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#39
#39
「昨日は…やばかった…」
微睡むまもちゃんを見つめて、俺はそう言った。すると、彼は寝返りを打って、俺を見つめて言ったんだ。
「帰ったら…もっと激しい事しよう…?」
ぷぷっ!
おっかしいね…
俺は、昨日…可愛い天使に誘われたんだ。
でも、丁寧にお断りして…いつものマモ~ルと遊んだ。
怠い体を起こしてベッドに腰かけた。そして、首を動かしながらぼんやりと壁を見つめて、ぼんやりと昨日の破廉恥豪ちゃんの姿を思い出した…
森山惺山は、あの子とエッチしてたんだよな…
羨ましい反面、気の毒でもある。
だって…あんなに可愛いのを抱いちゃったら…他の誰かを抱いたって、興醒めするだけだろうからね…
「起きるよ…!まもちゃん!今日も飛行機と新幹線のツアーだ!」
俺は、うつ伏せて二度寝を始めたまもちゃんの、お尻を揺らしてそう言った。
「ん~~!わかた!わかたよ~!」
まもちゃんの片言の返事を聞いて階段を降りて行くと、昨日と同じ様に、豪ちゃんがキッチンに立って、朝ご飯の支度を始めていた。
でも、テラスには、理久の姿は見えなかった…
「理久は…?」
首を傾げてそう尋ねた俺に、豪ちゃんは肩をすくめてこう言った。
「ん…昨日、遅かったみたいで…まだ、寝てるよぉ…?ご飯の時に、1回起こしてみようかなぁ…?」
ふぅん…
忙しいんだな…
「…豪ちゃん、昨日、おいたしたね…?」
ニヤニヤ笑った俺は、キッチンの天板に肘をついてあの子の顔を覗き込んでそう言った。すると、豪ちゃんは顔を真っ赤にして、もじもじしながら言った。
「…ん、わかぁんない…」
嘘つきめ!
もじもじと体を捩らす豪ちゃんの様子が可愛くて…俺は、意地悪に口元を緩めながら。あの子を見つめて尋ねた。
「豪ちゃん、俺と、何がしたかったの…?」
「ん…んん…」
頬を膨らませて、口を尖らす様子も…なかなかいじらしいじゃないの。
「ほら…ちっぱいを、触らせてよ…」
豪ちゃんの背中に抱き付いた俺は、あの子の細い体を撫でながら…少しだけ膨らんだ胸を服の上から撫でてあげた。
「あぁ…ほっくん…!だ…だめぇ…」
豪ちゃんは、俺の手を上から掴んで動きを止めた。そして、もじもじしながらこう言ったんだ。
「…先生が…駄目って言ったぁ…」
理久が…?!
何それっ?!
どういう関係だよっ?!
「ふふ…でも、触らせてくれるって…約束したでしょ?」
クスクス笑った俺は、あの子をくるっと回して正面を向かせた。そして…ゆっくりと、部屋着を捲り上げて、真っ白な肌にツンと付いた…ピンクの可愛い乳首を見つめて瞳を細めて微笑んだ。
「…ここ、自分で持ってて…?」
「…ん…はぁい…」
捲り上げた部屋着の裾を自分で持たせて、俺はあの子のチッパイをまじまじと見つめて…首を振ってこう言った。
「あぁ…すっごいエッチなおっぱいだね…?」
俺は、小さな膨らみを両手でむんずと掴んで、先っぽの乳首を指先で撫でながら、思わず、可愛い乳首をペロペロと舐めた。
「はぁあん…!ほっくん!ほ、ほっくぅん…!」
豪ちゃんは潤んだ瞳で俺を見つめて、体にしがみ付いて来た。
それが、何とも言えない…!!
「…北斗!なぁにをしてるんだぁ!」
そう言ったのは、まもちゃんだ…
しかも、彼はいつの間にか…俺の真後ろに立っていた。
つまり、声を掛けるまでの間…身悶える豪ちゃんを見て、楽しんでいたと言う訳だ。
「…約束を、果たしてたんだよ…?ね?豪ちゃん。」
「うう…」
胸を隠したあの子は、もじもじと体を捩りながら、顔を真っ赤にした。
可愛い…
そんな豪ちゃんは、気を取り直して朝食をいつもの様に手際よく作って行った。
「手伝おうか…?」
「ん、良いの!放っといてぇん!」
相変わらず、まもちゃんはちょっかいを掛けたがって…豪ちゃんに拒絶されてる。
今日はいつにも増して…豪ちゃんの拒否反応が強い気がするのは…俺の気のせいかな。
「先に召し上がれ?僕は、先生を起こして来るね…?」
豪ちゃんはそう言って、俺とまもちゃんを置いて階段を上って行った…
俺とまもちゃんが日本へ戻ったら、豪ちゃんと理久はいつもの様に…ふたりきりの生活に戻る。それは、俺の思った以上に密で、濃厚なふたりきりの空間の様だ。
気が合う…そんな言葉では言い表せない程に、理久は豪ちゃんに心を許していて、そして、豪ちゃんもまた、理久に心を許している様に見えた。
まるで、恋人の様でもあって…親子の様でもある…。理久と豪ちゃんは、そんな微妙な師弟関係を構成している…
「はぁ…北斗ったら、豪ちゃんに悪戯して…信じられないよ。」
そんなまもちゃんの言葉に我に帰った俺は、彼をジト目で見つめてこう思った…
子供の俺に悪戯した大人が、言える事かよ!
そんな俺の視線を受け流した彼は、ヤレヤレ…と、呆れた様に首を横に振った。
「どの口が言えるんだぁ!」
まもちゃんのふわふわの頭を叩いて怒ると、彼はケラケラ笑って、俺に浅漬けを差し出して言った。
「北斗ちゃん、怒らないの。あ~んして?まもちゃんに、可愛いあ~ん見せて!」
解せない…
そんな顔のまま…俺は差し出された浅漬けを、口の中に入れた。
ポリポリ…
「…さすが、俺のファンだ。俺のいい塩梅を、知らずとも再現してる。」
しみじみそう言って感慨深げに頷いた俺は、首を傾げながら階段を降りて来る豪ちゃんを見上げてこう言った。
「…理久、起きた…?」
「うん…眠かったみたい。」
豪ちゃんは困った様に眉を下げて、口を尖らせながらそう言った。そして、キッチンでお湯を沸かして、慣れた様子で理久のマグカップにコーヒーのフィルターをセットした。
「なに、最近…忙しいの…?」
あの子にそう聞くと、豪ちゃんは首を傾げてこう言った。
「…さあ?」
分かる訳もないか…
この子が、彼の仕事をどこまで理解しているのかさえ…謎だ。
俺はご飯を口に運びながら、豪ちゃんにこう言った。
「理久はね、昔…イギリスのオーケストラのコンマスをしたんだ。彼の海外遍歴は凄いよ?あちこち飛び回って…あちこちの楽団に所属していた。そして…色々吸収して、独自の演奏スタイルを確立したんだ。凄いだろ…?」
そんな俺の話を聞いて、ポットのお湯をコーヒーフィルタに回し入れながら、豪ちゃんは眉を上げてこう言った。
「すっごぉい…」
そう!彼は凄い人なんだ。
音楽家が憧れる…大先生だ。
変態な事なんて…微々たる問題になってしまう程に、彼は偉大なんだ。
ひとり納得する様に頷いていると、隣に座ったまもちゃんが豪ちゃんのコーヒーの淹れ方に文句があるのか、しきりに首を横に振って…あの子を苛つかせ始めた。
理久と豪ちゃんが気が合うというのなら、まもちゃんと豪ちゃんは、気が合わない部類に入るかもしれない…
この短い滞在時間の中、豪ちゃんがまもちゃんに苛ついている現場に何度も遭遇した。あの子は、森山氏…理久…このふたりの様な落ち着いたインテリジェントな男が好きなんだ。まもちゃんの様に…可愛い子犬のような男は苦手の様子だ。
豪ちゃんは、猫派か…いいや、鶏派か…
まもちゃんを無視して、俺は理久の凄い事をもっと豪ちゃんに教えてあげた。
どうしてか、あの子に…理久の魅力を教えてあげたかったんだ。
「今は、作曲の傍ら、指揮者の仕事をして、有名な音楽院の特別講師と、人材育成の事業にも従事して、役員なんて、幾つもこなしてるんだ!名ばかりじゃない。ちゃんと活動して、実績を収めてる。どうだ、凄いだろ…?」
すると、豪ちゃんはフィルターをカップから外しながら、驚いた様に目を丸くしてこう言った。
「すっごぉい…!」
きっと、この子は、今言った事の半分も理解していないんだ…
頬杖をついた俺は、豪ちゃんがコーヒーにミルクを入れる様子を眺めながら、簡潔にこう言った。
「理久は、ひとりで自分の立場を確立して…偉くなった。叩き上げの男だ。どうだ、かっこ良いだろ…?惚れるだろ…?」
「ん~!惚れるぅ…!」
豪ちゃんはそう言ってにっこり笑うと、階段を降りて来たヨボヨボの理久を見つめながら、彼が、どこに座るのかを目で追いかけた。
食べ終わった食器を重ねた俺は、そんなあの子の視線の先の理久に向かってこう言った。
「理久、おはよう…!」
「…おはよ…」
まだ半分寝ているのか…気の抜けた返事を返した理久は、ヨロヨロとテラスへ向かった。そんな彼の後を、豪ちゃんはコーヒーを持って追いかけた。そして、彼が椅子に座ると同時に、テーブルの上にコーヒーを差し出して、日除けのホロを出し始めた。
「ねえ、フランスには、猛暑日はあるぅ…?」
豪ちゃんはそう言うと、理久のボサボサの髪を逆立ててケラケラ笑った。
すると、理久はあの子を抱き寄せて、お腹に顔を擦り付けながらこう言ったんだ…
「無い…」
そんな面白味の無い事を言った理久の顔を上へ向かせると、豪ちゃんは彼の顔をマッサージしながらこう言ったんだ。
「…も、甘えん坊さぁん…!」
「ぐふ…ぐふぅ…」
「北斗…俺は、見てはいけない物を見ているかもしれない…」
俺の隣でまもちゃんがそう言った。
だから、俺は、彼の手を握って教えてあげたんだ。
「…まもちゃん、安心して…?俺も、昨日…同じ事を思ったよ。」
テラスでは、爺が天使に甘ったれて、ベタベタと体をお触りしている…
森山氏が見たら…理久は脳天をかち割られるだろう。
あぁ…でも、それを言ったら…
俺も、ワンチャン…かち割られる対象かもしれない。
…ゴクリ…!!
朝食を済ませて帰り支度を始めると、豪ちゃんがソワソワと俺とまもちゃんの周りをうろつき始めた…
「…入らない物は…宅急便で送るよぉ?」
そう言って俺の背中をそっと撫でると、堪らなくなったのか…ギュッと背中に抱き付いて来たじゃないか…!
…あぁ、可愛いな…
弟…?妹…?いいや、可愛い天使だ。
俺の事が大好きな…可愛い天使が、俺と離れるのを寂しがってるんだ…
「ふふ…本当、大好きなんだな…」
そんなまもちゃんの言葉に口元を緩めながら、あの子を背中に付けたまま帰り支度を済ませた。
リビングに荷物を置いた俺は、背中にくっ付いたままの豪ちゃんを振り返って、首を傾げるあの子にこう言い付けた。
「豪ちゃん。良いかい?どのくらい出来る様になったのか記録を付ける様にしなさい。日記の様に毎日書く必要はない。最低…週に1回は、自分の状況を書くんだ。そして、次の週…出来る様になった事と、次の課題を書く…。」
すると、豪ちゃんは手を胸の前で結んで、賢そうに、お利口に、返事をした。
「はぁい…」
進捗状況を把握し続ける事は大切な事だ。
自分の立っている場所が明瞭化するし、自分の状況を見誤る事も少なくなる。
何より…誤魔化しが出来ない分、自分を律するのには…良い手段なんだ。
真剣な表情で俺を見つめるあの子を見つめて、続けて言った。
「…あと、運指の練習の他に、もうひとつ。毎日のルーティンを課そう。1日に3曲は、新しい曲を聴くんだ。良いヘッドホンを持ってるんだ。聴いて、聴いて、聴きまくれ!」
「はぁい…!」
さすが、俺のファンなだけある。
お利口な返事が出来る豪ちゃんを見下ろした俺は、あの子の顔を覗き込んで、フワフワの髪の毛を撫でながらこう言った。
「あと、もうひとつ…理久が良いって言うまで…外で、バイオリンを弾いたら駄目だ。それは、庭でも…テラスでも、幸太郎の前でも。理久が傍にいない時に、弾いたら…駄目だよ…?」
金持ち共が、この子を血眼で探している…
理久が窓口にならないなら…直接、自分たちで、この子と交渉しようって…魂胆さ。
だから、隠さないと…駄目なんだ。
この子の居場所を、彼らに、察せられない様に隠す必要があるんだ…
すると、豪ちゃんは、俺の瞳の奥を覗き込む様にジッと見つめて来た。
…ふふ、面白い。
まるで、真意を測るみたいに…俺の瞳の奥を覗き込んでくる。
「はい…」
そう返事をした豪ちゃんは、いつものフワフワした雰囲気を失くして、強い真摯な眼差しを俺に向けて頷いた。
この子が、幸太郎の様にならない為に…守る必要がある。
あらゆる外的要因を遮断して…この子の技術のみの精進に努める必要がある。
その為に理久が苦心するなら、俺はこの子に、自分の守り方を教えてやろう。
「…いつも、どんな時でも、凛としろ。それと、理久意外信じるな。良いな?豪…」
豪ちゃんを見下ろした俺は、あの子の瞳を見つめてそう言った。
「はい。」
俺を見つめたまま、豪ちゃんはそう返事をした。
その表情は、俺の注文通り…凛々しいまでに、凛としていた。
上出来だ。
「スコーンをもっと入れて…6つじゃ足りない。あるだけ入れて…」
豪ちゃんの手作りスコーンを大量に手に入れた俺は、自分の連絡先と、まもちゃんの店の住所を教えた。
「…美味しい物が出来たら、ここに送るんだ。良いね?」
「はぁい…!」
タクシーに荷物を詰め込んで…再び、俺とまもちゃんは日本へ戻る。
玄関先に見送りに来た理久は、俺を見つめて…優しく微笑んだ。
俺は、もう…以前の様に、簡単にはあなたに会いに来れないだろう…
でも、それでも、
あなたは俺の…音楽の師だ…
俺は理久を抱きしめて、彼の匂いを思いきり嗅いだ。
理久…大好きだったよ…
「理久…元気で…」
「北斗も…幸せにな…」
あぁ…ふふ…理久…
「うん…うん…!」
何度も頷きながら、俺は、彼の胸で涙を拭いた…
「…ほっくん…!」
両手を伸ばす豪ちゃんに瞳を細めた俺は、あの子の両手に抱かれながら、クスクス笑って言った。
「12月…お前が、聴きに来ていると思って、あの交響曲を演奏する…。」
あの子は、そんな俺の言葉に何も言わないで、俺の背中を、ただギュッと抱きしめた。
「来るだろ…?」
顔を覗き込む俺を見つめた豪ちゃんは、困った様に首を傾げて何も答えなかった…
自分と一緒に居ると…森山氏が死ぬ。
…そんな、ある訳もない事を怖がっているんだ…
「…来なさい。」
だから、俺は…そう言った。
タクシーに乗り込んだ俺とまもちゃんは、理久と豪ちゃんに手を振って、空港へと向かった。
--
「…先生?僕、12月に…東京へ行く?」
ほっくんたちが乗ったタクシーはあっという間に見えなくなってしまった…
僕は、隣に立った先生を見上げて、そう聞いた。
12月に…惺山の交響曲を、ほっくんが一緒に演奏するんだ…。僕は、それに誘われた…と言うか、来いと…神様の指示を受けた!
すると、先生は…少しだけ首を傾げて、こう言った。
「…豪ちゃんが行きたいなら、一緒に行こうか…」
惺山…あなたに会いたいよ。
でも、僕は…怖いんだ…
あなたに会った瞬間、僕のせいであなたが死ぬんじゃないかって…怖い。
でも…会いたい。
「うん…」
僕はにっこり笑って、先生の手を握りながら、一緒に家に戻った。
「豪ちゃん、今日は…外出するから、支度をして一緒に来て…」
「はぁい…」
僕は急いでパリスとポンポンのお昼のご飯を用意した。そして、簡単な掃除と洗濯を済ませて…自分の身支度を整えた。
今日は快晴…きっと、洗濯したシーツは、あっという間に乾くだろうな…
「きゅうりが最後のラッシュみたいに…ドンドン実を付けて行くんだぁ!」
運転席の先生にそう言うと、彼は軽く頷いて、ハンドルを切りながらこう言った。
「きゅうり…味噌で、食べたかったなぁ…」
そうなんだ。
僕の自家製味噌は…この夏を超えないと、食べられない!
僕は肩をすくめて、運転席の先生にこう言って…慰めてあげた。
「…来年は、食べられるよ?」
「ふふ…!」
僕の言葉に、先生は鼻を鳴らしてクスクス笑った。
それは、心なしか…とっても嬉しそうな笑顔に見えた。
先生はきゅうりが好き。だから、僕は収穫したそのままを彼に手渡すんだ。
バリッバリッて音を立ててかじる先生の顔が好きだから…何回も手渡しちゃう。
車を降りて、先生と一緒に大きな建物の中に入った。
それは…とっても天井の高い、美しい曲線の建造物だった…
「わぁ!ここはぁ…何をするところ…?」
僕は、手を繋いだ先生に尋ねた。すると、彼は僕を横目に見てこう言った。
「コンサートホールだよ。10月に、ここで、オーケストラと演奏をするんだ。今は、その最終調整なんだ…。ただ、コンマスと気が合わない。」
へえ…良く分かんない。
「…惺山は、よく…フレームってやつを追いかけてるよ…?」
僕は、何だか…背伸びをしてみたくなって…そう言った。先生はそんな僕を横目に見て、何も言わないで、コクコクと適当に頷いていた…
先生が足早に向かったホールは、ボコボコの天井に、綺麗なオレンジのステージが光る、素敵な場所だった。
「豪ちゃんは、ここに座ってなさい…」
「はぁい…」
先生が向かったステージの上には、沢山の楽器を持った人が…ズラリと並んでいる。
この前…合奏を聴かせてくれた人たちよりも…もっと、沢山の人だ。
彼らは、オーケストラ…!楽団だ!…って、先生に、教えて貰った。
先生が、誰かと話しをしている様子を見つめながら、僕は、彼のベストの後ろで揺れるベルトを眺めていた…
腕まくりをした先生が、棒を手に持って…真ん中の台に立った。
すると、話をしていた誰かが怒り始めて…先生もムッと頬を膨らませて怒り始めた。
そんなふたりの様子を…オーケストラの人たちは、ぼんやりと眺めている…
僕は、伸びて目にかかる前髪を、しきりに手で直しながらそんな様子を眺めた。
「豪…何してる…?」
そんな声と共に、どこからか現れた幸太郎が僕の隣に座った。
「先生のお付き添いだよぉ…?幸太郎は、何してるの?」
彼は眉毛を下げたまま前を見つめて、ふんぞり返って座った自分のズボンのベルトを直しながらこう言った。
「豪に、会いに来たんだ。」
「へえ…」
生返事をした僕は、前の座席に頬杖をつきながら視線をステージの上へと戻した。
オーケストラの人たちは、僕の隣で態度悪く座る幸太郎を見て、驚いた様に目を丸くしている…
きっと、躾のなっていない幸太郎の様子に、驚いているんだ。
そんな視線に気が付いた先生は、僕の隣に幸太郎を見つけて、眉を顰めた。
「…なに、あれ…揉めてるの?」
僕の背中を撫でて幸太郎がそう聞いて来るから、僕は首を傾げて言った。
「…知らなぁい!」
「なんて書いたか…当てて見てよ…?」
一向に始まらない練習をぼんやり見つめていると、幸太郎がそう言って、僕の背中に文字を書き始めた。
「…んふふ!あっふふ!こしょぐったぁい!やぁだぁ…」
「ほら、当ててみて…?」
満面の笑顔の幸太郎をジト目で振り返った僕は、ため息をついて言った。
「もう一回…書いてぇ?」
「行くよ…?」
先生の午前中の最終調整は、お話ばかりで何も始まらない。
だから、僕は幸太郎と遊んだ。
「えっとぉ…えっとぉ…んふふ!…“わ”かなぁ?」
「…じゃあ…次ね…」
「あっふふ!こしょぐったぁい!」
やっぱり…幸太郎は、もう…悪さをしないワンちゃんになった。だって、一度も僕にエッチな事をしてこないもの!
「幸太郎…」
そんな声と共に、イリアちゃんが現れた。
彼女は、おかっぱの髪を耳に掛けながら僕を睨んだ。そして、幸太郎に視線を移して、こう言ったんだ。
「…準備が出来たの。こっちに来てよ…?」
準備…?
首を傾げた僕は、幸太郎を見つめてこう言った。
「幸太郎、バイバ~イ!」
すると、彼は、僕の口に指を突っ込んで、こう言ったんだ。
「最後の文字は…?まだ、当ててないだろ…?」
「ん、知らなぁい…!」
“わ”と…“か”…が来たら…後は…“た”しか、ないよ…
“分かった”って言うんじゃなくって…“わかた”って言うのが、ネットで流行ってるって…清ちゃんが言ってたもん。
小さい“つ”を抜かすのがイケてるんだって。
分かた!もろた!さとた!おわた!わろた!なんて…言うんだってぇ…。
ちょっと、よく分かんないな。そう言うの…
でも、幸太郎みたいに…若さに敏感そうな30代なら、使いそうだ。
「最後の文字は…“た”だよぉ?ふふぅ…そうでしょう?」
僕は得意な顔をしてそう言った。すると、幸太郎はクスクス笑って、首を横に振ったんだ。
「…なぁんで“た”なんて…来ると思ったの…?」
そこだよ。
幸太郎…
そこなんだよ。
僕は幸太郎の顔を見つめて、眉を下げて言った…
「若い人の間ではね…“分かった”って言うんじゃなくって…“分かた”って言うのが流行ってるんだって…。知ってたぁ?」
僕の言葉に眉間にしわを寄せた幸太郎は、イリアちゃんを見上げて聞いた。
「…そうなの?」
「…知らない!もう…行こう?」
「豪もおいで…」
幸太郎が、僕の手を掴んで無理やりに引っ張り上げた。
だから、僕は、幸太郎の頭を思いっきし引っ叩いて、怒って言ったんだ。
「駄目!幸太郎!めっ!」
そして、指の先までビシッと伸ばして、出口を指さして…こう言った。
「幸太郎!ハウス!」
すると、幸太郎は渋々…イリアちゃんと一緒に帰って行った。
お利口さんになった!
やっぱり、僕の躾が行き届いてるんだぁ!
満足げに何度も頷いた僕は、前の椅子の背もたれに頬杖をついて、そのまま…コクリコクリ…と、居眠りを始めた。
ここは、程々に薄暗くて…良いんだ…
「豪ちゃん…起きて…」
そんな先生の声に瞼を開いた僕は、目を擦りながらこう言った。
「ん…終わったぁ?」
「…まだだよ。」
疲れ切った先生は、まるで徹夜明けの惺山の様にボロボロだった。
ステージの上では、オーケストラの人たちが僕と先生を見つめて、ため息が聴こえて来そうな、うんざりした顔をしてる…
「…喧嘩してるのぉ?」
僕は、先生の髪を直しながらそう聞いた。すると、先生は肩をすくめてこう言った。
「コンマス…コンサートマスターは、第一バイオリンのトップ…楽団の代表だ。指揮者と、楽団を繋ぐ。そんな役割を担ってる。そんな彼は、俺の事が嫌いみたいで、事ある毎に食って掛かって来る。だんだんイライラして来て…もう、顔も見たくない!」
僕は、ボロボロの先生の手を繋いで…ステージの上で仁王立ちをする、“コンマスの文句垂れぞう”の所へ行った。なんと、彼は、指揮者の先生の目の前の特等席があてがわれてるんだ。
それなのに、怒ってるなんて…意味が分からないよ。
ステージの上は…ずっと、照明を浴びているせいか…それとも文句垂れぞうの熱量のせいか、ジワジワと熱かった。
「垂れぞうさん…先生と、仲良くしてあげて下さい…」
僕は、ぺこりと頭を下げてそう言った。
すると、垂れぞうは、手に持ったバイオリンを椅子に置いて、僕を鼻で笑ってこぶしを向けて言ったんだ。
「ヴァ トゥ フェール アンキュレ!」
「…はぁ!んにゃろっ!」
怒った先生が垂れぞうに食って掛かりそうになった!僕は、そんな彼を必死に抑えて、垂れぞうに言ったんだ。
「ん、もう…!喧嘩しないでぇ!」
そして…不貞腐れた先生と、垂れぞうは…ステージの上から居なくなってしまった…
取り残された僕は、こちらをジト目で見つめて来るオーケストラを前に、ガチガチに固まった。
「…ボンジュール…?」
オドオドと僕が挨拶をすると、数人の人が、ボンジュール!と返してくれた。
彼らは、僕が知る限り…3時間は、ここに座り続けている。
だから、僕は、お尻をナデナデしながら…こう言ったんだ。
「アイ~!」
「ぶほっ!」
ウケた…
数人が、僕から顔を背けて…クスクス笑ってる。
そして、僕は、首を傾げたまま…立ち尽くした。
フランス人を笑わせる…センスなんて、ギャグなんて、一発芸なんて、持ってないもん。
呆然と立ち尽くす僕に、誰かが先生の棒を手渡して、何かボソボソと言った…
だから、僕は、先生がしたみたいに台に上がってみたんだ。
すると、みんなが僕を見つめて…ニヤニヤと笑い始めたから、僕も、ニヤニヤと笑って、棒を高く掲げてみた!
その瞬間、彼らは慌てて楽器を構えたんだ。
その光景に、僕は、故郷で行われた音楽祭の事を思い出した。
そうだ…
この棒を振ると、みんなが演奏を始めるんだ。
この棒は、魔法の棒…
僕は、何となく…棒を振ってみた。
「わぁ…!」
すると、僕に向かって…バイオリンの音の波が…押し寄せて来たんだ…!!
「あぁあああ…!!すっごぉい!」
ケラケラ笑いながら、僕は夢中になって棒を振り続けた。
吹っ飛ばされる…
この音の波に、僕は、簡単に…吹っ飛ばされそうだ…!!
「キャッキャッキャッキャ!」
あぁ…僕は、この曲を知ってる…
先生が聴いていた…交響曲第9番 新世界 第4楽章だ…!!
トランペットの音圧が…僕の頬をピリピリと震わせて、バイオリンの音色が…僕の体を下の方から小刻みに揺らして来る!
「キャッキャッキャッキャ!」
ゆったりと流れるフルートの音色に、僕はうっとりと魔法の棒を振りながら、波を一緒に泳ぐ様に体を揺らした。
先生と一緒に聴いた曲の中では、この後、徐々に、早くなって行くんだ…
でも、僕はゆったりと聴きたい。
だから、魔法の棒は、いつまでもゆったりと振った。
ここから…最後に向かって…テンポよく盛り上がりを見せるんだ。
それは歯切れの良いファゴットの音色が、主導だぁ!
「あぁ…すっごぉい!」
いつの間にか…僕の頭の上には沢山の音色が合わさった…美しい音色の太い帯が出来ていた…
そんな物を見上げながら口を大きく開けた僕は、驚きの顔をオーケストラへ向けて…ケラケラ笑った!
体の中が震えるのは、自分の震えなのか…音に揺さぶられているのか…
自分の体すらあるのかどうか分からない位に、僕は音色で一杯になった!
美しいバイオリンの音色の上を、クラリネットが走り抜けて行くんだ。
あぁ…惺山…とっても綺麗だ。
あなたにも、見せてあげたい…!!
「キャッキャッキャッキャ!」
クライマックスは…この建物が壊れちゃうくらいに…!!
ティンパニーの地響く轟が…治まってはぶり返す腹痛の様に繰り返されて…堂々とずっとメロディを弾いていたバイオリンが…美しく幕を閉じて行くんだ!
「あ~はっはっはっは!た~のしい!こんなに楽しいのに!どうして先生は怒っちゃったんだろ!キャッキャッキャッキャ!!」
曲を終えた僕は、大喜びしながらステージの上を縦横無尽に走り回った。
そして、そのままゴロゴロと転がりながら思った…
指揮者って…めっちゃ楽しい!!
だって、こんなに沢山の音色をいっぺんに操れるんだ!
「僕、バイオリンより…指揮者になりたぁい!」
僕は、ゴロゴロと転がりながらそう言った。
すると、チューバを持った男性の足にぶつかって…止まった。
体を起こした僕は、ヨロヨロと歩きながら、指揮台に戻って…ペコリとオーケストラにお辞儀をした。
「トレビアン!」
そんな声に顔をあげた僕は、クルクル回りながら言った。
「僕は、豪だよぉ?ジェンキンスさんは、僕を“ミミ”って呼ぶの。でも…僕は豪だよぉ?素敵な演奏に…僕はフラフラになっちゃったぁ。お礼をしたいけど…ほっくんが、バイオリンを弾いたら駄目って言うからぁ…代わりに、ジンギスカン体操を踊ってあげるね?」
僕は、足でテンポを刻むと、指揮台の上で口でメロディを歌いながらジンギスカン体操を本気で踊り始めた。
言葉が分からなくっても…気持ちは伝わるはずなんだ!!
そんな信念に基づいて…僕は気合を入れて踊った!!
「ウーっ!ハ-っ!ジン、ジン、ジン…!」
「オ~ララ~ララララ~!」
大喜びするオーケストラの笑顔を見ながら、僕は、思った。
ジンギスカン体操って…すげぇ!
こんなにもみんなが笑顔になるんだ…!!
いつの間にか目の前のオーケストラは、僕のジンギスカン体操のメロディを奏で始めて…僕はそんな音色の波を浴びながら、激しく体を動かしたんだ。
「ギャ~ハッハッハッハ!」
「ブラボーーーー!」
耳に届く、オーケストラの楽しそうな笑い声に、僕は、満面の笑顔になった。
とっても…楽しい!!
最期まで踊り切った僕は、満足げに笑顔を向けて…額にかいた汗を手の甲で拭いながらペコリとお辞儀をした。
そして…オーケストラに言ったんだ。
「先生は…良い人だよぉ?仲良くしてあげて下さい…!」
「ブラボーーーー!ミミ!トレビアーーーン!」
僕のジンギスカン体操は、大盛況だった…
クルリと振り返ってステージを降りようとすると、目の前に、お腹を抱えて大笑いする、コンマスの文句垂れぞうが居た。
だから、僕は彼に満面の笑顔で、言ったんだ。
「オ~ララ~!」
「グフォッ!」
鼻水を吹き出して笑い始めた彼を見て、僕は、きっと…もう、大丈夫だと思った。
すると、顔を真っ赤にして、肩を小刻みに揺らした先生がトコトコと戻って来た。そして、無言で、汗だくの僕にハンカチを手渡して…ステージへと戻って行ったんだ。
そんな彼の後姿を見つめたまま、僕は汗を拭って…一息ついた。
「はぁ…疲れたぁ…」
すると、すぐに…目の前のオーケストラは、さっき、僕が指揮した“交響曲第9番 新世界 第4楽章”よりも、もっと、ずっと、美しい“交響曲第9番 新世界 第4楽章”を奏で始めた…
あぁ…やっぱり、先生は美しい人だ…
僕は、左右に体を揺らしながら、そんな彼の指揮する流れるメロディを胸の奥から…楽しんだ。
あんなに文句を言っていた文句垂れぞうも、ひとつ、ふたつ、先生に確認するだけで、怒り出したりしなくなった…
これが、全て、ジンギスカン体操のお陰だとしたら…凄すぎる。
圧倒的な…制圧力だ…
「先生?お腹空いたねぇ…?」
「あぁ…ごめんね。もう少し…待ってて…」
次、来る時は…お弁当を持って来よう…
全く終わりそうにない練習を見つめながら、僕は、そう思った。
だって…もう、夕方の4時なんだもん。
僕は、ここに…8時間はいる…
グゥ~~~~~
「豪、お腹、空いたの…?」
再び幸太郎が現れて、僕の隣に腰かけてそう聞いて来た。
だから、僕は、彼を見て言ったんだ。
「朝から何も食べてないの…もう、お腹がペコペコなのぉ…」
すると、幸太郎は、ズボンのポケットからチョコバーを出して、僕に剝いて渡した。
「ハムッハムッハム…!んまんま!ハムッハム!」
僕は、あんまり、お砂糖は取らないようにしてるんだぁ…
でも…お腹の空き過ぎた…今は、別だよ。
「チョコだらけになってて…可愛い…」
幸太郎はそう言って僕の唇をペロペロと舐めた。
犬って…チョコを食べると中毒を起こしちゃうんだよ…?
僕はそんな事を心配しながら、幸太郎の好きにさせた。
だって、彼はそれ以上何もしないって、分かってるから…平気だった。
「…豪、もっと、食べたい?」
「ん、食べたぁい…」
全力でジンギスカン体操を踊ってしまったから、僕のお腹はいつも以上にペコペコになってしまったんだ。
「じゃあ…ご飯を食べに行こう…?」
「駄目ぇ。先生の傍にいるからぁ…幸太郎が、何か持って来てぇ?」
僕は口を尖らせてそう言った。すると、幸太郎の後ろから、イリアちゃんが顔を覗かせてこう言ったんだ。
「調子に乗らないでくれる?幸太郎…もう行こう?」
なんだ…イリアちゃん…ずっと、居たんだ。
僕は、大きな幸太郎の体の影に、小柄な彼女がいるなんて…気が付かなかった。
「イリアちゃんは、何か食べ物、持ってるぅ?僕に頂戴…?」
「買って来てあげる…」
幸太郎は、そう言って席を立った。すると、残ったイリアちゃんは僕を睨みつけてこう言った。
「…ちょっと優しくされてるからって…調子に乗らないでよ?幸太郎は、私の彼氏なの。少しちやほやされてるからって…バイオリンも弾かない癖に、何も出来ない癖に!調子に乗んないで!」
へえ…知らなかった…!
僕は眉を下げて、イリアちゃんにこう言った。
「幸太郎は…僕の犬になったんだぁ…。僕は、幸太郎の飼い主だから…。イリアちゃんを妊娠させない様に、去勢するね…?」
「はぁ~~~~?!」
とっても怒ったイリアちゃんは、席を立って…僕をボコボコに殴り始めた!!
「ひゃ~~~!」
女の子のパンチなんて…僕は平気だよ?
でも、何回も続くと…痛くなってくるんだ。
「何してんだよ…」
そんな鋭い声と共に、幸太郎が袋を持って帰って来た。
イリアちゃんの手を掴み上げた幸太郎は、彼女をそのまま後ろに放ろうとした。
「幸太郎!めっ!」
だから、僕は慌ててそう言って…イリアちゃんの手を掴む彼の手を解いた…
そして、幸太郎を見上げながらこう躾けてあげた。
「幸太郎…?彼女に手をあげたら、デートDVって言うって…兄ちゃんが言ってたよ?男はね、女に手を出しちゃ駄目なんだぁ。これは、差別じゃないよ?体格の違いと、力の違いだ。」
ムスッと不機嫌になった幸太郎は、鼻息を荒くして椅子に腰かけた。だから、僕は、幸太郎が持って帰って来た袋の中をゴソゴソと漁って中を物色したんだ。
「これ…食べても良い?」
そう言って取り出したのは、美味しそうなハンバーガーだぁ!
「良いよ。食べな…」
幸太郎はそう言うと、瞳を細めて…そのまま、大人しくなった。
…僕の故郷の村にはハンバーガー屋さんなんて無かった。
だから、町に行った時だけ、食べられたんだ…
「ふふっ!ぜいたく品だぁ…!」
「幸太郎…もう、帰ろうよぉ…!」
「なんだよ。イリアちゃんは、理久が大好きじゃなかったっけ…?」
そんな言葉を小耳に聴きながら、僕は、僕の様子を気にする先生を見つめながら、ハンバーガーをむしゃむしゃと食べた。
「イリアちゃん…先生が好きなの?」
お腹がいっぱいになった僕は、幸太郎が口元を舐める中、イリアちゃんにそう聞いた。すると、彼女は鼻を鳴らして、こう答えたんだ…
「ふん!」
「ギフテッドだって言って…取り沙汰された時、理久が会いに来たんだよねぇ…?」
そんな幸太郎の言葉に、イリアちゃんは顔を歪めて、俯いた。
すると、幸太郎は、僕を見つめたまま瞳を細めて、続けてこう言ったんだ。
「でも…イリアちゃんは、彼のお眼鏡に適わなかったんだ。」
へぇ…
「彼は…もっと、良い物に目を付けていたみたいでね…。イリアちゃんは、相手にされなかったんだ。ふふ…!さて…その良い物とは、誰の事だと思う…?」
幸太郎は僕を見つめたまま、口端を上げて笑った。
…イリアちゃんより、良い物?
背中を丸めたイリアちゃんを視界に見たまま、幸太郎を見つめて、僕はおもむろに自分の胸元を開いた。そして、彼を覗き込んで言ったんだ。
「見て…?幸太郎…。ここに包丁が刺さったんだぁ…。もっと勢いが付いていたら、もしかしたら、トスンッて…もっと奥まで入ったかもしれないね…?」
その瞬間、彼は表情を固めてニヤけた口元を一気に下げた。
やっぱり…
幸太郎は、僕の血を見て怖がった…きっと、野生の本能が“血”を怖がらせるんだ。
これ以上この話をして欲しくなかった僕は、幸太郎に傷痕を見せ付けて、怖がらせる様にこう言った。
「血が出たよねぇ…?」
すると、幸太郎は僕の顔を見つめてこう言った…
「…豪、まだ痛いの…?」
痛い?
痛くなんて無い。
でも、僕は、幸太郎にこう言ったんだ。
「…幸太郎が悪さをしたり、意地悪したりすると、痛くなるかもしれなぁい…」
眉間にしわを寄せた幸太郎は、僕の傷痕を手で押さえながら言葉なく項垂れた…
その様子はまるで、傷を癒そうとしている様にも見えて、僕は彼の顔を覗き込んでこう聞いたんだ。
「…幸太郎?血が出たのが、怖かったのぉ…?」
「…怖い。」
ポツリとそう答えた幸太郎は、僕の頬に頬ずりしてこう言った。
「…傷つけたい訳無い。血なんて出して欲しくない。豪が、大事なんだ…」
幸太郎は不思議だ…
こんな風に原始的に誰かを守ろうと思う気持ちがあると同時に…人の心を揺さぶるような事を平気でする意地悪な気持ちも持っているみたい。
「…体に付いた傷は癒えるけど、心に付いた傷は癒えないよぉ…?」
僕がそう言うと、幸太郎は僕から視線を逸らして、そのまま席を立って…帰って行ってしまった…
イリアちゃんは、一瞬だけ先生を見つめると…急ぎ足で、幸太郎を追いかけて行った。そんな彼女の姿に…僕は、胸の奥が少しだけチクリと痛くなった。
だって…僕よりも、良い物があったら…先生は、きっと、そっちを取るだろうから。
「もう、お付き添いしたくない。だって…お昼ご飯も食べられないし…夜ご飯もちゃんと作れないんだもん…!」
夜の8:00
帰りの車の中で、僕は口を尖らせてそう言った…
すると、先生は困った様に眉を下げてこう言った。
「…ん。」
家に帰った僕は、ポンポンとパリスにご飯をあげて…夜ご飯を作り始めた。
「…もう…ポンポンが、お庭に粗相しちゃった。きっと、お散歩に行けなかったからだ…。僕は、もう、一緒に行きたくない…。お家にいる…」
どうしてか…胸がソワソワする…
幸太郎が話した話が、寂しそうなイリアちゃんの表情が、僕の胸に…棘を残したみたいだ。
ブツブツ言いながらご飯の下ごしらえをした僕は、ソファに腰かけて僕を見つめる先生から逃げる様に、二階に上がって部屋着に着替えた。
…先生は、ギフテッドだから良い訳じゃなかったんだ…
もっと良い物…それは、僕が持っている…この特異な才能の事…
だとしたら、やっぱり…
先生は、僕がギフテッドじゃなかったら、興味が無くなるんだ。
きっと…惺山も…
僕は下ごしらえの済んだ材料を炒めて…野菜炒めと、チャーハンを作った。
そして、先生に言ったんだ。
「…ご飯、出来たよぉ…」
「豪ちゃん、どうしたの…?」
首を傾げてそう聞いて来る先生に、僕は同じ様に首を傾げてこう言った。
「…疲れたのぉ。」
「そうか…ごめんね…」
先生はそう言ってソファから立ち上がって、僕をギュッと抱きしめてくれた。
この温かさも、この優しさも、全て…僕が、ギフテッドだから…与えられるもの。僕よりも、良い物が現れたら…与えられないもの。
そう思っても、僕は、先生の体を抱きしめる事を止められなかった…
「…お風呂に入って…今日は、早く寝ようか…」
「はぁい…」
だって、安心するんだ…
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