよ。手なんて加えない…。もともと、ここはソロじゃなかったんです。でも、この音源をとって、他と合わせて見たら…全く釣り合わないんですよ。この音色は…他とバランスが取れない位、独特で…際立って…浮いてしまった。…だったら、いっそ…ソロにしてしまおうって、変更して生まれたソロなんです。」 ふん… 何かを思い出す様に視線を落としてそう話す森山氏は、少しだけ眉を顰めて…瞳を潤ませている様に見えた… あの子と離れて居るから…恋しいんだろうか。 そんな様子の彼を横目に見ながら、俺は、このやり辛いソロへの恨み節を、つらつらと話して聞かせてやった。 「森山さん、このソロは…録り直した方が良いですよ?浮いてしまうんでしょ?目立ってしまうんでしょ?オーケストラはソロの部分を含めて…曲全体を表現しようとする。だとしたら…こんな浮いてしまうソロは、逆に扱い辛いじゃないですか…」 すると、森山氏は俺を見つめて首を傾げて言ったんだ。 「…録りなおす?なぜ?」 そんな森山氏の問いかけに…俺はため息を吐きながら椅子にふんぞり返った。そして、首を傾げて見つめて来る彼に、半笑いの顔を見せてこう言った。 「こんな音源に縋ってないで…ふふ。まともなバイオリンをここにあてがった方が良いと言ってるんです。じゃないと…」 「じゃないと…?」 口元を緩めて微笑んだ森山氏は、俺を伺いながらこう言った。 「…誰も、真似出来ないから、この交響曲が完成しない。とでも…?」 そうだな… あいつの弾いたバイオリンに縋っている内は、この交響曲はあいつ以外、完成させる事は出来ないだろう…。 俺は自分のバイオリンを首に挟みながら、森山氏を見つめてこう言った。 「…そこまでは、言いません。でも…凡庸なメロディを用意しておけば…ソロにあてがわれた奏者は、気兼ねなく、自分の特色を表現して弾く事が出来る事でしょう。でも、この交響曲は…その真逆だ。非凡で、稀有なソロを、真似して弾けと命ぜられる。これは…ある意味、とても…やり辛い。きっと…このパートを、誰も、やりたがりませんよ…?面倒で、鬱陶しい。」 俺は渾身の嫌味で悪意を込めてそう言った。なのに、不思議と森山氏は嬉しそうに瞳を細めたんだ。そして、ニコニコ笑いながらこう言って来た。 「あの子の…きらきら星を聴いてみますか…?」 「いいえ、結構…」 これ以上、頭の中を混乱させられて堪るものか… 俺にはれっきとした礎があるんだ。 何物にも代えがたい…しっかりとした基盤がある。 フワフワとした…糞みたいな”才能”なんて物じゃない。経験として身に付いている、実力があるんだよ。 だから、ここまで来れたんだ… 沢山の犠牲の元に、俺の技術は成り立ってる。 そんな確実な物を…信じない訳、あるかよ…馬鹿野郎。 「じゃあ…弾きますよ。」 まもちゃん… 俺の犠牲は…無駄じゃないって、糧になったって、言ってくれただろ… 諦めないで…逃げないで…高みに登ったって…そう、言ってくれただろ… 孤高の俺は…強くて…全ての犠牲の上に成り立った存在なんだって。 そんな俺に、心底惚れてるって…言ってくれただろ…? 助けてよ…まもちゃん。 俺は、この交響曲に、この、豪ちゃんのソロに、殺される…! そんな時…ふと、噴水の前で泣きじゃくったあの子の姿を思い出したんだ。 それは、カルダン氏のパーティーでの出来事だ… バイオリンの演奏をお披露目した少年の音色は、派手で、鋭かった。 天使じゃなくても…聴き手じゃなくても、分かった。 少年のアピールは、曲の雰囲気を壊す程…度が過ぎていたんだ。 スポーツだったら、あんな姿勢は“ハングリー精神があって良し”なんて評価に繋がるんだろうけど…音楽では違う。 奏者は…曲の中に陶酔して、なんぼなんだ。 そんな少年のバイオリンの音色に、あの子はすぐに動揺した。 逸らした瞳はグラグラと揺れて…理久にそっと抱き付いた背中は…恐怖からか、小刻みに震えていた。 俺はそれを見て…いたたまれなくなったんだ。 だから…あの部屋を出て、中庭で…ぼんやりと空を眺めていた。 そして、あんなに、体を震わせて…耳を塞いで、怖がって泣く…天使の、取り乱した姿を目撃してしまったんだ。 俺は、その時、どうしてか…可哀想だ、なんて…思ってしまったんだ。 豪ちゃん… お前は、俺を殺したり…しないだろうな… 引っ叩かれても、蹴とばされても、水浸しにされでも…怒りもしない奴だ。 そして…なによりも、俺のファンだ… 俺は、掲げた弓を弦に下ろす事が出来ないまま…森山氏をじっと見つめて、ため息を吐いた。 そして、こう言ったんだ。 「…それじゃあ、あいつのきらきら星を…一度、聴いてみようかな…」 -- ガガガガ… 「わぁ…先生。何が始まるのぉ…?」 ある日…朝ご飯を食べ終わった頃…先生の家の庭に、クレーン車と大勢の庭師が入って来たんだ。黙々と作業を始める彼らを部屋の窓から見つめた僕は、大きく口を開いたまま…唖然としていたんだ。 庭師たちは、花壇の中の株を根こそぎ掘り返して…剥き出しになった根っこに適度な土とネットを被せていた。 「植え替えぇ…?」 僕の隣で外を眺める先生を見上げて、そう尋ねた。 でも、先生は首を傾げたまま、重機が花壇のタイルを剥がしていく様子を眺めるだけだった… ガリガリガリガリ!! 「コ・コ・ココココ…!!」 大慌てでパリスが部屋の中に戻って来た… そりゃそうだ…こんな大きな音。鶏じゃなくても、ビックリしちゃうよ… は…! 僕は、思い出した様に顔を上げて、一気に表情を歪めた。 そして、先生に聞いたんだ。 「…先生?お隣のジェンキンスさんにちゃんと言ったぁ?」 「何を…?」 首を傾げる先生を見上げた僕は、鼻息を荒くしてこう言った。 「こんな大きな音を立てたら…ジェンキンスさんのお家のおばあちゃんがビックリしちゃうぅ!そうだ…この前…はす向かいのゴードンさんがくれた…生のコットンをおすそ分けに持って行ってあげよう…ついでに、工事の事も伝えて来るね!」 僕は先生が私用でお出かけしている間…ここの近所を探索し尽したんだ。 そこで…近所の人と、仲良くなった。 みんな優しいお年寄りばっかりだったから、僕はすっかり彼らの家に入り浸って…遊んで貰ってるんだぁ。 「行ってきまぁ~す!」 籠の中にコットンを3つ入れた僕は、先生にそう言って玄関から外に出た。 「わぁ!」 すると、玄関の目の前に、作業服を着た大きな男の人が立っていて、飛び出して来た僕を見て、同じ様に声を上げて驚いていた… 「ご、ごめんなさいぃ…」 僕は、すぐに、眉を下げてそう言った。すると、その人はフランス語でペラペラと話し始めたんだ。だから…僕は、首を傾げて、玄関を開いて先生に声を掛けた。 「先生?工事の人が来てるよぉ~?」 「はいはい…!」 何だか…今日は、工事が多いみたいだ… 僕は、駆け寄って来たパリスを胸に抱きかかえて、そのままジェンキンスさんのお家へと向かった。 先生は…意外と、DIYとかやる男だったのかな… あんなに張り切って…突然、お家のリフォームを始めたんだもん。 ビックリしちゃう。 ピンポン! 「ジェンキンスさぁ~ん!あ~そ~ぼ~!」 ジェンキンスさんは、先生のお隣のお家の人。 おばあちゃんと、息子さんのふたり暮らしなんだ。家でお仕事をしているのか…ジェンキンスさんは、いっつもお家に居るから、僕の遊び友達になって貰ってる。 彼のお母さん…多分80歳は超えているおばあちゃんは、僕の手芸友達。 初めて会った時は、可愛いパッチワーク作りを見学させて貰ったんだ。波縫いがとっても上手で、僕は…すっかり感心しちゃった! そんな、ジェンキンスさんのお庭にパリスを放した僕は、玄関先で、目の前のドアが開くのを体を揺らしながら待った。 ガチャリ… 「オ~!ボンジュール、ミミ~!」 「うん、ボンジュール!でも…僕は豪だよぉ?」 どうしてか…何度もそう教えてるのに、みんな…僕の事を“ミミ”とか“ミニョン”って呼んで来る。きっと…フランス流のあだ名か何かなんだ。 「工事してるの…おばあちゃん、大丈夫かなぁ…?えっと…ガガガガ!きーー!うるっさぁい!ぷんぷん!オーケー?」 僕は、いつもの様に…身振り手振りでジェンキンスさんにそう聞いた。すると、彼は玄関から顔を出して、先生のお家を眺めて言ったんだ。 「ウィ!サヴァ!サヴァ!」 鯖なんて無いのに…ジェンキンスさんってば、おっかしいの! 「んふふ!そうだぁ…!これ、おばあちゃんにあげる?生のコットンだよぉ?綺麗だよね…?おばあちゃん、糸車、持ってたでしょ?紡ぐかなぁって思って…持って来たんだぁ。」 「ビアンイシ ミミ!」 ジェンキンスさんは僕を家の中に入れてくれた。だから、彼を見上げたまま僕は言ったんだ。 「パリスを外に放してるよ?」 「ウィ、サヴァ!」 っホント、ジェンキンスさんも他の人も…フランス人は鯖が好きみたい! 今度、惺山に教えてあげよう…!きっと、彼も、そんな事、知らない筈だもん… 大きな背中のジェンキンスさんの後ろを付いて行くと、新しく天井からぶら下げられたのか、色味のまだ濃いドライフラワーを見つけて、僕は、何のお花だろうって…首を傾げたんだ。 すると、部屋の奥から、ジェンキンスさんのおばあちゃんが現れて、僕を見つけると、にっこりと笑ってくれたんだ。だから、僕は、元気に挨拶をした。 「おばあちゃん!ボンジュール!」 「ミミ!サリュー!」 僕はジェンキンスさんのおばあちゃんが大好き。だって…とっても良い匂いがするんだぁ。例えるなら…白檀みたいな、上品でとっても良い香り! そんな彼女に抱きしめられて、僕は手に持った籠を上に掲げて、首を傾げながらこう言ったんだ。 「コットン持って来たよぉ…?」 ガガガガガガ!! 「メルシー!」 ガリガリガリガリ!! やっぱり…ジェンキンスさんのお家まで、工事の音は鳴り響ていた。 窓をガタガタと震わせるほどの振動に、眉を顰めた僕は、ジェンキンスさんのおばあちゃんを見下ろしてこう言ったんだ。 「おばあちゃん…?ごめんね…?工事、えっと…ガガガガ!うるさ~い!ごめんね?」 身振り手振りで話しかける僕に、おばあちゃんは首を傾げてこう言った。 「ミミ!ココット!」 へ…? そんな元気なおばあちゃんに手を握られてやって来たのは、ジェンキンスさんのお家の台所だった。 そして、そこには…とっても良い香りが広がっていた…! 「わぁ…!良い香り!」 おばあちゃんは年季の入ったオーブンから鉄板を取り出して、その上に乗ったお皿を指さして、もう一度、僕に言った。 「ミミ!ココット!」 この料理をココットって言うのかな…? 「ん~~!良い香り!とっても、美味しそうだねぇ?」 僕はおばあちゃんを見て、ニッコリ笑ってそう言った。すると、おばあちゃんは僕のコットンを入れた籠に、綺麗な布を敷いて、その上に、ココットを2つ乗せてくれたんだ。最後に、小脇にフランスパンの切れはしを挟んで、こう言った。 「…ミミ、ボナペティ!」 この言葉は知ってる。…沢山、聞いて来たもん…! どうぞ、召し上がれって意味だって…先生が教えてくれた。 だから、僕はこう言ってお礼を言った。 「わぁ、メルシー!」 ガガガガガ!! 「サリュー!ミミ、サリュー!」 ガリガリガリガリ!! 「またね~!ジェンキンスさぁ~ん!」 フランスの人は…騒音とか、あんまり気にしないみたいだ。 だって…ずっとガリガリ言ってるのに…おばあちゃんも、ジェンキンスさんも、全然気にしてないみたいだったもん。 寛容な人が多いんだ… しかも、美味しそうなご馳走まで頂いてしまった…!! 「先生!ただいまぁ…!ジェンキンスさん、サバサバって言ってたよ…?」 「あぁ…そう。」 テラスから顔を覗かせた僕は、リビングに置かれた大きな四角い塊に目を丸くしながら先生にそう報告した。そして、籠に入ったココットを見せて、続けて言ったんだ。 「先生?これ…ジェンキンスさんのおばあちゃんがくれたんだぁ。ココットってお料理なの。一緒に食べよう…?」 「うん…じゃ、じゃあ、テラスで食べようか…」 そう言った先生は、掛かってきた電話を受け取りながら、テラスのテーブルに腰かけた。 話の内容はフランス語だから良く分からない。でも、所々に…豪って僕の名前が出ている事は分かった。そんな先生の流ちょうなフランス語を聞きながら、すっかり味気なくなってしまった庭を眺めて、ため息を吐いた。 庭師たちは、花壇の花を庭の端に植え替えて…今まで花壇のあった所は…ショベルカーによって…綺麗なタイルがすっかり剝がされて…荒れ地になってしまった… そんな庭を呆然と見つめながら、僕は、先生の前に綺麗な布を敷いてあげた。そして、その上にココットとフランスパンを乗せて、彼の顔を覗き込んで言ったんだ。 「はい…これは先生の分ね…ボナペティ…?」 「メルシー…」 先生は庭にプールでも作る気なのかな… 庭を眺めながら、僕は、一緒に入れて貰ったフォークを先生に手渡した。 「先生…?お庭が、酷い事になっちゃったね…?」 電話を終えた先生にそう言うと、彼は首を傾げてとぼけたような顔をした。 ふんだ… 先生は良くこういう対応をする。 都合が悪い時とか…面倒だと思った時、彼は、とぼけた顔をして…肩をすくめるんだ。 「豪ちゃんは、すっかり近所の人と仲良くなったね?」 そんな先生の言葉に、僕はお返しとばかりに…首を傾げてとぼけた顔をした。 「僕の名前は豪だって言ってるのに…みんな、ミミ~!とか…ミニョン!って呼ぶの。ねえ?あれって…クソガキ!とか…バカタレ!って意味じゃないよねぇ…?」 僕がそう言うと、先生は上手にフランスパンの上にココットを乗せながら上目遣いに僕を見て言った。 「違うよ…子供とか、可愛い子にそう言うんだ。日本でも言うだろ…?カワイ子ちゃん!とか…俺の嫁!とか…そんなニュアンスさ…」 カワイ子ちゃん…なんて、今時、使わないよ? 「へぇ…良かったぁ…」 ジェンキンスさんのおばあちゃんのくれたココットは、とっても美味しかった。 中に卵が入ってて… 卵… たまご…?! はっ!! 「あぁ!いけね!僕、パリスを置いて来ちゃったぁ!」 僕はすっかりココットに浮かれて…パリスをジェンキンスさんのお庭に置いてきちゃった!! 「ちょっと…行ってくるね!」 「はいはい…」 僕は、慌ててパリスを迎えに戻った… そして、おばあちゃんの糸巻きをのんびり眺めた後…美味しい紅茶を頂いて…ドライフラワーの話をして、ココットが美味しかったと伝えて… 置いて来てしまった先生を思い出して… 慌てて、先生のお庭へ、パリスを抱えて走って戻って来たんだぁ! すると、いつの間にか…テラスの椅子に、ほっくんが座っていたんだ! 「わぁ~~!ほっくぅん!!」 僕は嬉しさのあまり、ぴょんぴょん飛び跳ねて、先生とほっくんが座るテーブルの周りをスキップして回った。そして、パリスをほっくんの目の前に差し出して言ったんだ。 「はじめましてぇ~!私、パリスよぉ…?うふっ!可愛いでしょ?綺麗でしょ?」 「…」 ほっくんは、先生をじっと見つめたまま…パリスを無視してた。 「ほっくん、見て見て?パリスは帽子にも出来るんだよぉ?」 僕は、何も話してくれないほっくんの気を引きたくて…パリスを頭の上に乗せてみた。 「コケ!」 すると、すぐに…止めろ!と、彼女に頭を突かれた… 上等な羽毛を纏っていても…彼女は帽子になんて、なりたくなかったみたいだ。 「ん…ごめんね?パリスゥ…」 おずおずと椅子に腰かけた僕は、パリスを膝に乗せて、先生の顔を覗き込んだ。 先生は、ほっくんを見つめたまま…口を一文字に結んでる。 僕は自分の食べかけのココットをフランスパンの上に乗せて、ほっくんの口に運んでこう言った。 「ほっくん、あ~んする?」 「…」 「コココッコココ!」 フランスパンのパンくずに、パリスが異常に興奮してる…。 彼女は、急に首を伸ばして、僕のテーブルの上に落ちたパンくずを突いて食べ始めたんだ。 だから…僕は、テーブルの上に彼女を置いて…先生の所のパンくずも食べて綺麗にして貰った。 「ふふぅ!ぐふっ!ふふふっ!」 じっと見つめ合うほっくんと先生の間を、パリスが何往復もしてパンくずを食べている光景が、めちゃめちゃ面白かったんだぁ! だから、僕は、両手で口を押えながら、そんな光景を見つめてひとりで笑いを堪えていた…! すると、突然、ほっくんが僕を煽り気味に見て、こう言ったんだ… 「…この前は、引っ叩いたり、水を掛けたりして…悪かったよ!」 へ…? 「えぇ…?良いよ…?僕は、気にしてないもの…でも、ふふ。嬉しい!」 僕は、クスクス笑いながらほっくんを見つめて、首を傾げた。 すると、やっと口を開いた先生がモゴモゴと口ごもりながら、こう言ったんだ。 「北斗が…豪ちゃんと、お出かけしたいって…行くかい?」 えぇ…?! 「行くぅ~!ふぉ~~~っ!行くぅ~~~!いえ~~~い!」 僕は、とっても嬉しかった。 だって…ほっくんと、お出かけが出来るんだもん! #9 「あいつはギフテッド…?」 「…そうだよ。あぁ、森山君に聞いたのかい?」 東京からフランスに戻った俺は、理久の家にすぐに向かった。 そして、改装中のリビングと、庭を横目に見ながら…テラスで優雅にココットを食べていた理久に、単刀直入に聞いたんだ。 森山氏の交響曲、そのバイオリニストに俺がご指名を受けた…そこまで知っていた理久は、まるで、俺が来ることを予測していたみたいに…動揺する様な様子を見せなかった。だから…俺も、思う存分…言わせてもらった。 「だから、手元に置いてるの…?」 「…そうだよ。」 ギフテッド… 眉間にしわを寄せた俺は、理久を睨みつけたままテラスの席に腰かけた。そして、食べかけのココットを隣の席にズラして、ため息を吐いてこう言ったんだ。 「眉唾だ…」 「そうかな…」 東京にいた筈の俺が…フランスに急いで戻って来たのには、理由がある。 「あいつの、きらきら星を…一度、聴いてみようかな…」 俺は、あの時…森山氏にそう言った。 そして…彼の差し出した携帯電話で、豪ちゃんの弾いた…”きらきら星“を聴いたんだ。 それは…俺の目の前に、キラキラと瞬く星を映し出した。 まっさらな俺の頭に…あの音源は、情景をブチ込んで来たんだ… その強引さと、強烈さと言ったら…無い。 沢山の音楽を聴いて来た…それは、民族音楽から、ゴスペル、宗教音楽、童謡、民謡、軍歌、クラシック、流行りの曲…あらゆるジャンルの音楽だ。 それでも…こんなにインパクトのある…“きらきら星”を聴いた事は無かった。 震える鼓膜は、まるで初めて味わった興奮に喜ぶ様にこそばゆくなって…目の前に映る情景は、ほのかになんておしとやかさを持ち合わせていない様に…俺にその場の空気の匂いさえ感じさせた。 強烈な体感だった… 俺は不思議そうに首を傾げ続ける森山氏を無視して…そのまま、スタジオを後にした。そして、すぐに荷物を纏めて…ここに戻って来たって訳だ。 どうしてかって…? 否定するためだよ… あんな情景を込めた音色をぶちかます奴の存在を…否定するためだ。 「理久…眉唾だよ…」 あいつが、あんな音色を出せる訳がない。 あんな馬鹿が、あんな…強烈な一発をお見舞いしてくる訳がない。 引っ叩かれたってやり返しても来ない…能天気馬鹿だ。 でも…あの”きらきら星”の奏者は違う… 強烈で、強くて、聴く者のイメージを屈服させるような情景を…頭の中に叩きつけて来たんだ。 あれは、暴君だ… 俺の言葉に眉を顰めた理久は、ため息を吐いてこう言った。 「だったら…どうして、そんなに…動揺するんだい?」 動揺…?ふざけんな… 俺は理久を睨みつけたまま、言ってやった。 「お前が、そんな得体のしれない物に縋り始めたからだよ…!人材育成に精を出すのは、第一人者として当然だ。でも…それは、一生懸命バイオリンに従事して来た者に差し出すべき手だろ?眉唾物の、俗物の、ギフテッドなんて…!そんな物にかまけるなよっ!」 俺を見つめて鼻で深く息を吸った理久は、大きく肩を落としてため息を吐いた。そして、上目遣いに俺を見てこう言った。 「もうすぐ、豪ちゃんが、パリスを連れて戻って来る…。あの子にさっきの様な物言いはしないでくれ。あの子は…自分がどんな物で、何を求められているのか…まだ、よく理解してないんだ。」 「馬鹿だからだ…!」 「違う!」 やけに強く言い返す理久に、俺は眉を片方だけ上げた。そして、彼の顔を覗き込んで、首をひねりながらこう言ったんだ。 「熱を入れあげ過ぎてる…。それは、あいつの音色にか…?それとも、見た目にか…?それとも、抱き心地?」 「北斗!」 「あぁ~ん!パリスゥ~!ごめんねぇ?ごめんねぇ?お前を忘れた訳じゃないんだぁ!でも、おばあちゃんのくれたココットが、とっても、美味しそうだったからぁ…!僕は、籠の中だけチラチラ見て帰って来ちゃったんだよぉ!」 そんな、気の抜けた声が聞こえてくると…俺は身を引いて…理久を見つめたまま呆れた様にため息を吐いた。 そして…今、俺は馬鹿なギフテッド…“豪ちゃん”を連れて、公園にやって来ている。 「ほっくん!かけっこするぅ?」 する訳無い…俺は、牛歩なんだ。 俺の周りをウロチョロと細かく動きながら…豪ちゃんは公園の木の下を走り回った。 その姿は…まるで、犬だ。 「ほっくん!見て見てぇ?この木、すっご~~い!」 俺は、ポケットに手を突っ込んだまま顔を上げて…ひょいひょいと木に登った豪ちゃんを見上げた。そして、呆れた様に項垂れて言ったんだ。 「なんで…木登りしてんだよ…」 「高い所は気持ち良いよぉ?ほっくんもおいで~?」 行く訳がない…俺は猿じゃないんだ。 見た目は天使…中身はお猿…その正体は、何だ。 ギフテッド… 豪ちゃんを木に残したまま、俺はひとりで黙々と公園の中を歩いた。すると、息も切らさずに、あの子は俺の横を駆け抜けながらこう言って来た。 「ほっくん?僕の兄ちゃんは、彼女を簡単に作らない事に決めたんだってぇ!」 そんなの、知らない… 豪ちゃんから顔をそらした俺は、隣を歩きながら俺を見つめて来るまん丸の視線に、こう言った。 「お前…どうして理久の所に居るの…?一緒に住んでるの…?」 すると、あいつはにっこり笑って平気で嘘を吐きやがった。 「先生はぁ、介護が必要だからぁ…住み込みで、お世話してるぅ!」 ぷぷっ!! まじか…? そう言い放った豪ちゃんを横目に見た俺は、空ばっかり見上げるアホ面の天使に、首を横に振ってこう言った。 「理久が自分の家に誰かを住まわせるなんて…初めてだ。なあ、本当の事を言ってよ。お前は、どうして彼の傍にいるの…?」 観念したのか…気が向いたのか…豪ちゃんは俺を見ると、首を傾げてこう言った。 「僕が…人より上手にバイオリンを弾けるからぁ…。だから、先生は自分の手元に置いて…もっと、上手になる様にしてくれている。」 へぇ… まともに話せるじゃないか… 俺は…少し驚いた。 急にまともになった豪ちゃんを横目に見ると、あの子は、眉を顰めたまま…浮かない顔をして遠くを見つめていた。 アンニュイだな… 「…俺は、幼い頃からバイオリン、ピアノ、チェロを習って来た。そこから…1日8時間を全てのレッスンに費やして、沢山の大会に出て、沢山の賞を貰って、この年齢になった。なあ、そんな俺より…お前の方が、優れているの…?」 ベンチに腰かけながら、俺は目の前の豪ちゃんにそう尋ねた。すると、あの子は眉を顰めて俺を見下ろした。そして、明らかに機嫌を悪くした様に唇を尖らせてこう言って来た。 「優れてるって…何?それは、誰が決めるの…?」 「なんだってそうだろ?生きていれば、順位を付けられて、比較されて、ふるい落とされる。弾かれた者は…所謂、負け犬だ。」 「負け犬…?」 顔を歪めた豪ちゃんは、俺の隣に腰かけて、首を傾げた。 「負け犬っていうのは…困難に立ち向かわずに逃げる人の事を言う。誰かの主観で順位を決められた人が偉い訳じゃない…それにふるい落とされた人が悪い訳でもない。ただ、誰かの主観が決めた事じゃないか…そんな物に価値があるなんて思わない。」 はぁ… 能天気馬鹿の豪ちゃんは、立派に、理久好みの、講釈垂れだった。 こう言うのを”お花畑な脳みそ“って言うんだ… 博愛主義、平和主義、僕の周りには…幸せしかない!って、頭の中がオッパッピーな奴の戯言だ。 俺は、そんな豪ちゃんの綺麗事を鼻で笑って一蹴した。 「世の中はそんな物だ。誰かの主観とか、漠然とした事を、今更、批判するなよ。馬鹿に見える。」 そんな俺を見つめた豪ちゃんは、ギュッと両手に力を込めながら、力んでこう言った。 「…人は、本来、バイオリンを弾く為に産まれて来た訳じゃない。幸せになる為に産まれたんだ。…不幸せになってまで、バイオリンを弾く事は、人の生き方として間違っている。」 はぁ?! 怪訝な顔で豪ちゃんを見た俺は、思わず、あの子のふわふわの頭を一発引っぱたいた。そして、両手で頭を押さえた豪ちゃんの顔を覗き込んで、世の中のルールを教えてやったんだ。 「良いか?そんな甘い考えだと…あっという間に、蹴散らされるぞ?世の中はシビアなんだ。いつも、トップで居続ける為には…そんな日和った考え方、してられなくなるぜ?追従を許さないくらいの強さが無いと…通用しない。それが現実だ。」 すると、あいつは俺をギッと睨みつけて、こう言い返して来た。 「強さとは…他の人を屈服させる事だけをいう物じゃない!自分の非力を…受け入れて…認める事だって…強さだぁ!そして…人は、そんな強さをずっと続けては、生きていけないんだぁ!」 なんだとっ! ムキになった俺は、ふわふわの頭をもう一発引っぱたいて、あいつの顔を睨みつけながらこう言った! 「強くなきゃ駄目なんだ!強くあり続けなきゃ…駄目なんだ!」 「違う…。違うよ…」 首を横に振った豪ちゃんは、項垂れる様に首を下げて俺を上目遣いに見て言った… 「ほっくんの…シシリエンヌは…まるで、朝霧の湖畔で…誰かを待っている様な情景を僕に見せてくれた…。…きっと、あれは、まもるを待っていたほっくんが見ていた光景なんだ。だって…早く、会いたいって…そんな気持ちがこもっていた。とても、美しい情景で、僕は胸を貫かれた。その時から、今まで…僕の気持ちは変わらない…。ほっくん。あなたは、美しい人だよ。」 は…? シシリエンヌ…?! 俺に、必死に訴えかけてくる…このまん丸の瞳から、目を離す事が…出来なかった。だから、俺は、あいつの肩を掴んで…激しく揺さぶりながら、思いの丈を吐露した。 どうしてか…つらつらと…出てしまったんだ… 「…お、俺は、美しくなんて無い!お前も言っただろっ!音色が…、思った様な音色が紡げなくなったんだぁ!このままじゃ…このままじゃ、俺は終わるっ!あんなに注目を浴びたのに…あんなに、評価されたのに…!!全て…全てが、台無しになってしまう!!何の為に…今まで…!…バイオリンの為に、俺は幾つもの事を犠牲にして来たのに…!こんな未来…!あんまりだぁ!見てみろっ!弱さを見せた瞬間に、こうなるんだ!お前みたいな…お前みたいな、半端な奴…!通用しない世界なんだよっ!!」 すると、あいつは、俺の腕を掴んで…グッと目に力を込めた。 そして、こう言ったんだ。 「…の、望む所だぁ!ぼ、僕は…誰にも干渉されない!誰かの価値観や主観なんて…大嫌いだ!そんな物で、自分に評価を下さないでよっ!!何の為にバイオリンをやって来た…?好きだからだろ?好きだから…続けて来たんだぁ!なのに、そこに、それ以上…理由を求めるんじゃない!!」 はぁ…?! あったま来たぁ~~!! 「なぁんだと!このっ!このっ!」 思わずベンチから腰を上げた俺は、豪ちゃんのふわふわの髪をガシガシと掻き混ぜながら言った。 「お前に何が分かるんだ!お前に…何が分かるんだ!!やりたい事を我慢して来た!友達と遊びたい時間を、我慢して来たぁ!大切な人だって、切り離したんだぁ!選択肢なんて与えられないまま、いつしか…バイオリンを、ピアノを、チェロを…弾く事しか…残らなくなった…そんな俺の、何が分かるって言うんだぁ!!」 「分かる訳無い!ぼ…僕は、ほっくんじゃないからなっ!」 乱暴に頭を掻き混ぜられながら、豪ちゃんは必死に俺を見上げてそう言った。そして、おもむろに…俺に抱き付いて…こう言ったんだ。 「でも…あなたの音色は美しかった…!!美しかったんだぁ!!だから…!他の誰が何と言おうとも…!!僕には!あなたが…!いっちばん!!素晴らしいバイオリニストだぁ!!それは、主観じゃない…!!事実なんだぁ!ばっきゃろ~~!」 最悪だ… こんな公園のど真ん中で、子供の頭をグチャグチャにして…虐待した。 それ以上に…そんな子供の言葉に、涙が…止まらなくなった事が、一番、最悪だった。 「う…うっさい!馬鹿野郎!」 「んぁあ、僕はぁ!馬鹿じゃない!!馬鹿は…ほっくんだぁ!僕の生まれ育った村の傍に、町がある!そこに、ほっくんとまもるが一緒に映った写真があったぁ!二人とも…幸せそうに笑ってたぁ…!ん、も!お前なんて、まもるに、お引き取り頂いた方が良い!!お前みたいな馬鹿はぁ、一度、まもるに返品した方が良い~~!!」 くそっ!くそっ!! 何も…言えない。 ただ…俺の腹にしがみ付いて…泣きじゃくりながらそう言う豪ちゃんを見つめて、俺は一緒になって…ボロボロと泣く事しか出来なかった… まもちゃん… こいつの言う通り、俺は…馬鹿なのかな… 「…の、のしを付けて返してやるぅ~~!」 「はは…ははは!あっはっはっは!」 豪ちゃんの言葉に泣きながら大笑いした俺は、そのままベンチに座り直した。そして、腹にしがみ付いたあの子の頭をワシワシと撫でながら、首を横に振った。 「お前って、ほんと…馬鹿だな…なにが、ギフテッドだよ。ただの、馬鹿じゃないか…」 「僕は…僕だぁ!ギフテッドとか、知らない!」 豪ちゃんは、俺の腹でフゴフゴと鼻息を荒くしてそう言った。 5月の空は…爽やかに澄み渡ってる。心なしか…鼻に通る空気も、そんな爽やかさを俺の体に巻き込みながら届けてくれている気がした。 あぁ…あったかいな… いつまでもこいつの鼻息が荒いせいだ… 俺のお腹が、ポカポカして来た。 -- 男は殴り合って友情を深めるって…晋ちゃんが言ってた。 僕は…ほっくんと殴り合って、友情を深めた気がする…! 「はぁ、なぁんて顔をしてんだ!」 僕とほっくんは、公園を、もう一周してから先生の家に戻った。 力み過ぎたせいで…僕の顔が元に戻らなくなったんだ。 だから…もう一周回った。 でも、派手に吊り上がった眉毛だけは…最後まで、元に戻らなかった… 「あ~はっはっは!凄い、凄い、ブスだぁ!」 僕の顔を見て…ほっくんはずっと笑ってる!! しかも、指を差してるんだ! …酷いでしょ?! 「ん、ん~~!」 僕は、恥ずかしくなって…先生に抱き付いて、フワフワのセーターに顔を埋めた。 「ぐふっ!ぐふふふ!!ほぉんと、豪ちゃんは、馬鹿だと思う…!こいつは、ただの、馬鹿だぁ!あ~はっはっは!腹痛い!腹が痛い!」 ほっくんはゲラゲラと大笑いしたまま…帰って行った。 あんなに笑い続けたら、不審者だと思われちゃうのに… 「…仲良くなったの?」 僕の顔を覗き込んで、先生がそう聞いて来たから…僕は、眉間にしわを寄せた顔のままにっこりと笑って、こう言った。 「うん…!」 大切な人だって切り離した… そう叫んだ彼を見て、僕は、気が付いてしまったんだ。 多分…ほっくんは、まもるに会いたがってる… だったら会えば良いのに…なんて、簡単に言えないよ… 会いたくても会えない…そんなやるせない気持ちを、僕も、知ってるから。 すっかり工事の人が居なくなった部屋の中には、大きなキッチンが出来ていた。 「…これ、豪ちゃんに。」 先生はそう言うと、不思議そうに首を傾げ続ける僕の背中を抱いて、大きなキッチンへと案内した。 「へ…?」 僕は、驚きのあまり…先生の顔を見上げたまま、首を傾げ続けた。 「ぐふっ!…ほら…ぐふふ!誕生日プレゼントだよ…。」 すると、先生はしきりに僕の上がった眉から視線を逸らして、必死に笑いを堪えていた。 だから、僕は自分の眉を隠しながら、こう言ったんだ。 「わぁ!すっごい!大きいね?ありがと~う!!」 5月20日は…僕の誕生日。 でも、今日は…5月19日だ。先生は、フライングした! …でも、とっても、嬉しかった… 「これで何を作ろうかなぁ~?!そうだぁ…パンを作ろう!こんなに天板が大きいから…餃子も、パンも、ケーキも…パイ生地だって作れちゃう!ふぉ~~!」 ウキウキになった僕は、新しいキッチンを一つ一つチェックして回った。そんな僕の背中にくっ付いた先生は、僕と一緒になって…楽しそうに笑ってた。 「先生は、うどんを打った事がある?」 後ろを少しだけ振り返って先生にそう尋ねると、彼は、肩をすくめてこう言った。 「…無いな。」 ふふぅ…! にっこり笑った僕は、大きな天板を手のひらで撫でながらこう言ったんだ。 「じゃあ…今度教えてあげるね?」 「…そうか。それは、楽しみだ!」 そんな僕の言葉に、先生は体を揺らして喜んだ。 惺山…先生が、とっても素敵なキッチンを僕にくれたよ? 大きなコンロが3つも付いてる。上等なキッチンだ!

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