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#23~#25
#23
今日は、まもちゃんと一緒に、軽井沢の観光地へとやって来た。
目的…?ただの、デートだよ。
まもちゃんと一緒にソフトクリームを食べた俺は、日本家屋の見た目をした瀬戸物屋さんに入って行った。
様々な陶磁器が置かれた店内を見回して、俺はお目当ての物を探す様に目を動かした。すると、体を屈めたまもちゃんが、こう言ったんだ。
「北斗、こんなのは…どうだろうか?」
…直径1メートルの大きなすり鉢を両手に抱えたまもちゃんは、にっこりと笑った。
俺は、どデカいすり鉢に苦笑いして…彼にこう言ったんだ。
「はぁ…?飛行機に乗せられるかな…?」
「あぁ…そうかぁ…」
残念そうに眉を下げたまもちゃんは、腕を組みながらすり鉢を探し続けた。
そう…
俺とまもちゃんは…豪ちゃんへのお土産、“すり鉢”を探してるんだ。
「…豪ちゃんには、本格的な…職人のすり鉢の方が良いと思うんだよね…?」
そう言ったまもちゃんの言葉をきっかけに…俺とまもちゃんは、あちこちを巡っては、あの子の為にすり鉢を探している。
真剣な表情ですり鉢を選び続けるまもちゃんの腕に掴まりながら…俺は、森山氏の悲痛の言葉を思い出して…ひとり、眉を顰めた。
あれは…1カ月前…
森山氏をまもちゃんのお店に呼んで…交響曲の第三楽章のソロの相談をした。
そんな、別れ際に聞いた話だ…
「会いたくても…会えないんです…」
悲痛な表情で森山氏はそう言った…そんな告白を受けた俺は、首を傾げてこう聞いたんだ。
「…バ、バイオリンのレッスンの、気が散るから…?」
だって、それ以外に会えない理由なんて…思いつかなかったんだ。
すると、森山氏はハッ!と表情を変えて…取り繕う様にケラケラ笑い始めたんだ。そして、俺を見つめて苦笑いして…こう言ったんだ。
「はは…そうそう、豪ちゃんは…すぐに、遊んじゃうから…」
嘘だ…
すぐにそう分かった。
でも、俺は、目の前の森山氏に、それ以上、聞く事が出来なかった…
「それじゃあ…藤森さん、よろしくお願いします。」
そう言って、ペコリと頭を下げると、車に鶏を乗せて森山氏は帰ってしまった…
俺は、彼の車が視界から消えても…その場を立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまったんだ。
会いたくても…会えない…
それは…どうしてだ…?
そんな答えの出ない疑問を、あの時から…ずっと、抱えてる。
豪ちゃんは、向こうで元気に暮らしている…
昨日の夜、電話で話したんだ。
「…電話なんてして来て、どうしたの…?」
理久はクスクス笑いながらそう言った。すると、電話の向こうで豪ちゃんが理久にこう言ったんだ。
「先生?ん、も…キャベツは駄目だぁ!全部掘り起こして…違うのを植える事にするぅ!かぼちゃとかぁ…さつまいもとかぁ…そういうのにするぅ…!」
「えぇ?そうなの…?」
そんなふたりのやり取りに口元を緩めた俺は、電話の向こうの理久に、こう言ったんだ。
「…話があるんだ。時間を取ってくれない…?」
俺はその時、ベッドの上で、なぜか正座をしていた…
そんな俺の隣に腰かけたまもちゃんは、俺の膝を優しくナデナデしながら、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた…
電話口の理久は、妙に改まった俺の言葉に少しだけ無言になって…その後…こう言ったんだ。
「…分かった。いつ?」
「なるべく、早く…」
海外での活動を止めて、日本を拠点にする…
そんな、今後の方針をあなたに報告する事で、自由になりたい訳じゃないんだ。
だって、あなたは、俺を縛ったりしなかった。
俺が…あなたを縛ったんだ…
だから、今度こそ…自由にしてあげるよ。理久…
海外で仕事を始めた俺に…理久は沢山の時間とコネを使ってくれた。
まるで、父親の様に感じたそんな愛情は…俺には応える事が出来ない類の愛情だって、気付いていた。
それでも、慣れ親しんだ彼は…俺には拠り所だったんだ。
俺が小学校4年生の時、彼は…俺にプロポーズをしたんだ。それが両親にバレて…俺の、音楽の家庭教師を外されてしまった…。
そんな事を何も知らされないまま、俺は、突然来なくなってしまった理久を、ひたすら恋しがって、泣いて過ごしたんだ。
理久、俺は…あなたが、大好きだったんだ…
…家庭教師を辞めたとしても、離れて行かないで欲しかった…
そうしたら、俺は、今でも…あなたの隣にいたと思うんだ。
子供の俺を守って、育てて、音楽を教えてくれた。
そんなあなたを、幼い俺は…愛していたよ…。
とっても…愛していた…
だからかな…大人になった俺は、あなたに気を持たせて…翻弄する事に、ある種の喜びを感じていたんだ。
俺は、まだ愛されているって…思って、悦に入ってた。
そして、あなたに会えなくなって泣いて過ごした幼い日々の鬱憤を晴らす様に、応える気のない愛情を弄んだんだ。
それなのに…あなたは、俺を見放したり、詰ったりしなかった。
いつまでも思い続ける。
そう言った言葉の通り…俺をずっと…愛し続けてくれた。
ごめんね…理久。
もう、自由にして良いよ…
俺は、愛するまもちゃんと幸せになる。
「豪ちゃんは…どうしてるの?」
俺は、指先で涙を拭って電話口の彼にそう尋ねた。すると、理久は移動をしたのか…後ろから聴こえて来る豪ちゃんの声が、どんどん遠のいて行った。
そして、ガチャリと…扉の閉まる音と共に…彼は、ため息を吐いてこう答えたんだ。
「ギフテッドが、嫌いになってしまったみたいだ…」
へぇ…
さすが、俺のファンだ。分かっているじゃないか…
無駄に感心した俺は、クスクス笑いながらこう言った。
「ふふ…あの子はさ、目の付け所が違うんだよ。だから、馬鹿な奴に…頭に来たんだ。ふふふっ!良いじゃないか…。」
すると、理久はため息を連続で吐き出して…こう言ったんだ。
「1カ月前…ギフテッドの資金を集めるパーティーで、幸太郎が粗相をして…豪ちゃんはとても怒った。そして…“ツィゴイネルワイゼン”を弾いて、あいつを撃退したんだ。圧倒的だったよ…。鳥肌が立って…息を飲んだ。怒りのエネルギーが、ほとばしるんだ…。しかも…あの子は、私の演奏を一度聴いただけなんだ。それで“ツィゴイネルワイゼン”を弾き切った…。」
へ…?
「な…なんだって…?」
聞き直すように俺が尋ねると、理久は声を震わせて…こう言った。
「根底が崩れる…。あの子の存在を知らしめたら…音楽に従事する者たちの、根底が崩れるんだ…。あの子は、世に出してはいけない子なのかもしれない…」
一度聴いただけで、弾く事が出来る…
それは、どんな魔法なの…?
…根底が崩れる。
そう言った理久の言葉の意味を…俺は、よく知ってる。
俺の様に、幼い頃から楽器を習って来た者からすれば…豪ちゃんは、チートだ。
何時間も何日も、何週間も…何カ月も…ひとつの曲を習得する為に時間と根気を使って、やっと、物に出来るような事を、あの子は…たった一度、聴いただけで、こなせるんだ。
それは…羨望の眼差しなんて受けない。
妬みと、ひがみと…恨みを買うだけだ…
「持て余す…。正直、持て余す…。どうしてあげたら良いんだ…」
微かに声を震わせた理久は、唸る様にそう言うと喉の奥を鳴らして…押し黙った。
正直、俺は…こんなに動揺する彼を見た事が無い…
いつも飄々としている彼が…狼狽えて、たじろいで…怯えているんだ。
それは、あの子の能力になのか…
それとも、あの子が向かう道を悲観しての物なのか…どちらか、分からなかった。
ただ、あの子が…理久の動揺を感じて、不安に思っていないか、それが気になったんだ。
「…あの子は…大丈夫…?」
俺がそう尋ねると、彼はクスクス笑ってこう答えたんだ…
「豪ちゃんは…ふふ、いつも通りさ…。毎日の様にやって来る幸太郎を、お前の真似をしながら追い払ってる…。でも、あの子の演奏を聴いた海外の投資家は、すぐに動き出した…。俺の事業への投資の話が、あっという間に…6件も来て、事業所には、電話も止め処なくかかって来ているそうだ。どこで調べたのか…自宅にもかかって来る始末だ。」
あぁ…
理久の言葉に、俺は頭のてっぺんから冷汗が流れ落ちていくのを感じた…
「隠して…すぐに、あの子を隠して…」
俺のそんな悲痛な声に、理久はすぐにこう答えた。
「分かってる…」
金持ちはいつもそうだ…
目立つものや、脚光を浴びるものをいたずらに欲しがる。
そのとっかかりとして…豪ちゃんの後見人のような理久に、コンタクトを取り始めた。
彼に恩を売って…投資を持ち掛けて、事業を立ち上げて…理久が逃げられないように雁字搦めにした後、彼に守られた豪ちゃんを引っ張り出そうって魂胆なんだ。
そうなったら、最悪さ。
あの子のバイオリンは無駄に消費され、可愛い顔をしているせいで…体だって求められるだろう。
断る事なんて出来ない…だって、理久は利害に雁字搦めになって…あの子を提供しなくちゃいけなくなってる訳だからね…
だから、そんな未来…絶対に、避けなくちゃいけないんだ。
投資の話も断って、事業の展開も断って、一切合切の支援を断って、資金なんてびた一文たりとも受け取っちゃ駄目なんだ。
関係を持って来ようとする彼らを、無視して…やり過ごすしかない。
ある意味…理久は、これから…逆・兵糧攻めにあうって事だ…
俺の天使を、汚い奴らに汚されてなるものかよ…
俺は目に力を込めると、電話口の彼にこう言った。
「…絶対、守ってよ…」
すると、理久は悲痛な声を絞り出す様に…こう言ったんだ…
「…カルダン氏が、豪ちゃんをお屋敷に招いた…。彼は、ギフテッドの支援事業の多額の出資者だ。俺は、断るに断れない…」
「はぁ…」
理久は、早速、板挟みにあっている状況の様だ…
あの子を隠してしまいたいけど…自分の事業や、人との繋がりが…あの子を完全に隠す事を…既に邪魔してるんだ。
俺は聞こえない様にため息を吐くと、電話の向こうで押し黙ってしまった彼に、こう言った。
「…豪ちゃんに、電話を代わってくれる?」
そんな俺の言葉に、理久は躊躇したのか、警戒したのか、声を強くしてこう言ったんだ。
「なんて、言うつもりだ…!」
おぉ…怖い…!
俺は、理久が安心する様に…穏やかな声でこう伝えた…
「懇意にしているカルダン氏のお誘いは、断れない。では、準備をして行くしかない。あの子に余計な事をしゃべるなと…伝える必要があるんだ。一度、曲を聴いただけで、すぐに弾ける様になる…これは、絶対に口外させてはいけない。これ以上、話題をかっさらわない様にしなければならない。…そうだろ?」
「あぁ…」
力なくそう返事を返すと、理久は、豪ちゃんを呼びつけて…電話を代わった。
「もしもしぃ~?ほっくぅ~ん!ふぉ~~!」
ふふ…
この子は、能天気だな。
いつもと変わらない…豪ちゃんの馬鹿な様子を見て、俺はホッと安心した様に口元を緩めた。
理久は、上手くこの子に動揺を察せられない様にしているみたいだ…
「…豪ちゃん、元気?この前…偶然にもフォルテッシモに会ったんだ。あの鶏は…パリスによく似て、品があったよ?」
そんな俺の言葉に、お猿のように笑った豪ちゃんはこう聞いて来た。
「…惺山はぁ?」
森山惺山…会いたくても会えない…豪ちゃんの恋人…
苦い顔をした俺は、無駄に明るい声色を使ってこう言った。
「あぁ、あの鶏のご主人様か…。なんでも、豪ちゃんの故郷に、フォルテッシモを連れて行ってあげていたんだって…お散歩に行ったって…言ってたよ。」
俺は、森山氏と知り合いである事も、彼の交響曲でソリストを務める話も、話し込んだ事も、豪ちゃんに伏せた。
…なぜなら、簡単に…話が逸れてしまうからだ。
「ふふぅ…そ、そっかぁ~…」
そう答えたあの子の声は、少し…寂しそうだった…
俺は、そんな事気付かない様子で、電話口のあの子にこう話して聞かせたんだ。
「所で、豪ちゃん。理久以外の人に、お前の耳コピの話を絶対にするな。良いな?」
「はぁい…」
俺の唐突の指令に、あの子は気の抜けた声でそう答えた…
…大丈夫かよ。
肩透かしを食った様な手応えの無さに、一抹の不安を覚えた俺は、何度も何度も言って聞かせた。そして、その度に…この、気の抜けた返事を聞いたのであった…
ちゃんと理解したのかな…?
豪ちゃん…馬鹿だからな…
そんな事を思い出しながら、俺は瀬戸物屋さんの小鉢を手に取って…タコわさびを入れるのにちょうど良いな…なんて、眺めていた。
すると、お店の奥でしゃがみ込んでいたまもちゃんが、大きな声でこう言ったんだ。
「北斗!良いのあったぁ!この位のすり鉢だったら…どうよ?!」
そんな彼の声に顔を向けた俺は、彼の手の中に収まった…ちょうど良いサイズのすり鉢を見つめて、にっこりと笑った。
そうだね…まもちゃん。
それが、普通のすり鉢の大きさだ…
俺はまもちゃんに駆け寄って、ケラケラ笑いながら…こう言った。
「よ~し!俺のありがたいサインを…底に書いてやろう…!うしし!」
だって…あの子は、俺の、大ファンだからね?
…今から、お前に会いに行くよ…豪ちゃん。
--
お庭の畑に水をあげた僕は、パリスとポンポンと一緒に、大きな楓の木陰で休憩をした。木漏れ日がチラチラとポンポンの茶色の体に落ちて来るから、僕は手のひらをかざして…ひらひらと動かしたんだ。その度に、チラチラと揺れる眩しい日差しに瞳を細めた…
「綺麗だぁ…」
昨日、ほっくんと電話で話したんだ。
惺山は…僕の故郷にフォルテッシモを連れて行ってあげたみたい…
僕も、その場に居たかったな…
そんな思いが、胸の中で…渦巻いてる。
僕は瞳を細めて、ポンポンの柔らかい毛を撫でた。すると、パリスが、誰かの足音に首を伸ばして、顔をキョロキョロと動かし始めたんだ…
「豪…何してる…?」
「うるさい、あっちへ行けぇ。お前は、自分の行動の責任を取れない馬鹿だぁ。僕は、そんな馬鹿と一緒に遊ばない。だから、僕に話しかけないでぇ!」
僕は幸太郎さんの靴を見ながら、乱暴にそう言った。
そして、僕の顔を覗き込んでくる彼に、しかめっ面をしてポンポンの体に顔を埋めた…
「怒らないで…ごめんなさい…」
僕の隣に腰かけた幸太郎さんは、僕の足を撫でながら…何度もそう言った。
彼は、ずっと…ここに来ては、こうやって僕に謝り続けている。
もう、1カ月はそうしてる…
でも、僕は…幸太郎さんが嫌いなんだ。
だから、先生が許してあげな?なんて言ったって…ふん!って顔を背けて、無視してる!
「ねえ…。イリアちゃんは可哀想だったぁ…。何が面白いの、あんな事をして…あんな事を言って…どうしてあなたは笑っていたのぉ…?」
ポンポンのクルクルと渦巻く毛足を撫でながら、僕は幸太郎さんにそう尋ねた。
すると、彼はシュンと眉を下げてこう答えたんだ。
「…豪が、どうするのか…見たかったんだ…」
先生は、幸太郎さんを…子供のままの奴だと言った。
彼の理由を聞いた僕も、そう思った…。でも、それは、無礼の理由にはならないよ…
僕は顔を上げて、幸太郎さんを見つめながら…こう、聞いた。
「…ポンポンは僕におちんちんを剥いて、腰を振って来るぅ…。でも、駄目って言うと…もうやらない。あなたはポンポンと同じ…?それともぉ…」
「豪…大好き…」
幸太郎さんは…ポンポンよりも、自制心という物が欠如していた…
僕に覆い被さった彼は、そのまま…僕の体を撫でまわして僕の首に顔を埋めた。
「豪…セックスした事ある…?」
僕の瞳を見つめた幸太郎さんは、瞳を潤ませてそう聞いて来た…
だから、僕は体を捩って…彼を睨みつけて言ったんだ。
「…離してぇ!」
「気持ち良いんだよ…?豪と、したいんだ…」
やっぱり、幸太郎さんは…先生に、ボッコボコにしてもらうべきだと思う。
大体にして…先生は、簡単に許し過ぎるんだ!
今だって、簡単に幸太郎さんを家にあげて…自分は、書斎に入っちゃうんだもんね!
最近、いっつもそうっ!
電話が鳴るたびに、先生は書斎にこもって…モゾモゾと、小さい声で誰かと話してる。
「…ん、やぁあ!」
「ほら…豪のおちんちんを撫でてあげるから…気持ち良いって言ってよ。」
日本では、こんな事をしたら…暴行で逮捕される。
嫌がる僕の背中にしがみ付いた幸太郎さんは、僕を木の影に連れ込んで、股間を撫でまわした。僕は、必死に彼の手を解こうと、何度もひっかいて暴れたんだ。
だけど、幸太郎さんの執念は凄まじくて、僕はズボンの中に手を入れられてしまった。
「あぁっ…!やめてぇん!」
「あぁ…気持ち良いの…?足がガクガクしてる…」
僕のモノが彼の手に直に握られて…何度も撫でられて…腰が、震えて…息が荒くなった。
自分でするのと全然違う…堪らない気持ち良さに、うっかり…溺れてしまいそうだ。
「…勃起してるよ…?あぁ、舐めてあげたい。豪の、可愛いおちんちん、舐めてあげたい。」
耳に届くそんな言葉と幸太郎さんの吐息に、僕は、クッタリと項垂れて突っ伏した…そして、フルフルと震える自分の足を見つめて…眉を顰めた。
僕のズボンの中で、彼の手が動いているのが見えて…腰を強く抱きしめられる感覚に、脱力してしまいそうになる…
あぁ…気もちい…
「…ウ、ワンッ!」
そんなポンポンの鳴き声に我に返った僕は…咄嗟に、ポンポンが大事に持っていた骨のガムを手に握って、幸太郎さんの頭を思いきりぶん殴った。
「あイタ~!」
そう言って頭を抑える彼を蹴飛ばした僕は、そのまま大急ぎでテラスへ戻って…鍵を掛けた。
「はぁはぁ…はぁはぁ…!」
そして、凄い勢いで階段を駆け上がって…お風呂に入って…泣きながら体を洗った。
信じられない…
信じられない…!!
僕は、ちょっと触られただけなのに…すぐに、気持ち良くなって…イッてしまった…
「豪ちゃん…どうした…?」
もっと…しても良かった…
ゆらりと体を返した僕は、曇りガラスの向こうに見える先生のシルエットを見て、困った様に眉を下げた…
#24
「俺はファンサービスが過ぎる男だからね…。こんな贈り物をこさえてあげるんだ。…どう?イケてるだろ?まもちゃん。」
運転席に腰かけたまもちゃんにそう言うと、俺は買ったばかりのお高いすり鉢を膝に抱えて、満面の笑顔になった。
絶対、大喜びするに違いない…!
大事にすり鉢を両手で抱きしめながら、俺はあの子の賛辞の言葉を妄想して…グフグフと鼻を鳴らした…
「わぁ~!僕の大好きなほっくんのサインが付いてるぅ!」
とか…
「このすり鉢にはぁ、ほっくんの手垢が付いてるからぁ…僕ぅ、一生使わないで持ってるぅ~!家宝にするぅ~!代々まで祀るぅ~!国宝に登録して…守って貰うぅ~!」
とか…
「素晴らしいほっくんがくれたすり鉢で…ごまなんて擦れないよぉ!だって、輝いてるんだもぉん!虹の端っこは…きっと、このすり鉢なんだぁ。もう一つの虹の端は…きっと、ほっくん…あなたでしょう…?だって…こんなに美しいんだもん…!」
なんて言って…きっと、大喜びするに違いない…!間違いない…!
「うしし…うししし!」
「なぁに企んでるんだよ…。駄目だよ?豪ちゃんを虐めちゃ…」
運転席のまもちゃんが、そんな心外な言葉を口にしたから、俺は、首を横に振ってため息を吐いたんだ。
まったく、その逆だ…!
…俺は、あの子に良い事をするんだからね!
きっと…このすり鉢で…黒ゴマがびっしり付いたおはぎを作ってくれるんだ。
それとも、美味しい胡麻和えを作ってくれるかもしれない…!
あの子に会うのが…楽しみで、仕方が無いんだ。
いつもの様に、見慣れた道を通ってまもちゃんの店に帰って来た。
そして、2階に上がった俺は、早速、サインペンですり鉢の下に自分のサインを丁寧に書いてあげた。
「んふふ!見て見て~?」
上出来の仕上がりにご機嫌になった俺は、すり鉢をまもちゃんに掲げて見せた。
すると、彼は大きなスーツケースを広げながら、こう言ったんだ。
「北斗…荷造り!」
はぁ…面倒臭い!
「護がやって~~!」
俺は無責任にそう言い放って、ベッドの上でゴロゴロと寝転がった。
そして、すり鉢をお腹の上に乗せたまま、ため息を吐きながら荷造りをするイケメンを見つめた。
すると、まもちゃんは、タンスの中をゴソゴソと漁り始めて…こう聞いて来たんだ。
「パンツは…?」
だから、俺はこう答えた!
「2枚も持って行けば…豪ちゃんが洗濯してくれる!」
俺にジト目を向けたまもちゃんは、続けてこう聞いて来た。
「…着替えは?」
「2着も持って行けば…豪ちゃんが洗濯してくれる!」
俺が元気にそう答えると、まもちゃんはがっくりと肩を落として、残念そうな瞳で俺を見つめた。
そして、おもむろにベッドに腰かけると、俺の顔を覗き込んでこう言って来たんだ。
「…じゃあ、ボストンバッグひとつで済みそうだね…?」
ふふ!
だから、俺は彼の腰にしがみ付いて、こう言ったんだ。
「そうだね!荷物は少ない方が良い!」
でも、結局…まもちゃんはスーツケース1個と、ボストンバッグ1個の荷物を作った。
--
「先生…ちょっとだけ…してぇ…?」
浴室の扉を開いた僕は、目を点にして固まってしまった先生に、そう言った。
そして、勃起してしまった自分のモノを先生に見せつけながら、扱いてみせたんだ。
「はっ!はぁっ!!イケナイ!!イケナイデスヨ!」
突然、片言になった先生は、僕を無視して…お風呂場の扉を閉めてしまった…
だから、僕は…そのまま、お風呂場にしゃがみ込んで、オナニーした。
自分の手じゃ、あんなに気持ち良くならない…
だから、誰かの手が、欲しかったんだぁ。
「はぁはぁ…あっ…はぁはぁ…んん…!」
悲しい…?虚しい…?寂しい…?
分からないよ…惺山…
クッタリと…お風呂場の床にうずくまった僕は、手の甲に付いた…自分の精液を眺めて、そのまま寝転がった…
気持ち良かったけど…誰かにして貰う方が…もっと、気持ち良かった。
「…コンコン…コンコン…豪ちゃん…?」
先生は戻って来てくれた…
でも、僕は、もう、ひとりでイッてしまったんだ…
ガチャ…
お風呂場のドアを開いた先生は、あられもない姿で浴室で寝転がる僕を見て言葉を失っていた。
そりゃそうだよ…
だって、オナニーした後…そのまま寝転がってるんだもん。
「だ…大丈夫…?」
僕の下半身に小さなタオルを乗せた先生は、僕の顔を覗き込んでそう聞いて来た。
だから、僕は…瞳だけ動かしてこう答えたんだ。
「幸太郎さんが、僕を無理やり抜いたんだぁ…。そしたら、止まらなくなって…自分で、もう1回したの…。でも、他の人の手でやる方が、気持ち良かったぁ…」
そんな僕の言葉に、先生は何とも言えない顔をして…眉を顰めた。
そして、僕の顔を覗き込んでこう聞いて来たんだ…
「起き上がれる…?」
僕はムクリと体を起こした。そして、自分の手に付いた精液を先生に見せて、彼が頷いたから…お湯で流した…
先生に見守られながら体を流した僕は、ヨロヨロと体をふらつかせながら、服を着て…そのまま自分の部屋に入った。
そして、背後で僕を心配そうに見つめる先生を見上げて、こう言ったんだ。
「先生…?1回だけ、してぇ…?」
「はぁ…」
ため息を吐いた先生は、僕をベッドに座らせて…そのまま僕のズボンを下ろした。そして、大きな手で、僕のモノを撫でて、大きくして…握って、扱いてくれた。
「あぁ…!はぁはぁ…あっんん…気もちい…はぁはぁ…あっああ…!」
頭の中に電気が走ったみたいに…とっても、気持ち良かったんだ。
惺山と離れて以来…彼を思ってひとりでする事はあっても…僕は、こんな場所…誰かに触られる事なんて無かった。
ベッドに仰向けた僕に、先生はそっと寄り添うように一緒に寝転がって…僕の顔を覗き込んだ。その目つきが、その瞳の奥が、とってもいやらしくて…僕は、先生の髪を撫でながらこう言ったんだ。
「先生…お口でしてぇ…?」
すると、先生は困った様に眉を下げてこう言った…
「はぁはぁ…駄目だよ、先生は…純情だから…止まらなくなっちゃうからぁ…!」
なぁんだ…
仕方なく…僕は先生の唇に舌を這わせながら、こう言ったんだ。
「じゃ…じゃあ…はぁはぁ…僕に、キスして…」
堪らない快感は…誰がくれても、同じなのかな…
僕のモノを扱く手を震える両手で掴んで…クラクラにしてくれるキスを貰いながら…襲ってくる快感に、僕は体をのけ反らせて身もだえした。
「イッちゃう…はぁはぁ…イッちゃう…」
「…」
先生の胸に顔を埋めて…熱くて、強い体に抱かれたまま…僕は、彼の手の中でイッてしまった…
「はぁはぁ…はぁはぁ…」
気持ち良かった…
先生は彼のシャツをかじっていた僕の唇をそっと指先で外して、惚けてうっとりとした僕の瞳を覗き込んで、こう言って来たんだ…
「…豪ちゃん、先生は…外出するから、お留守番してて…。電話には出なくて良いからね…」
お出かけ…?
僕は、先生にパンツを穿かせて貰いながら、コクリと頷いて、荒い息遣いのまま返事をした。
「…はぁい…」
すると、先生は、そそくさと…僕の部屋から出て行ってしまった。
あぁ…気持ち良かった…
ベッドにうつ伏せになりながら、先生が玄関を出ていく音を耳に聞いて…僕はそっと瞳を閉じた。
久しぶりに感じた他人の体は、あったかくて、柔らかくて、良い匂いがした。
でも…僕だって、馬鹿じゃない…
こんな事したらいけないって…分かってる。
だから…もう、しない…
先生がいなくなったお家…
庭では、ポンポンがテラスでお昼寝をしていた。
僕はソファの背もたれに抱き付いて、そんな穏やかな景色をぼんやりと眺めた。
そして、ポツリと…こう呟いたんだ。
「惺山…ごめんなさい…」
我慢が出来なかったんだ…
項垂れたまま、ピアノに座って蓋を開いた。そして…鍵盤に指を落として弾き始めたのは…”華麗なる大円舞曲“…
いつの間にか…僕は、ピアノも弾ける様になってしまったの…?
でも、惺山…運指って大事だね。
頭の中で音楽が鳴っているのに…どこを弾けば良いのか分かるのに…
全然、指が付いて行かないや。
ベネチアの船着き場に…僕は、行けそうもない。
ピアノの上に置いたままのバイオリンをケースから出した僕は、毎日のルーティン…バイオリンの運指の練習を始めた。
頭の中では”華麗なる大円舞曲”が流れ続けている…だけど、僕は同じフレーズを何度も練習をして…指運びを体に叩き込んで行く。
「ターンタンタン…ターンタタン…ターンタンタン…タッタッタッター」
止まらない鼻歌を歌いながら、僕はバイオリンを首に挟んで…運指の練習をしながらクルクルと回って踊り出した。
ふたつの事を同時にするのは…そんなに難しい事じゃない。
「タンタララ…タンタララ…タンタララッタータタターラララ…ターラララ…」
ソファに乗って瞳を閉じて、ゆったりと体を揺らすと…まるで、あなたと踊ってるみたいだ。
ソファのせいでフワフワとおぼつかない足元は…あなたを見て、メロメロになった…僕そのものだと思わない…?
惺山…
とっても、会いたいよ…
あなたと一緒に、僕も、故郷へ行きたかった…!
パリスと、フォルテッシモと、あなたと僕で…湖までの道を歩こう…?
そして、耳に聴こえて来るポルカに合わせて…一緒に踊ろうよぉ…
「うっうう…!うわぁあん…!!せいざぁん…!せいざぁん…!」
寂しい…寂しいよ…
他人がくれる体の快感を思い出した僕は、あなたに抱かれたくて…おかしくなりそうだ。
#25
次の日の早朝…
俺は身支度を済ませて、同じ様に身なりを整えた素敵なまもちゃんに、こう聞いた。
「パスポートは…?」
すると、彼はショルダーバックからパスポートを取り出して、俺に掲げて見せた。
「ほい!」
ふふ…ウケる…
「じゃあ…行こうか…?」
まもちゃんと海外へ行くなんて…初めてだ。
軽井沢駅まで車で行って…その後、新幹線に乗った。
窓際の席に腰かけた俺は、寝てばかりいるまもちゃんの横顔を見つめながら、ヘッドホンを耳に付けて…森山惺山の交響曲を聴き込んでいた。
「第一楽章は切ないソナタ…そして、第二楽章は…不気味なマーチだ。第三楽章はマズルカのリズムが、タンゴに変わるなんて…エキセントリックな事が起きて…第四楽章は…タランテラのリズムに見合った…豪華で中毒性のあるメロディ…。面白い交響曲だ。俺は、好きだよ…」
感じる感覚を頼りにそんな事を呟いた俺は、瞳を閉じて…交響曲の美しいハーモニーにどっぷりと浸かって行った…
森山惺山…あなたは中々、センスの良い曲を書きなさる。
俺はすっかりこの主題の旋律に夢中だよ。
その曲の…顔とも言える、要ともいえる“主題”は、何度も曲の中に登場してくる物なんだ。それは、その曲のテーマと言っても過言では無い…核となる短い旋律だ。
もちろん…森山氏の、この“ぶっ飛んでる交響曲”にも、主題がちゃんとある。
なんとも軽やかで、そして可愛らしいんだ。なのに、短調に変調したり、重々しくなったりと、コロコロと表情を変えていく。
ふふ、まるで…誰かさんみたいな主題なんだ。
ん…?
ふと、口元に手を当てた俺は…ジッと目を凝らして…宙を見つめながら考え込んだ。
「…まさか…」
俺は、もう一度初めから曲を再生させて、第一楽章のソナタの中で繰り返される主題を注意して聴いた…
「…マジかよ…」
そして…思わずひとり、ポツリと呟いてしまった…
やっぱり…
やっぱり…そうだ…!
この…何度も繰り返される主題は、まるで、あの子みたいだ…
…これは…森山惺山の交響曲じゃない。
豪ちゃんの交響曲なんだ…!
その瞬間…俺は、全身に鳥肌が立って行くのを感じた…。
だから…森山氏は、元の旋律を変更してまでも、あの子のバイオリンを入れる事に拘ったのか…
だから、オーケストラのソリストに…あの子の大好きな…俺を指名したのか…
これは…この交響曲は…
「ははっ…!洒落てるっ!!」
思わず両手を叩いた俺は、驚いて目を覚ましたまもちゃんを見つめて、ケラケラと笑ってはしゃぎながらこう言った。
「なんて男なんだぁ!俺は、あの人が陰キャでも気に入ったぁ!!あははははっ!」
するとまもちゃんは、俺の頭をナデナデしながらこう言ったんだ。
「あぁ…そうですかぁ…。俺は嫌いだけど、北斗がそう言うなら…ファ~~…好きにすれば良いよぉ…むにゃむにゃ…」
そして、彼は再び、眠りについた…
俺は、あまりの興奮に、口元を抑えたまま…呆然としてしまった。
だって、これは…豪ちゃんへのメッセージが込められた交響曲なんだ。
情景の読めるギフテッドのあの子にだけ、伝わる様に作られている…
あの子に向けての…交響曲なんだ。
あぁ…!
「…最高に、イケメンじゃん…」
「ん…?呼んだ…?」
ポツリと呟いた俺の“イケメン”という言葉に、まもちゃんが反射の様に反応した。
だから、俺は彼の頭をポンポンと撫でて、再び、深い眠りにつかせてあげたんだ。
森山さん、どうして…?
どうして、こんな事をしようと思ったの…?
ニヤニヤとニヤけてしまう口元を取り繕う事もしないまま、俺は、もう一度初めから交響曲を再生させた。
この曲の本当の意味を理解すれば…俺は、もっと、あのソロを…上手く弾ける気がするんだ。
それに…ここに、どんな思いを込めているのか、知りたいじゃないかぁ…!
まるで、ラブレターの覗き見をしているみたいに…ワクワクして来ちゃったもんね!
うしし!
しかし、第一楽章のソナタで…そんな思いは、簡単に頓挫した。
だって、こんな切ない旋律を、俺は豪ちゃんから感じないんだ。
第二楽章だってそうさ…
不気味に同じテンポを刻むマーチの上に…不規則なバイオリンが独特のハーモニーを紡ぎ出して行くんだ。
それは、まるで調和を見せる様で…どことなく不協和音を奏でてる…
「はぁ…分からないな…」
俺は、首を傾げながらため息をついて、窓の外に視線を移した。
すると、遠くを飛ぶトンビの親子が気持ち良さそうに翼を広げて、上昇気流に乗って高くまで上がって行くでは無いか…!
「わぁ…」
ピーヒョロロロロ…なんて、可愛い鳴き声を出すんだよな…
見た目に寄らず…可愛い鳴き声なんだ。
まるで、森山氏の様だな…
陰キャで無愛想…なのに、こんな洒落た事をする…
きっと、豪ちゃんには…もっと、甘くて、優しい顔を見せる事だろう。
ふふ…そんな彼を、見てみたいな…
クスリと笑った俺は、耳に届く音色に聴き入る様に…そっと瞳を閉じた。
第二楽章のバイオリンは、規則的に進行していくマーチの旋律に、近付いて行ったり…追い越してしまったり、遠のいて行ったり…と、不協和音とハーモニーを交互に繰り返している…。
それは、まるで…プロのマーチングバンドの隣を、真似して歩く…子供の様に見えた。
「ん…?!」
咄嗟に瞼を開いた俺は、眉間にしわを寄せながら、耳の奥に流れ続けるマーチを注意深く聴き込んだ。
必死にマーチに追いすがるバイオリンの音色は…子供じゃない…
あの子自身…
「あぁ…そうか…そう言う事なのか…」
ポツリと呟いた俺は、目頭が熱くなって行くのを堪えられずに…ほろりと涙を落とした。
規則的に刻まれるマーチは普通の人たちだ。そして…そこに必死に食らい付いていのが、豪ちゃん…。
遅れまいと、離れまいと、マーチに合わせて…必死に、不協和音を奏でてる。
…あの子は、生き辛かったんだ。
「まもちゃん…」
「ん?着いた…?」
俺は、大きなまもちゃんの体にもたれかかって、ヘッドホンを外した。
そして、彼の腕の中にもぐりこんで、温かい胸に顔を埋めながら、彼の左手を自分の手の中に入れたんだ。
「ギュってしてて…」
そして、そう言って…そっと瞳を閉じて…こぼれる涙を彼の胸に沁み込ませた。
--
「今日は…この前会った…カルダン氏のお屋敷へ行くよ…。彼の他に…お金持ちが来ている。豪ちゃん?北斗に言われたと思うけど…」
先生は、鏡を見つめて蝶ネクタイを直しながら、僕を横目に見てそう言った。だから、僕は、大きく伸びをしてこう答えたんだ。
「うん!誰にも、何も、言わないよぉ?」
先生は、僕のオナニーを手伝ってくれた…
でも、僕も、先生も、あの時の事は…話さないでいる。
何事も無かった様に、いつもの様に…仲良くしてるんだ。
「先生?…この車って、ポルシェって言うんだねぇ?」
先生の車の助手席に乗った僕は、運転席に腰かけた先生を見て、そう言った。
すると彼は、ルームミラーでしきりに蝶ネクタイを直しながら、僕を横目に見てこう言ったんだ。
「…良い?俺の傍を離れないで。この前の様に…フラフラとどこかへ行っちゃ駄目だ。良いね?」
先生は…ピリピリしている。
それは…1カ月くらい前から、ずっとだ…
「はぁい…」
僕は、先生を見つめて、首を傾げてそう言った。ついでに、彼の蝶ネクタイを掴んで、根元からねじれを直してあげたんだ。
「はぁい…綺麗に真っすぐになったよぉ…?」
僕は、先生の胸を撫で下ろしながら彼を見つめてそう言った。すると、先生は涼しい顔をして、こう言ったんだ。
「…こりゃ、どうも…」
カルダンさん…
僕は、“エリちゃん”って呼んでって言われている…
その人は、日本語の達者なフランス人のイケオジだ。
聴き手…だなんて言って、僕は彼の為に予想屋の様な事をして…嫌な思いをした。
誰かの主観で、人の価値は決められない…
そんな綺麗事を言ってる癖に、僕は、自分の主観で…誰かの価値を決めた。
僕にとっては、あんまり…良い思い出の無い人だ。
「…着いたよ。」
ぼんやりと窓の外を眺めていた僕は、そんな先生の声に、顔を前に向けた。
「わぁ…!ベルッサイユの薔薇みたいなお屋敷だねぇ…?」
目の前に広がった光景に、僕は目を丸くしてそう言った。すると、先生は車を停めて…僕の手をそっと握って、念を押すみたいにこう言ったんだ。
「豪ちゃん…俺の傍に居るんだよ…」
「はぁい…!」
先生の眼鏡の奥を見つめて、僕は、キリッと返事を返した。
でも、先生はため息を吐きながら首を横に振って…こう言うんだ…。
「はぁ…心配だ…」
先生は、僕がフラフラとどこかに行くんじゃないかって…とっても心配みたいだ。
それもそのはず…!
エリちゃんのお家は、バカでかかった…!
「迷子になったら…出て来れないかもしれないねぇ…?」
車を降りた僕は、見た事もない立派な建造物に、首を伸ばして上を見上げた。
そして、先生と手を繋いで…中へと入って行ったんだ。
「豪、いらっしゃい。君に会えるのを楽しみにしていたんだよん。」
エリちゃんは、満面の笑顔で僕たちを出迎えてくれた。
でも、やっぱり…相変わらず、語尾に“よん”を付けていた。これは、もしかしたら、彼に日本語を教えた人の口癖かもしれない…
そんな事を考えていると、先生がフランス語でエリちゃんと話し始めた。
だから、僕は、彼の声を耳に聴きながら、辺りを見回して…聴こえない様にため息を吐いたんだ。
モヤモヤが見えるかもしれないから、僕は、人が大勢集まる所が…嫌なんだ。だから、こんなパーティーのような場所に来るのは、少し…怖い。
華美に着飾った大人たちは、今日も賑やかで楽しそうだった。
案内された大きな部屋の中には、ドレスやスーツを着た大人がワインを片手におしゃべりをしていた。天井から垂れ下がったドレープの効いたカーテンは、美しい刺繡を見せつけて来るというのに、僕の気持ちは浮かなかった…
まるでここだけ別世界の様に、平日の午前中から大人たちはお酒を飲んで、楽しそうに笑っている。
僕を見つけてヒソヒソと話す人や、胸に手を当てて…期待する様に見つめて来る人。携帯電話を耳にあてたまま、僕をじっと見て来る人に…ゲラゲラと、豪気に大声で笑う人…
そんな大人の様子に眉を顰めた僕は、そっと先生の手を握って、彼を見上げて言った。
「なぁんか…嫌な雰囲気だねえ…?」
「そうだね…」
そう答えた先生の右手には…惺山のバイオリンケースが握られている。
きっと、僕は、ここでバイオリンを弾く事になるんだ…
嫌…?
嫌だ…こんな大勢の前で弾きたくないよ…
でも、先生が言うのなら…僕は、多分、弾くだろう…
先生と握った手をブラブラと揺らした僕は、観念する様にため息をひとつ吐いた。
すると、彼は、僕を見下ろして、とぼけた顔をしながら顔を寄せて来たんだ。
そして、小さな声でこう言った。
「このバイオリン…実は、中身は空っぽなんだ…」
「ん…?!」
目をまん丸くした僕は、先生を見つめて思わず吹き出して笑った。
「ふふっ!どうしてぇ?」
ケラケラ笑った僕に、先生は瞳を細めてこう言った。
「…だって、嫌だろ?」
あぁ…ふふぅ!
「うん。嫌だぁ…!」
そう言って彼の腕に頬ずりした僕は、クスクス笑いながら天井に描かれた壮大な絵を眺めて瞳を細めた。
僕は、先生の機転により、いよいよバイオリンを取り出そうとした時、あれぇ~!忘れちゃったぁ!なんて小芝居を打って…彼らの前で演奏する事態を免れた。
弾きたくない…?
弾きたくないよ…
自分がバイオリンを上手に弾けるという事を、僕は忘れてしまいたいんだ。
ギフテッドなんて…糞くらえだ。
上手く弾けるからって、人よりも優れているなんて…傲り昂る様な者になりたくない。
そして、そんな者を、さも素晴らしい者の様にもてはやす人たちも…嫌いなんだ。
「めたくそ、怒られてたねぇ…?」
運転席に腰かけた先生の顔を覗き込んで、僕は首を傾げてそう言った。すると、彼は、僕の鼻をチョンと叩いて、ニッコリ笑いながらこう言ったんだ。
「あぁ…怖かったぁ!」
ふふぅ!
お馬鹿さんだ。
僕が舞台から降りた後…先生は、凄い剣幕のエリちゃんにフランス語で罵られていたんだ。でも、彼は…飄々とした顔で、そんな罵倒を軽く受け流していた…
きっと、僕のバイオリンを招待した人たちに聴かせられなくて…エリちゃんは恥をかいたんだ。
だから、先生を怒った…
でも、僕は…見世物でもないし…エリちゃんの為にバイオリンを弾きたかった訳でもない。なのに…怒るなんて…どうかしてるよ。
惺山…?
先生は、僕にとっても優しくしてくれる。
視線を落とす僕の為にずっと手を繋いでいてくれるし、体に寄り添わせてくれる。そして、僕を見たがる大人から…隠す様に守ってくれる…。
それは、うっかりと、甘えすぎてしまう程に…心地良いんだ。
でも、そんな思いは…あっという間に、覆る事になった。
先生のお家に帰った僕は、出かける前に仕込んだ手作りのうどんを茹でて、お昼ご飯に出したんだ。先生には、ホウレンソウと卵のトッピングを乗せてあげて…僕のうどんには、モリモリのネギを投入したんだ。
そして、先生がひとりで出かけた後…僕は、いつもの様にピアノの上に置きっぱなしのバイオリンを手に持って、ソファの上で運指の練習をしていたんだ。
誰もいない部屋の中…僕は、ソファに寝転がりながら、ダラダラと指を動かし続けたんだ。
先生の書斎からは、ずっと、電話の音が聴こえてる…
最近ずっとそうなんだ。
だから、僕は慣れたみたいに…気にならなくなった。
「ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アッハァ~ン!キャッキャッキャッキャ!」
僕がこれを言うと、先生は眉間にしわを寄せる。
でも、僕は…これが気に入ってるんだぁ。
惺山にも教えてあげたいな。
指を動かしながら、弾く音色に耳を澄ませて…僕は先生の嫌がるドイツ語の音階の読み方を何度も繰り返して、声に出して言っていた。
すると、ガチャリと玄関の扉が閉じた音が耳に聴こえた…
「おやおや…初めまして。」
そんな、知らない人の声に…僕は寝転がったまま…顔をあげて先生を見つめたんだ。
そして、すぐに…彼の後ろにいる男性を見つめて、首を傾げた。
すると、先生は、僕に手を差し出して…こう言ったんだ。
「豪ちゃん…君は、私の手には持て余す逸材だ…。今度から、この先生に…ご教授頂きなさい。」
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