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#10~#11
#10
あぁ…おっかしかった…!
久しぶりに、あんなに大笑いをしたせいで…頬がつりそうだ。
街へ向かうバスに乗った俺は、窓の外を眺めながら、思い出し笑いを必死に堪えていた。でも、気を抜くと…ついつい頬が上に上がって来てしまうんだ。
「んふふ…!まもちゃんに、返品する…!だって…。本当…おっかしい…」
あの子は、俺の大切な人が、彼だと分かったんだ…
その理由が秀逸なんだ。
だって、俺の弾いた“シシリエンヌ”の情景を、読んだんだから。
まるで…俺がその時、思い描いていた物を見る様に…あの子も見て、感じていたんだ。
ギフテッド…
そんな風に呼ばれる人は、ただ、普通の人よりも情緒の表現や、物の習得が早い人だと思っていた…でも、あの子は、違った。
俺が今まで会って来たどのギフテッドよりも、感受性が豊かだったんだ。
何も話さなくても、ただ、奏でた音色を聴けば…相手の心情や、思いを察してしまう。そんなあの子は、そこら辺の占い師なんかよりも、的を得る指摘をして来た。
「護に…返品する…か…」
俺は深いため息をひとつ吐いて…ぽつりと、そう呟いた。
まもちゃん…
そんな時…バスの隣を駆け抜けて行くキャンプ用品を積んだ車を見つめて、思わず、誰かを思いながら、瞳を細めて見送った。
まもちゃん…会いたいよ…寂しいよ…
…暴風雨の中、バタバタとはためくテントを手に持って、俺に向かって笑顔を向ける彼の顔が目の前に浮かんで、俺は下唇を噛み締めた。
「北斗!も、もうすぐ…テントが出来るからぁ!車で、もう少し待ってて~!」
ふふ…馬鹿だな、まもちゃん…
でも、そんな彼が…大好きだった。
「まもちゃぁん!こんな大雨の日に、わざわざキャンプなんて、どうしてするのさ!」
俺は車の中から、彼にそう叫んだんだ。
なんの障害物の無い飛騨山脈の麓は、暴風雨の風がダイレクトに吹き抜けて…俺の乗った彼の車をゆさゆさと揺すった。
山の天気は変わり易かったんだ…
天気の良い日が続いた夏の終わり…俺とまもちゃんは、飛騨山脈の麓でキャンプをしようと、思いついたままに着の身着のまま…キャンプへ出かけたんだ。
でも、あんなに良かった天気が急に一変した。
地面を抉るくらいの大雨の中、まもちゃんはウインドブレーカーのフードを被って、車の外へ向かったんだ。そして、車の上からテントを下ろして…おもむろに張り始めた。
そんな彼の様子に驚いて、俺は車のドアを開いて…今日はもう止めようって何度も言ったんだ。なのに、まもちゃんは、そのうち晴れるからって…へらへら笑って、聞かないんだ。
だから、仕方なく。俺は…車の中で…彼の奮闘を見守っていた。
大きな背中を丸めて、必死に地面に杭を打ち込んで行く彼の後姿を、俺は…手をギュッと硬く握って…固唾を飲んで見守った…
まもちゃんが言った通り…雨は止んだ。
でも、
だったら、
雨の中…テントを張らなくても、良かったのに…
そんな事を思いながら…俺は、ビチョビチョの地面を歩いて、まもちゃんが張ったテントを見上げた。
雨に濡れたテントは、急に晴れ渡った太陽の光を全身に浴びて…キラキラと輝いて見えた。
だから…俺は、満面の笑顔になって、こう言ったんだ。
「わぁ~~!すっごいね?!さすが、まもちゃんだぁ!」
すると、まもちゃんは得意げに胸を張って…鼻を鳴らして見せたっけ…
「ふふん!」
びしょ濡れになった彼の顔が太陽の光を反射させて、テントと同じ様にキラキラと輝いて見えて…とっても、可愛らしかったんだ。
まもちゃん…会いたいよ…
また、特製ハンバーグを…俺の為だけに作ってよ。
あなたの、大きな手が好きなんだ。
バイオリンを作る繊細な手が好き…傷を持った、左手が好き…
あなたの低い声が大好きなんだ。
体の中を揺らすくらいに低くて、よく響く…声が好き。
ねえ、また…俺の為だけに歌ってよ…エルビスプレスリーの“Love me tender”を。
「まもちゃぁん…」
バスの中…体を縮こませた俺は、込み上げてくる思いを押し殺した声に乗せて、少しだけ吐き出した…
こんな風に彼を恋しがって、彼の名前を呟くのは…久しぶりだ。
そして、それは思った以上に…俺の胸を揺さぶる心地良さだった。
ホテルに戻った俺は、部屋の片隅に置いた…まもちゃんのバイオリンケースを膝の上に置いて、焼き印で書かれた彼のイニシャルを指でなぞった…
何度も、そうした…
あなたを思って…俺は、何度も…そうして来たんだ。
そして、その下に書かれた“藤森北斗”…と彫られた彫刻刀の痕を、同じ様に指先で撫でて、口元を緩めて笑った。
まもちゃん…天使に会ったんだ。マモ~ルじゃない。本物の天使だ。
そいつは、少し…馬鹿だった。
でも、こんな事を、俺に、言ってくれた…
「…あなたの音色は美しかった…!!美しかったんだぁ!!だから…!他の誰が何と言おうとも…!!僕には!あなたが…!いっちばん!!素晴らしいバイオリニストだぁ!!それは、主観じゃない…!!事実なんだぁ!ばっきゃろ~~!」
泣きながら顔を歪めて…必死に、訴えかけて来たんだ。
そんな豪ちゃんの顔を思い出した俺は、クスクス笑いながら…込み上げてくる涙を指先で拭った。
んふふ…素敵だろ?
こんな事を…言ってくれたんだ。
…嬉しいじゃないか。
こんな気分になるのは…久しぶりだよ…
--
「お庭は、まだ工事中なの…?」
僕は、テラスの窓から庭を見つめて、ピアノに腰かけた先生の背中にそう尋ねた。
すると、先生は僕を手招きしてこう言ったんだ。
「明日で終わるよ…?」
へぇ…
先生の隣に座った僕は、首を傾げ続ける先生の顔を覗き込んで言った。
「土の上でパリスは嬉しそうだけど…見た目が悪くなっちゃったねぇ…?プールでも作るの?それとも…公園みたいにするのぉ…?」
そんな僕の言葉に、先生はとぼけた顔をして、肩をすくめてこう言ったんだ。
「お楽しみだね…?何が出来るのかな…」
なんだ!
自分は知ってる癖に…!!
勿体ぶる先生に腹を立てた僕は、彼の肩に掴まって、彼の頬に向けて、鼻息を飛ばしてやったんだ。先生は、そんな僕の攻撃をクスクス笑いながら受け止めていた。
そして、突然…ピアノで”調子のいい鍛冶屋”なんて、弾き始めたんだ。
「ふふ!知ってる!“調子の悪い鍛冶屋”だぁ!」
僕は、ふざけてそう言った。
そして、先生の腕にもたれかかって、鍵盤の上をクルクルと凄い速さで動き続ける指先に、思わずにっこりと笑った。
…惺山の指を思い出したんだ。
耳に聴こえて来る音色は違うのに…先生の見せてくれる光景は、時々…彼を思い出させた。
だから、僕は、先生のピアノを耳に聴きながら、そっと…瞳を閉じたんだ。
すると、瞼の裏に…ツンと澄まし顔の男の子が現れて、大きく仰け反りながら僕にこう言って来た。
「ふん!俺は鍛冶なんて打たない!俺は、ピアノを弾く!」
ふふぅ!おっかしいんだ!
「先生?ほっくんの…子供の頃が、見えてくる…!すっごい生意気だぁ!」
僕は、あまりに可愛いほっくんに、思わずクスクス笑った。
すると、先生は、僕の髪にキスをして、ゆっくりと話し始めたんだ。
「…あの子はね、小さい頃から…バイオリン、チェロ、ピアノを習わされていた。両親が…音楽家だったんだ。だから、そうする事が当然だと、受け入れていたみたいだ。そんなあの子の両親は、自分の子供の事なのに…全く、北斗に関心を示さなかった…。北斗の音楽家庭教師になった俺は、そんなあの子の境遇が、ひどく可哀想だと思ったんだ…」
あぁ…
幼い頃のほっくんの事を話し始めた先生の声が…微かに震えて聴こえた…
きっと…この“調子のいい鍛冶屋”は、先生にとって…幼い頃のほっくんを思い出す曲のひとつなんだ。
彼はそんな曲を弾きながら、自分の思いを、僕に、話して聴かせてくれ様としてる。
「…うん。」
そっと先生の腕を撫でながら、僕は、そんな相槌を打った。
ピアノを弾き続ける先生は、伏し目がちに、でも、とっても穏やかな表情をしていた。
「だって…子供ながらに、あの子はとっても素晴らしい演奏をしたんだ。大人の俺がびっくりする様な…腰を抜かす様な演奏を見せてくれた!凄い子供の…家庭教師になってしまった…って、驚愕したのを昨日の事のように覚えている…。」
「ふふぅ…!さすがほっくんだね?」
ニッコリ笑いながら、僕は先生の腕に頬ずりしてそう言った。
「北斗が、小学校4年生の時…言っただろ?俺はあの子に、プロポーズをしたんだ。その事がご両親にバレて…俺は、家庭教師を外されてしまった。バイオリンを弾くあの子が、とても、美しくて…好きだったんだ。」
分かる…
ほっくんは、パリスと、どっこいの美人さんだ。
まつげが長くて…目がキラキラしてる。
僕は何度も頷きながらしみじみと言った。
「分かるぅ…だって、ほっくんは美人さんだもん…でも、それにしても、先生は、ちょっと…変態だったね?馬鹿やっちゃったね?」
そんな僕の言葉にクスクス笑った先生は、”調子のいい鍛冶屋”を弾き終えて、僕の顔を覗き込んでこう言った。
「そうだ!俺は…やっちゃったんだ!」
なぁんだぁ…随分、上機嫌だ…
僕は、先生の鬱陶しい顔を手で避けた。そして、もぞもぞと椅子に座り直して、こんなリクエストをしたんだ。
「ねえ…“愛の夢”を弾きながら、続きを話してぇ…?」
「ははっ!ロマンティックじゃないか…」
ケラケラ笑う先生を無視した僕は、再び瞳を閉じて…彼のピアノの音色に聴き耳を立てた。
彼は、本当に…素敵なピアノを弾く…
それは、洗練された…と言う表現がぴったり合う様な、上等で…品のある音色なんだ。だから、僕は…ついつい、うっとりとしてしまう。
先生は、そんな僕を伺い見る様に体を動かして、僕の髪にキスをすると、再び…お話の続きを聴かせてくれた。
「あの時…俺は、北斗を諦める事が出来なかった…。付き合う人に、あの子を重ねて…知らない内に、あの子を求め続けていた…」
ピアノの音色はこんなに美しいのに、先生の声は…悲しそう…
「そして、年月を経て…再び出会ったあの子は、田舎のコックなんかに夢中になってた…。」
「まもるだよ?」
「何で知ってるの…?」
驚いて目を丸くした先生を見上げた僕は、肩をすくめて教えてあげた。
「音楽祭の時、フィッシュアンドチップスをまけてくれた。良いおじちゃんだった!大ちゅきな人が…どうのこうのって…言ってたんだ。きっと、それは、ほっくんの事だったんだね…?」
お父さんの出現によって…僕はその時、少しだけ心ここにあらずだった。
でも、嬉しそうにそう話したまもるの顔は、しっかりと…覚えている。
彼は…ほっくんの事が大好きなんだ…
ほっくんだって…まもるの事が、大好きなんだ…
僕は、瞳を閉じて、可哀想な先生の腕に頬ずりをした。すると、彼はため息を吐いて…話し続けた。
「そして、いつまでも…お前を愛してるって…北斗に言ったんだ…」
「そっかぁ…!でも、だったらぁ…尚更、他の人を傷つけちゃ駄目だよぉ?」
ケラケラ笑った僕は、目を閉じたまま先生の膝の上に寝転がった。そして、ピアノから聴こえて来る美しい音色に、体を転がせて喜んだ。
「そうだな…豪ちゃんの言う通りだ…」
先生は”愛の夢”を弾き終えて…”幻想即興曲”を弾き始めた。
惺山が、ノールックで演奏しながらドヤ顔した曲だ…
「あの時に…もう、終わってたんだ…」
ポツリとそう呟いた先生は、上品に”幻想即興曲“を弾きながら、膝にうつ伏せた僕を見下ろして、こう締めくくり始めた。
「やっちゃった時点で…俺は、北斗を諦めるべきだった。」
「好きだったんだ…仕方が無いよ…」
静かに曲を弾き終えた先生を見上げた僕は、体を起こして、項垂れる先生を抱きしめてあげた。そして…丸まった背中を何度も撫でながら…慰めたんだ。
だって、先生は、今更…と言っても過言では無いくらいの、遅すぎた失恋の悲しみに暮れてるんだ…
「だとしても、いつか…諦めるべきだったんだ…」
大きなため息を吐いて、先生がそう呟いた。
そんな彼の言葉と息を胸に受けながら、僕は丸まってしまった背中を何度も撫でて、何度もこう言った。
「よしよし…よしよし…」
可哀想だけど…これでもう、先生に傷付けられる人はいなくなっただろう。
だって、こんなに落ち込んじゃうくらい…自分の罪を後悔してるんだ。
もう、二度と…叶わない思いを忘れる為に、誰かを利用する事をしたりはしないだろう。
彼はもともと思慮深い人なんだ…だから、僕は、もう大丈夫だって…信じてる。
すると先生は、項垂れた顔を持ち上げて…僕を見つめてこう言ったんだ。
「…だから、先生は、好きな人を変えようと思うんだ…」
え…?
「あ~はっはっはっは!!」
予想外の発言と、懲りない先生に目を丸くした僕は、込み上げてくる大笑いをそのまま吐き出して、ケラケラ笑いながら彼の背中をバシバシと叩いた。
そして…彼の、新しい門出を応援する様に、にっこりと笑ってこう言ったんだ。
「そっか…うまく行くと良いねぇ…?頑張ってぇ!」
「…うん。」
そう言って頷いた先生は、とっても嬉しそうだった。
だから、きっと…もう、大丈夫だ。
#11
「…こ、これはぁ、キャベツ…あと、これはぁ、なんだと思う?ふふぅ!なんだと思う?」
なかなかどうして…この、豪ちゃんと居ると調子が狂う。
理久は、美しい庭園を壊して…庭に大きな畑を作った。
麦わら帽子を被った豪ちゃんは、俺の手を引っ張って…美しく形を作った畝の上を指さしながら、育てる野菜の話を、熱心に、何度も何度も、繰り返してる…
「何でも良いよ!しかも、興味ないもんね!」
俺は、吐き捨てる様にそう言った。
すると、豪ちゃんは俺の手を握ってニコニコと笑い始めたんだ…
これだ!
この謎の笑顔だ…!
「なぁんだよ…。もう…!」
そんなため息混じりの声を出して天を仰ぐと、豪ちゃんはクスクス笑いながら、俺の手を引いて歩き始めた。
「ん、泥がつくから行きたくない!」
「ふふぅ!泥がつかない所を歩いてみてるよぉ?」
理久は、どうして、あの手入れのされた美しい庭を潰して、こんな土臭い畑に変えてしまったんだろう…
あぁ…この、プチ農家の為だ…!!
はぁ…
薔薇が咲いて、蝶が飛んで…その中で“愛の挨拶”を弾くのが好きだったのに…
今では、庭の片隅に置かれたコンポーザーが、眉を顰める様な香りを放ってる…
最悪だ…
「ほっくん、見て?見てぇ?はす向かいのゴードンさんがね、昨日、鶏小屋を建ててくれたんだぁ!階段も付いてて…カッコいいでしょ?!ふふぅ!!」
豪ちゃんは畑の奥に設置された…随分、立派な、鶏小屋を指さしてそう言った。
過剰だ…
高床式住居の様になった鶏小屋からは、例の美形の鶏…パリスが、悠々と首を伸ばしながら、設置された階段を歩いて降りて来た…
「ぐふっ!」
思わず…そんなパリスの優雅さに、吹き出して笑った。
すると、豪ちゃんの足元に見慣れない犬が駆け寄って来て…ハフハフとあの子に襲いかかって来たんだ。
「このワンちゃんは…向こうに住んでる。チッコリータさんのワンちゃんなんだぁ。彼女は、しばらく…ニューヨークだか、どっかに、仕事に行くんだってぇ…。だから、僕がお預かりしてるんだぁ!可愛いでしょ?ポンポンって言うんだよ?」
ポンポン…?
顔を歪めた俺は、豪ちゃんの体に纏わり付いて、しきりに腰を振るポンポンを見下ろして、後ずさりして、距離を取った…
犬のおちんちんって…あんな風になってるんだ…
ウゲ…
俺は、咄嗟に…犬の陰部から視線を逸らした。
豪ちゃんのお庭探訪はまだまだ続いた…
あの子は俺を振り返って、畑の一角を指さして…こう聞いて来た。
「ほっくん、ここは何の畑でしょうか…?!」
「知ってる!」
俺は、そう即答すると、堂々と胸を張ってこう言った。
「きゅうりと…トマトだ!」
…この天使に、自分の思いを吐露したあの日から…俺は、理由も、目的も、用事も無いのに、理久の家を訪れている。
そして、去る5月20日。
豪ちゃんの誕生日に、理久は…自宅の庭を畑に変えて、この子にプレゼントした。
その除幕式に、偶然居合わせた俺も立ち会って…喜びのあまり、泣きながら種を植えるあの子の手伝いをしたんだ。
その時、植えたのが…この、きゅうりと、トマトなんだ…
「せいか~い!」
得意気に麦わら帽子のつばを上げた豪ちゃんは、俺を見つめながらニコニコと話し続けた。
「フランス語できゅうりって…コンコンブルって言うんだねぇ?ジェンキンスさんのおばあちゃんが教えてくれたんだぁ。そうそう、この前ね…飾り包丁を教えてあげたんだよ。僕は、惺山のチャーハンにはお花のにんじんとか入れてあげてたけど…兄ちゃんのには入れなかったぁ…だって、兄ちゃんはどうせ気が付かないんだ!足がとっても臭いんだぁ…納豆みたいな匂い!」
惺山…森山氏の名前だ。
この子の話を聞く様になって…幾度となく、彼の名前を耳にした。
惺山は、ピアノが上手で、作曲家をしていて…長い髪が素敵で、優しくて、カッコいい…この子の、大好きな人。
豪ちゃんは過剰と言える程に、話の中で、彼の事を特別扱いしていた。その対照として使われるのは…必ずといって良い程、あの子の兄貴だった。
惺山はとっても良いのに…兄ちゃんは最悪…そんなお話のお決まりパターンがあって、そして、最後には…必ず、兄貴を下げるコメントを話すんだ。
「だからぁ…兄ちゃんは、すぐにエッチをしちゃったんだぁ…!馬鹿だよねぇ?ああいうのを、地雷女って言うんだって、惺山が教えてくれたんだぁ。地雷女と、相談女が居てぇ…。相談女の方がやばいって、彼は言ってたぁ…。」
…ほらね。
「はぁ…」
俺は、長いうえに、とりとめのない話を続ける豪ちゃんにため息を吐いて、ぶっきらぼうにこう言った。
「要点を纏めて話せよ…全く!だから、馬鹿なんだ。」
するとあの子は、俺の言葉に口を開けて、首を傾げて見せた。
そんな豪ちゃんに背を向けた俺は…テラスへ向かって歩き始めた。
俺にしては頑張って耐えた方だ。
だって、この前来た時よりも…長く話を聞く事が出来たんだ。
以前だったら、あの子が話し始めた途端に、うんざりしていたんだからね…
やっぱり、俺は…やれば出来る子なんだ。
「あ、ほっくぅん!そっちは…ぬかるんでるぅっ!」
そんな気を引く様なことを言って、俺を足止めしようったって…そうはいかない!
「はん!はいはい…そうですかぁ~!」
豪ちゃんの言葉に馬鹿にする様にそう返した俺は、トコトコと、いつもの調子で歩き続けて…
…まんまと、やらかしたんだ。
「…まったく。大人しく言う事を聞いとけば良いのに…」
眉を下げた理久は、俺を見て、ため息を吐きながらそう言った…
豪ちゃんの制止も聞かずにぬかるみに足を取られた俺は、そのまま、滑って、転んで、尻餅をついたんだ。
そして、俺の汚れた服と、靴を、豪ちゃんがせっせと洗っている…今、ここだ。
「ほっくん、僕のだけど…着ててねぇ?」
豪ちゃんはそう言いながら、俺にチェックの柄のハーフパンツと、フリフリの付いた白いブラウスを手渡した…。
上等なブランドのタグを見つめながら、これが、どこかの誰かさんの趣味によって、豪ちゃんに与えられた物だと、俺は察した。
そんなコスチュームプレイと言っても過言では無い“衣装”を着ながら、俺は、テラスの椅子に腰かけて、あの子が淹れてくれた紅茶と、バイを頂いている。
…なんだかなぁ…
目の前の理久は、そんな俺を、ニヤニヤしながら見つめて来るんだ…
あ~あ…嫌になってくるよ。
「…こんなに、足しげく通い始めて…豪ちゃんの、演奏でも聴きたいのかい?」
新聞に目を落とした理久は、視線も上げずにそう聞いて来た。
だから、俺は、パイを自分の目の前に手繰り寄せながら、こう答えたんだ。
「さぁね…」
ギフテッドのあの子が演奏した”きらきら星“は、確かに凄かった。
でも…俺は、あの子の演奏を聴きたいから、ここに来ている訳じゃないんだ…
ここに居ると…
いいや、豪ちゃんに会うと…
どうしてか…まもちゃんを思い出して、恋しがっても良いんだって思えて、気が楽になるんだ…。
少しだけ…自分のささくれ立った心が…穏やかになって行くんだ。
まるで、それを求めるみたいに…俺は、この、天使に会いに来ている。
それと…もうひとつ…
俺は、目の前に置かれた、まるで売り物の様な見事なパイにフォークを入れて…サクッと音を立てて切れて行く様子を眺めながら…口元を緩めた。
そして、一切れ…パクリと口の中に入れて、じっくりと堪能するんだ。
鼻から抜けるリキュールの香りと…しっとりと濡れた歯応えの良いリンゴ…そして、噛むたびにサクサクと気持ちの良い音を立てる…パイ生地…
…最高だ…!
「んふふ!うまぁ~~いっ!」
俺は目じりを下げて身震いすると、ため息を吐きながら、体を震わせた。
「あっはっはっは…!」
そんな俺の様子に、理久はケラケラと大笑いすると、部屋の中に向かって…大きな声でこう言ったんだ。
「豪ちゃん!北斗が、パイ、美味いってさ!」
「えぇ~~~~~?!」
すると、腕まくりをしたままの豪ちゃんが、歓喜の悲鳴を上げながら凄い速さで歩いて近付いて来たんだ。
そして、デレデレと鼻の下を伸ばして、もじもじと体を揺らしたまま、俺の顔を覗き込んで、こう聞いて来た。
「…ほんとぉ?美味しかったぁ?」
そう。
これが、俺がここに来る…もうひとつの理由だ…
この子は…美味い物を食べさせてくれる。
何と、全て…手作りだって言うんだから、はぁ…信じられないよ。
黙々とパイを食べる俺の隣に立った豪ちゃんは、誰も聞いていないのに1人でペラペラと話し始めた。
「ほっくん…美味しかったのぉ?あのね、このパイ生地はね、何層にもなる様にこうやって.こうやって、重ねて作ったんだぁ。中に入ってるリンゴはねぇ、お隣のジェンキンスさんがくれた、ちいちゃいりんごをコンポートにしたやつなの。おすそ分けで、パリスの卵をあげたんだぁ。ふふぅ!美味しかったの?本当ぉ?本当に、本当ぉ?…それは、良かったぁ…!」
俺は、しきりに話しかけてくる豪ちゃんを無視して、最高のパイを食べ続けた。そんな事、気にもならないのか…豪ちゃんは満面の笑顔で、両手を合わせて両頬に行ったり来たりさせながら、俺に話しかけ続けた…
「ん、も~!ふふぅ…!良かったぁ~!また作るぅ~!」
「あ…でもぉ…んん、作るぅ、作るぅ!」
「本当はぁ…フィナンシェを作りたいんだけどぉ…でも、パイも作るねぇ…?」
「あぁ…でも、型を買わなくちゃいけないんだぁ…ん~…」
信じられないよな…
俺と理久は、何一つ答えていないのに…豪ちゃんは、ずっと一人で話し続けているんだ。
たまに、理久が…うん。なんて相槌を打っているけど…あの子は、そんな言葉も聞こえていない様に、ペラペラと話し続けた。
そんな豪ちゃんの姿に、俺は、ふと、まもちゃんのお店の常連さんを思い出した。
…彼女も、こんな風に話す…おばちゃんなんだ。
いつも片手を頬に当てて、反対側の手で肘を支えてる。
やたら、まもちゃんの胸を叩くのが好きな…56歳の女性だ。
黙々とパイを食べ続けたせいで、俺は、あっという間にパイを完食してしまった…
…幸せな時間というものは継続しては訪れないんだ。
すると、俺の靴をテラスに陰干ししながら、豪ちゃんがこう言って来た。
「そうだぁ。ほっくん?僕のお誕生日プレゼントに、お友達が味噌セットを送ってくれたんだぁ!一緒に作ってみる?」
「やだよ。面倒臭い!」
そんな俺の答えにケラケラ笑った豪ちゃんは、リビングの床に座り込んで、味噌セットと呼ばれる樽と、白い豆を眺めて首を傾げた。
そして、窓越しにぼんやりと理久を見つめて、こう話しかけたんだ。
「今日…水にうるかしてぇ…明日、煮て…崩して…塩きり麹と混ぜて…そうだぁ、大豆の煮汁を取っておかないと…後はぁ…何がいるっけ?」
「…さあね。」
首を傾げた理久がそう答えると、豪ちゃんはそんな彼を無視して、そそくさと樽の除菌を始めた。
やっぱり…常連のお客さんに似てる…!
旦那さんに向かって話してる癖に、レスポンスを全く求めていない。その様子まで…よく、似てる!!
これは…まもちゃんが見たら、ヒーヒー言って爆笑しそうだな…
俺は、そんな豪ちゃんを横目に見ながら…クスクス笑って、理久を見やった。
すると、彼は無視されたにもかかわらず、嬉しそうに、そんなあの子を目で追いかけていた。
へえ…
そんな…穏やかな表情をするんだ…
こんなに長い時間、付き合って来た仲なのに…俺は、そんな理久の表情を初めて見た気がした。
いつも、どことなく…人を寄せ付けない神経質な雰囲気を漂わせていた彼は、天使の前では、自然で、無防備だった。
「大豆を、お水に浸して来たぁ…!」
「どれどれ…?」
豪ちゃんがテラスのテーブルに戻ると、理久はあの子を膝の上に乗せて、手の匂いをクンクン嗅ぎながら、とぼけたような顔をして言った。
「ん、臭い!」
すると、豪ちゃんは体を揺らしてこう言ったんだ。
「ん、もう…!ん、もう!!ばっかぁん!」
「あっはっはっは!うっそだよ…。ん~!良い匂いがする…!」
「ん、もう…!ん、もう!!ばっかぁん!」
なんだこれは…?
戸惑いをポーカーフェイスの下に隠したまま…俺は目の前の光景を眺めて、眉を顰めた…
そんな俺の心情なんてお構いなしに、理久は豪ちゃんを抱きしめて、ケラケラ笑いながらこう言ったんだ…
「あっはっはっは!これは嘘じゃないのに…!あっはっはっは!」
なんだこれは…?
…森山氏の、言っていた通りだ。
このふたりは、少し、おかしいのかもしれない…
ただでさえ変わり者の理久に、オッパッピーな豪ちゃんが付け足された。
そして、どちらともなく磁石の様にくっ付いては、目の前で、下らないやり取りを繰り広げるんだ…
それはまるで…ツッコミ不在のボケ倒す漫才の様に、見る者を不快にした。
呆れた様にため息を吐いた俺は、理久の膝の上に座った豪ちゃんを見つめて、こう切り出した。
「で、味噌はいつ出来るの…?」
すると、あの子は、口を尖らせながら考え込んで、こう答えたんだ。
「ん、普通は…冬に仕込むんだよぉ…それで、夏を越したあたりで使い始めてたから…今回は、10月、11月くらいには、使い始めると思うぅ~。でもぉ、フランスの気候が分からないからぁ…前後するかも~…」
へぇ…
俺は、手元のスケジュールに味噌の完成時期を書き込みながら、コクコクと頷いて答えた。
そして、ふと、走らせるペンをピタリと止めて、豪ちゃんを上目遣いに見上げて、重ねて、こう尋ねたんだ。
「で、その味噌で、俺に何をご馳走してくれるの…?」
すると、あの子は、にっこりと笑ってこう答えた。
「ん、そうだなぁ…味噌田楽とかぁ…サバの味噌煮も良いね?後はぁ、小松菜のお味噌汁を作ってあげるぅ!」
「なる程ね…」
味噌田楽か…渋いな。でも…寒くなって来た秋口には…ちょうど良いじゃないか!
こりゃ、味噌の出来が…楽しみだ。
スケジュール帳をズボンのポケットにしまった俺は、理久の前に出ているスコーンを眺めて、豪ちゃんに聞いた。
「…それは?」
「ヨーグルトで作ったスコーンだよ?ほっくんも食べてみるぅ?」
まじかよ…!
まもちゃんは、コックさんなのに…こんなに料理しなかったぞ…!
「…食べる。」
俺は澄ました顔をしてそう言った。
すると、豪ちゃんは嬉しそうに飛び跳ねて台所へと向かったんだ…
豪ちゃんが理久の元に来て変わったのは、庭だけじゃない…リビングにデカデカと作られたアイランドキッチンもそのひとつだ…
でも、こんなに料理が好きなら…あの設備投資も、悪くないな…
しかも、美味いんだ。
俺は、自分で言うのも変だが…すっかり、豪ちゃんに胃袋を掴まれた。
森山氏の言っていた、熱い物を口に入れられる事は今の所無いが…彼の予想した通り、豪ちゃんは、自分の作った食べ物を誰かに食べさせたがった…
かぼちゃの冷製スープ、焼き菓子、おにぎり、美味しい出汁のそうめん…俺がご馳走になった物は、どれも、絶品だった。
この目の前に広がる畑も…そこで収穫されるであろう野菜たちも、この子の手に掛かれば…全て、無駄なものなどひとつもない…生きた食糧庫になる。
ある意味、究極の食生活だ。
驚いた事に、理久がここに越して来てから一度も交流の無かった…ご近所とも仲良く交流し始めて、庭に大層立派な鶏小屋までこさえて貰っているんだ。
あの子の…屈託のない雰囲気が、相手の警戒心を解くのかな…?
人を拒まない雰囲気が、相手に伝わるのかな…?
だから、理久も…俺も…知らずの内に、気を許してしまうのかな…?
だから、俺は…あの子を”ギフテッド“なんて呼ばなくなって…穿った見方をしなくなったのかな…?
「はぁい、こっちがプレーン。杏のジャムと一緒にどうぞ?こっちは…ブルーベリーを入れてあるの…ちょっと酸っぱいけど、美味しいよ?ボナペティ~。」
そう言ってあの子が出してくれた綺麗なお皿の上に置かれたスコーンは、これまた、売り物の様に上出来だった。
「おぉ…」
豪ちゃんは理久の膝に腰掛けて、俺を見つめながら瞳を細めた。そして、おもむろに、ポットの中の紅茶を俺のカップに注ぎ入れてくれたんだ。
何だろう…この感じ…癒し?安らぎ?お世話されている感じ…?
それが、心地良いなんて感じてしまうのは…俺が、すっかり…この子に絆されてしまったからなのかもしれない。
「豪ちゃん…先生にも、あっついお茶を淹れて来て…?」
「はぁい…」
理久のカップを手に持った豪ちゃんは、台所へと向かった。
そんなあの子の背中を目で追いながら、理久が俺に言った。
「ギフテッド…お前が、そんな存在を毛嫌いしている事は知っているよ。でも、それは…あの子が欲しくて手に入れた物じゃないんだ…。断る事も出来ずに、産まれた瞬間から、一方的に、与えられた物なんだ。だから…その憤りを、あの子に向けないで。」
分かってる…
望んで手に入れた物じゃない事も、それを持っているせいで…無駄に傷付く事も。
「…そんな事、してない…」
紅茶を啜りながら…俺は理久から視線を外して、そう呟いた…
彼はそんな俺の様子にクスリと笑うと、スコーンを手でちぎりながら、こう話した。
「ギフテッドだ…才能だ…と、もてはやされる様な印象を感じて、嫌だったかい…?でも、分かるだろ…?あの子は、そんな物を一度も驕った事はない…。森山君が見つけた…埋もれかけの音色。それがあの子だ…。持て余す程の感受性に振り回されて、苦しんでいた…。そんなあの子に…バイオリンを与えたのは、森山君だ。」
森山…惺山…
俺は仏頂面の彼の顔を思い出しながら、目の前の理久にクスクス笑ってこう言った。
「彼は、豪ちゃんの恋人なんだろっ?はは…!信じられないよな?理久の奥さんと不倫した男が、今度は自分の恋人を理久に預けるんだもん!はははっ!図太い神経をしてる!嫌いじゃないよ?そう言うの!あはははは!」
そんな俺の言葉に、理久は何も答えずに、とぼけて肩をすくめた。だから、俺は…首を横に振って…庭のパリスをぼんやりと眺めた。
彼女は高床式住居の階段を…しきりに、行ったりきたりして、落ち着かない様子だ…
「…知ってるだろ?今度、彼の交響曲を弾く事になったんだ…。今年の12月、東京で…。でも、第三楽章のソロパートが、最悪だ…!てんで弾けない!第四楽章のタランテラの超絶技巧は難なくクリア出来るのに…。あの、短調で…シンプルな8小節の旋律をこなせないでいる…。」
俺は、理久に視線を戻して…思わず出て来るため息と一緒に、そう、ぼやいた。
すると、彼はスコーンを口に入れて…こう言ったんだ…
「…ん、美味い…」
「ねえ、聴かせてよ…」
あの子のバイオリンを…あの、音色を…
お前が、自分の傍に置いて、独占して、囲いたくなる様な…唯一無二の音色を…
「…興味があるのかい…?」
俺を伺い見る様に、目の奥を光らせた理久がそう聞いた。
興味…
俺は…あんな音色も…ギフテッドの存在も、否定したかった…
だって、あんな物を認めてしまったら…自分の足をすくわれる様なもんだからね。
何年かけたって…あんな奥行きを持った音色なんて…常人には紡げない。
それを手離しで喜べるのは…必死で食らいついて来てない奴と…全然、違う場所にいる奴くらいだ。
同じ舞台に立つ身としては…こんなに脅威になるものはない。
それでも…
あの音色を…生で聴けるんだとしたら…聴いてみたい。
俺は、理久を見つめて…コクリと頷いてこう答えた。
「聴きたい…」
「はぁい…先生。緑茶だよぉ…?」
「豪ちゃん、北斗に…何か一曲弾いてくれないかい…?」
誰から貰ったのか…“お父さん大好き”なんて書かれた湯飲みに、豪ちゃんは緑茶を淹れて持って来た。そんなあの子に、理久はそう声を掛けた…
すると、豪ちゃんは首を傾げて彼に聞いたんだ。
「…良いのぉ?」
「良いよ…」
このふたりのやり取りは、理解出来ない。
でも、確かに…ふたりだけに通じる、何かがある様だった。そして、それは、理久を幼い頃から知っている俺にとっては、少しだけ寂しさを感じさせる物だった…
理久はこの子が、可愛くて…堪らないんだ。
それは、変態の意味合いを少しだけ残した…慈愛の様な感情だ。
理久の言葉に、年季の入ったバイオリンを持って来た豪ちゃんは、手のひらでバイオリンを撫でながらこう話しかけ始めた。
「…惺山さん!出番ですよぉ?」
すると、あの子は、バイオリンを動かして…腹話術の様に声色を変えて…こう言った。
「ほいほい!豪ちゃん、一緒にやってみようじゃないかい!」
次の瞬間、ボロボロと涙を落とし始めた豪ちゃんを見て…俺は、動揺した。
だって…とっても悲しそうに、泣き始めたんだ。
「ど、どうした…」
狼狽える俺に、理久が小さい声で…こう言った。
「…大丈夫。少しだけ、待ってあげてくれ…」
え…?
「うっ…うう…はぁはぁ…はぁはぁ…はぁ~…す~…はぁ~…」
豪ちゃんは、涙を落としながらも…呼吸を整える様にゆっくりと深呼吸を始めた。そして、バイオリンを首に挟んで、理久を見つめたんだ。
まるで泣いていたのが嘘の様に…あの子は、弓を掲げてにっこりと笑った…
そして、こう言ったんだ。
「ほっくんに…」
「北斗に…」
豪ちゃんに応える様に、理久がそう言ってあの子に微笑み返した。
すると、美しく構えられた弓が、あの子のバイオリンの弦に、ふんわりと降りて行った。
奏でられたのは…“愛の挨拶”…
それは、角の無い、まろやかで…優しい音色だった。
まるで、豪ちゃんそのものの様な”愛の挨拶“だった…
「綺麗だ…」
自然と口から、そんな言葉がこぼれて落ちた。
まもちゃん…
どうしてか…伏し目がちに俺を見つめて来る豪ちゃんを見つめ返していると…ふと、彼の笑顔が目に浮かんで来たんだ。
俺は、込み上げて来そうな思いを必死に堪えて、咄嗟に…豪ちゃんから目を離した。
そんな事なんてお構いなしの様に、豪ちゃんの音色は、どんどん俺の心の中に入って来て、優しくて、温かい音色は…頑なになった心をほぐす様に…温め始めた。
思った以上に心地良い温かさは…ジワジワと染み渡って…抵抗する事すら馬鹿らしく感じた俺は、無防備に、身を委ねたんだ…
零れだした涙を拭いもしないで…ただ、あの子を見つめて…唇を噛んだ。
胸の奥から溢れてくる思いは…全て、愛する彼への、懺悔の言葉だった…
まもちゃん…ごめんなさい、俺を許して…
間違ってた。間違ってたんだ…
また、会いたいんだ。
また、傍に行きたいんだ。
また、一緒に笑って…また、あなたを愛していたいんだ…。
「まもちゃん…会いたいよ…」
「…会えば良いんだよ。まもるは、ほっくんを待ってる…」
ボロボロと落ちて来る涙を止める事が出来ないまま…俺は、豪ちゃんを見つめて、頬を震わせながらはにかんで…笑った。
あの子は右手で上手に弓を捌いて…最後の最後まで、優しくて…包み込むような“愛の挨拶”を俺に届けてくれた。
この子は…普通じゃない。
--
ほっくんの汚れた服は、乾燥機であっという間に乾いた。
文明の利器ってすごいね?
これさえあれば…兄ちゃんに洗濯物が乾いてない事で、怒られる事は無かったのに。
着替えを済ませたほっくんは、いそいそと帰り支度を始めた。
「あと…スコーンも、もう2つ入れてくれ…!」
せっかちなほっくんにどやされた僕は、せっせと、タッパーの中に、アップルパイと、スコーン、キッシュを入れて、紙袋に入れた。
すっかり僕の手料理を気に入ってくれた様子のほっくんに、僕は、使命感のような思いを感じながら、おまけに何個か追加でスコーンを入れてあげた。
そして、玄関先でほっくんに手渡しながら、こう言ったんだ。
「僕の餃子はとっても美味しいんだよぉ?今度、ご馳走するね?」
「絶対だぞ…」
ほっくんは、端正な凛々しい顔で、キリッとそう言った。
綺麗な人って…どんな馬鹿みたいな事を言っても美しく見えて、凄い…!
そして、彼が乗り込んだタクシーが見えなくなるまで、僕は玄関の前で手を振り続けたんだ。
…きっと、ほっくんは、決心したんだ。
まもるに会いに行くって…決心が付いたんだ。
「はぁ…ふふぅ!良かったぁ!良かったぁ!」
クルクル回りながら踊っている僕に、道路の向かいからゴードンさんが手を振ってくれた。だから、僕は…そのまま回転しながら、彼に手を振り返したんだ。
そしたら、盛大に大笑いされた!
あぁ…!ほっくん…!!良かった…!!
あなたの事なのに、何故か、僕まで…胸がドキドキするよ。
惺山…
僕も、あなたに会いたい…
長くて、ひんやりする…あなたの髪を撫でたい。
両手で抱きしめて、あなたの匂いを嗅ぎたい…!!
玄関を上がった僕は、庭をパトロールするパリスを眺めながら、テラスの食器を片付けて、書斎へ向かった先生にコーヒーを持って行ってあげた。
そして、ひとり…あなたのバイオリンを首に挟んだ僕は、あなたへの思いを込めて…弾くんだ。
”愛の挨拶“
ねえ、覚えている…?
初めてこの曲を体で感じた時、僕の背中には、あなたがいた。
弓を手に持って…僕の首に挟んだバイオリンの弦を優しく撫でて…音を振るわせて響かせてくれたんだ…
こうして瞳を閉じれば…あなたが傍に居てくれる気がする。
瞳を開いた時…このピアノの椅子に座ったあなたが…僕を見つめて、微笑み返してくれる気がする。
「惺山…あなたに、会いたい…」
僕は、誰も座っていないピアノの前で、瞳を開ける事が出来ないまま…項垂れた。
「豪ちゃん…寂しくなっちゃった…?」
そんな声を背中に聞いた僕は、クスクス笑いながら先生を振り返ってこう言った。
「…うん。」
先生は、僕が泣き虫だって…知ってる。
僕が落ち込んだ時、泣きそうな時、彼は僕に胸を貸してくれるから…
だから、僕は…そんな先生に甘えて、彼の胸に抱きしめられながら…泣くんだ。
「先生…?ほっくんは、きっと…もう、大丈夫だね。次に演奏をする時は、きっと、もっと、美しい花を見せてくれる…。」
僕は、重たい瞼を半分だけ開いて、ソファに座った先生にクッタリと体を預けた。すると、先生は、僕の顔を覗き込んで…こう言ったんだ。
「北斗は…もう、弾きたくないのかと思った…」
そんな先生の言葉に泣きながらクスクス笑った僕は、彼の顔を見上げてこう言った。
「まさかぁ…!」
「あんな音色を出す子じゃなかったんだ…悲痛な、乱雑な、粗暴な音色を奏でる子じゃなかった…。だから、俺は…もう、駄目だって…思ったんだ…。あの子の演奏家としての、人生が、終わったと思った…」
先生は、僕を見つめながら、口元を少しだけ上げて笑った。だから、僕はそんな口元を指で撫でて、元の位置に戻してあげた…そして、先生を見つめて言ったんだ。
「きっと、ちょっと、疲れちゃったんだ…」
「なにが…?」
僕の頬を撫でてそう聞いて来る先生に、僕は首を傾げてこう答えた。
「それは…ほっくんにしか分からない事だ。」
「ふふ…確かに、そうだ…」
顔を見合ってクスクス笑っていたら、自然と涙が止まった。
でも、僕は、そのまま先生に抱き付いて…彼の呼吸で体が動くのを感じながら、甘え続けた…
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