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#30
「パリス…ポンポン…ご飯をどうぞ~?」
朝起きて…身支度をして、まもちゃんと一緒に部屋を出た…。すると、こんな声と共に…良い匂いが階段の下からして来たんだ…
グゥ~~~~!
お腹の鳴った俺は、クスクス笑うまもちゃんを無視して…彼と一緒に階段を下りた。
「あぁ…ほっくん。おはよう…?ん、もう…先生の所に来るなら…早く言ってくれなきゃ、僕は…ちゃんと用意が出来ないじゃないの…。ん、もう…」
キッチンで朝ご飯を用意する豪ちゃんは、口を尖らせてため息を吐きながらそう言った。
…おばちゃんだ。
やっぱり、菅野さんの奥さんに似てる…
俺は確信しながら、まもちゃんを横目に見た。でも、彼は…豪ちゃんが用意する朝ご飯の方に興味がある様で、じっとあの子の手元を見つめながら瞳を細めていた。
「あぁ…上手に切るね…?」
「ん、まもるは、あっちへ行っててぇ…?」
「ぷぷっ!」
追い払われてやんの…!
顔を歪めて変顔をするまもちゃんに笑った俺は、豪ちゃんを見てこう言った。
「豪ちゃん、コーヒーちょうだいよ…ブラックで…」
「はぁい…」
そんな気の抜けた返事を背中に聞きながら、テラスへと向かった。そして…椅子に腰かけて畑を眺める理久の背中にこう言ったんだ。
「…おはよう。」
「あぁ、おはよう…」
昨日の男前が嘘の様に…彼は、すっかり落ち着きを取り戻して…草食系のスナフキンに戻った様だ。
「コッココココッコココ…!」
足元にパリスがやって来て、知ってる顔の俺に挨拶をする様に体を擦り付けた。そんな鶏にドン引きしながら、俺は理久のテーブルに一緒に腰かけて、朝の気持ちのいい空気を鼻から吸った。
「はぁい…ほっくん、どうぞ…」
ちょうど良いタイミングで、コーヒーが出されて…絶妙な良い香りを届けてくれるんだもん。やっぱり、この子は…タイミングを心得てる。
「ん…ありがとう。」
部屋の中では、まもちゃんが相変わらず…しつこく豪ちゃんの朝食作りを見学中だ。
そんな彼を鬱陶しそうに横目で見ながら、豪ちゃんは手際よく、お皿に盛りつけをしてる…
「はぁ…。やっぱり、あの子は…あそこにいないとね。落ち着かない…」
俺は、ため息を吐いて、首を横に振りながらポツリとそう言った。
すると、理久は、キッチンの豪ちゃんを振り返って…瞳を細めて微笑んだんだ。
あぁ…この、変態は…
そんな呆れる気持ち半分…と、仕方が無いと同情する気持ちの半分だ…
豪ちゃんは、どんなに愛しても…森山惺山の天使だからな。
「後で…あの子に“ラ・カンパネラ”を聴かせてみようかな…」
クスクス笑って俺がそう言うと、理久は口元を緩めて微笑みながら…こう言った。
「…“シシリエンヌ”を聴かせてあげてよ…。あれが、好きなんだ…」
「師の頼みだ…仕方ない…」
俺はそう言って、理久に、にっこりと笑った。すると、彼は、嬉しそうに笑い返して…畑に目を移した。
「きゅうりの浅漬け…ちょっと、漬かりが甘いけど…召し上がれ?後…このお野菜はぁ…お味噌汁にちょうど良かったの…。それと、パリスと…他の鶏の卵が混じった卵焼きだよぉ?これは…昨日、まもるが焼いたけど…誰も食べなかった白身魚。煮つけにしたら…バターと風味が合って、美味しくなったの。」
手際よくお茶碗を並べて…豪ちゃんがそう言った。
すると、まもちゃんは突然、クスクス笑って…肩を揺らし始めたんだ。
絶対、おばちゃんみたいだって…思ったんだ!
小刻みに震えるまもちゃんの体を感じながら…俺は甲斐甲斐しく理久を世話する豪ちゃんを上目遣いに見て…あの、老夫婦のやり取りを期待した。
すると、そんな機会はすぐに巡って来たんだ…
理久の隣に座った豪ちゃんは、彼の顔を覗き込んでこう言った。
「ん…先生?今日は髭を剃ってね…?」
そんな豪ちゃんの言葉に、理久は自分の無精ひげを撫でながらぼんやりと言った。
「…あぁ。そうかぁ…」
すると、豪ちゃんは全く別の方向を見ながらこう言ったんだ。
「…そういえば…ポンポンの骨型のガムが無くなっちゃったんだぁ…また買いに行く?そうだぁ…この前、朝市で、牛の骨が売ってたんだぁ…。こんなにおっきいの!」
両手で大きさを表現するあの子を横目に見た理久は、ご飯を食べながら鼻で言った。
「…へぇ…」
畳みかける様に…きゅうりの漬物を箸に摘んだ豪ちゃんは、理久の口に運んで、首を傾げて言った。
「ねえ?この漬物…どう…?」
そんなきゅうりを口の中に入れた理久は、首を傾げて優しく微笑んでこう言った…
「…ん、美味しい…」
「…ぶほっ!ゴホッゴホッ!」
「あぁ!まもる。大丈夫…?お茶をどうぞ…?」
盛大に米を吹き出したまもちゃんは、そのままの勢いで咳き込み始めた…
すると、眉間にしわを寄せた理久とは対照的に、豪ちゃんは、慌てて、まもちゃんの背中を叩いて、お茶を差し出してくれた…
「…はぁはぁ…だ、大丈夫だよ。豪ちゃん…」
顔を真っ赤にしたまもちゃんは、そう言って…背中を叩き続ける豪ちゃんを振り返った。すると、豪ちゃんは眉を下げながら…こんな事を言って…席へと戻って行った。
「年を取ると…嚥下障害って言って、飲み込んだ食べ物が逆流してくるんだって…。まもるも、気を付けた方が良いよ…?しっかり噛んで、牛みたいに…何度も何度も…胃の中から逆流する食べ物を…咀嚼して、飲み込んで…また、吐いて…」
「豪ちゃん、汚いからやめてよ…!」
俺は眉間にしわを寄せて、あの子のそんなデリカシーの無い話を止めた。すると、感心する様に頷いていた理久は、そそくさと卵焼きを食べ始めて、年寄扱いを受けたまもちゃんは、いつもよりも多くご飯を噛む様になった…
「ふふぅ…ごめんなさぁい…」
ヘラヘラ笑った豪ちゃんは、並んでご飯を食べる俺とまもちゃんを見つめて、瞳を細めて笑った。
良かったね…
そんな…あったかい言葉が聴こえて来そうな、そんな笑顔だった。
「じゃあ…俺が弾くから、真似出来るかやってみようぜ…?お手並み拝見だ!」
朝食が済んだ俺は、ピアノの前で豪ちゃんを振り返ってそう言った。すると、あの子は、洗い物をしながらこう言ったんだ。
「みんなにお茶を入れてからねぇ…」
はぁ…?!
俺は、豪ちゃんの耳コピが見たいんだ…!
だから、じれったくなって怒って言った。
「今すぐだぁ!」
「ん…もう…」
ん、もう!じゃない…!
本当に、そんな事が可能だったら…それはある意味…残酷な奇跡だ。
一曲にどのくらい…費やすと思う…?一曲にどのくらい…没頭すると思う…?
お前が、望んで得たものじゃない物だなんて…分かってる。
だから、責めるつもりなんて…無いさ。
でも、そんな…残酷な奇跡があるとしたら…俺は、見ておきたいんだ。
「はぁい…まもる、どうぞぉ…?先生は…緑茶で良かったぁ…?」
「ん…ありがとう…」
「あぁ…豪ちゃん、どうもありがとう…」
テラスに座った理久と、ソファに座ったまもちゃんにお茶を出し終えた豪ちゃんは、ダイニングテーブルに置いたティーカップに紅茶を淹れて、俺を見て言った。
「ほっくん、レモン入れるぅ…?」
「ぶぶっ!あ~はっはっは!!」
俺がイライラしてピアノの前で待っているというのに…
あの子の、そんな、素っ頓狂な言葉に…まもちゃんが吹き出して大笑いした。
「良いから!も!早くしろよっ!」
「ん…でもぉ…レモンを切ったから、入れておくねぇ…?」
豪ちゃんはそう言って俺の紅茶にレモンを投入すると、キャッキャと体を揺らしながら駆け寄って来た。
「ほっくん、僕に…”シシリエンヌ”を弾いて聴かせてよぉ…!僕は、ほっくんの”シシリエンヌ”が大好き!美しくて…儚くて…胸がギュって、締め付けられるんだぁ…!」
ふん、どうだ…
ソファで俺を伺い見るまもちゃんを見つめた俺は…豪ちゃんの賛辞の言葉を受けながら、ドヤ顔をして見せた。すると、まもちゃんは笑いを堪えながら…深く頷いて…親指を立てて見せた。
そうだろう…?この子は、俺のファンなんだ…!
「仕方が無いね…天使の頼みだ…」
口元を緩めて笑った俺は、ピアノに腰かけた豪ちゃんに向かい合って立った。
そして、バイオリンを首に挟んで…あの子を見つめて小さな声で言った。
「…お前のお陰で、少し…楽に生きられそうだ…」
そんな俺の言葉に首を傾げた豪ちゃんは、にっこりと微笑んで足を揺らした。
弓を美しく掲げた俺は、豪ちゃんの為に…”シシリエンヌ”を弾いた。
これは…俺の為にお前が弾いてくれた…”愛の挨拶“のお返しだ。
「あぁ…!」
まん丸の目を見開いた豪ちゃんは、両手を胸に当てて…満面の笑顔で俺を見つめた。だから…俺は、いつもよりも…もっと、もっと…情緒を込めて美しく弾いてあげた。
褒められると、俺は伸びるんだ…
「素敵…!!素敵すぎる…!」
そんな天使のお褒めを受けながら…俺はシシリエンヌの旋律を、丁寧に…繊細に、あの当時の…切なくて、苦しくて、愛しくて…堪らない気持ちと一緒に…音色に乗せて弾いた。
豪ちゃん、俺の情緒を感じる…?俺の…思い描く情景が、見える…?
伏し目がちに瞳を開いた俺は、目の前で…ボロボロと泣くあの子を見つめて、一緒になって…涙を落した。
「…ほっくんは、美しい人だ…」
「いいや。俺は…美しいと、可愛いが、半々の男なんだ…」
俺を見上げながら、いつまでも泣き止まない豪ちゃんを見下ろして…俺はそう言って、あの子の頬にキスをした。
テラスでは、理久がメソメソと泣きだして…ソファに座ったまもちゃんは、こんな俺を見つめて、瞳を細めて微笑んでいた。
--
「ほら!次は…お前の聴いた事の無い曲を披露しよう。俺が弾いた後、お前が弾くんだ…良い?」
僕の胸が…震えてる…!
ほっくんの美しいバイオリンの音色が…僕の胸を振るわせて止まらないんだ…
「ま、待ってぇ…まだ、まだ…フルフルするからぁ…」
胸を押さえてそう言っても、ほっくんは僕の話なんて聞いてくれないんだ。
バイオリンを首に挟んだ彼は…僕を見下ろして眉を顰めた。
でも、そんな表情まで…神々しいまでに、美しいんだ…!
「うっうう…神様ぁ~!惺山を助けてぇ!バイオリンの神様ぁ!彼を助けてぇん!」
僕は、ほっくんにしがみ付いて泣きながらそう言った。
すると、ほっくんは苦笑いしながらこう言った…
「やめろ!」
うう…
おずおずとピアノの椅子に戻った僕は、涙を拭いながら…ほっくんを見上げた。
すると、ほっくんはため息を吐きながら僕を見て言った。
「…“ラ・カンパネラ”は…?」
「知ってる…惺山が弾いてくれたぁ…リストの曲。彼は…“ため息”って曲が好きなの…。いつも、聴かせてくれたぁ…。」
僕は、グスグスと鼻を啜ってそう答えた。すると、ほっくんは、首をひねってこう言った。
「…じゃ、スラブ舞曲は…?」
「知らなぁい!」
僕は、体を揺らしてそう答えた。
優しく笑ったほっくんは、首に挟んだバイオリンを持ち直して…右手に掲げた弓を美しく弦に下ろして…素敵な曲を紡ぎ始めた…
「あぁ…」
それは、得も言われぬ音色だった…
耳の奥を震わせる心地良いバイオリンの音色は、まるで…パステルカラーの色が付いた帯の様に…僕の体の周りをグルグルと包み込んで行くんだ。
「うわぁ…!」
目を丸くした僕は、ピアノの椅子に膝立ちをして…そんな音色の帯に手を伸ばした。
微かに触れる柔らかい感触に瞳を細めて、うっとりと体を揺らすと…ほっくんが僕を見つめて言った。
「…何してる…?」
「ほっくんの音色が、柔らかくて、気持ち良いから…触ってたぁ…」
表情を固めたほっくんは、素敵な曲を弾き終えて、弓をバイオリンから離した。そして、僕を見上げたまま、こう言ったんだ。
「…弾いてみて?」
「ん、分かんなぁい!」
本当だよ…?
あまりに心地良過ぎて…僕は、メロディを聴いてなかったんだ。
揺れる様な…陽だまりの中のゆりかごみたいな…そんな、心地の良い曲だった。
「あ…」
ゆらゆら揺れて余韻を楽しんでいると…ふと、ほっくんの弾いた曲が、頭の中に流れ始めた。だから、僕は、ピアノの上に置いたバイオリンを手に持って、首に挟んだ。
そして…頭の中で聞こえる音と同じ様に…一緒に合わせて弾いてみたんだ。
あんなに、上品で、うっとりする様な音色は出せない。
でも…頭の中で聞こえる音をなぞって弾くと、僕の体が音色の振動で震えて…とっても、気持ちが良いんだ。
「はぁ…素敵だぁ…」
瞳を閉じて、ほっくんのバイオリンの音色を辿った僕は、うっとりと体を揺らしながら、聴かせてもらった…”スラブ舞曲“を弾いた。
「なる程…」
ポツリとそう言ったほっくんは、フラフラする僕の体を弓で叩いて直した。そして、こう言ったんだ。
「…豪ちゃん、もう一度。今度は、俺も一緒に弾こう…。ただ、俺の音色につられるな。」
ほっくんがそう言ってバイオリンを首に挟むから、僕はにっこりと頷いて、もう一度初めから…”スラブ舞曲”を弾いた。
「あぁ~!んふぅ~~~~!キャッキャッキャッキャ!」
僕は、すぐに嬉しくなって目を見開いた!
だって…ほっくんが僕の音色に合わせて…ハモる様にメロディを弾いたんだ…
それがトロけてしまうくらい…気持ち良くて、僕は、すっかり楽しくなって…そして、同時に、美しい彼に…うっとりとしてしまった。
「ん、勃起したぁ!」
「ぶほっ!!」
まもるが僕の言葉に吹き出した。
でも、ほっくんは真剣な目のまま…僕をじっと見つめて来るんだ。そんな彼の瞳を見つめた僕は、うっとりと瞳を細めて…彼の弾く美しい音色を壊さないように…ゆったりと、羽を休める…優雅な白鳥の情景に合わせて…曲を弾き終えた…
「まもちゃん、俺はちょっと…新しい試みをしようと思う。この子を、少し、2階で抱いて来るわ。」
ほっくんはそう言って、バイオリンをピアノの上に置いた。そして、僕の手を掴んで階段を上がり始めたんだ。
すぐにまもるによって制止されたほっくんは、僕を見たままこう言った。
「…お前は、天使だ…!」
バイオリンの神様に、天使の認定を受けた僕は、初めて得た使命感に…コクリと頷いた。
「理久!ヤバいぞ!この子と合奏すると…!セックスしたくなるっ!」
ほっくんは、そんな卑猥な事を言いながら、テラスで演奏を聴いていた先生の元へ駆け出した。
僕は、未だに高揚する気持ちを抑えきれないで…股間を抑えてもじもじと体を揺らした…
「んん…勃起しちゃったぁ…困るぅ…」
「ご…ご、ご…豪ちゃん…。どれ、経験豊富な…まもちゃんに見せてみなさい…」
優しいまもるがそう言って僕の顔を覗き込むから、僕は立ち上がって…勃起した股間を見せてみた。
「はぁ~~~!」
「ん…は、恥ずかしいぃ…」
両手で熱くなった顔を隠した僕は、まもるの好奇の視線にドンドン興奮してくる股間を抑える事が出来なくなって行った…
「あぁ…ん!もっと…もっと、おっきくなっちゃったぁん!ばっかぁん!」
まもるを押しのけて…僕は、先生の元へ駆け出した。すると、ポンポンが僕に飛びついて…いつもの様に腰を振った。
「ん、ポンポン!めっ!」
そんなポンポンの様子に…昨日の、幸太郎を思い出した僕は、眉を顰めて…いつも以上に声を荒げてしまった…
ポンポンは悪くないのに…ごめんね。
畑の見回りを済ませた僕は、お茶うけ用のお菓子をこさえてオーブンに入れた。
「何作るの…豪ちゃん?」
まもるは、僕のお料理に関心が強いみたい…
顔を覗き込ませるから、僕は肩をすくめて言った。
「パイ生地を作って…チュロスみたいにしたんだぁ。それを揚げるんじゃなくって…シナモンを振って、オーブンで焼くの。オレンジの皮も入れたから…お茶うけに良いでしょ?」
「はぁ~~!やんなるね!やんなるよ!」
僕は、まもるを“やんなる”様にしたみたいだ…
だから、僕は、首を横に振って嫌がるまもるに、こう言ったんだ。
「スノーボールも作るよ…?サクッとして…フワッとトロけるから…コーヒーに合うんだぁ。うちの兄ちゃんは、何個も口の中に入れて…ふふっ!喉を詰まらせてた!」
兄ちゃんは、せっかちなんだ…
あぁ、今頃…何してるかな…?
「豪ちゃん!良い匂いがする!何焼いてるの?お腹、空いた…!お腹空いたぁ!」
ほっくんは、食いしん坊。それは僕よりも、ずっとずっとだ!
「クッキーだよぉ?小麦粉をふるいにかけて…常温に戻していたバターと少しのお砂糖を使おう…後はぁ、はちみつと…アーモンドの粉ぁ…」
材料をボールに混ぜ込んだ僕は、オーブンの様子を覗き込むまもるに聞いた。
「どう…?」
「ん、もう少し…」
まもるはコックさん。
だから、こんな時…力強い助っ人になってくれる。
「昨日のタラは、とっても綺麗に焼けていたぁ。どうやってあんなに綺麗な焼き目を付けるのぉ…?」
ほっくんが目をランランと輝かせて見守る中…僕は生地を丸くしながら鉄板に乗せて行った。そして、オーブンからチュロスの乗った鉄板を取り出すまもるに、そう聞いたんだ。すると、彼は、シナモンの良い香りを、クンクン嗅ぎながら教えてくれた。
「弱火で…じっくり…魚を焼く時の基本だよ?焦ったら駄目なんだ…。ジワ…ジワジワ…ジワジワジワ…って、焦らされて…焦らされて、興奮して行くんだ!」
へぇ…
「そう…」
まもるにちょうど良いお皿を手渡した僕は、彼が、ほっくんにチュロスをつまみ食いさせるのを横目に見ながら、スノーボールの鉄板をオーブンに投入した。
「んぁ~~!美味しい!ん、もう…!豪ちゃんは、俺のお菓子係だな…!」
体を捩って喜ぶほっくんを見つめた僕は、ケラケラ笑ってこう言った。
「僕も、ほっくんとエッチがしたいよぉ!」
「ぶほっ!!」
だって、とっても…綺麗だったんだ。
先生が、ずっと好きなのも頷ける。
神様だって思うくらい…バイオリンを弾くほっくんは、美しくて…神々しかった。
「そうだな。いつかしよう…」
「はぁい…」
スノーボールは、あっという間に焼けるんだ。
オーブンから取り出して冷ます間…ほっくんが、つまみ食いして行くのを横目に見ながら、僕は、綺麗な紙のナプキンを用意した。
「…包むの?」
「ふふ…うん。」
まもるは、本当に…僕のお料理が気になるんだ。
クスクス笑った僕は、スノーボールをひとつ摘んで、顔を覗き込ませるまもるの口へ運びながら聞いた。
「仕上げに、きな粉をまぶそうと思ってるんだぁ…。ねえ、どう思う…?」
僕の指からスノーボールをパクリと食べたまもるは、瞳を細めて言った。
「…良いね。」
そんな答えに満足気に微笑み返した僕は、きな粉を振るいの中に入れて、トントンと叩きながら、スノーボールにまぶして掛けた…
#31
「じゃあ…出かけて来るねぇ?」
可愛い紙ナプキンに可愛く包んだ…焼き立てのお菓子。
そんな物を籠に入れて…豪ちゃんは動物を引き連れて、どこかへ出かけた。
…あの子は、俺のバイオリンを一度聴いただけで本当に弾ける様になってしまった。
それを、俺は…予想外にも、自然に受け止めた。
どうしたのか…
俺の音色を撫でたと言った…あの子の指の先に、微かに見えたんだ。
パステルカラーに彩られた、自分の音色の帯が…見えたんだ。
その光景が…あまりにも衝撃的で、その他の事を疑問に思わなくなったみたいだ。
「行ってらっしゃい…!豪ちゃん!帰ったら、一緒に、煮込み料理の下ごしらえをしようね!絶対だよっ?絶対だよっ?」
「はぁい…」
まもちゃんは、すっかり、豪ちゃんの料理の手際よさと、調理慣れしている様子に…感動している。
それは、軽く、豪ちゃんが嫌がる程に…過剰だ。
きっと、そのうち…あの子に逃げられる事だろう…
「豪ちゃんの音色は、ヤバい…」
バイオリンの合奏を終えた俺は、鳥肌を立てたまま…テラスに座った理久にそう問いただした。すると、彼は首を傾げてこう言ったんだ。
「豪ちゃんは、自分の情景を叩きつけて来るんだ。それは…ある意味、暴君の様に、相手を屈服させてくる。…でも、北斗には…そうしなかったね?ふふ…尊敬してるからかな…?」
屈服…?暴君…?
確かに、あの子の”きらきら星“を聴かせてもらった時に、俺はそう感じた。そして”愛の挨拶“を聴いた時もそうだ…心の奥に…強引に入って来るんだ。
でも、今日の演奏から、そんな物騒な物は、微塵も感じなかった。
ただ、そっと寄り添って…ただ、美しく漂って…
“スラブ舞曲”を弾きながら思い描く俺の情景の中に…キラキラと、舞い散る、雪を降らせたんだ…
こんな感覚、初めて味わった。
そして、同時に思ったんだ…
音楽って、素敵だなって…楽しいなって…
それは単純で、しかも、理屈じゃない…自然と湧き上がって来る喜びだった。
「…凄いよ。あの子は…本当の天使だ。」
そう…そして、俺は…そんな天使に、神だと言われて、崇められた男だ…
「とても…美しかった…」
ポツリとそう呟いた理久は、テラスの席を立って、豪ちゃんに手渡されたお菓子の袋を大事に抱えながら、書斎へと行ってしまった…
取り残された俺は、眉間にしわを寄せて考え込んだ…
そして、庭の畑に目を丸くするまもちゃんの背中に、こう言ったんだ。
「まもちゃん、豪ちゃんは…俺の想像を上回ってる。」
「確かに…。あの包丁さばきは、並大抵の料理経験じゃ身に付かない。あれは、主婦歴20年の包丁さばきだった…。」
まもちゃんはそう言って頷くと、俺の腰を抱いて部屋の中へ向かった。そして、俺の手を掴んでクルクル回しながらこう言ったんだ。
「なんで、豪ちゃんとエッチしようなんて思ったんだぁ!」
「あっはっは!」
だって…本当に、可愛らしかったんだ。
…にっこりと微笑んで俺を見つめるまなざしは、ウルウルと潤んでいた。そんな目に見つめられ続けて、変な気を起こさない奴はいない…
今まで一度も経験しなかった…あぁ、抱いちゃいたいなぁ…!なんて…そんな、思いを…俺に抱かせるくらいだ。
あの子は、菅野さんの奥さんじゃなく…エロい天使なのかもしれない…
「…理久先生は、北斗を諦めたみたい…」
ピアノに座った俺の隣に腰かけたまもちゃんは、優しく髪にキスしながらそう言った。だから…俺は、クスクス笑って言ったんだ。
「…もともと、彼は、俺の…音楽の師だ。そんな感情なんて…無かった。」
鍵盤の音色は美しいままなのに…
少しだけ寂しいのは、俺の欲が強いせいかな。
ずっと、俺だけを愛していて欲しいなんて…勝手だったね。理久…
俺は、お前を愛さなかったのに…
ごめんね。
あなたにとどめを刺す為に…やって来たというのに…
理久を、そんな呪縛から、解放してあげたのは…俺じゃなかった。
まもちゃんの体に寄り添いながら…俺は”愛の挨拶”を、ピアノで弾いた。
「…まもちゃん、大好きだよ…」
そんな俺の言葉に、彼はクスクス笑ってこう言った。
「あぁ…北斗、愛してるよ…」
豪ちゃん…俺は、あるべき場所へと…やっと、たどり着けたみたいだ。
俺たちを嬉しそうに見つめた君の眼差しが、温かかった…
すると、書斎から現れた理久が、ピアノに座っていちゃつく俺たちを見て、首を傾げながらやって来た。そして、こう聞いて来たんだ。
「北斗…所で…話があるそうだけど…」
そんな彼の言葉にクスクス笑った俺は、まもちゃんと一緒に顔を上げてこう言った。
「俺…軽井沢のまもちゃんの所に住む事にしたんだ。これからは…日本を中心に音楽活動をする。その、報告をしに…あなたの元へ来たんだ…」
理久は、突然の話に、言葉を失って…コーヒーを持った手を震わせて言った。
「…どうして…?」
どうして…?
悲壮感を露わにした理久の表情は、俺の予想を外して…どんどん歪んで行った。
「…彼を、愛してるからだよ。」
俺がそう言うと、理久は首を横に振って…こう言った。
「何の為にやって来たんだ!今まで…何の為に!今更、日本で音楽活動なんてしたって…お前の為にならないだろう!…そんな、簡単な事…言われなくても分かっていると思っていた!色恋に人生を棒に振るなんて…!あんなに素晴らしいバイオリンが弾けるというのに!!」
あぁ…
そんな理久の言葉に…俺は、込み上げてくる涙を必死に堪えて、顔を俯かせた。
力が入らなくなった体は、ピアノに置いた指をそのまま下に、ダラリと落とさせた。
理久…
俺の選択を、あなたは…否定するの…?
考えなかった訳じゃない。
悩まなかった訳じゃない。
なのに…なのに…
「あんたもあんただ!この子が…どれほど…今まで努力してきたのかっ!分かった上で、そんな決断をさせたというなら…!とんでもない、馬鹿野郎だな!」
まもちゃんは、そう吐き捨てた理久を見上げたまま…こう言った。
「…理久先生。北斗は、あなたの許しを貰わなくても…幸せになれる。」
そんな彼の言葉を鼻で笑った理久は…そのまま鼻息を荒くして、押し黙った…
庭には、隅に追いやられた花壇に集まった蝶が飛んでいる…
ふと、あの子の植えたきゅうりの支柱に蝶が止まった。
…ゆったりと羽をはためかせる…そんな様子に見とれながら、俺は、深いため息を吐いた。
天使…
俺は、欲張りだったのかな…?
まもちゃんも手に入れて…理久の理解も手に入れて…幸せになる事は、欲張りな考えだったのかな…
でも…俺にとって、理久は…音楽の師であり、父親であり、母親なんだ…
心のどこかで、そんな彼に…自身の決断を認めて欲しいなんて…そんな思いがあったみたいだ。
それを証拠に、俺は、今…とても打ちのめされている…
「話にならない…!大体、あんたは、北斗の幼い日々を知っているか…?この子は、小さい頃から誰も寄せ付けない孤高のバイオリニストだった!この子は、もっと上に輝ける!調子を戻した今なら…もっと、上に輝けるんだ!」
「先生…どうして、そんなに怒ってるの…?」
そんな気の抜けた声と、庭に戻ったパリスの後姿を見つめた俺は、込み上げてくる涙を堪え切れずに…嗚咽を漏らして泣き崩れた。
--
ジェンキンスさんのおばあちゃんに、飾り包丁を教えて来た…
戻ったら、まもると煮込み料理の下ごしらえをするつもりだったんだ…
賑やかになった先生のお家は、楽しくて…だから、僕は、急いで帰って来たんだ。
でも、僕が戻ると…ほっくんが泣いていた。
そして…まもるが悲しそうに眉を顰めていて…先生が、顔を真っ赤にして怒っていた。
「先生…どうして、そんなに怒ってるの…?」
テラスから部屋に上がった僕は、先生の顔を覗き込んでそう尋ねた。すると、先生は、ほっくんを睨みつけてこう言ったんだ。
「とにかく!そんな馬鹿な判断は…絶対に、許さないからなっ!!」
「…先生?」
怒った先生の頬を両手で包み込んだ僕は、彼を自分に向けて再び聞いた。
「どうして、そんなに怒っているの…?」
「…!良いんだ。豪ちゃんには、関係ない!」
先生は、僕の手を自分の頬から外してそう言った。
…でも、僕の耳には、ほっくんの悲しそうな泣き声がずっと聴こえて来るんだ…
胸を締め付けられるその声は…僕の心も、痛くする。
だから、関係ない事は…無い。
「理久先生は…海外で活動を続けていた北斗が、日本を拠点にすると話した事が、気に入らなかったんだよ…」
泣きじゃくるほっくんを見つめたまま…棒立ちする僕に、まもるが教えてくれた…
そんな彼を見つめた僕は、まもるの手を取ってこう言った。
「まもるは凄いね…?ほっくんは、すっかり元気に戻ったんだぁ…!きっと、ずっと…ずっと…あなたに会いたかったんだ。」
「豪ちゃぁん…」
ほっくんが、僕の名前を呼んで…僕を見つめて、涙を落した…
それを、僕は…しっかりと、受け止めた。
「ほっくんは…ボロボロだった…。音色は汚く汚れて…言葉も、目つきも、疲れ切っていた…。あなたは、そんな彼を、見て見ぬ振りした…。」
僕はそう言って先生の手を握った。そして、眉間にしわを寄せ続ける彼の顔を見つめて、肩を落としてこう言ったんだ。
「再び、戻って来たほっくんは、笑顔が輝いて…バイオリンの音色は、最高に美しかった…。ねえ…どうしてだと思う…?」
「豪ちゃん…これは大人の話だ…。それに、豪ちゃんは北斗の幼い頃を知らないだろう?!この子はね…君と違うんだ…。一生懸命、小さな頃から…必死に高みを目指して努力を続けて来た…!そんな子なんだ…!だから、簡単に…口を出すんじゃない!」
先生は、僕の手を振り払って…そう言った。
だから、僕は…口を一文字に結んで…まもると、ほっくんを守るみたいに、先生に対峙して…こう言ったんだ。
「…だから何だぁ!北斗の幼い頃を知っているからなんだぁ!頑張って来たから、なんだぁ!愛する人の傍にいて…幸せになる事を、どうして咎める!先生では、北斗の音色を美しく戻す事は出来なかったぁ…!そうだろ!見て見ぬ振りして…やり過ごす事しか出来なかったじゃないかっ!!…北斗を生き返らせる事は、まもるにしか出来なかった!」
そして、僕は…腹の底から大声を上げて言ったんだ。
「…理久!主観を捨てろよっ!これが現実だぁ!」
そう…先生では、駄目だったんだ。
ほっくんの変化を…見逃す様な、あなたでは…駄目なんだ。
抱きしめて、包み込んで、温めてくれる…まもるにしか、出来ない事なんだ…!
すると、先生は、僕を見つめて、怒ったまま…こう言った。
「…豪ちゃん。…愛する人の元に居て、幸せになったとしよう。それで、何を得るの?今更、日本で活動しても…期待する様な高みは目指せないだろう!孤高のバイオリニストとして名を馳せたのに…!!こんな所で、終わる事なんて…!!」
言い終わる前に…先生の目から、ポロポロと涙が落ちて来た…
僕は、それを手のひらで拭ってあげながら…彼を見上げて言った。
「…ねえ、先生?ほっくんが、とっても綺麗な音色の曲を教えてくれたんだぁ。まるで…白鳥が、羽を休めているみたいな…そんな美しい光景が見えたよ?それは…はぁ、とっても…素敵な情景だった…!」
そんな僕の言葉に、先生は、首を横に振りながら…何も言わなかった…
だから、僕は彼の体を抱きしめて…こう言ったんだ…
「…理久。あなたの目は…間違いなかった…。彼は美しい人で、素晴らしいバイオリニストだ。それは舞台をどこに変えても変わらない。そうでしょ?高みなんて目指す必要はない…彼は高みに既にいるんだ。そうでしょ?何を怖がる事があるの…?」
すると、先生は…僕を抱きしめながら、こう言った…
「あの子の苦労を知っている…あの子の寂しさを知っている…あの子の悲しさも、辛さも、孤独も…全て、全て…知っているんだ…!!だから…だから、何としてでも、俺は…あの子に報われる未来を用意してあげたかったぁ…!!」
あぁ…先生、なんて、優しい人なんだろう…
それが、あなたの本音だ…
「…り、り…理久!」
先生の名前を呼んだほっくんは、子供みたいに、顔を歪めて泣きじゃくりながら…先生に抱き付いた。ほっくんを…抱きとめた先生は、大事そうに…大事そうに…優しく包み込んで…抱きしめた。
「な…何度も、何度も、悩んだんだぁ…!どんどん研ぎ澄まされて行く自分の音色が…怖かった…!!でも…でも、どうする事も出来ないで…俺は、俺はぁ…!!」
「…そうか…そうか…」
そう言った先生の声は…もう、怒ってはいなかった…
ふたりを見つめた僕は、まもるの膝に座って、鼻を啜って涙を拭った…
このふたりは、長い時間を共に過ごして来たんだ。
きっと…並々ならない…感情をお互いに持ち併せている。
それは…僕が何かを語るよりも、こうして…抱き合うだけで、伝わる物なのかもしれない…
そう思えてしまう程に、目の前のふたりは、硬い絆で…結ばれていた。
瞳を細めて先生とほっくんを見つめた僕は、背中のまもるを奥へと追いやって、彼にこう言った。
「まもる…?ピアノを弾いてごらん?」
「え…」
「ほら、引っ叩くぞぉ…!」
僕の言葉にビビったのか…まもるは、遠慮がちに猫ふんじゃったを弾き始めた。そんな彼の手を容赦なく叩いた僕は、偉そうにこう言った。
「30点!」
「えぇ…」
「じゃあ…僕が弾いてあげるね?」
真打登場とばかりに得意げな顔をした僕は、まもるのお尻をグイグイと追い詰めて、両手を鍵盤の上にかざして見せた。
その仕草が…まるで、大好きな彼の様で…僕は、目頭がジワリと熱くなった。
惺山…僕は、あなたになったみたいだ…
彼になったつもりで弾き始めたのは…“ため息”。
彼の大好きなリストの曲だよ…
でも…ピアノの運指がままならない僕は、彼の様に、美しく弾く事が出来なかった。
すると、見かねたほっくんが、僕の隣に座って、綺麗な指を動かしながら、僕の代わりに”ため息”を弾いてくれたんだ。
「あぁ…!惺山の方が素敵だけど…ほっくんも、なかなか悪くないねぇ…?」
そんな僕の言葉に、ほっくんは鋭いジト目を向けて、鼻を鳴らした。
ピアノの椅子は大渋滞だ…お尻が半分落ちたまもると、僕と…その隣にほっくんが座ってる。彼の指先は惺山よりも細くて、長く見えた。
耳に届く音色は、目を閉じても…あなたの音色とは違う。
でも、あなたの大好きな曲を、聴いてる。しかも、ほっくんの演奏で!だぁい…!!
「ほっくん…大好き…!」
僕は、そう言って…ほっくんをギュッと抱きしめた。
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