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#40~#43

#40 「はぁ~~~!疲れたぁ!もう…!もう!海外旅行なんて、行かないぞ!北斗?俺は、行っても、北海道までだぁ!」 家に帰って来ると、まもちゃんはそんな悪態を吐きながら、ベッドに突っ伏して静かになった… 俺は、豪ちゃんのスコーンをかじりながら、そんな彼の隣に腰かけてフワフワの髪を撫でた。 豪ちゃん…凄い子だった。 あれが、マジもんの…ギフテッド。 俺が今まで見て来た…共演して来た…”ギフテッド“なんて呼ばれる人とは、けた違いの物を持っていた… 耳コピの完璧さと…表現力。リズム感と、度胸のある曲展開…。そして、何よりも…底なしの想像力で繰り出される情景を…聴く相手に、叩きつけて来る強引さ。 俺の予想をはるかに超えたその能力は…あの子の人生を違う形で翻弄していた。 必死に守ろうとする理久の人生も…もしかしたら、一緒に翻弄されてしまうかもしれない…。 それ程までに、あのこの才能は…飛びぬけているんだ。 金持ちの関心と目を引く筈さ… しかも、光が強すぎて…集まって来る有象無象が、いちいち…デカいんだ。 理久は…逃げきれないかもしれない… いつか、あの子を…そんな奴らの前でお披露目しなければいけない時が来るかもしれない。 問題は…それまでに、あの子をどう仕上げるか…だ。 感受性…それは誰にでも備わった感性。 豪ちゃんの場合は、それが…人よりもさらに鋭敏なんだ。 だから、音色が目に見えて…音に触れられる… まるで、俺が…このフワフワの髪を撫でる様に…あの子は音色を撫でられるんだ… それは…ある意味、諸刃の剣だ。 鋭い感受性は、日常を送るには…得る事より、傷付く事の方が多いかもしれない。 攻撃的だった俺を、笑顔で受け止め続ける事が出来たのは…多分、俺の事が、大好きだったから…。 あの子は、俺の本来の音色を知っているから、すぐに俺の変化に気が付いて、何とかして助けたかったんだ。 そうじゃなかったら…やみくもに当たり散らす俺に近付く事なんて、怖くて出来なかっただろう…。 あの仏頂面の森山氏の恋人になった理由も…きっと、そこにある。 あの子は…彼の音色に恋をしたんだ。だから、彼は音色で…ラブレターを書いた。 素敵なカップルだよ。 特別な理由を除けばね… 音楽の神様。 どうか…あの子が、幸太郎の様に汚される事なく…朗らかなまま、純真なままでいられます様に。 柄にもなく、俺は…そんな事を、居もしない神様に祈ってしまった。 「まもちゃん…確かに、俺も、少し疲れたぁ…!」 俺はそう言って、まもちゃんの背中の上に乗って、バタンキューした! 「…んふふ!」 すると、まもちゃんは、微妙にお尻を動かして、上に乗った俺を揺らして来た… それが、どんどん強くなって…終いにはガタガタとベッドが揺れるくらいに、激しくなったんだ! 「あ~はっはっは!」 俺は、大笑いしながらベッドに仰向けて転がった。 もうすぐ8月… 12月の本番まで、時間はたっぷりある… 彼らの秘密を知った俺は…あの、交響曲を、あのソロを…情緒を込めて弾きこなせそうだ。 「うしし…!」 俺が歯を見せて笑っていると…まもちゃんは、俺の顔を覗き込んで鼻をチョンと突いてこう言った。 「…悪い事を、企むんじゃないよ…?」 まぁったく! 「ぶ~~~~!」 口を尖らせて抗議した俺は、鞄の中から取り出したスケジュールを確認しながらブツブツと言った。 「…豪ちゃん、10月か11月に味噌が出来るって言ってたんだよなぁ…。味噌田楽と、サバの味噌煮…食べたいなぁ…。でも、このタイミングは…東京で合同練習の始まる時期だ…。あ~あ!」 すると、まもちゃんは俺の髪にキスしてこう言ったんだ… 「あの味噌は…美味いだろうなぁ…」 そらそうだ!誰の作った味噌だと思ってんだ! クスクス笑った俺は、隣で俺のスケジュールを一緒に眺めるまもちゃんにスリスリして言った。 「まもちゃん…楽しかったね…?」 俺の左手の薬指には…指輪。 これは、まもちゃんとずっと一緒に居るって…証なんだ。 「疲れたけど…とっても楽しかった!」 まもちゃんはそう言って、俺を抱えたままベッドの上をグルグルと回転し始めた。 彼はね…少し、ぶっ飛んでるんだ… 俺は、そんなまもちゃんが、大好き… 「あ~はっはっは!!もっと!もっとやって~!」 そんな俺のリクエストに応えて、まもちゃんは力の限り頑張った…そして、息を切らしながらこう言ったんだ。 「腰が砕けても!腕がボキボキに折れても!頑張ってみるわぁ!」 彼と一緒に居れて…嬉しい… -- 「先生…一緒に寝るの…」 僕は、書斎でお仕事を頑張る先生にそう言った。すると、彼は眼鏡をかけ替えて、僕に手を伸ばした。 「…どうしたの。豪ちゃん。話してごらんよ…」 そんな優しい声で聴かれたら、僕は正直に話してしまうよ… また、先生に…甘ったれてるって分かってる。 また、先生に…それ以上を求めてるって分かってる。 でも…言っちゃうよ。 「先生…?今日、幸太郎が言ってた。イリアちゃんはギフテッドだったのに、先生は関心が無かったって…。他のもっと良い誰かに目を付けていたから、イリアちゃんは相手にされなかったって…」 先生の膝の上に座った僕は、彼に抱き付いてクッタリと甘えて言った。 「ねえ…先生?僕が、ギフテッドじゃなくて…ただの、馬鹿な子だったら…先生はこんなに優しくしてくれたぁ…?」 そんな僕の言葉に、先生は鼻からため息を吐いた。そして、僕の乾ききっていない髪を撫でながらこう言ったんだ。 「豪ちゃんは、初めて会った時の事を覚えてる…?」 先生と初めて会った時… それは、先生に謝りに行く惺山のお付き添いをした時だ。 チョコパフェの美味しさと…主観と、千疋屋のフルーツパフェの尊さを教えて貰った。 「…覚えてるよぉ…?」 僕はそう言って、先生の顔を見上げた。すると、彼は僕を見つめてこう言ったんだ。 「変な子だなって…思った。」 そんな彼の言葉に眉を顰めた僕は、先生の肩に顔を乗せて、彼の襟足を指に絡めて言った。 「ほら…そうだ…」 「何が…?」 「僕がバイオリンが上手じゃなかったら、先生は、僕の事を“変な子”って思う程度なんだよ?それってさぁ…僕が、ギフテッドじゃなかったら…優しくしてないって事だよぉ?」 そんな僕の言葉に、先生はクスクス笑った。 僕は、ただ、彼の襟足を指に絡めたまま…指先に感じる髪の毛の冷たさを感じて、口元を緩めて笑った。 「不思議だね…豪ちゃんは、いつもその話をする。」 先生はそう言って首を傾げて、僕の背中を撫でながらこう言った。 「何が、気になってるの…?」 気になる… 引っかかる… 心配… 僕は、体を起こして、先生を見つめながら言った。 「…多分、条件付きで愛されている事が、不安なんだと思う…」 「なる程…」 穏やかにそう言った先生は、僕の顎を撫でながらこう言った。 「…では、条件付きの“条件“とは…なんだい?何の事を言ってるの…?」 それは… 「…ギフテッドだから…って所がやだなって…いつも、思っちゃうの。ん、だって…僕は、ギフテッドが嫌なんだもん。でも、先生は…そんな物があるから、僕に優しくしてる…そうでしょう?」 僕は、しょんぼりと背中を丸めて、先生の胸を撫でながらそう言った。すると、先生は首を傾げてこう言ったんだ。 「では…条件付きの反対は、なんだい?どうなれば、君は不安じゃなくなるの…?」 それは… 「…ありのままの僕だよ…なんの特技も持たない、ありのままの僕だ。」 僕は先生を見つめてそう言った。すると、彼は肩を落として、こう言った。 「…君は、生まれた時から…ギフテッドだ。ありのままの君は…ギフテッドだよ?」 「ん、ばっかぁん!ちがぁう!ちがぁうの!」 僕は先生の胸を叩いて、怒って言った。 「…僕が、もし、バイオリンを弾けない人だったら…?こんなに優しくしてくれる?」 「それは、論理が破綻してる。だって…豪ちゃんは、バイオリンが弾けるからね。無い事を心配する事をなんて言うか、知ってる…?」 先生は、僕の頬を撫でながら、クスクス笑ってそう言った。だから、僕は首を横に振って頬を膨らませた。 すると、先生は僕を見つめてこう言った。 「杞憂って…言うんだよ。お馬鹿さん。」 杞憂… 「豪ちゃんは、バイオリンが弾ける。弾けなくなる事は無い。なのに、そんな無い事を想像して、悲観な思いに心を乱すのは、建設的じゃない。時間の無駄だ…。」 先生は、僕の鼻をチョンチョンと叩いて、笑いながらそう言った。 「でも、嫌なんだ。僕がバイオリンを弾けなくても、優しくするって言ってよ。そうしたら、僕は安心するんだぁ。」 僕は、先生の眼鏡をカクカク動かしながらそう言った。すると、先生は、首を傾げてこう言った。 「…それは、無いなぁ。だって、先生は…音楽の先生だもの。」 「ん、ばっかぁん!」 僕は怒って先生の膝から降りた。そして、そのままプリプリして二階の自分の部屋に入って、ベッドの中に潜り込んで、泣きながら寝た。 知ってる… 知ってるもん… 僕はギフテッドだから、先生の所に来てる。 彼に守られながらバイオリンを上手に弾ける様になる事が目的なんだ。 なのに、いつも…こんな思いが、僕の心を乱す。 バイオリンが弾けなくても…僕の事を大事にしてくれるよね…? 僕は、先生に…何を求めてるんだろう… どうして、こんなに…心が乱れて、悲しくて、自分がバイオリンが弾けることを疎ましく感じてしまうんだろう… 7月26日(火) くもり ちょっとだけ寒い。 出来る事:一度聴いた曲を弾ける 出来ない事:運指、楽譜を読む事 目標:上手になりたいなぁ…そして、惺山に会いたいなぁ… ほっくんに言われた通り…僕は、週に一回。記録を付ける事にした。 でも、何を書いたら良いのか分からなくて…こんな事を書いた。 ノートをパタンと閉じて、散歩で疲れたのか…水をゴクゴクと飲むポンポンに言った。 「ポンポン…?もうすぐ、チッコリータさんが帰って来るね…?嬉しい?」 …僕は、少し…寂しいけど。 君は、本当のご主人様の方が、嬉しいのかな? 僕の声に首を傾げたポンポンは、体を寄せて僕にスリスリしてくれた… …可愛いな。 テラスの椅子から立ち上った僕は、キッチンで朝ご飯を作り始めた。 畑では、きゅうりとトマトの収穫が終わりを迎えそうだ。 梅雨の無いカラッとしたフランスの気候が、その他の野菜の成長にどんな影響を及ぼすのか…僕は、少しだけ心配していた。 だって、期待していたキャベツが全滅したんだもん…やんなっちゃう! 「…簡単に、食べられる物と…みんなに配れるもの…」 ブツブツそう言いながら、僕は、朝からキッチンをフル稼働させた。 「おはよう…豪ちゃん、甘い…良い香りがするね…」 先生は、僕の頬にキスして、熱々のオーブンの中を覗き込んで言った。 「何が…出来るのかな…」 僕は口を尖らせたまま、そんな先生の言葉に無言を貫いた。 どうしてか、自分でも分からないけど…そんな風に、しちゃったんだ。 いつもの様に、テラスに座る先生にコーヒーを出した。 すると、先生は、いつもよりしっかりした様子で、僕の手を掴んで言った。 「怒ってるの…?」 「ん、怒ってないよぉ…?」 口を尖らせたまま…僕はそっぽを向いてそう言った。 どうしてか…自分でも分からないけど…そんな風に、しちゃったんだ。 オーブンから取り出した…鉄板にそのまま敷いて焼いたフィナンシェを、僕は、ちょうど良い大きさに包丁で切り分けた。そして、余熱を冷ます間…卵と、ツナのサンドイッチを作って、取り出しやすくナプキンで包んで、お弁当箱に入れた。 「よしよし…後は、朝ご飯だぁ…」 既に煮込んだ野菜スープに塩コショウを振って、仕上げに庭で育てたパセリを掛けた。 「あぁ…!良い香り~!やっぱり、取れたての野菜は…違うぅ~!」 パセリの良い香りに機嫌がよくなった僕は、ルンルン気分でトマトと卵を炒めた。 「いただきまぁす。」 そうして…先生と隣り合って…朝ご飯を食べるんだ。 「トマトが美味しいね…?」 「ふんだぁ…!」 僕は、顔を覗き込んでくる先生から、ことごとく顔を逸らして、鼻息を荒くした。 どうしてか、自分でも分からないけど…そんな風に、しちゃうんだ。 美味しい野菜スープを飲んだ僕は、うっとりして言った。 「はぁ…美味しいねぇ。このパセリはね?お庭で育てたパセリなんだよ?良い香りでしょ…?見て?こんなに立派に育ったの…!ワサワサ生えてるから…たっくさん使えるんだぁ…!」 キッチンからパセリの枝を持って来た僕は、先生の鼻に付けて、クスクス笑ってそう言った。すると、先生は鼻をクンクン動かして、こう言った。 「いい香りだ…」 そんな彼の笑顔を見た瞬間、僕は、再び…頬を膨らませて、顔をそらして鼻息を荒くして言ったんだ。 「ふぅ~んだ!ふんだ!ふんだぁ!」 「今日は行かないもん!」 支度をする先生を見つめながら、僕は地団駄を踏んでそう言った。すると、先生はベストのボタンを閉じながら、クスクス笑ってこう言った。 「あぁ…そうだね。」 キーーーー! 「幸太郎が来ても話しちゃ駄目だよ…どうも、彼と話すと、豪ちゃんが怒る事が多い。」 先生はそう言って、僕にキスをした。そして、上着を手に掛けたまま玄関へ向かったから…僕は、クルンと纏めた2つの包みを差し出してこう言ったんだ! 「先生に…あげる…。ふんだ!要らなかったら…どぶに、捨てたら良いんだよ?こっちは…お昼ご飯。こっちは…型無しで作ったフィナンシェ…。焦がしバターが効いてる、とってもしっとりした上品な仕上がりになったから、フランス人も好きだよぉ…?みんなに配って…仲良くなったら良いじゃない…ふんだぁ!ふんだぁ!」 僕は、そんな悪態を吐きながら…先生にお昼用のサンドイッチと、差し入れ用のフィナンシェを手渡した… すると、先生は、とっても嬉しそうに瞳を細めて微笑んで言った。 「わぁ…!これは、凄いね…!」 そうだよ? 僕は、バイオリンが弾けなくても…こんな事が出来ちゃうんだから! 僕は鼻息を荒くして、先生を見つめて口を尖らせた。 そんな僕の口を指で突いた先生は、クスクス笑いながら…こう言ったんだ。 「昨日…豪ちゃんが、ジンギスカンダンスを踊った後…コンマスが、すっかり…君のファンになったんだよ。本当は君の指揮が気に入ったみたいだけどね…。彼は素直じゃないから…ジンギスカンダンスが良かったと…しつこく食い下がってた。」 え…? 「本当…?」 僕は目を丸くして先生にそう聞いた。すると、彼は眼鏡の奥の目じりを下げてこう言った。 「本当さ…。オケなんて、君が幸太郎を叱った姿を見てすっかり気に入った様子だったよ。だから、指揮棒なんて渡したんだろうね…。お陰で、最終調整が上手くいきそうだ。きっと、ふふ…みんな、喜んで食べるよ。ありがとう…。行ってくるよ…。」 「ん…先生!」 僕は、思わず先生に抱き付いて、頬ずりしながら言ったんだ。 「怒ってないの…怒ってないのぉ…!」 「ん…分かってるよ。頬にキスを頂戴…」 僕はしょんぼりと顔を沈めて…先生の頬にキスをした。 僕は…情緒不安定だ。 それは、まるで…作曲が上手くいっていない時の…惺山みたいに。 部屋に戻った僕は、ピアノに腰かけて…運指の練習を始めた。 「…僕は、バイオリンを上手になる為に来たんだよ…?こんな風に、練習をする必要があるんだぁ…」 ブツブツと、自分に言い聞かせる様に…声を出しながらそう言った。 先生が…言ってくれたら良かったのに… バイオリンを弾けなくなっても、僕に優しくするって…言ってくれたら、良かったのに。 そんな、下らない事を考えない様に、僕はヘッドホンを耳に付けて、新しい曲を聴きながら、運指の練習をした。 #41 「下ごしらえは…俺だって、得意なんだ!」 まもちゃんは、いつもよりも張り切って、厨房に立ってそう言った。 きっと、豪ちゃんの料理捌きを見て…自分も何か作りたい!…とウズウズしていたんだ。その証拠に…彼は着替えた傍から腕まくりをして、いつもはギリギリまで部屋にいる筈なのに…早々に店に降りて厨房に立ってるんだもの。 「今日は…夜から開店なんだね…ふぁ~!」 俺は、まだ、時差ボケから解放されない。 向こうで過ごした2日間は、緩急の付いた時間だった。 大慌てする事態と…まったりとのんびりする時間…そんな物が交互に訪れたから、俺はすっかり…疲れたみたいだ。 そんな俺の様子を横目に見たまもちゃんは、肩をすくめてこう言った。 「上で寝てても良いよ…?」 そりゃ、ありがたい…! 「いいや。手伝うよ?店番が、好きなんだ。」 彼の言葉に首を横に振った俺は、エプロンを付けて、大きなあくびと一緒に両手を伸ばして、伸びをした。 ふと、時計を見上げて、時間を逆算して…遠くの天使へ思いを馳せた。 豪ちゃん…何してる? ちゃんと、練習してるかい…? カラン… 開店と同時に、常連のお客さんがやって来て…俺の顔を見て満面の笑顔で言った。 「やっと開いたかと思ったら、北斗がお手伝いに来てたぁ!」 「いらっしゃい…!これからは…俺は、ずっと、店に居るよ?」 そう…これからは…ずっと、ここに居るんだ。 まもちゃんのお店は、昼は…地元の手軽なレストラン。夜は、少しだけ大人の雰囲気を出した…手の込んだ料理を出す…知る人ぞ知る穴場の店だ。 小粋なジャズバンドの生演奏や…詩の朗読会…そんな物が定期的に行われる。人が集まる店なんだ。 素敵だろ…? 「北斗…ビーフシチュー2つ。」 「はいはい…」 俺は手慣れた様子で、お客さんの注文を取って…厨房のまもちゃんへと伝えていく。 「まもちゃん、ビーフシチュー2つ。」 「ほいほい!」 既に注文が聴こえていたのか…彼はビーフシチュー用のスタンバイを済ませて、お鍋の中を掻き混ぜていた… ご機嫌だね…? このまま…閉店まで機嫌よく過ごしてくれれば良いけど… そんな事を思いながら、俺はお客さんに、水の入ったグラスを運んだ。 カラン… 「いらっしゃい…!」 しばらくお休みしていたせいか…お客さんは、次から次へとやって来た。 「北斗~!また、しばらく働くの?」 「いいや。俺は、ずっと…ここに居る事にしたんだ。だから、毎日来てよ!」 常連のお客さんは、俺とまもちゃんのただならぬ関係を知っている。だからか…俺の言葉に、何かを察して…瞳を潤ませてこう言って、肩を叩いた。 「…そっかぁ、とうとう…とうとう、落ち着くかぁ!」 「んふふ…そうだよ。落ち着くんだ。」 にっこりと微笑み返した俺は、手際よくお客さんを席に案内して…いつもそうする様に、注文を聞いた。 7月の繁盛期を迎えた軽井沢は、常連のお客さんと、観光のお客さんが五分五分の割合で、あっという間に店内は満席になった。 そして…外で順番を待つ行列が出来始めた頃、まもちゃんがイライラし始めたんだ。 「北斗…この注文はさぁ…もっと、早くに言ってくれないと、いっぺんには出せないだろ…?はぁ…まったく!まったくだ…!」 俺はお客さんの注文を取ったら…すぐに、カウンター越しに彼にその注文を伝えてるよ? 早くも、遅くも無いんだ… なのに、忙しくなってイライラし始めたまもちゃんは、そんな理不尽な事で俺に文句を言ってくる。 でもね、俺は…彼と過ごして長いんだ。 こんな時…どうすれば良いのか、良く分かってる。 「あぁ…そう。」 そう。適当に流すんだ。 そして…次の注文から、口頭で伝える以外に、紙に書いて…カウンターの裏に貼っておくんだ。もちろん…注文を取った時間も一緒に書いてね…? このときの注意点は、彼から見て…左から順にメモを張って行く事だ。 以前、苛ついた彼に頭に来て乱雑に貼った時…彼はパニックを起こしたんだ。 貼ってある順番と、書いてある注文を取った時間を見比べながら…彼は頭を抱えて地団駄を踏んで言った。 「北斗…!どうして、こんな、分かり辛く貼ったんだぁ!」 おっかしいよね? 時間を見て…順番に貼り変えれば良いだけなのに、まもちゃんは頭の中でパニックを起こして…項垂れて、厨房の椅子に座り込んじゃったんだ。 ハングアップってやつだ。早々に諦めて…試合を放棄したんだ。 ただでさえ1人でまわしている、忙しい厨房… 捌く料理の数が増えて行くと、彼の頭の中は…すぐにパンクする。 でもさ、さすがに…注文を取って出しただけなのに、あんな言い草は頭に来るだろ?だから、俺は厨房の中でイラつきを見せるまもちゃんに…こう言ったんだ。 「…豪ちゃんだったら、ニコニコ笑いながら全部ケロッとやっちゃいそうだね…?」 すると、まもちゃんは…ギラリと目を光らせて俺を睨みつけて来た! おぉ…怖い! 俺は、慌てて、逃げる様にお客さんに水を注ぎに行った。 思った事をすぐに言っちゃうのは…俺の悪い所だな。 「北斗、持って行って…?」 そんな、まもちゃんの声にカウンターへ急いで戻った俺は、余裕を醸し出す様に、不自然に笑顔を見せるまもちゃんを無視して、料理を運んだ。 左手に2つ…右手に1つ…俺はこんなに、いっぺんに運べるようになったんだ。 凄いだろ…?年季が入ってるんだ。 「ほっくん、持って行ってぇん!」 そんな声に…俺は、再びカウンターへ向かった。 そして、フワフワの髪をボサボサに逆立てて…不自然に目を丸くして、ウルウルと瞳を潤ませるまもちゃんを無視して…料理を運んだ。 めちゃめちゃ…豪ちゃんを意識してるっ! 笑いを堪えるのも大変だ。 でも、一度でも笑ったら…何度でも繰り返す。それが…まもるだ。 だからこそ、破壊力の強いおかしな事は…スルーするのに限るんだ。 カラン… 店のドアが開いた。俺は、すぐに入って来るお客さんに、笑顔でこう言った。 「いらっしゃいませ~。只今混み合ってます。待ち時間1時間ほど頂いております。よろしかったら、お名前をお書きになって…外でお待ちくださ~い!」 繁盛期だ! これからもっと忙しい季節がやって来る… 俺と彼が出会った…8月が、もうすぐやって来る。 -- 「ん、も~…!しつこいなぁ…」 僕は困っていた… 幸太郎が、しつこく呼び鈴を鳴らしたり…テラスの窓をノックしてくるんだ… でも、僕は…先生に言われた。 幸太郎と会っちゃ駄目だって…言われたんだ! 「帰ってよ。今日は、幸太郎と遊ばなぁい!」 僕は、窓越しに、テラスで立ち尽くす彼にそう言った。 すると、彼は嬉しそうに笑って、僕に言ったんだ。 「豪。海に連れてってあげる!」 えぇ…?! 海… それは、湖の近くで育った僕には、珍しい物だった。 「海~?」 首を傾げてそう聞くと、幸太郎は僕の目の前に来て、こう言った。 「そうだよ?俺は、海の見える別荘を持ってるんだ。そこに連れて行ってあげる。」 すっごぉい…! 目を丸くした僕は、幸太郎を見つめたまま…考え込んだ。 僕が幸太郎と遊びに行ったら、先生は…がっかりするだろうな… 「ん…いかなぁい…」 首を横に振って…僕は、魅力的なお誘いを断った。 「…なぁんで?おしゃべりしよう?こっちに出て来てよ…」 そんな甘い言葉を、しきりに浴びせて来る幸太郎を口を尖らせて見つめた僕は、背中を丸めて…階段を上った。 そして…先生の寝室に閉じこもって…彼のベッドの中にもぞもぞと入った… 「先生…幸太郎がしつこいんだぁ…」 そして、ほのかに香る…先生の匂いを嗅ぎながら…寝た。 目を覚ますと…窓の外は、もう夕暮れだった… 「沢山寝ちゃったぁ…」 体を起こして、部屋を出て、階段を降りた僕は、テラスの椅子に座ったままの幸太郎の背中を見つけて、ギョッとした。 寝ているのかな… 全く動かない彼の背中をまじまじと見つめながら、僕は、こっそりとテラスに出て…ポンポンの体にハーネスを付けた。 すると、お散歩の大好きなポンポンは、思いきりジャンプして大喜びした。そんな物音に目を覚ました幸太郎が、僕を見つめてにっこりと微笑んで言ったんだ。 「ふぁぁ~!やっと…出て来たな?」 先生…? 僕は、やだってお断りしたんだよ…? 僕は、何度も…駄目って言ったんだ。 僕は、そんな思いを胸の中で何度もつぶやいた。 「犬の散歩って…楽しいね…?」 僕の手を握って…幸太郎が笑ってそう言った。 だから、僕は首を傾げて言ったんだ。 「ポンポンは、チッコリータさんのワンちゃんなんだぁ。ニューヨークに出張に行った彼女の代わりに…今だけ、僕が面倒を見てるんだぁ。」 すると、幸太郎は、僕の肩を抱いてこう言った。 「そっか…」 彼は、そう一言つぶやくと…前をグングン進んで行くポンポンのリードを一緒に持ってくれた。 幸太郎は、悪い犬じゃない…ただ、少し…迷惑な犬なだけなんだ。 だって…ポンポンの力に引っ張り続けられる僕を、そっと…優しく、助けてくれたもの。 公園までやって来ると、子供たちの元気に遊ぶ声が聞こえて来て、そんな声に興奮したポンポンが、自分も遊びたい!とリードを思いきり引っ張った。 「…おおっと!」 いつもなら引きずり回される所だけど…今日は、幸太郎がいるから、僕は、転ばずに済んだ。 ホッと胸を撫でおろした僕は、幸太郎を見上げてこう言った… 「幸太郎?」 「ん?」 僕を見下ろした幸太郎は、眉を上げて、穏やかな笑顔をしていた…でも、昨日の、幸太郎は…僕の心を弄ぶみたいに…少し意地悪に見えた。 僕は、ため息を吐いて彼にこう言った。 「昨日…話していた事だけどさぁ…。イリアちゃんは残念だったけど…先生は、僕にバイオリンを教える事に決めたんだぁ。だから…それを…悪く言わないで…」 自然と落ちて来る涙は… 彼が、ギフテッドの価値を天秤にかけて、自分を選んだという事実と、そんな逸材だからこそ…優しくされているという事実を、認めて…悲しんで泣いている涙だ。 僕は…特別で、だから…先生に優しくされている。 主観を取り払えば、見えてくるのは…残酷で、非情な、現実だけ。 バイオリンを弾かない僕になんて、先生は用が無いんだ。 「泣かないで…豪。お前を泣かせたくて…言ったんじゃない。ただ…ただ!理久は…お前が思ってるほど、お人好しじゃないんだって…そう言いたかったんだ。」 そうだね… 僕は、それを…自分への愛情と、勘違いしていたみたいだ。 全部、彼を好きだって思う…僕の主観が、そうさせたんだ。 僕の涙に動揺した幸太郎は、流れて来る涙を何度も拭いてくれた… やっぱり、彼は…何だかんだと、良い犬だね。 「豪ちゃん、これはどういう事なんだい…?」 先生が、思ったより…早く帰って来た。 一緒に畑の世話をする僕と、幸太郎を見て…先生は、腕を組んで困った様に眉を下げていた。だから、僕は、彼を見上げて言ったんだ… 「先生…?幸太郎、遊びに来て…帰ってくれないから、一緒に…お散歩に行って、畑の世話をしていたぁ…。怒らないで…?もう、なにも…変な話は聞いてない。」 「わん!」 幸太郎が上機嫌で吠えると、先生は眉を顰めて彼に言った。 「…豪ちゃんに付きまとうなよ!なんなんだ!一体!…お前は、自分のコンサートを控えているんだろ?こんな所で油を売ってないで、そっちを真面目にやれよ!全く!お前みたいな目立つ奴がウロチョロすると、この子の居場所がばれるだろ!」 「でも…優しい所もあるんだよ…?」 僕は、先生の手を握ってそう言った。すると、彼は、僕の顔を覗き込んで怒ったんだ。 「豪ちゃん、幸太郎に何されたか忘れちゃったの…?私は、森山君に合わせる顔が無くなるよっ!…はぁ。まったく!まったくだ!」 惺山… 「…うん。」 胸の奥が痛いよ… 僕は…下唇を噛み締めて、部屋に入った… そして、水を一杯コップに注いで、テラスまで持って行って、幸太郎に手渡した。 「…飲んだら、帰ってぇ…?僕は、もう…幸太郎と遊ばないよ…?もう、ここに来たら…駄目だよ…?幸太郎は、良い子だから…僕の言う事、聞けるでしょ?」 僕は、水を飲み干した幸太郎にそう言った。悲しそうに眉を下げる彼を見つめて、付け足す様にこう言ったんだ。 「…飼い主になったばっかりなのに、ごめんね…。僕は、やらなきゃ駄目な事があるんだぁ…。だから、ごめんね…。幸太郎は、本当はお利口な犬だよ…?だから、自暴自棄にならないで…ベンみたいに、強い犬になるんだよ…」 汗をかいた彼の頭をナデナデして…僕は、踵を返して部屋へ戻った。 そして…ピアノの上に置いたバイオリンを手に持って、運指の練習を始めた。 僕は特別だから…ここに、居られるんだ。 愛されている訳じゃないんだ。 #42 「繁盛期だけでも、厨房に人を雇えば良いじゃん!ゴリラになるくらいなら、人の力を借りろよっ!」 「…そ、そんな…」 イライラの達したまもちゃんは、とうとう、俺を怒らせた。 厨房の中でしょんぼりと背中を丸めた彼は、俺の顔色を伺いながら…仕事を続けた。 怒ってる…?あぁ、ムカついた! だって、俺がお酒を作ってるのを…遅いだなんだ、文句を言って来たんだ。 「北斗、カクテルはさ…食前に出してくれないと…駄目だろ!」 俺は頑張って、カシスオレンジなんてもんを作っていた。すると、まもちゃんがカウンター越しにそう言って来たんだ! ランチのコーヒーとは違って、お酒を作るのって…めっちゃ難しいんだ! 常連客なら、北斗、うす~い!で、済む話は、観光客のお客さんには通用しない。 こちとら、真剣に、カウンターの内側に貼ったメモを何度も確認しながら…慣れない酒を作ってんだ! 澄ました顔でお酒を運んだ俺は、申し訳なさそうに眉を下げるまもちゃんを無視して、彼の言った、“カクテルの後に出さなければいけないお料理”を手に持って、こう言ったんだ。 「では…持って行きますね?大丈夫、お酒は、ちゃんと先に出しました!」 「あぁ…北斗ぉ…」 狼狽えろ! …そして、二度とあんな事を言わない様に、胸に焼き付けろ! 「すみませ~ん!モスコミュール、ひとつと…レモンサワーと、熱燗!」 ここは飲み屋じゃない! 今すぐに、ドリンクのメニューから…アルコールをビールだけに変更して欲しい! 悪気の無いお客さんに胸の中で悪態を吐いた俺は、ニッコリと笑顔でこう返した。 「は~い…!お待ちくださいね~。」 怒涛の夕食タイムを終えて、お客さんが落ち着いた頃… まもちゃんの店は飲み屋と化して、ドリンクを作る…俺の戦場へと変わるんだ… 踵を返してカウンターの裏に戻ると、大きな背中を丸めて、せっせとドリンクを作るまもちゃんが居た。 俺は、そんな彼の隣に立って…黙々とドリンクを、一緒に作り始めた。 すると、まもちゃんは俺に縋りついてこう言ったんだ。 「…ごめんね?北斗ちゃん…ごめんなさぁい…」 「…ふん。料理の注文が無いなら…まもちゃんが全部、飲み物作ってよ!」 俺が鼻を鳴らしてそう言うと、まもちゃんはせっせとドリンク作りに精を出した。 「繁盛期は、ビールだけにしてよ!」 「せめて…モスコミュールと、カシスオレンジは…出したい所だ…」 閉店した店内で、俺はまもちゃんに直談判をしていた。すると、彼はモゴモゴと口ごもりながら…そんな贅沢な事を言ったんだ。 「…それに、ほらぁ、北斗ちゃん…忙しくなるのって一瞬だからさ…その時さえ超えれば、いつも通りなんだから…」 俺の肩をモミモミしたまもちゃんは、ご機嫌を取るようにそう言って、冷蔵庫の中からプリンを取り出して言った。 「どぞどぞ…!本日の労働の、対価です。」 やっすいなぁ! 俺の労働の対価は…まもるのプリン、360円だ。 それと… 「お疲れ様…。北斗がいてくれて、嬉しい…!」 こんな言葉と…大好きな彼の、キスだ… 悪くない。 「もっとして!」 俺は猫柄のクッションに座りながら、口を尖らせて、両手を伸ばしてまもちゃんにそう言った。 すると、彼はグフグフ笑いながら体を屈めて、俺に高速のキスと、ねっとりと甘いキスを交互にくれた。 これを人は…幸せって呼ぶんだ。 「豪ちゃん…」 「…もう、幸太郎は来ないよ…。だから、もう…怒らないで…」 僕は、運指の練習をしながら、視線も向けずに、先生にそう言った… すると、先生は…鼻でため息を吐いてこう言った。 「…サンドイッチ、美味しかったよ。ごちそう様…。フィナンシェも大人気だった…。あっという間になくなってしまったよ…?ありがとうね…」 そっか…それは… 「…良かったぁ。」 運指の練習は、単調で、退屈で、飽き飽きする… でも、これを疎かにしてはいけないんだ。 先生は書斎へ向かった… だから、僕は、耳にヘッドホンを付けて…聴いた事の無い曲を3曲聴いた。 そして、惺山が作ってくれた…音符の記号が書いてある楽譜を持って来て、それを書き写しながら、お勉強したんだ。 遊びに来ている訳じゃないんだ… 先生に甘ったれに来ている訳でもない… ここに居られる理由は…ただひとつ… 僕が、ギフテッドで…バイオリンが、人よりも上手に弾けるからなんだ…! 「…先生?これ…何て書いてるの…?」 僕は、惺山の書いてくれた楽譜を手に持って、書斎の先生の元を訪れた。そして、彼が首を傾げる中、惺山の書いてくれた汚い文字を指さして、首を傾げた。 すると、先生はその隣にキレイに書き直して…こう言った。 「…カンタービレ…歌う様に…っていう意味だよ。これは、発想記号と言って…作曲者の表現や…演奏の時の情緒を表現する時に、参考にする物だ。」 「ん…」 僕は、短くそう言って頷いた。そして、踵を返して…書斎を出ると、再び…記号を書き写しながら、お勉強をした。 「フォルテッシモは…とても、強く…。フォルテシシモ…?フォルテシシシモ…?」 僕は…鉛筆を持つ手を震わせて…必死に目を見開いた… 何これ… 何これ…!! シシモって…何これ!! 「ぶはっ!あ~はっはっはっは!!」 大笑いしながら、僕は“f”を何個も書いて…その数だけ“シシモ”を書いた。 “f”が4つで…フォルテシシシモ…って事は… “f”が10個なら…フォルテシシシシシシシシシモだぁ…!! 「あ~はっはっはっは!!バッカみたいだなぁ!」 そして、僕は再び…鉛筆を持つ手を止める事になった… 何これ… 何これぇ…!! “p”が…ふたつで、ピアニッシモ…“p“が…みっつで、ピアニシシモ… 「なぁんだぁっ!“f”だけシシモじゃなくて…“p”もシシモなんて…紛らわしいなぁ!強シシモ、弱シシモにすれば良いのに…!バッカみたぁい!」 そもそも、シシモってなんだぁ! 強調する…と言う意味だとしたら、すっごい怒ってる人は…怒シシシシシモ?すっごい悲しい人は…悲シシシシシモ? 「…シシモ。」 僕は、首を横に振りながら…ポツリと呟いた。 「…何してるの…?」 ダイニングテーブルでお勉強を頑張る僕に、先生が声を掛けて…僕の手元のノートを見下ろして首を傾げた。 だから、僕は…先生から視線を外して…こう言ったんだ。 「…惺山が作ってくれたの。お勉強してます。」 「ふふっ!…これは…?」 先生はクスクス笑いながら、僕のノートを指さした。 そこには…ノートの端から端まで…書ける分だけ書いた…“f”がズラっと…並んでいる。 僕は首を傾げながら、指で“f”を追いかけて言った。 「ん、それはぁ…フォルテシシシシシシシシシシシシシシシシシシ…モ…」 「ぶほっ!」 先生は吹き出して大笑いした。僕は、そんな彼を見ない様にして…首を傾げた。 夜ご飯は…下味をつけて凍らせておいた…プルコギを作った。 スープに使ったネギがとっても太くって…僕は大満足の白髪ねぎを切る事が出来たんだ…。先生は…わかめときゅうりの酢の物が気に入ったみたいで、よく食べていた。 「先生。おやすみなさい…」 食事を終えて、片付けを済ませた僕は…惺山のバイオリンを抱えて…自分の部屋へと向かった。 惺山…何をしてますか…? 僕は、何だか…とっても寂しい。 胸に抱いたバイオリンを指で弾いて…僕は、ベッドの上で…”きらきら星“を弾いた。 7月27日(水) 晴れ  出来る事:家事と、動物のお世話 出来ない事:普通にすること 目標:惺山に会う事!先生に甘えない事!新しい料理にチャレンジする! 僕は、週に一回書けば良い筈の記録を、今日も付けた。そして、ポンポンとパリスに餌をあげて、畑の水やりをした… 「あぁ…コンコンブルは、もうお終いみたい…」 支柱に巻きつけた親蔓は、くたびれた様にしなだれてしまっていた… 「…ミミ!」 そんな声に振り返った僕は、久しぶりの顔を見てにっこりと微笑んで言った。 「…チッコリータさん!」 #43 まもちゃんとの日常…2日目。 朝の営業を終えた俺とまもちゃんは、夜のお店が始まるまで…お店の2階の部屋で、ダラダラと過ごすのが、日常だ。 ベッドでダラダラするイケメンを見つめながら、俺は、森山惺山の交響曲を繰り返し練習していた… 「はぁ…あの陰キャが、そんな曲を書くのか…」 まもちゃんは鼻をほじりながらそう言った。俺は、そんな彼を見ない様に視線を逸らして言った。 「…仏頂面は、彼の一面さ。豪ちゃんの話を嬉しそうにしていた彼は…朗らかで、柔らかい笑顔だった。」 そう…天使に惚れてしまった理久みたいに…穏やかな笑顔をしていた。 「そうだ…北斗。後藤さんがさ、奥さんと結婚祝いをしたいって言ってさ。お前に一曲弾いて欲しいって言うんだけど…幾らするのって、聞かれたんだ。」 後藤さん… それは、俺とまもちゃんが出会ったあの夏からの付き合いの…まもちゃんの店の常連客のおっさんだ。 俺の事を…”北斗ちゃぁん“って呼ぶ…変態だった。 4年前…メンヘラの奥さんと結婚して、実家と縁を切った所までなら知ってる。未だに、婚姻関係が続いてるなんて…ある意味、奇跡だ。 顔を歪めた俺は、まもちゃんを見下ろしたまま、バイオリンを弾いて言った。 「…そだな、150万。」 「はぁ~~~~!!言い値だな!」 そうさ。 音楽家も画家も、自分の価値を自分で決められる。 安く売る奴が相場をみだりに下げるなら…高く売る奴が均衡を保てば良い。 それを卑怯だとか、ズルいだとか、相場を乱すなんてぐちぐち言う奴は…自己プロデュース能力が極端に低い…日和った奴らなんだ。 文句があるなら…自分に高い値段を付けて売れば良いんだ。 ふてぶてしく…高額な値札をぶら下げる肝があれば…の話だけどね。 「…俺はね、安くないんだよ?」 俺は、得意げに眉を上げてそう言った。 そして、森山氏の楽譜に目を落として…譜読みをしながらニヤニヤと笑った。 この交響曲は面白い… 表の顔と裏の顔があるんだ。 表向きは…様々なジャンルが、摩訶不思議にひとつの交響曲を構成する…破天荒で先鋭的…他に類を見ない…真新しい構成の作品。 しかし、本当の姿は…あの子の生い立ちと…躍進する様を描いた…壮大で切ないラブレターだ。 それは、俺が豪ちゃんという人を知ったから分かった事… それとも、森山氏のあの子への恋慕を感じてしまったから気付いた事なんだろうか… その、両方かもしれない。 交響曲の第三楽章…バイオリンのソロ… 俺のバイオリンよ…今ならどんな音色で、聴かせてくれるんだ…? 瞳を閉じて…俺は頭の中に豪ちゃんを思い描いた。そして、弓を弦に当てて…ソロを弾き始めた。 「おぉ…カッコいいね…」 そんなまもちゃんの感嘆の声を聞きながら…俺は、情景の中の豪ちゃんに集中した。 ここは…豪ちゃんが、独奏するシーンなんだ。 馬鹿じゃない天使のあの子が、翼を広げて…はためかせるんだ。 あぁ…素敵だ… 短いフレーズなのに…存在感が半端ない…紡ぐ音色は、重くても…響かない。 羽の様な軽さを持った…まるで、天使のささやき。 「ブラボーーー!」 まもちゃんがベッドの上で拍手をくれた… 弾けた… やっと…思う様な…豪ちゃんのソロが、弾けた…!! 瞳を開いた俺は、震える胸を押さえながら、偉そうに胸を張ってこう言った。 「お~い!まだ7月だぜ?俺は、森山惺山の交響曲を、攻略しちゃったよ!あ~はっはっは!あ~はっはっは!」 この音色を聴いた彼は…きっと、豪ちゃんを目の中に映す事だろう… 誰だって、情景を音色に乗せることは出来る。 方法は簡単…その状況を思い浮かべながら…弾けば良いだけだ。 だけど、なかなかどうして…人って言うのは、それを実践できない。 理由は様々だ。 俺の様に、心が悲鳴を上げていたり… いつかの少年の様に、執着心が上回ってしまっていたり… そんな、些細な事で…あっという間に情緒の表現は、乱れて、ブレて、かき消えてしまう。 曲に思いを乗せる…そんな単純でとっても大事な事は、万全の心の平穏が何よりも大切なんだ… それを、俺に、教えてくれたのは…天使だ。 -- 先生の家の前にチッコリータさんが居た… 帰ったばかりなのか、彼女は大きなスーツケースを引き摺りながら、僕たちの元へと走って来た。 ポンポンは、僕に世話になった事を一切合切忘れたみたいだ… チッコリータさんの顔を見るや否や…彼は彼女に服従した。 お腹を見せてゴロゴロと土の上で体を捩らせるポンポンを見つめたまま…僕は、軽く…彼を見限った。チッコリータさんはニューヨークのお土産を僕に手渡すと、ポンポンを連れて帰って行ってしまった…。 彼女と帰るポンポンは、僕の事など振り返りもしないで…行ってしまった。 「先生…?ポンポン…チッコリータさんの所に…帰った。」 僕は、ベッドで眠り続ける先生にそう言った… すると、彼はうつ伏せた顔を僕の方に向けて…細い瞳を開いてこう言った。 「…豪、悲しくないの…?」 悲しい…? 寂しくはなると思ったけど…あんなにあっけなく手のひら返しをされた僕は、少しだけ…ムカついていた。 「…悲しくない!だって…ポンポンは、僕の事なんて忘れちゃったみたいに…チッコリータさんにお腹を見せてゴロゴロ…ゴロゴロって…してたんだもん。あんなに、いっぱいしてあげたのに…あんなに、いっぱい、一緒に遊んだのに…僕には、ゼロだ!別れを惜しむ様子も無ければ、振り返りもしないで…!正直、イラっと来たぁ!」 そう言って僕は、先生の背中に顔を埋めて言った。 「もう…ワンチャンなんて、お預かりしない!恩知らずだもん!」 「あっはっはっは…!」 先生が笑う度に、彼の背中に置いた僕の顔が揺れて跳ねた。僕は、そんな彼の背中の温かさを感じながら、そっと瞳を閉じた。 「今日は、おにぎりにしたぁ…」 僕は、今日も先生のお付き添いには行かない…。 代わりに、梅干し入りのおにぎり3つと、みんなで食べる用に、サクサクのサクリスタンをバスケットに入れて持たせてあげた。 「クルミと…アーモンドパウダーが入ってるんだぁ…。クルミはね、ほっくんのすり鉢でガンッガンッて潰したんだよぉ…?すんごい音だったぁ…」 バスケットの中から一つ摘まみ上げた僕は、先生の口に運んで言った。 「…かじってみて?」 サクッ! 先生がかじると、とっても良い音がした…だから、僕はにっこり笑って残りのサクリスタンを自分の口の中に放って、満足げに眉を上げて見せた。 「ふふ…。きっと、取り合いだね。おにぎりをありがとう…行ってくるよ。」 両手に荷物をいっぱい持った先生は、僕に頬を向けた。 だから、僕は彼の頬にキスをして、玄関を開いてあげた。 「行ってらっしゃい。」 惺山。 一晩寝たら…僕は少しだけ吹っ切れた気がするんだ。 自分が特別で…先生と一緒に居るのは、バイオリンを上手に弾く為だって…納得し始めている気がする…。 頑固者の僕にしては…柔軟になったと思わない…? 実を言うと、今朝のポンポンの姿に…自分を重ねて見てしまった事も、そんな不満を吹き飛ばす要因の一つになったんだ… 僕も、いつか、あなたの元へ戻る時…先生の元を離れる時…ポンポンの様に、恩知らずな態度を取るのかな…? 振り返りもしないで…まるで、何も無かったみたいに…あなたとの日常に、戻って行くのかな…? 僕は手に持った洗濯物を洗濯機へ入れながら、深いため息を吐いた… ありもしない事を考えて悲観にくれる事を、杞憂と呼ぶと教えて貰った。 だとしたら、これも…きっと、杞憂。 「…僕は、先生に…あんな風にする気がしないよ…」 グルグルと回り始める洗濯機を覗き込みながら、僕は…誰もいない部屋の中で、ひとりポツリと呟いた。 さあ…僕は、やる事をやらないと… 洗濯は回した…次は掃除をして、最後に…パリスの様子を伺おう。 あんなに仲良しだったポンポンが、突然、居なくなっちゃったんだ… きっと、とっても悲しんでいるに違いない。 それは…僕の主観だったみたいだ。 彼女は、いつもの様に…畑のパトロールをしながら土の中の虫をついばんでいた。 「…パリスゥ…本当は、悲しいんでしょ…?」 僕は、テラスの窓に身を潜めて…彼女を見つめ続けた。 「コッコッコココココ…」 パリスの喉は、いつもの様にコロコロと鳴って…泣き叫ぶ事も…悲観に暮れて落ち込んでいる様な様子もなかった… なんだ、動物ってシビアだな…これが現実かぁ… だとしたら…先生も、僕が居なくなっても…変わらないのかも知れない。 僕はそう思いながら…勝手に自分が期待した“主観”をグチャグチャに丸めて、捨て去った。 惺山が言っていた…僕は、悪い方にばっかり考えすぎるって。 だから、考えすぎてしまう時は…考えなくても良い事をするんだ… 僕は先生の書斎へ行って…カッコいいCDプレイヤーにCDを入れた。 ほっくんの言いつけ通り…僕は、聴いた事もない曲を3曲聴くんだ。 とりわけ、先生の書斎は好都合だ。だって…沢山の音楽のCDがそこかしこにあるし…すぐに聴ける機械もあるんだもんね。 「んっとぉ…これはぁ…サンサーンス…”死の舞踏“ サンサンザンス…散々ザンス!あ~はっはっは!変な名前!」 ひとりでケラケラ笑った僕は、先生の椅子にゆったりと座りながら…”死の舞踏“なんて…物騒な曲を聴いた。 「わぁ…カッコいい!」 しかし、それは思った以上に…カッコいい曲だった。 「気に入っちゃったぁ!」 何度も頷いてそう言った僕は、先生の要らない紙に、先生の万年筆でこう書いた。 “散々ザンス!死の舞踏…かっこいい…わろた” 高い万年筆で字を書くと…ちょっとだけ、賢くなった気がする… 僕は、先生の棚から他のCDを漁った。 「ジャケット買いだぁい!」 綺麗な写真の写ったCDを手に取った僕は、再び…先生のCDプレイヤーに入れて…曲を再生させた。 「これはぁ…カプリス…カプリス…先輩ちょっと…マジで、かぷりっす!あ~はっはっは!だっさぁ~い!」 ケラケラ笑った僕は、先生の椅子に偉そうに座りながら…再び曲を聴いた。 「わぁ…!バイオリン!カッコいい!」 激しいバイオリンの音色は…僕の胸をフルフルと震わせて、僕は、何だか…この曲を先生に弾いて貰いたくなっちゃった… だから、メモの下に…先生の万年筆で、こう書いたんだ。 “かぷりっす、バイオリン…カッコいい。先生みたい…おもた。” 「あと…1曲~あと、1曲~」 すると、CDの隙間から…1枚の写真が飛び出してきて、僕の足元にひらひらと落ちたんだ。 僕は、それを拾い上げて、一緒に入っていたCDと合わせて眺めて見た。 そこには…若い先生が写っていた。 今よりも格好良くって、今よりも痩せてる! それは若い頃の先生のCDだった… 僕は、早速CDプレイヤーの中にセットして、再生ボタンを押した。 そして、大急ぎで先生の椅子に戻って…ワクワクしながら音が聴こえて来るのを待ったんだ。 そして…手に持った、若い先生の写真を眺めながら、聴いた。 「あぁ…カッコいい…」 うっとりと瞳を細めた僕は、写真の中の無愛想な先生の顔を…指先で撫でて…胸に押し当てた。 “木原理久 バイオリン全集 全部きいた。特に…”私のお父さん“が好き。だって…小さい頃の…ほっくんが見えたから。そして、先生は、意外とイケメンだった。” 先生のCDを最初から最後まで聞いていたから…いつの間にか…お昼を過ぎてしまった。 僕は慌ててCDをしまうと…若かりし頃の先生の写真とメモをノートに挟んで、そのまま書斎を後にした。 「イケね、イケね、お昼ご飯、食べ損ねちゃう~!」 そして、キッチンで作るのは…簡単な、インスタントラーメン。 たまに食べると…めちゃくちゃ美味しいんだぁ~! 「ふんふん…ふんふんふん!」 僕は、鼻歌を歌いながら上機嫌でネギのたっぷり入ったラーメンを作った… そして、テラスのテーブルで…ズルズルと啜って食べたんだ。 やっぱり、日本のインスタントラーメンは最強に美味しいんだ! また、てっちゃんに送って貰おう… 「コッコッココココ…」 「パリス…?ポンポンが居ないの、気が付いてる…?」 足元に寄って来たパリスを見下ろして、僕は、首を傾げながらそう聞いてみた。でも、彼女は、ツンと澄ましながら…行ってしまった。 まるで、ほっくんみたいだなぁ…

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