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#21 「いらっしゃ~~い!」 「北斗~~~!久しぶりじゃないの~!」 常連客の多いまもちゃんのお店は、開店と同時に…俺の顔を見て喜ぶお客さんの笑い声で、一杯になった。 お客さんの言葉と笑い声を厨房の中で聴いた彼は、大きな背中を丸めてメソッと涙を拭っていた。そんな後姿を見た俺は、熱くなって行く目頭を隠す事もしないで、お客さんに笑顔で言ったんだ。 「さあ!…何にする?」 「ポークソテーにしとくわぁ~!」 こんな小さなお店でも、ランチタイムは混雑するんだ。 でも、大丈夫。 まもるのレストランは…ランチメニューは五択しかない。 ・オムライスランチ ・ハヤシライスランチ ・ポークソテーランチ ・チキンソテ―ランチ そして… ・本日のおすすめランチだ。 これさえ覚えていれば…何てこと無い。 ひとりでお店を切り盛りする為に、彼が編み出した…極少メニューだ。 「北斗、コーヒー!」 「はいはい…」 「北斗、チキンソテ―2つ!」 「はいはい…!」 ここは、相変わらず常連客による、俺使いが荒かった。 そんな様子を嬉しそうにまもちゃんが覗き込んでくるから…俺は、何となく…恥ずかしくなった。 慣れた様子でお客さんの注文を聞いた俺は、いつもの様にカウンターの裏に戻って、こちらを覗き込んでニコニコ笑うまもちゃんにこう言った。 「まもちゃん、チキンソテー2つ!」 「ほい来た~!」 嬉しそうに笑って調理を始める彼の背中を見つめて、俺はクスクス笑った。 あぁ…彼と一緒に、ずっと居られるんだ。 そんな喜びは、事ある毎に俺の胸を幸せで一杯にした。 例えば、朝、起きた時…朝ご飯を食べる時…一緒にお店に降りて来た時。 いつも、“帰らなければいけない”なんて制約があった俺は、そんなひとつひとつの行動に…どこかしら、余所行きの感情を持っていたんだ。 でも、今は違う… この生活が、俺の人生の一部になって行くんだ… そう、実感として感じて…とても、満たされた。 怒涛のランチタイムを終えた俺は、残ったお客さんのお水を注いで回った。そして、カウンター越しに、燃え尽きてくたびれたまもちゃんの背中を見つめて、クスクス笑った。 この光景も…俺の人生の一部になった… 「もしもし…あぁ、森山さんですか…?私、藤森です。ふふ…えぇ、先日は失礼いたしました。少し、急用を思い出しまして…。所で…少し、お会いしたくて…お時間頂けませんか?」 …俺は、店の電話から、森山惺山に連絡を取った。 カウンターの向こうでは、俺のランチを作り始めるまもちゃんの背中がダラダラと動いている。そんな彼の、コトンコトンとフライパンを鳴らす音を小耳に聞きながら、森山氏と、おしゃべりさ… 「北斗ちゃ~ん、お会計!」 すると、お会計を叫ぶ後藤さんの声に、俺は電話を耳に当てたまま、慌ててレジへと向かったんだ。 電話口の向こうでは、森山氏が戸惑った様に無言になった…でも、俺は目の前の後藤さんのお会計を続けて、こう言ったんだ。 「はいはい…ちょっと待って…?1、280円です。もしもし…?いや、そのね…ちょっと待って…はい…お釣りの、220円です…。また、来てくださ~い!」 「…藤森さん、何をしてますか?」 やっと口を開いた彼は、そんな間抜けな質問をして来た。だから、俺は、ケラケラ笑ってこう答えたんだ。 「店番ですよ、あっはっはっは…!そうそう、それで…いつ頃、時間を取って頂けますか?」 すると、彼は、モゴモゴと苦笑いをしながらこう言った… 「はぁ…そうですね…来週…」 「ええ?来週…?!遠いなぁ…遠い!」 俺は、脅してる訳じゃないんだ。 ただ、早めに第三楽章のソロの結論が知りたいんだよ。 俺の声の圧に電話口で押し黙った森山氏は、ため息を吐いてこう話した。 「今日が丁度オフで…今、外出してるんです。後は、来週しか予定が空いてないんですよ…。急に連絡をして来て、そんな物言いをするなんて…。はぁ、気が強いにも程があるなぁ…。」 ヤバい… 豪ちゃんの彼氏の機嫌を損ねそうだ…!! まもちゃんが心配そうに様子を伺う中、俺は丁寧に…こう言い直したんだ。 「ははは…いやぁ、誤解ですよぉ…。申し訳ありません…。ただ、どうかなぁって…思っただけですぅ…」 すると、森山氏は電話口で大きなため息を吐いて、こう言った。 「今日は、軽井沢に来ていて…すぐに東京には戻れそうにないんです。申し訳ありませんが、来週で…」 なぁんだって?! 思わぬ好都合な彼の外出先に、俺は、まもちゃんを見つめたまま、口を開けて…文字通り、固まった。 そして、我に帰って、電話の向こうの森山氏にこう言ったんだ。 「…俺も今、軽井沢に居るんですよ…。森山さん。」 偶然なのかな…それとも、天使の思し召しかな。 ひょんなタイミングで…俺は、とんとんで彼と落ち合う事が出来そうだ… 「じゃあ…後で…」 ガチャリ… 電話を切った俺の目の前には、まもちゃんの、眉を顰めた怪訝な顔があった… 「なんだって言ってた…?ダークサイドに誘われた…?」 そんな彼の言葉に首を傾げた俺は、両手にお昼ご飯を持って厨房から出てくる彼の傍に駆け寄って、こう言った。 「…後で、ここに来る事になった…」 すると、まもちゃんは目を丸くして、オムライスをテーブルの上に乗せながらこう言ったんだ。 「はぁ?!急だなぁ?」 …そうなんだ。 偶然にも、彼は、軽井沢に居た。 「偶然って怖いね~?」 ケラケラ笑った俺の顔を見つめたまもちゃんは、顔をしかめたままこう言った。 「で、何時に来るの…?」 どうしてまもちゃんがこんなに不機嫌になってるのかは、知らない。 ただ、彼が…あの可愛い豪ちゃんの恋人が、陰キャの森山氏だっていう事が気に入らないっていう事は、言葉の端々から分かっていた。 その徹底したまでの森山氏嫌いは、まるで、娘の彼氏を気に入らない…お父さんの様な、本当に下らない…義務感と、使命感を感じている様にさえ見えてくる。 そんなまもちゃんを見つめた俺は、にっこりと笑ってこう答えた。 「所用を済ませてからって言ってて…3時くらいになるって言ってた…」 …そして、3時はあっという間にやって来た。 約束の時間を少し遅れた頃…店の駐車場に一台の車が入って来た。 「あ…あれだ!」 店の窓から外を眺めていた俺は、ベンチ席で眠るまもちゃんの体をゆさゆさと揺すった。 「まもちゃん、キタキタ!」 「ん~…むにゃむにゃ…」 ランチでの戦いで、すでにHPが一桁になったまもちゃんは、適度な休憩と睡眠をとらないと…夜からの仕事に支障が出るんだ。 だから…俺は、ぐうぐうと眠る彼をそのままにして…森山氏を店の中に案内した。 「どぞ…森山さん…こちらに…」 店の奥に横たわるまもちゃんを見つけた森山氏は、顔をギョッと歪めてこう言った。 「なんですか…!あれ!」 あぁ…あれ…?! …あれは、まもるだ… 「まあまあ…どうぞ、コーヒーでも作りますね…」 俺はそんな森山氏の動揺を無視して、椅子に腰かけさせた。 すると、彼の手の中に…黒いまだら模様の鶏が居たんだ。 「…パリス…?」 「の…息子です。」 思わずつぶやいた俺に、森山氏は、クスクス笑って…そう、付け足して言った。 -- 「なぁんだ!うんこみたいな人しかいない場所だったぁ!」 僕は怒ってそう言った。すると、先生はクスクス笑いながらこう言ったんだ。 「“ツィゴイネルワイゼン”の冒頭は痺れた…!感情がこもっていたね…あの場に居た誰もが、あの音色に圧倒されて…君の演奏に食い入るように見入っていたよ…。きっと、可愛いからかな…?あははは…」 「ん、ばっかぁん!!」 車の後部座席に座った僕は、ふざけてばかりの先生の足を何回も引っ叩いた。 すると、彼は首を傾げてこう言ったんだ。 「しかし…後半のボーイングは…散々だった。もっと考えないと駄目だ。あれでは、テンポがズレて…」 「ん、も、ばっかぁん!!」 “ツィゴイネルワイゼン”を弾いた後…集まって来た大人たちは、まるで僕を欲しがるように手を伸ばして触れようとして来た。そんな彼らから、先生は、僕を必死に遠ざけて、背中に隠し続けた。 そして彼は、決して…あの大人たちの会話を、僕に訳して伝えようとはしなかった。 …きっと、ろくでも無い事だったんだ。 だから、僕は、先生の背中にずっとうずくまって…顔を伏せていたんだ。 汚くて、さもしくて、卑しくて…僕は、あの場所に居る人…みんな、大嫌いだった。 先生の思いを馬鹿にした癖に…いけしゃあしゃあと、よくも話しかけられるもんだ!…なんて、腹立たしく思っていた。 だから、とても、態度が悪かったんだ… でも、先生は…それを咎める事は無かった。 今も、僕の弾いた“ツィゴイネルワイゼン”を分析、評価して…改善点を伝えて来るだけだ。 幸太郎さんの事も…僕がキレた事も…何も、責めたり…詰ったりしないんだ。 ただ、僕の胸が、怒りに震えている事を分かっているみたいに…いつまでも優しく手を握って、包み込んでくれている。 「…確か、“ツィゴイネルワイゼン”は、一度、聴いただけだったよね…?それ以外で、どこかで聴いたかい…?」 窓の外を見つめながら…先生がポツリとそう聞いて来た。 だから僕は、先生の手のひらを撫でてこう答えたんだ… 「ううん…」 「はぁ…そうか…」 それは、どんな意味のため息なのか…僕には分からなかった。 でも、先生の目つきが…一瞬、鋭くなった気がして、僕は彼の手だけを見つめて、大きな手のひらに撫でられ続ける様に、手を下に敷いた。 「…豪ちゃんの、“タランテラナポリターナ”は少し間違っている。それは、誰が教えてくれたの…?」 家に戻って来た僕は、食べかけの冷めたオムライスを口に入れながら、そんな先生の質問に首を傾げて答えた。 「惺山が…ピアノで弾いてくれたぁ…」 「なる程ね…じゃあ、ポルカは…?」 「それも…惺山がピアノで弾いてくれた…」 すると、先生は、腕を組んで…首を傾げてこう言った。 「じゃあ…豪ちゃんは、楽譜から演奏をした物はひとつも無いの…?」 そんな彼を見上げた僕は、オムライスを食べながら首を傾げた。そして、思い出す様に考えを巡らせて…ポツリと答えたんだ。 「“愛の挨拶”…“きらきら星”は、惺山が楽譜を読んでくれたぁ。そして…僕に、指を置く所を書いた紙をくれたんだぁ。」 「は…?!」 目を丸くした先生を見つめた僕は、何だか、怒られている様な気になって…肩をすくめたまま…モゴモゴと口ごもってこう言った。 「…ん、だってぇ、僕は音符が読めないからぁ…」 「じゃあ…ワルツ第7番 嬰ハ短調も、耳で聴いて覚えたという事なの?華麗なる大円舞曲も…?!」 声を裏返らせて先生が矢継ぎ早にそう聞いて来るから…僕は、口を尖らせて…嫌な顔をしながら頷いて答えた… 「…うん。」 「はぁ…なる程…」 大きなため息を吐いた先生は、ダイニングテーブルに腰かけて、オムライスを食べ続ける僕をじっと見つめた。 口元に運んだ手を、時折、緩く結んだり…開いたりしてるから、僕はそんな先生の手を見つめたまま…オムライスを食べ続けた。 グー…パー…グッ…パァー…どういう周期なんだろう…? そんな事を考えながら、僕は先生にこう言った。 「先生?冷たくなっちゃったけど、美味しいから、食べてねぇ?」 「うん…」 生返事しかしない先生を見つめた僕は、大きなため息をひとつ吐いて、先生の食べかけのオムライスにスプーンを突っ込んだ。そして、グーパーする手を通り越して…彼の口元にスプーンを運んで言ったんだ。 「はい、あ~んして…?」 「あ~ん…モグモグ…。ん、冷たいね…」 全く…!誰かさんと、同じだぁ…! 眉間にしわを寄せたまま僕を見つめる先生に、僕は、スプーンを運んで…餌付けをしてあげた。 「お米も、卵も、自然に出来た物じゃないんだよぉ?命だぁ。だから…残したら駄目なのぉ。」 僕がそう言って顔を覗き込むと、先生は瞳を細めてこう言った。 「…あぁ、分かった。」 先生は、ずっと僕の顔を見ながら、難しい顔をして考え込んでいる。 僕は、そんな彼の口に、サクランボを撫でつけて言ったんだ。 「先生…ほら…食べて!食べてぇ…!」 すると、先生は難しい顔をしながら…サクランボを食べようと必死に口を開いて追いかけて来たんだ。 それが、おっかしくって…僕はケラケラ笑って、もっと先生で遊んだ。 ティッシュでこよりを作って…真剣な顔の先生の鼻の穴に差し込んだんだ。 「ぶわっ!」 そう言って体をのけ反らせる先生が面白くって…僕はゲラゲラ笑いながら、椅子から転げ落ちた。 「はぁはぁ…はぁはぁ…」 悪戯の全てをやりつくしても…先生は難しい顔を続けたまま、僕を見つめ続けた。 お皿を洗って後片づけを済ませた僕は、お茶を入れて先生の前に出した。 そして、頬杖をつきながら、先生の顔を見つめて…一緒に難しい顔をしてみたんだ。 「いや…ぶつぶつ…それだと、逆効果だな…では…ぶつぶつ…しかし…」 そんな小さな呟きを呟き続ける先生の唇を見つめた僕は、何となく、チュッとキスしてみた。 「はっ…!…でも、ぶつぶつ…嫌がるかもしれない…それとも…ぶつぶつ…」 少しだけ上がった眉毛が面白くて、僕はもう一回、先生にチュッとキスをした。 「はっ…!」 ふと、我に返った先生は、僕をジト目で見つめてこう言った。 「悪戯しないで欲しいな…先生は純情なんだ…」 「キャッキャッキャッキャ!」 大笑いした僕は、再び椅子から転げ落ちて…尻もちをついた。 すると、先生は僕の出したお茶を手に持って…書斎へと歩いて行ってしまった。だから、僕は、仕方なく…お風呂へ向かった。 考え事をしてる先生は…作曲をしてる時の惺山とよく似てる。 何を言っても、何をしても…心がどこかへ行っちゃってるんだ… だからかな… なんだか、妙に可愛く感じた。 お風呂から上がった僕は、ピアノに座りながら、惺山にお手紙を書いた。 離れて以来…毎週金曜日に彼に手紙を書いて…土曜日に投かんし続けている。 これを、世間では…フライデーナイトって呼んでるの…? “キラキラのきらきら星さんへ。 惺山さんに怒られた僕は、心を入れ替えてしっかりする事にしました。 久しぶりにあなたの声を聴けたというのに、怒られたなんて…残念です。 そうそう、僕の畑のきゅうりが芽を出しました! でも、フランスの土地でちゃんと育つのか…少し、心配です。 そういえば、今日、嫌な事がありました。 ギフテッドのお金集めのパーティーに行った時の事です。 自分がえらいと思った“こうたろうさん”が、僕のお尻に触りました。 だから、僕は怒って…ツィゴイネルワイゼンで追い払いました!ぷんぷん! 先生は、僕が耳で曲を覚える事が…少し、面倒に思ったみたい。 あなたに教えてもらった曲を教えてあげたら、なんだか、とっても困ったみたいでした。 ではでは…また、来週お手紙を書きます。 フォルテッシモと、惺山に…僕とパリスから…沢山の愛をこめて。 強い鶏…豪より“ そして、綺麗に折りたたんだ便せんを、綺麗なコスモス色の封筒に入れた。 「先生…?ハンコかして…?」 書斎に入った僕は、考え事を続ける先生を無視して、彼の足の間にお尻を入れて座った。そして、机の上で蝋を溶かして上からハンコを押した。 こうすると、蝋燭のシールが出来て…格好良いんだ。 「これを明日、出すの…。一緒に持って行って欲しいものはあるぅ?」 先生を振り返った僕は彼にそう聞いた。すると、先生は僕の髪の毛に顔を埋めて首を横に振ったんだ。 なぁんだ… 「そうだ…切手を頂戴よ…?」 僕がそう言うと、先生は引き出しを開いて…切手の束を出してくれた。 「ふんふん…ふんふん…」 大体…200円も出したら、文句も言わずに飛行機に乗せてくれるだろう… そう踏んだ僕は、200円分の切手を封筒に貼った。 「豪ちゃん…」 ちょっと、切手を奮発し過ぎたのかな… びくりと肩を揺らした僕は、恐る恐る先生の顔を見上げた。すると、先生は僕を見つめたまま、穏やかにこう言った。 「…俺は君が好きだよ。でも、余りに…偉大過ぎて、恐ろしいと思ってしまう時がある。どこまで伸びるのか…どんな風になって行くのか…全く、想像が付かない。ギフテッドはそもそも規格外だ。でも、君は群を抜いて…底が知れない。」 僕の髪を撫でてそう言った先生は、どことなく…悲しそうに瞳を細めた様に見えた。 「そう…」 ギフテッドなんて…糞くらえだよ… 僕は肩をすくめて口を尖らせた。そして、先生の顔を見上げながらこう言ったんだ。 「…ギフテッドなんて居ないよ?どこにもいない…」 すると、先生は口を一文字に結んで…ニッと上に上げて微笑んで見せた。 そんな彼の口元を、僕は指で撫でて元に戻した。 そして、そっと触れて来る先生の唇に応える様に口を開いて…絡まって来る舌に、自分の舌を絡めて…抱き寄せる腕に応える様に…彼を抱きしめた。 どうしてそうしたのかなんて、分からない。 「…ごめんね…」 そう言って謝って来た先生に、僕は首を傾げて同じ様に言った。 「…ごめんね…?」 そして、彼の足の間を抜けて…僕は書斎を後にした。 #22 「いやぁ…森山さんが、軽井沢にいるとは…偶然ですね?この店はね、私の恋人の店で…毎年お手伝いに来てたんですけどね…今度から、ここに私も住むんですよぉ…あはははぁ…!」 軽く惚気自慢を挟みながら俺がそう言うと、目の前の森山氏は表情を変えずにこう言った。 「…豪ちゃんの故郷が、この近くなんです。この…フォルテッシモに、そんな自然の中を歩かせて…お散歩させていました。」 「ぷぷっ!!ぐふっ!ぐほほほ…」 ベンチで寝ていた筈のまもちゃんが、そんな森山氏の“お散歩”発言に吹き出して笑い始めた… かく言う俺も、こんな陰な雰囲気の彼から“お散歩”なんて聞いて…表情筋が、爆発しそうだった… 「…豪ちゃんは、ギフテッドでした。あの子の音色は、普通じゃなかった…」 気分を入れ替えた俺は、目の前の森山氏を見つめてそう言った。すると、彼は膝の上で大人しくする…まだら模様の鶏を手のひらで撫でながら…こう言ったんだ。 「…そうです。あの子は、音色そのものの様な子です…。」 音色そのもの…か… 言い得て妙だ。 俺は自分のコーヒーを口に運んで一口飲むと、目の前の森山氏にこう言った。 「…あの子がね、強さとは…自分の非力を認めて受け入れる事だと…教えてくれました。だから…強い私は、認めようと思います。あの第三楽章のソロは…私では、弾けない。あの子の音色は…誰にも真似出来ない。どうか、私の方法で、あのソロを弾かせて頂けないでしょうか…?」 そんな俺の言葉に、森山氏は驚いた様に目を丸くした。そして、クスクス笑いながら…こう言ったんだ。 「あぁ…豪ちゃんと、仲良くなられましたか…?」 彼は陰な雰囲気を纏ったイケメンだ。 そんな男が、不意ににっこりと笑う破壊力は…半端ない。 きっと、天使は、この笑顔にメロメロになったんだ… 「ふふ…あの子はね、俺の天使だったんです。」 思わず、にっこりと笑い返した俺は…そう、森山氏に言った。すると、彼は嬉しそうに目じりを下げて、こう言ったんだ… 「豪ちゃんは、藤森さんの”シシリエンヌ“が大好きです…。俺は、あの子にあなたのCDを全部送ってあげたんですよ…。とっても喜んで、手紙に、大きく…ハートを書いてくれた。はは…。そんなあなたに、こんな風に褒めて貰って…きっと大喜びをする…」 やっぱり、天使は…俺の大ファンだった…! 瞳を細めて豪ちゃんを語った森山氏の様子を伺いながら、俺は彼にこう言った。 「…たまに会いに行かれたら良い。理久の家は、リヨン空港からそう遠くないです。きっと、あの子も喜ぶはずです。だって、いつもいつも運指の練習と、畑仕事で…。この前なんて…他所の犬の面倒まで見ていましたからね!あっはっはっは!」 すると、彼は顔を伏せて…膝に乗せた鶏の頭を撫でながら伏し目がちにこう言った。 「…ソロのお話は、どうぞ…藤森さんの表現で演奏して下さい。きっと、その方が…豪ちゃんも喜ぶ筈です。」 ん…? 急に話題を戻した森山氏に違和感を感じながら、俺は彼を見つめてこう言った。 「…どうも、ありがとうございます。」 どうした事か…目の前の森山氏は、かき消えてしまいそうな位、寂しそうに見えた。 会いに行かれたら良い… そう言った俺の言葉に、表情を曇らせた所までは分かった。 でも、それ以上…聞けなかった。 「味噌は…この前、お友達が送ってくれた“味噌セット”で作っていました…。多分、10月か…11月には使えるって。俺に、味噌田楽を作ってくれるって…約束したんですよ。」 「へえ…ふっふっふ!あの子らしい…!きっと、あなたにご馳走出来る事が、嬉しいんだ。」 どうしてか…俺は、豪ちゃんの近況を…彼に話して伝えなくてはいけない様な気がして、ペラペラと、そんな話ばかりした… 森山氏は、そんな話を…実に嬉しそうに目じりを下げて聞いていた。 膝に乗った”フォルテッシモ”はパリスの気高さを受け継いでいるのか…首をシュッと伸ばして、実に凛々しかった。 「今日は、急に申し訳ありませんでした。スッキリした。これで、心置きなく練習できます。」 見送りに出た俺は、森山氏にそう言った。 すると、彼は俺を少しだけ振り返って…こう言ったんだ。 「…一緒に住むんですか…?」 「あぁ、ええ…まあ、彼とは、12年前に知り合って…ここに至るまで、長い時間かかりました。実はね…一度別れたんですよ。」 苦笑いをしながら俺がそう言うと、森山氏はバツが悪そうな顔をしてこう言った。 「…なんか、すみません。要らない好奇心でした。」 そんな彼に首を横に振った俺は、ニッコリ笑って答えた。 「いやいや!あなたにも聞いて欲しい…。だって、俺がここに戻って来れたのは、ひとえに…豪ちゃんのお陰なんだから…」 目を丸くした森山氏を見上げて…俺は、続けて話した。 「バイオリンの為に、彼と別れた。でも…俺のバイオリンの音色は、どんどん汚れていく一方で、自分でも…潮時なのかと、悩んでいました。すると、あの子が…俺に檄を飛ばした。ふふっ!まもるに返品するぅ!って言って…意地を張って、彼の元へ戻れなかった俺の背中を…押してくれたんです。ここへ戻った俺は…まるで、自分を取り戻した様に…安心して、落ち着く事が出来た…」 森山氏は、両目に涙を湛えて…そんな俺の話を聞いていた… きっと…あの子を、思い出したんだ。 グッと、涙を堪える様な表情を見せた彼は、俺に精一杯の笑顔を作って…何度も頷いて言った。 「…良かった!良かったぁ…!あの子の大切な人が、笑顔に戻れて…良かった!」 あぁ…間違いない。 この男は、あの子の…恋人だ…… よく似ているんだ。感性が…考える事が、思う事が、あの子によく似ている… 俺は、目じりを下げて微笑むと、森山氏の顔を覗き込んでこう言った。 「ふふっ!あなたも、あの子に会いたいでしょう…?たまには、顔を見せてあげてください。きっと喜ぶから…」 すると、彼は、ポロリと涙を落として…顔を歪めて、こう返したんだ。 「…会いたいけど、会えないんです。」 -- コッコッコッコ… 「おはよう…パリス…昨日はポンポンとずっと一緒だったの…?僕は、一人ぼっちで寝たんだぁ…」 テラスにポンポンのご飯と、パリスのご飯を出した僕は、パクパクとご飯を食べるポンポンの体を撫でながら言った。 「後で、ブラシをしようね…?」 そんな僕の言葉が分かるのか…ポンポンは僕に覆い被さって…暴れ始めた。 「あっはっはっはっは!やめてぇん!ん…や…やめてぇ!」 「豪ちゃん…おはよう…」 先生はポンポンに襲われる僕を横目に見ながら、いつもの様にテラスに腰かけて、庭を眺めながらコーヒーを啜って飲んだ。 「おはよ~う!…あっ!なぁんだぁ!何で…?!ポンポン!」 …ポンポンは酷い。 僕に向かって…腰を振って襲い掛かって来たんだ…! しかも、おちんちんが凄い事になってる!! 逃げる様に体を翻した僕は、腰をポンポンに掴まれて…そのまま卑猥なプレイを味わわされた… 「ブホォっ!!」 そんな光景を見た先生は、コーヒーを盛大に吹きだして咳き込み始めた。 そしてすぐに、本気で嫌がる僕を…一生懸命、助けてくれたんだ… 「なぁんて力の強い犬だ…!」 顔を歪めた先生は、ポンポンを軽蔑した眼差しで見つめながらそう言った。 「…中型犬なのにねぇ?」 僕は、そんな先生の隣に立って、同じ様にポンポンを軽蔑した目で見つめてそう言った。 さてさて…! 朝ご飯を簡単に済ませた僕は、ポンポンと先生を連れて朝市へと出向いた。 途中の郵便局で、惺山への手紙を投函した。すると、先生は首を傾げて言ったんだ。 「200円は貼り過ぎじゃない…?」 「ん、良いのぉ…」 だって、僕はフランス語なんて分からないもん。 窓口に出すなんて高度なテクニックは出来ない。だから…余分にでも切手を貼って出すんだい! 今日も朝市は大盛況だった。人混みの中に突入した僕は、首を傾げながら…献立を考えたんだ。 「野菜スープと…ヒレカツを作ろうかな…。余ったら、かつ丼に出来るしぃ…」 そんな僕の肩を抱いた先生は、顔を覗き込みながらこう言ったんだ。 「白身の魚が食べたいよ…」 白身のお魚かぁ… 「…ん、じゃあ…ソテーにするか…フライでも作ろうかなぁ…」 お野菜を大量に買い込んだ僕は、その足でお魚屋さんへ向かった。 「先生?あの…タラを買って行こう?切り身を…4つ頂戴って言って…?」 「はいはい…」 その時、ふと…誰かの視線を感じた僕は、顔をあげて、瞳を泳がせた。 「あ…」 そこには、人に紛れて僕を見つめる…幸太郎さんの姿があったんだ。 僕は、ムッと頬を膨らませて、そんな彼からすぐに視線を逸らした。 彼の事が大っ嫌いになった僕は、先生にお話しする事もしないで幸太郎さんを無視した。 そして、そのまま…家に帰るのだ! 「先生?ジェラードと、アイス、ソフトクリームの違いはぁ…?」 「ひと口、頂戴…」 帰りにジェラードを買って貰った僕は、スプーンで表面をすくいながら、美味しいブドウの味を楽しんでいた。 口を開いてジェラードを欲しがる先生の顔を見て、ケラケラ笑って、僕はひとすくいしたスプーンを口に運んであげた。 そして、誰かに言う様に言うんだ… 「はぁい、あ~んしてぇ…?」 「あ~ん…ん、ちべて…!」 ふふ…可愛い! きっと、知覚過敏なんだ。 そんな僕たちの後ろを…怪しい幸太郎さんが付いて来ている事を、僕は知ってる。 …でも、先生に教えたりしない。 家に着いた。 両手に荷物を抱えた先生の為に、僕は大きな玄関を開いて待ってあげた。 すると、幸太郎さんが…駆け寄って、こう言ったんだ。 「豪…!」 「ふぁ…?」 そんな声に、振り返ろうとする先生の背中を押した僕は、そのまま玄関の中に入って…鍵を掛けた。 そして、首を傾げる先生を見上げて…トボけて、首を傾げたんだ。 あの人は嫌い… 嫌がる僕を離しもしないで、好き勝手に体を触って、あろうことか…ポンポンの様に腰を振って来たんだ! そうだ…幸太郎さんは、ポンポンと同じだ… 「誰だった…?」 「知らな~い!」 ポンポンを抱っこして抱えた僕は、リビングを通って…テラスからあの子を放してあげた。一目散にパリスの元へ走って行くポンポンは、こうしていると可愛いのに… あんな事して…ちょっと…ちょっとだけ、お馬鹿さんだ… キッチンに戻って手を洗った僕は、白身のお魚に塩コショウをして冷蔵庫にしまった。ついでに買って来たリンゴを剥いて…テラスに座った先生に出してあげた。 「こっちのリンゴは、日本に比べて…小ぶりだね…?」 「そうだねぇ…」 こんな風に、まったりと…ゆったりと、流れる…先生との時間が好き… 気を抜いたままで一緒に居られる…なぜかとっても落ち着く、彼が好きなんだ。 先生が何かの書類に目を通す中、僕は、彼の膝に腰かけて…庭を眺めながらリンゴを頬張った。 シャリ…という音と…歯応えを感じながらぼんやりと畑を見ていると、目の端にチョロチョロ動き回る…怪しい男性の影に眉を顰めた。 幸太郎さんは…早起きだ。そして…僕に用があるみたい… その時…先生の携帯電話が鳴った。 「パリス…リンゴを少しあげるね…どうぞ、召し上がれ…」 「コッココココ…!!」 僕は、足元に来たパリスにリンゴのおすそ分けをした。 すると、首を傾げながら電話に出た先生は、僕を膝から下ろして、そのまま書斎へと行ってしまった… だから、僕は、サンダルに履き替えて庭に出たんだ。 そして、垣根の向こうで立ち尽くしている幸太郎さんを見つめて、こう言った。 「…ん、もう!何の用なのぉ!」 すると、彼はしょんぼりと肩を落として…こう言って来たぁ。 「…悪かったよ。謝らせてよ。」 はん! 口を尖らせた僕は、ほっくんの真似をして…煽り気味に幸太郎さんを見た。そして、鼻の穴を広げて、ふんふん!鳴らしてこう言ってみたんだ。 「ふん!バッカじゃん!」 「豪…ごめんよ。怒らないで…。俺が、悪かったよ…。」 惺山と同い年くらいなのに…まるで、小学生の男の子みたいに、肩を落としてそう言う彼を…僕は、無視する事が出来なかった。 だから…庭に入れてあげたんだ。 「先生が戻ったら…ボッコボコにされるんだからなぁ!」 僕の後ろをトコトコ付いて来る彼を少しだけ振り返って、僕は脅しの限りを尽くした。 「先生は、電話帳を素手で破れるんだからなぁ…!」 「嘘だ…!」 幸太郎さんは、そう言ってケラケラ笑った。 まぁったく!! 「…これは?」 「ん?…これはねぇ…きゅうりの芽だよぉ?フランス語ではぁ、コンコン…って言うんだぁ…」 「コンコンブルね…」 畑の雑草を抜いていると、僕の隣に幸太郎さんが座り込んだ。そして…僕に、そんな偉そうな事を言って来たんだ。 だから、僕は怒って…彼の体を突き飛ばして転がして言ったんだ。 「コンコンっで良いのぉ!」 「あっはっは!違うよっ!コンコンブルだ!コンコンじゃない、コンコンブルだぁ!」 ん~~!どっかのクソガキみたいだぁ! 僕をからかうみたいにキャッキャとはしゃいだ幸太郎さんは、そんな彼を見て興奮したポンポンと一緒に、僕の周りを走り回った。 類友…そんな言葉が、僕の頭をよぎった… 「豪ちゃん、先生は…午後、少し出かけるよ…はっ!!」 テラスに戻って来た先生は、幸太郎さんにからかわれる僕を見つけて、目を丸くした。そして、一気に眉間にしわを寄せると…幸太郎さんにこう言ったんだ。 「幸太郎!こっちに来い!」 ほらねぇ…? 怒られて、目の前で…電話帳を素手で破るのを見て…畏れ慄けば良いんだ! ほくそ笑んだ僕は…背中越しに幸太郎さんと先生を見た。そして、先生の鉄拳制裁を期待して、心の中でこう言った。 ガンってぶん殴って…そのままマウントを取って…ガツガツ顔面をぶん殴ってよぉ… しかし、先生はしかめっ面で怒るだけで、てんで平和の平左衛門だった。 日和ってるな… 兄ちゃんだったら、ボッコボコにして…泣かせて…パンツを脱がせるのにぃ! 先生の弱さにガッカリした僕は、庭の雑草を抜きながら、きゅうりの親蔓を支柱に巻きつけて、脇芽をつんだ。 6枚…葉っぱが揃うまでは、こうして…栄養が他所へ行かない様に、脇芽をつんであげるんだ。そして…大きく伸びた親蔓を育てていく。 「豪ちゃん…こっちにおいで!」 そんな先生の声に、僕は顔を歪めたまま…トコトコと歩いて向かった。 「昨日の事を詫びたいそうだ…」 眉を下げてそう言った先生は、僕を見下ろしてこう言った… 「幸太郎は、見た目は大人だけど…中身は子供のままの様な奴だ。ギフテッドは…本来、不器用なんだ。だから…」 「そんな理由付けは良くないよ…!だったら、だったら…何をしても良いって言うの?まずは、先生…その主観を取り払ってよ!ギフテッドだから…っていう、言い訳を使わせないでよぉ。誰かがいて、その人を嫌な目に合わせたら…そんな理由は相手には、通用しないんだからなぁ!」 僕は…怒った。 なまっちょろい先生にも頭に来たし…ギフテッドだからと、好き勝手を許されて来た…幸太郎さんにも、頭に来たんだ。 鼻息を荒くして怒る僕に、幸太郎さんはヘラヘラ笑いながらこう言った。 「豪~!怒りんぼだな…。謝ったら許してあげないと、いじめだぞ!」 「うるさぁい!だったら…僕はいじめっ子で結構だぁ!」 踵を返した僕は、馬鹿な主観に支配された先生と、それに甘んじる大人に背を向けて、畑の管理に精を出した。 「パリスゥ~!この新芽をあげるよ?どうぞ…?」 肥料を大量に投入した庭の土は、健康そのものだった。ミミズがうねうねと土から顔を覗かせて…まんまとパリスに食べられている…そんな光景に瞳を細めた。 テラスでは、腰かけた先生が眉を下げた顔で僕を見ている…そんな彼の隣で、幸太郎さんが、ケラケラと笑いながら…僕に手を振った。 僕は、すぐに、ふん!と顔を逸らして、口を尖らせた。 頭の中が子供なのは、先生だって…惺山だって…同じじゃないか! ギフテッドだから…不器用だから…仕方がない? そんな理由がまかり通るとしたら、先生も、惺山も、そうすれば良いんだぁ!

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