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#19~#20
#19
「俺も…北斗と一緒に居たいよ。ずっと一緒に居たい。でも…そうしたら、お前は…」
突然の俺の言葉に…まもちゃんは、戸惑った様に瞳を揺らしてそう言った。
だから、俺は…彼の胸に抱き付いて、こんな話をした。
「…人は、本来、バイオリンを弾く為に産まれて来た訳じゃない。幸せになる為に産まれたんだ。…不幸せになってまで、バイオリンを弾く事は、人の生き方として間違っている…そんな、天使の言葉をずっと考えていた。」
なんだかんだ言って、俺は、無理やりに習わされたバイオリン、チェロ、ピアノに…自分の存在意義を感じていた。
そうする事が、当然だと疑わずに…上を目指す事が、当たり前だと思っていた。
賞を受賞する度に評判の上がっていく自分に、これで良いんだと…自信を持った。
でも、自分を認めてくれる大切な誰かを見つけてから、その価値観はガタガタと音を立てて崩れたんだ。
いくら、どこの誰かも知らない奴に褒められたとしても…いくら上手に音色が出せたとしても…いくら、賞を受賞しても、心の隙間を埋める事なんて出来なかった。
抱きしめて、温めてくれる誰かがいなければ…そんな物には、何の価値もないんだと、俺は、気付いてしまったんだ。
なのに…そんな事実から目を逸らした。
…情報の古い自分の取扱説明書通り…ひたすらに、上を目指し続けた。
感じる疑問も、違和感も、どうしようもない虚しさも、全て、見て見ぬ振りして…ただ、バイオリンを弾き続けて…鋭い音色で、自分を傷つけた。
彼がいないと良い音色が出ないなら…彼がいないと音が曇るのなら…
彼と居れば良いだけなんだ。
たった、それだけの事だったんだ…
気付いていたのに、気付いていたのに…認める事が難しかった。
なぜ…?
それは、幼い頃の自分が叫び続けたからだ…
こんな所で止まるな!って…
何の為に、幾つもの楽しみを犠牲にして、バイオリンを弾き続けて来たんだ!って…
馬鹿だよね…好きだから、弾き続けて来たんだ。
嫌なら、とっくのとうに…辞めてる。
俺の頬を撫でてまもちゃんは悲しそうに眉を下げた。だから、俺は彼の顔を見上げてこう言った。
「あなたといる事が…何よりも、嬉しい…!あなたがいるから、俺のバイオリンの音色は冴え渡るんだ。あなたと離れて、それが良く分かった…。俺は…情緒のこもった演奏なんて出来なくなって…鋭い音色しか出せなくなった。そして、思い知った。もう…まもちゃんなしでは、生きていけないって…思い知ったんだ!」
そう…ずっと、彼の傍にいて、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に…年を取りたい。
俺はパンツを穿きながら、押し黙ってしまったまもちゃんの背中を一発引っぱたいて、ケラケラ笑って言った。
「それにだ、俺はバイオリンをずっと弾き続けるよ?以前の様に海外を飛び回る事は難しくても、美しい音色を奏で続ける!それは…妥協でも、負けでもない…」
しょんぼりと口を尖らせたまもちゃんは、俺の選択に、抵抗を感じているみたいだった。
でもさ、また離れて過ごす事なんて…俺には出来そうにもないよ。
あなただって、そうでしょ…?
部屋着を着て、彼をベッドに寝かせて、俺は、しょんぼりしたまま変顔を続けるまもちゃんに跨って乗った。
そして、ケラケラ笑いながら言ったんだ。
「なぁんだ!俺が一緒に居ると、不都合な事でもあるの?!」
「ない!でも…」
体を起こしたまもちゃんは、俺を抱きしめて鼻をスンスン鳴らした。
そして、何度も頬ずりしながらこう言ったんだ。
「北斗、そのせいで…お前は何を諦める事になるの…?」
そんな彼の言葉に…俺は首を傾げて言った。
「何も…?逆に得るんだ。まもちゃんと一緒に居ると、俺は、ずっと幸せでいられる。そこから…美しい音色が生まれるんだ。…まずは、自分が幸せにならないと、音色は色付かない…」
そう言った自分の言葉に…自分で、驚いた。
確かにそうなんだ…
自分が幸せじゃないと…音色は色付かない。
まもちゃんを愛したあの夏…俺のバイオリンの音色は変わった。
幼い頃、理久にさんざん言われた…曲の中に情緒を込めろと…
俺は、意味がよく分からないまま…何となく弾き続けていた。
”情緒”という形の無い物を…他の奏者を見て、見よう見まねで真似して分かったつもりでいた…
でも、違った…
まもちゃんと出会った事で…俺は、あんなに頭を悩ませた”情緒”という物を、いとも簡単に、温度を持った厚みのある音色として、奏でる事が出来たんだ。
恋しさや、切なさ、怒り、悲しみ…それらを音色に乗せて…曲の中で、表現する事が出来る様になった。
それは、あの両親が目を見開くほどの成長だった。
それを証明するかの様に…彼と別れる決断をした4年前からつい最近まで、俺の音色は色を失って、無機質なほどに鋭く研ぎ澄まされて行った…
「あぁ…そうだったのか…!!」
俺は、極まって、溢れて来る涙を両手で抑えて…肩を揺らして泣いた。
幸せになる事が…全ての近道だったんだ…
良い音色を出したいなら、良い音楽を奏でたいなら…まずは自分が、幸せになれば良かったんだ…
音色の情緒は…それに伴って、付随する物なんだ…
だから、天使は…俺に“人の幸せ”を説いたの…?
まさか…
だって、あの子は…馬鹿だもの。ふふ…!
偶然だとしても…俺は、結果的に、この答にたどり着いた…
まるで何かを悟った様に…俺の両眼からは、悲しみでも、喜びでもない得も言われぬ涙が止め処なくあふれて、頬をダラダラと流れ落ちて行った…
まもちゃんはそんな俺を見つめて、同じ様に泣きながら…優しく涙を撫でてくれた。
だから、俺は…彼に…こう言ったんだ。
「まもちゃぁん!俺を…俺を幸せにしてよっ!いつまでも…いつまでも…良い音色が奏で続けられる様に…丁寧に、扱って…愛してよっ!!」
俺は、彼に抱き付いて…鼻をスンスン鳴らした。
すると、まもちゃんは俺を強く抱きしめて、大きな体の中に埋めた…
そして、喉の奥を震わせて…低くて素敵な声で…こう言ってくれたんだ。
「北斗…嬉しいよ…俺に愛させてよ…。俺に…あなたを、幸せにさせて下さい…!!」
その時の喜びと言ったら、無いよ…
だって…俺は、頭の中で…ふふ!“結婚行進曲”が流れ始めたもの…
長かった…
出会って、ここまで…辿り着くのが…長かった。
そもそも…気付くのが、遅すぎたくらいだ。
きっと…俺が超絶鈍感なせいだ…
俺は、彼の泣き声を自分の体に沁み込ませる様に…まもちゃんを両手で強く強く抱きしめた。
--
「…豪。さっきぶりだね?わぁ…可愛い服を着て、よく似合ってるじゃない。」
そんな声と共に、先生と僕の目の前に…幸太郎さんと、ひとりの女の子がやって来た。
僕の髪をフワフワと撫でて、瞳を細める幸太郎さんとは対極的に、女の子は、まるでお人形さんの様に…表情を変えないで先生を見上げ続けていた。
歳は、僕よりも上か…同じ位かな…?
おかっぱの髪型は…真っ赤な髪色のせいかスチームパンク風でおしゃれに見えた。
彼女をまじまじと見つめていると、そんな僕の様子に気が付いた幸太郎さんがクスクス笑って言ったんだ。
「この子は、イリアちゃん…豪と同じ、ギフテッドだよ…?」
「イリアちゃん、初めまして…豪ですぅ。」
僕はぺこりと頭を下げてそう言った。
すると、イリアちゃんは僕を無視したまま…先生に言ったんだ。
「私の方が上手でしょ…?」
「…それは、聴く人の主観で左右する…なんとも、信用のならない評価だよ。」
驚いた…
だって、穏やかな先生が、彼女を一蹴したんだ。
すると、幸太郎さんが、クスクス笑ってこう言った。
「俺が聴いた所だと…豪の方が上手だったよ…?音色の美しさも、伸びも…」
僕はそんな言葉に眉を顰めて、先生の腕に顔を埋めた。
「へえ…」
そう言ったイリアちゃんは、無表情の顔を歪めて僕を睨みつけた。
「…しかも、豪の方が、イリアちゃんより可愛い。」
「そうかなぁ…?」
彼女の耳元で、幸太郎さんは簡単に彼女を傷つける言葉を吐いた。
僕はそれを見たくなくて、思わず…顔をそむけた。
「多分、イリアちゃんの負けだ…。だから、理久は君じゃなくて…豪を取ったんだ。しかも一緒に住んで、とっても大事にしてる。」
「キャハハ…嘘だぁ…」
イリアちゃんは、僕を睨み続けたままそう言った。
そして、おもむろに自分の持って来たバイオリンをケースから出して、首に挟んで言ったんだ。
「どっちが上手か…比べてみよう?」
「…嫌だ。」
僕は、すぐに…そう言った。
その様子をニヤニヤと、いやらしい顔をしながら見つめる幸太郎さんを睨みつけた僕は、先生の耳もとに手を当ててこう言った。
「僕に…闘鶏をさせないで…」
「分かってる…」
先生は優しくそう返して僕の腰を抱いた。そして、そのままにっこりと笑って…イリアちゃんに言ったんだ。
「じゃあ…またね、イリアちゃん…」
踵を返した僕たちは…闘志の溢れるイリアちゃんと、彼女を焚き付ける…幸太郎さんから逃げ出した。
「…どうしてあんな事をするの…?」
握り締めた先生の腕の袖を弄りながら、僕は項垂れて、何度も言った。
「…どうして、あんな事をするのぉ…?」
幸太郎さんは、ギフテッド。
幼い頃から…チェロの才能を披露する機会に恵まれた。
そのお陰で…彼は、”ギフテッド“なんて言う特異な人たちのアイコンになった…
そして、今は…自分と同じ特徴を持つ子供の支援をしている。
先生は、そう言っていた。
でも、彼は…まるで、イリアちゃんを駒の様に扱って…僕と、戦わせ様とした…
「豪ちゃん…人っていうのは、よく、分からないね…」
ポツリとそう呟いた先生の声は、どことなく…傷付いて、寂しそうだった。
きっと、先生も驚いたんだ…
そして、幸太郎さんの姿勢にショックを受けたんだ。
「…うん。」
同じ様にポツリとそう言った僕は、平気な振りを続ける先生の手を、そっと…握った。
パーティーは滞りなく進行した。
名前を呼ばれた先生が、前に出て素敵な挨拶を始めて、僕は、そんな彼の姿を見つめながら、カナッペを食べていたんだ。
すると、僕の隣に幸太郎さんがやって来た。
僕は、それに気が付いたけど…気が付かない振りを続けた。
「豪…どうして弾かなかったの…?」
そんな声が聞こえて来るけど…僕は、何も気が付かない振りをして、先生だけを見つめた。すると、幸太郎さんは僕の背中を抱きしめて、クスクス笑って言ったんだ。
「豪…?俺の為に、バイオリンを弾いてよ…。そうだな…“きらきら星”よりも、もっと、ムードのある曲が良い…。豪が、一番美しく見える曲を弾いて聴かせてよ…?」
「…嫌だ…。だって、幸太郎さんの事、僕は…嫌いみたいだからぁ…」
僕は…先生を見つめたまま、そう言った。
幸太郎さんの体に付いた香水が僕の体を覆いつくしても、彼の舌が僕の首を舐めても…僕は、ただ…じっと、先生だけを見つめていた。
彼は、僕を性の対象に見てる。だから…僕の体をまさぐるんだ。
そんな彼の手が僕の腰を抱き寄せて、自分の股間を僕のお尻に擦り付け始めた頃…僕の我慢は、限界に達した!
「せ、先生ぇ!!幸太郎さんがぁ…!!僕に悪戯するぅっ!!逮捕してぇん!」
…僕は、両手を上げて、前に立ってスピーチを続ける先生に、大声でそう言った。すると、彼はすぐに目を丸くして、眉を顰めて、こちらへズカズカと歩いて来たんだ。
怒ってる…
先生は、怒ってる!!
そんな怒気に溢れた先生の表情に、僕は強気になった。僕の腰を掴む幸太郎さんの手を引っ叩いて、両手で追い払おうと…頑張った。
「まぁったく…」
そんな声が顔の横から聞こえた次の瞬間、幸太郎さんの手が緩んだ。
だから、僕は、思いっきり彼を振りほどいて、先生に抱き付いて言ったんだ。
「あの人…大っ嫌いだぁ!」
すると、先生は…僕を背中に隠して…怒った声を出してこう言った。
「…幸太郎、知ってるだろ?俺は、なんでも自由にはさせないよ…?」
「はッはッは…!ただの冗談だろ…?大げさだね?あっはっはっは!」
そんな、幸太郎さんの声に合わせる様に、周りの大人はへらへらと笑ってみせた。
僕は、そんな大人の様子にショックを受けて、先生の背中から離れられなくなった…
仕方なく…先生は僕を背中に付けたまま、スピーチの続きを始めた。
「…世の中には、ギフテッドと呼ばれる才能が溢れる人が居ます。その一方で、そんな彼らに群がる金の亡者もいる。そんな人は、才能を育てる事よりも…その人を使って、自分が儲ける手段ばかり考える。そんな考えに犯された時、ギフテッドは自分の価値を見誤る恐れがあります。その、代表作が…彼だ…!」
先生はそう言って幸太郎さんを指さした。
会場がどよめくのも気にしない様子で、先生は続けてこう言った。
「自分を支える人や、自分を引き立ててくれる者に感謝も出来ないで、傲り昂る…。美しく尊い存在が、あっという間に、醜い生き物に成り代わってしまう。だからこそ、そんな存在を支援する立場の者は…自分を律する覚悟が必要なんです。模範であるべきなんです。決して、道を間違わない様に、導いてあげる必要があるんです。」
「なぁんだ…!理久!あんただって…その子に鼻の下を伸ばしていた癖に!」
幸太郎さんは先生にそう言った。
すると、会場がドッと笑いに包まれて…先生は、言葉を詰まらせた。
そんな彼の背中にしがみ付いたまま…僕は、先生の足元に置かれたバイオリンケースを、力を込めて見つめた。
先生の思いが、馬鹿にされている…
僕は…それが許せなかった。
#20
「北斗…おはよう。」
「まもちゃん…おはよう。」
目を覚ますと、目の前に大好きな人が居る。
そんな事が、幸せで…そんな事が、いちいち…胸をくすぐって来る。
熱いキスを貰いながら、俺はまもちゃんのふわふわの髪を指先でとかした。
そして、ふと…天使を思い出して…口元を緩めて笑った。
「北斗ちゃん?今日はお店を開けるからね…お手伝い、お願いしますよ…?」
ウッドデッキの上で洗濯を干すまもちゃんを横目に見ながら、俺は森山惺山の交響曲、第三楽章のバイオリンソロを弾いてみた。
前よりは確実に良くなった…でも、まだ…足りない。
湖から叩きつけて来る風に顔を歪めた俺は、まもちゃんを風よけにしながらこう言ったんだ。
「難しいんだ。このフレーズが弾けない!」
「弾けてるじゃないの…」
「違う!音色が…全く違うんだ…」
まもちゃんの背中に甘ったれて抱き付いた俺は、顔を擦り付けながら言った。
「…ここは、豪ちゃんのパートなんだ。あの子の音色は…再現不能だ。」
「ははっ!だとしたら…マネなんてしないで、寄せようとしないで、北斗の音色で弾いたら良い。そして…北斗の交響曲にしてやったら良いんだ!どうだぁ!俺だぞっ!強いんだぞぉ!って…乗っ取ってやったら良いんだ。」
ふふ…
口元を緩めて笑った俺は、まもちゃんの背中を叩いて言った。
「きっと、森山氏が許さないさ…」
「あぁ…あの、陰キャか…」
豪ちゃんの音色は最高さ…
今更、他のテイストの音色なんて…受け付けないだろう。
豪ちゃんの…
あの、破天荒で自由な天使の、恋人…森山惺山。
野菜を育てて、料理好きな豪ちゃんの恋人は、自然食を好んで食べた。
きっと…もしかしたら、あの子の手料理を思い出すのかもしれない。
色とりどりに飾られた無造作なサラダや、素材の味を引き立てる料理法、そして、何よりも…素朴な風味に、あの子の手料理を、思い出していたのかもしれない…
そう考えたら、陰キャな作曲家も…少しだけ可愛く見えてくるよ。
「…ふふ、もう一度会って…相談してみよう。」
俺はまもちゃんの背中に顔を埋めて、そう言った。
今日の軽井沢の天気は…ポカポカの陽気だ!
まもちゃんの背中が、熱いくらいに温まってるもんね!
「理久にも会いに行かなくちゃいけない!その時は…まもちゃんも一緒に来るんだ。だって、こういったけじめは、きちんと付けなきゃ駄目だからね?…じゃあ…その時、すり鉢を豪ちゃんにあげようか…?探しておかないとな…」
いつもの椅子に腰かけながらブツブツと計画を立てていると、俺を横目に見ながら、まもちゃんが、俺の為に朝ご飯を作り始めた。
猫柄のクッションは、これで…6代目。
まもちゃんは、俺が居なくなった後も…このクッションも、椅子も、捨てずに取っておいてくれた…。
それを、当然の様に感じたりしないよ…だって、じんわりと胸の奥が熱くなってくるんだ。
俺を忘れずにいてくれた事が、堪らなく…嬉しいんだ。
さっきから、俺を横目にチラチラと伺い見ては、首を傾げながら天井を見上げる。そんな気になる行動を繰り返しているまもちゃんの頭の中は…大体察しがついてるんだ。
すると、体を振り返らせた彼は、俺にこう言って話しかけて来た。
「北斗?新婚旅行は…沖縄に行って、キャンプをしようね…?」
ほら…来た…
「石垣島じゃないの…?」
昨日は、石垣島だって言ってた。なのに、今朝は沖縄に行き先が変わってる…
まもちゃんは、首を傾げる俺の前にランチョンマットを敷いた。
そして、美味しそうなホットサンドが乗ったお皿を差し出して、こう言ったんだ。
「ん~、俺はね、南国ならどこでも良いんだ…。フェリーで車ごと乗っかって…島に運んでもらう。そして…北斗と一緒にキャンプをする。…最高だろ?」
確かに…それは、楽しそうだ。
クスクス笑った俺は、まもちゃんのお皿に乗った卵サンドを一口かじった。そして、肩をすくめながら言った。
「ん~、卵好きは変わらずだ!美味しい。」
「だろぉ…?」
嬉しそうに目じりを下げたまもちゃんは、自分の卵サンドをパクリとかじって…うっとりと首を横に振って言ったんだ。
「ヴォ~ノ!ヴォ~ノ!」
…ウケる。
「そうだ、豪ちゃんはさ…鶏を飼ってて、毎朝そいつが生んだ卵で料理するんだよ?ヤバいだろ?しかも…名前が、ぷぷっ!秀逸なんだぁ…」
俺は、熱々のホットサンドをかじりながら、目の前に座ったまもちゃんにそう言った。すると、彼は首を傾げて上目遣いに聞いて来たんだ。
「…何?何て名前…?」
だから、俺は…吹き出し笑いしながら教えてあげた。
「…ぷぷっ!パリスだって!」
「ギャ~ハッハッハッハッハ!!パリス・ヒルトン!」
まもちゃんは、ゲラゲラと大笑いして、手に持った卵サンドを握りつぶしてしまうと…悲しそうに、しょんぼりと肩を落としていた…
こんなに大笑いするなんて…
きっと、豪ちゃんが常連の奥さんに似てるって聞いたら、腹を抱えて大笑いするに違いない…!!
そう思った俺は、背中を丸めたまもちゃんの顔を覗き込んで、こう言ったんだ。
「…あの子、ペラペラとよくしゃべるんだけど…とりとめのない話をしたり、要点がまとまっていなかったり…とにかく、おばちゃんみたいなんだ。ん、もう~ってすぐに言うし。ぷぷっ!しかも…理久とセットになると…本当に、ヤバい…!」
そんな俺の話に、まもちゃんは卵サンドをお皿の上に置き直して、伺い見る様に聞いて来た。
「…何…?何がやばいの…?」
だから、俺は、眉を片方だけ上げて、ニヤニヤしながら言ったんだ。
「常連の夫婦のお客さんで…奥さんがおしゃべりな人、居ただろ…?」
「菅野さんかな…?旦那さんが無口な…」
俺の言葉に、首を傾げてまもちゃんがそう言った。
…その瞬間、俺は菅野さんの姿を鮮明に思い出したんだ。
彼女のメニューを見る仕草から…注文する仕草、旦那さんに一方的に話しかける姿をまざまざと思い出した。
好んで窓際の席に座りたがって、例の如く、手を頬に当てて反対側の手で肘を支えながら、目の前の旦那さんにこう言うんだ。
「お父さん…?今年も、湖にお客さんがいっぱい来るのねぇ?」
すると、旦那さんは外を行き交う観光客の車を見つめて、ぼんやりと答える。
「あぁ…」
そんな答えが終わらない内に、菅野さんの奥さんは、身を乗り出して旦那さんに口を尖らせてこう言うんだ。
「ねえ?この前、お隣の近藤さんがね、ワイン工場に行ったんですって!私、ビックリしちゃったぁ!だって…飲酒運転して帰って来たのよぉ~?犯罪者よねぇ?」
「あぁ…そうか…」
クスクス笑った旦那さんがメニューに視線を落とすと、奥さんは、突然こんな話を始めるんだ。
「ねえ、やっぱり…テレビを買い替えるのはやめましょう?だって、お父さんだって、テレビなんて見ないし…。要らないでしょ…?」
そんな急な話題に目を点にした旦那さんは、ハッと息を飲むと…すぐにこう言ったんだ。
「いや…テレビは…」
旦那さんの言葉なんて聞いていない奥さんは、窓の外を見つめて、大きなため息を吐きながら、また元の話題に戻って行く…
「でもね、近藤さんは飲酒運転してないって…言い張るのよぉ?嘘つきよねぇ?」
「あぁ…嘘つきだな…。そして、とんでもない犯罪者だ!」
微かにテレビの買い替えの話しが気になりながらも…旦那さんはそう言って、メニューを眺め始めるんだ…
心なしか、自分のモヤモヤを”近所の近藤さん“にぶつける様に、言葉が乱暴になった気がした事を…よく覚えている。
似てる…!
やっぱり、その様子は…豪ちゃんと理久に似ていた!!
鮮明に蘇った記憶に、俺は思わず吹き出し笑いしながら…まもちゃんに話したんだ。
「そうそう!ぷくくっ!ぷくくくっ!その、菅野さんに…豪ちゃんが、そっくりなんだぁ!しかも、理久が旦那さんみたいにぼんやりしてるから…あのふたりの掛け合いは、菅野さん夫婦と、重なって見える!!ギャハハ!そ、それが、おっかしくって…おっかしくって…ヒィヒィ…!」
しかし…
そんな俺の言葉に、まもちゃんは懐疑的だった。
首を何度も傾げて、俺をチラチラと見て来るまもちゃんの顔は…少し、ムカつく。
「えぇ…?まぁさか…!豪ちゃんは可愛いのに…おばちゃんと同じにするなんて…」
彼はそう言って、俺を馬鹿にする様に変顔を見せて首を横に振った。そして、やれやれと言わんばかりに…ため息を吐いてこう言ったんだ。
「はぁ~…可愛さへの嫉妬だ。可愛いが半分、美しいが半分の北斗は、可愛さを多く持った豪ちゃんに、嫉妬しちゃったんだね…?」
「言ってろ!見たら、分かるんだからっ!」
そうだ。
あの子のおばちゃんっぷりは、見た人にしか伝わらない。
今度…森山氏に聞いてみよう。
きっと、彼なら…ギャハハ!と、大笑いするに違いないんだから!
--
僕は、バイオリンをケースから取り出して…惺山のチューナーをネックに付けた。
開放弦を指で弾きながら、チューナーを見つめて調弦を済ませた僕は…先生を見上げて言ったんだ。
「先生…?弾いても良いですか…?」
そんな僕を見下ろした先生は、不思議そうに首を傾げながらこう言った。
「…え、弾きたいなら、どうぞ…」
弾きたい…?
いいや。僕は、彼らを…黙らせたいんだ。
先生の隣に立った僕は、バイオリンを首に挟んだ。
すると、目の前の大人たちは、好奇の瞳を僕へ向けて、口元を歪に歪めて笑った。
汚い笑顔と、笑い声だ…
だから…
僕は、右手に持った弓を大きく振りかぶって、思いきり…バイオリンの弦に叩きつけて、音色を爆発させた。
煩い、黙れ…!
先生の…先生の思いを、馬鹿にするな…!
…そんな思いを込めて弾いたのは…“ツィゴイネルワイゼン”。
先生が…弾いて聴かせてくれた曲だ。
シンと…静まり返った会場の中、僕は…目の前の大人たちを睨みつけて冒頭を弾き切った。
そして、そっと…瞳を閉じた僕は、ため息の様に力を抜いた弓で…ゆったりと、大きな波のメロディを弾いて繋いで行く。
切なくって…哀愁なんて物がどこからか漂ってきそうなメロディーに…僕は、怒りの感情を込めた。
掠れる音色に、うっとりと酔いしれて…伸びて行く音色に、体を伸ばしても…僕は、沸々と怒りを蓄えている…
「豪…」
そんな先生の声と共に瞳を開いた僕は、“ツィゴイネルワイゼン”の曲の終盤…すっごい難しい所を、弓のボーイングを気にしないで思いのままに弾き始めた。
だいたい、ギフテッドって何なのさ…!
そんな物に縋って、自分を誇示して…バッカみたいだ!!
僕は、止まらなくなった…
左手でピチカートをして弦を弾いて飛ばした僕は、幸太郎さんを睨みつけたまま…右手に持った弓を激しく揺らして…弦の上を細かく滑らせた。
「…謝れ!!」
僕の怒りはおさまらない…!
音色が、拍子が、この曲が…僕の気持ちを…思いを、爆発させてくれる。だから、僕はそんな曲と共に…感情を音色に乗せて…彼にぶつけた。
僕は、幸太郎さんを睨みつけたまま、彼の目の前まで歩いて行った。すると、彼は嬉しそうに目じりを下げて手拍子をしながらこう言ったんだ。
「豪!最高だ…!」
ん~~~!あったまくるぅ~~っ!!
僕の怒りはおさまらないぞっ!!
幸太郎さんを前蹴りして転ばした僕は、彼の腹に足を乗せて踏んづけてやった。
そして…弓に沢山の音色を乗せたまま、思いきり弦を引き切ったんだ…
僕の、怒りの“ツィゴイネルワイゼン”が…終わった…
弓を幸太郎さんの顔に向けた僕は、彼を見下しながらこう言った。
「あなたは偉くもなんともない…ただの偶像だぁ。哀れだ…。謝れと言ったが訂正する。あなたの謝罪には何の価値もないから…必要ないっ!」
弓を彼の顔から退かした僕は、最後にお腹の上を思いきり踏んづけて踵を返した。そして、先生の背中の後ろに戻って…バイオリンを撫でながらケースへと戻した。
「…豪ちゃん、お、お、怒ったんだね…」
顔を固めた先生が、プルプルと震えながらそう言った。だから、僕は鼻息を荒くしながら言ってやったんだ。
「ふんだ!あったま来ちゃった!」
特別な才能があるからなんだ!
だったら…人をコケにしても良いのか…!
僕は…ギフテッドなんて呼ばれる人が、嫌いになりそうだ…!
その後…シャンパンを飲む先生の背中にしがみ付いた僕は、彼の周りに集まる大人を見ない様にした。
汚くて…さもしい…薄汚い奴らだ。
フランス語や英語…ドイツ語で話される内容は、僕には分からない…
でも、しきりに僕を隠そうとする先生の様子で…察した。
どうせ、あれを弾け…これを弾け…と催促を受けているんだ。
自分で弾けば良い!馬鹿野郎!
先生の背中にしがみ付いた僕は、眉を顰めたまま…顔を俯かせて、うんざりと項垂れた。
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