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#45~#48
#45
「行ってくるよ?北斗ちゃぁん!」
まもちゃんは今日も…早起きだ…
俺の髪にキスしたまもちゃんは、いそいそとジョギングへと向かった。
でも、どうかな…豪ちゃんは、もっと早起きかもしれない…
他人の犬の世話を、よくも、まあ、あんなに見れるもんだ!
俺は、おもむろにモゾモゾと体を捩って…布団の中から左手を出した。
「はぁ…」
そして。左手の薬指に付いた…指輪を見つめて、うっとりするのであった。
…11年間、寝かされた指輪。
デザインがシンプルだからかな…とっても、素敵だ…。
結婚指輪を身に着けた、女性の気持ちが分かる…
俺は…まもちゃんの、北斗になっちゃった!
んふふ…んふふ…
「…んふふふふ…!」
嬉しいな!嬉しいな!
ひとり、むふむふと喜んでいると、平和な朝を簡単にぶち壊してしまう…そんな奴らがやって来たんだ。
プップ―!
「北斗ぉ~!出てこぉい!」
「なんだ!」
俺はベッドから飛び起きて、窓を少しだけ空けた。そして、そこから…こっそりと下を見下ろした。
「はぁ…!!」
そこに居たのは…あの、チェロ兄弟…直生と伊織だった…
「…!マジで来たんだぁ!」
焦ったね…
俺は、スウェットとパーカーを羽織って…渋々、階段を降りて…表へ出た。
そんな俺の姿を見つけた彼らは、嬉々と走り寄って、こう言ったんだ。
「さあ!北斗…!車に乗るんだ!」
乗る訳無いだろ…
呆れた様に首を横に振った俺は、左手の結婚指輪を掲げて見せて、さりげなく匂わせた。
「えぇ…?行かないよ…」
そう言って髪をかき上げた俺は…左手を、ゆっくりと、見せつけながら下ろした。
「じゃあ…行こうか…」
しかし、馬鹿な直生は、俺の腕を掴んで…車に連れ込もうとした。
「も、もう!バッカだな!…本当!そんな事しか考えてないから、誰とも長く続かないんだ!」
俺は、直生の手を解いてそう言った。そして、彼の後ろで息巻く伊織に、こう言ったんだ。
「ストリッパーにフラれたのか!」
そんな俺の言葉に、直生と伊織は、肩を落としてこう言った…
「…あの子は…鑑賞用でお触り出来ないんだ…。だって、友達の奥さんだから。でも…多分…いっちばん…エロいと思う。」
はぁ…?!
最低だな!
「それを言うなら…見てみろっ!俺だって…もう、奥さんみたいなもんだぞっ!!」
俺は、派手に啖呵をきって、伝家の宝刀!左手の薬指の指輪を彼らの目の前に見せつけてやった!
…デデン!!
そんな効果音が付いてもおかしくない!
大見得を切って見せつけた指輪を、直生と伊織はまじまじと見つめている…
見たまえ…あぁ、とくと、見たまえ…
俺は、首を伸ばして…澄ました顔をして言ってやった。
「…悪いね。俺は、もう、海外を飛び回る生活を止めたんだ…。ここで、愛する人と、生涯を共に過ごす事にしたんだ。まぁまぁ…君たちは、スタンプラリーみたいに…パスポートを分厚くして行ってよ…」
「北斗!なぁにを言ってるんだ!」
お…?
真剣な顔をして俺に語りかける直生に…俺は、よもや…理久の様に俺の未来を憂いて…こんな所で立ち止まってはいけないよ…なんて、諭し始めるんではないか…と、期待した。
しかし、彼は首を横に振って…こう言ったんだ。
「俺たちは…トリオだろ…?トリオは、結婚しても…3Pするって意味だぞ…?テニスや草野球をするのと同じだ。ベッドの上のスポーツをする、仲間なんだ…」
馬鹿すぎる…
「何してんの…?」
そんな時、ジョギングから戻ったまもちゃんが、店の前で大きなふたり組と言い争う俺を見て…助けに来てくれた。
キュン
「まもちゃぁん…このふたりが、3Pさせろって…しつこいんだ。」
「…3P」
ポツリとそう呟いたまもちゃんは、顎に手を当てて…何かを思い出す様にこう言った。
「あの時…豪ちゃんのお尻、触っておけば良かったナ…」
は…?!
俺は、まもちゃんのみぞおちに肘鉄を食らわせてこう言った。
「なぁにを言ってんだよ…!ははは…!」
馬鹿野郎め…!
こいつらの前で、あの子の話をするんじゃない…!
「…豪ちゃん。」
しっかりと、人名をキャッチした直生は、伊織と顔を見合わせて首を傾げて言った。
「初めて聞く…名前だ…」
忘れろ…
今すぐに、忘れてくれっ!!
「だって…俺の目の前で、腰が…こう、うねってさぁ…はぁ、可愛いお尻がプリンプリンって揺れてるんだもん。それで、北斗に熱烈なキッスをしてるだろ…?あんなの…見たら、誰だって興奮するだろぉ~?いや、俺は触らなかったよ?触らなかったけど、ぺろりと舐めたちっぱいが…」
「まもちゃぁん!…汗臭いから、シャワーを浴びた方が良いよ…?!」
俺は大きな声を出して…彼を制する様にそう言った。
すると、まもちゃんは、俺が嫉妬したと思って…ケラケラ笑いながら、俺の首にキスしてこう言ったんだ。
「北斗ちゃんだけだよ~?愛してるの!ん、も~…ばっかぁん!」
軽い…
男なんて、みんなこんな程度なんだ。
かく言う俺も、豪ちゃんといつかしてやろうと頭の片隅に置いている事は、内緒だ。
俺は、大きな体のまもちゃんを回れ右させて、彼を階段まで押しながら小さな声で言った。
「馬鹿…!あいつらが変態なの、知ってるだろ…?豪ちゃんの事なんて教えたら、飛んでフランスへ行くよ?そうなったら、どうなるの?あの子が3Pの相手にされちゃうだろ?馬鹿!馬鹿!!」
「あ…」
事の重大さに気が付いたまもちゃんは、クルリと振り返って…直生と伊織に、こう言った。
「…ガチムチなんだ…!豪ちゃんは…!ガチムチの190cmの、髭マッチョなんだ!」
そんな言葉…今更…
俺はまもちゃんのお尻を叩いて、階段を上らせた。
そして…直生と伊織を振り返ってこう言ったんだ。
「…とにかく、俺は行かないから。」
「…財閥の大奥様に、曲を弾く予定がある…お前も一緒にどうだ…?」
まもちゃんの言葉が効いたのか…?
すっかり、豪ちゃんに興味を失くした直生は、俺の髪を撫でながらそう聞いて来た。
「…いつ?」
首を傾げて彼を見上げてそう尋ねると、直生はにっこり笑ってこう言った。
「…今日。」
全く…彼らは、いつも急に来て…急な予定を言ってくるんだ!
「…何時?」
「午後の6時。サロンで…ちょっとした音楽会を開く。」
…良いね。
彼らはね、人格としては屑だけど…良い演奏家なんだ。
そして…俺は、そんな彼らと合奏をするのが、大好きだ。
「分かった。迎えに来て…?」
短くそう伝えて踵を返した俺は、階段を上りながら、車へ戻って行くふたりの背中を見つめて思った…
お前たちに、豪ちゃんを教えたくない。
あの子の才能は、未知数だ…
きっと、花開けば…誰に何を言われなくても、否が応でも、誰よりも輝いて…目立って…自然と知る事となるだろう。
でも、今は…
まだ、駄目だ。
--
ジェンキンスさんのおばあちゃんがくれたラザニアは、とってもクリーミーで美味しかった。
僕は…隣に置いた手付かずのラザニアを見つめて…肩を落とした。
書斎に閉じこもってしまった先生は、晩御飯が、要らないみたい…
僕は早々にご飯を終えると、自分の部屋へと向かった。
“惺山へ
僕は、結構…先生を怒らせてしまう。今日も…とっても怒られた。
どうして、普通に出来ないのか、どうして、怒られない様に出来ないのか、どうしたら良いのか、分からない。
僕は、特別だから、みんなが僕を見たいんだって。
だから…先生は、困ってる。
惺山…怖いよ。助けて。僕は…ここに居たくない。“
フランスに来たばかりの時…先生は僕をヴェルサイユ宮殿に連れて行ってくれた。
その時、とっても綺麗なポストカードを買ったんだ。
繊細なタッチで描かれたマリーアントワネットさんは、素敵なドレスを着るには…少し、顔がむくんで見えた。
僕は、それを…ずっと、バラの花と一緒にしまっていたんだ。
いつか…紙の繊維の節々まで、バラの匂いが付くかと思って…そうしたんだ。
そんな素敵なポストカードで、僕は、あなたに…こんな手紙を書いた。
先生に甘ったれて、幸太郎と遊んで、違う事ばかりして…
いざ、本来の目的をこなそうとしても…僕は、人よりも、上手に出来ない。
考えが取っ散らかって…優先順位がめちゃめちゃになって、村に居た頃はそんなに強く感じなかった…自分の落ち着きの無さに…戸惑うんだ。
どうして言われた様に出来ないのか…どうして、すぐに違う事を始めてしまうのか…
自分でも、どうしたら良いのか分からないんだ。
「僕って…どうしようもない…」
ポストカードに書いた自分の文字の上に…涙がポタリと落ちて、僕は、慌てて、それを拭った。
どうして普通に出来ないんだ…!
兄ちゃんは、僕に、よくそう言って…怒ってたな。
「うっうう…うう…兄ちゃん…兄ちゃぁん…会いたいよう…会いたいよう…」
みんなは上手に予定を立てられるのに、みんなは集中して勉強できるのに、みんなには普通に出来る事が…僕には難しい。
村の分校…なんて、緩い環境に居たせいか、僕は、そんな自分の駄目さに気が付くのが遅かったみたい。
「…家事と料理は、得意なんだけどな…」
すると、先生が自分の寝室に入る音が聴こえた。
きっと、シャワーを浴びて…寝るんだ。
僕は、もぞもぞとベッドに入って、バイオリンを枕元に置いた。そして、何度もそうした様に…バイオリンの木目を、指先で撫でながら、ぼんやりと窓の外を眺めた。
ガチャ…
すると、僕の部屋のドアが開く音が聴こえて、僕は、咄嗟に瞼を閉じた。
先生は、僕の布団の上に散らばった…色付きのペンや、ポストカード…を片付けて、僕の髪を優しく撫でてくれた。
僕は、ずっと…寝たふりをした。
そして、先生が…部屋を出て、お風呂へ入る音を聞きながら、ボロボロと流れて来る涙を、そのままに…枕を濡らした。
7月29日(土)
出来る事:どうでも良い事
出来ない事:普通の事
目標:ない
先生の書斎に置きっぱなしにしたノートを取りに行って…テラスの椅子に腰かけて、今日の目標を立てた。
“ない”…
「にんじんが…細い…」
僕は、麦わら帽子を頭に乗せて…毎日の畑の世話をした。そして、足元を歩いて通り過ぎるパリスを見下ろして言ったんだ。
「…パリス?惺山に会いたいね…?フォルテッシモシモにも…会いたいね?」
彼女は少しだけ僕を見上げて、喉の奥を鳴らしてこう言った。
「コッココ…」
そうだね。だなんて…君が言った気がする。
「…ご飯の支度も、掃除も、洗濯もしなくて良い。自分の事だけやりなさい。」
いつもの様にお弁当を手渡すと…先生は、僕を見ずに…そう言った。
「…はぁい。」
僕は…それしか出来ないのに…
しなくて良いって、言われた。
そして…先生は、そのまま玄関を出て行ってしまった。
僕は、今日…彼に、一度も触れていない…
先生の書斎に入った僕は、昨日と同じ様にCDを漁って…3曲、新しい曲を聴いた。
それはどれも美しいメロディなのに…どうしてか、僕は…何も感じなかった。
「タイスの瞑想曲…綺麗だった。」
先生の要らない紙にメモして、そのまま…僕は机に突っ伏して瞼を閉じた。
外に出られないから…惺山に宛てて書いた綺麗なポストカードを出せない。
掃除、洗濯をしなくて良いから…何もする事が無い。
だから…そのまま、寝たんだ。
ガチャ…
いつの間にか…書斎の中に先生が入って来て、椅子に眠り続ける僕を抱き抱えて、書斎の中の小さなソファに寝かせた。
何時かな…そんなに、寝ちゃったのかな…
僕は体をムクリと起こして、書斎の時計を見上げた。
午後の3時…
なんだ…まだ、5時間しか…寝てなかった…
僕は再び、ソファに寝転がって瞼を閉じた。
運指の練習は…2時間だから、いつも4時から始めてた。つまり、あと1時間…何もしない時間があるという事だ。
だったら、寝てしまった方が良い…
耳に聴こえるのは…時計の秒針の音と、先生のいがらっぽい咳払いと、彼が走らせるペンの音だけ…
#46
「なぁんだ!忙しいんだよ?夜はね…ランチよりも戦場なんだ!雪の進軍なんて歌ってる暇もないくらい、忙しいんだからね!」
まもちゃんは口を尖らせてそう言った…
俺が、6時からの演奏会に出かけるのが、嫌なんだ。
店はアルバイトのお姉さんが来てくれる。だから、回らない事は無いんだ。
彼が気にしてるのは、そこじゃない…
俺があのふたりに会う事が、嫌なんだ。
「…何もしないさ。大奥様に演奏を贈るって聞いたから、参加するんだ。」
俺は、肩をすくめてそう言った。そして、まもちゃんの膝の上にゴロンと寝転がって、俺を見下ろしてニヤける彼の頬を両手でなでなでしてあげたんだ。
「…ね、行っても良いでしょ?」
潤んだ瞳で俺がそう聞くと、彼は口を歪めたままこう言った。
「…はぁ、分かったよ。」
やった!
心の中でガッツポーズをとった俺を他所に、まもちゃんは俺のでこっぱちを指先で撫でながらこんな事を話した。
「所で…あのロン毛は、少し、豪ちゃんの彼氏に似てると思わない…?」
は…?!
俺は、まもちゃんを見て固まった。
「た…確かに、少し似てる…」
ポツリとそう同意した俺は、突然与えられた事実に込み上げてくる笑いを…堪える事が出来なくなった!
まもちゃんをバシバシと叩いた俺は、ゲラゲラ笑いながらこう言った。
「あっはっはっは!似てる!似てる!森山氏を少し大きくしたのが…直生だ!あ~はっはっはっは!腹痛い!腹が痛い!」
しかし、仏頂面の森山氏の方が喜怒哀楽がある。
だって…直生は、無表情だからな。
「あ~はっはっはっは!!おっかしい!!おっかしい!!」
直生と森山氏、伊織も含めて…3人で並んだら…3兄弟だって言っても、疑われないだろう…
一番上の長男は無表情の変態で、二番目の次男は不愛想の陰キャ。一番下の三男は野獣の変態だ。
そして、みんな…もれなく、ロリコンなんだ!
「あ~はっはっはっは!腹痛い~~!!」
大笑いした俺は、森山氏に速攻でメールをした。
“森山さんに、似てますね…?兄弟ですか?”
そんな文と共に…直生と伊織のクリスマスホリデーの写真を添付してあげた。
ダサいセーターを着たふたりが、仏頂面でピースサインをしている…そんな写真は、豪華なスイートルームを背景に、大きな窓からロンドンの夜景が見えている…
そんな奇跡の一枚を、俺は貰ったんだ!
なんでも、酔っぱらった勢いで無理やり撮らされた写真だそうだ。
誰にって…?
ストリッパーのシロにさ。
ウケるだろ…?
その人は、この兄弟が待ち受ける…こんなスイートルームに、果敢にひとりで乗り込んで、無傷で帰った猛者なんだ。
場慣れしてると、あんな奴らをいなせる…そんな特殊能力が身に付くんだね。
俺は、まだ会った事が無いけど、ぜひ、一度お手合わせ願いたいもんだ。
何がって…?別に、変な事じゃない。
チェロの生演奏でストリップを踊る様な人だ。
俺のバイオリンでも、踊って欲しいと思ってるだけだよ…?
だって、それは、きっと…とっても、美しいだろうからね。
“私は、三男なんで、人違いです。”
そんな返信にゲラゲラ笑った俺とまもちゃんは、面白くない返信しか出来ない森山氏にダメ出しをしながら、一緒に店へと向かった。
「センスが無いんだよ。笑いのセンスがさ…」
「陰キャだからね…!」
--
「あぁ…良く寝たぁ…」
僕は伸びをして起き上がった。そして、体を捻りながら…先生の書斎を出て、ピアノの上に置いたバイオリンを手に取って調弦した。
惺山のチューナーは、用が無くてもいっつも付けてるんだ。
理由は…小鳥が乗ってるみたいで、可愛いから…
運指の練習は退屈で、つまらなくて、眠たくなってくる…
僕はコクリコクリと舟をこぎながら…運指の練習を2時間したんだ。
そして、ご飯の支度も出来なくなった僕は…何もする事が無くなって、テラスに腰かけながら…パリスを撫でていた。
「…豪ちゃん。」
「はぁい…」
不意に先生に呼ばれた僕は、テラスから急いで部屋に戻った。そして、彼を見上げたまま…首を傾げた。すると、先生は僕と視線を合わせずにこう言ったんだ。
「…何か一曲、弾いてくれないか…」
「はぁい。」
ダイニングに腰かけた先生の方を向いて、僕はバイオリンを首に挟んだ。
そして…弓を高く上にあげて、鋭く弦を滑らせながら弾き始めたのは…
“死の舞踏”。
僕は、この曲が気に入ったんだ…
ワルツのリズムに…不気味なハーモニーが響いて…カッコいいんだ。
弓に響く不協和音は、僕みたい…
綺麗な和音を奏でられない…どこか歪なんだ。
不快感は抱かないけど…繰り返されると眉を顰めてしまう…
それが、僕なんだ。
不器用…?やんちゃ…?自由人…?変な子…
そんな事…
言い訳にも、出来ない事を肯定する事にも、ならない。
僕は…ただの、不協和音…
だからかな…この曲が、とっても心地良いんだ。
不完全で、歪んでいて、普通じゃない…
僕にとったら、これが和音で…これが…ハーモニーだ…!
いつの間にか、僕は、こんな自分への思いを曲に込めながら…力強く、弦を押弾いていた…
そのせいか、目に映った弓の毛が…ファサファサと千切れていくのが見えた。
でも…僕は、力を緩めない…このまま、最後まで弾き続けるんだ!
怒りでもない…絶望でもない…ただ、力強さだけを込めて…眉間にしわを寄せながら、僕は、顔を歪めて”死の舞踏”を弾き上げた。
「ブラボーーーー!見事だ!」
先生はそう言って僕に拍手をくれた。だから、僕はバイオリンを首から離して、ペコリとお辞儀をした。
「どれ、弓毛を張り替えてあげよう…」
先生がそう言って手を差し出したから、僕は、そっと弓を手渡して、バイオリンをピアノの上に置いた。そして、そのまま…再びテラスに戻って、パリスと一緒に星を見上げた。
先生は、そんな僕の背中を見つめていたけど、すぐに書斎へと戻って行った。
「パリス…寂しいね。」
「コッココ…」
彼女は、大丈夫だよって…言ってくれた気がした。
どこがだよって…僕は、彼女の尾っぽを指でそっと弾いた。
#47
「俺の一張羅だ!」
すっかり、ばっちり、キメ込んだ俺は、まもちゃんに見送られながら…直生と伊織の乗った大きな車に乗り込んだ。
すると、いつもの様に、後部座席から伊織が顔を覗かせて、俺にこう言ったんだ。
「北斗…同じ男ばかりで飽きないか…?」
はは…
乾いた笑いしか浮かんでこないよ…
俺は、どうでも良い事ばかり話しかける伊織の顔を、手で払いながら言った。
「同じ男ばかりで良いって思ったから…一緒に居るんだよ?お前も…直生とそうなんだろ?」
「うげ…!」
車内が微妙な空気になる中…俺だけ上機嫌だ。
膝に乗せたバイオリンケースを手のひらで何度も撫でながら、彼らとの共演を楽しみに胸の中を躍らせた。
何年ぶりかな…?
…チェコの小劇場で、共演して以来だ。
彼らのミニライブへ立ち寄った俺は、スペシャルゲストで、ステージに上がったんだ…
あの頃の俺は…もしかしたら、既に音色が鋭くなっている最中だったかもしれない。
今になって…演奏後の彼らの表情の陰りの意味を、理解した。
そんな苦い思い出に、口を一文字に結んだ俺は、窓の外を見つめながらこう聞いた。
「…何を弾くの…?」
すると、直生は、いつもの様に…ぶっきらぼうにこう答えた。
「決めてない。でも…リクエストがあった。」
へえ…大奥様のリクエストか…
”美しきロスマリン“かな…それとも…
クスクス笑いながら、彼女のリクエストに思いを馳せていると…直生が言った。
「カノンだ…」
そんな曲名に…俺は、思わず、ハンドルを切る彼を振り返って言った。
「“カノン”か…良いね。彼女らしい…」
俺たちは軽井沢の街を抜けて…山の中にあるサロンへとやって来た。
所謂…お金持ちの社交場だ。
こんな別荘地の一等地にひっそりと点在する…サロンでは、暇を持て余した資産家、財閥、お金持ちが…楽しそうに暇つぶしをしてる。
俺たちの様な音楽家は、小遣い稼ぎに、そんな彼らの余興を楽しませてあげて、報酬を頂いているんだ。
「さあさあ…何を弾こうか?」
車を降りた俺は、直生にそう尋ねた。
森の中は夕暮れの様子を一蹴するみたいに未だに蝉が鳴き続けて、耳の奥を揺さぶり続けている。
俺の問いかけに、車の後部座席からふたつのチェロと共に降りて来た伊織が、首を傾げてこう言った。
「やっぱり、ここは、情熱的な…」
「カノンを最後に弾くから…初めは軽快な曲にして、次に見ごたえのある曲…ベーシック、派手な曲…って構成で…後は、その場のノリで。」
伊織の言葉を無視した直生は、俺を見下ろしてそう言った。
彼らしい、アバウトだけど…要点を踏んだコメントだ!
直生の言葉に頷いた俺は、興奮する気持ちを抑えきれずに、歯を見せて笑った。
「…うしし!」
「…変な事を、企むなよ…?」
眉を顰めてそう言った直生に、俺は同じ様に眉を顰めて言い返してやった!
「何も企んでない!まったく、やれやれだな!」
豪ちゃんに生き返らせてもらった俺のバイオリンを、彼らに見せてあげたい。
そして、あわよくば…情緒的な彼らのチェロの演奏に乗せて…疼く腕を、ひと暴れさせたいんだ。
「んふふ~!んふふ~!」
直生と伊織を両脇に従えた俺は…胸を張って、威風堂々…サロンの中へと向かった。
「大奥様…お元気ですか…?北斗です。」
サロンの中は満員御礼だった。
案内された奥の大広間…ベルベッドのソファには、小柄な財閥の大奥様がチョコンと腰かけていた。俺は、直生と伊織を差し置いてズズイと前に出ると、大奥様に頭を下げてご挨拶をした。
「あらあら…北斗君。嬉しいわ!来てくれたのね…?うふふ!チェリストのおふたりと共演してくださるのかしら…?それは…楽しみ!」
あぁ…可愛い人。
俺はあなたの期待を裏切らないよ?ベイビー。
直生と伊織がチェロをスタンバイする中、俺は、大奥様の隣に座った彼に視線を移して、満面の笑顔で言った。
「茂ちゃ~ん!」
「北斗~!」
茂ちゃんは、大奥様の孫。財閥の御曹司だ。
昔は宇宙飛行士になりたいと言っていた彼は、すっかり…会社の重役になんか就いて、立派な金持ちのボンボンになった。
恵体は相変わらず…野球選手の様ながっちりした体格は、熊でも倒せそうだよ。
「北斗は…相変わらず、泳げないの…?」
クスクス笑ってそう言う茂ちゃんを横目に、俺はバイオリンを取り出しながらこう言った。
「そうだね…まだ、泳げない。でもねえ、変わった事が、ひとつあるんだよなぁ…」
俺は、茂ちゃんを焦らす様にニヤニヤしながらそう言った。
すると、彼は昔と変わらない優しい笑顔で、こう聞いて来た。
「何?」
「あ~はっはっはっは!あ~はっはっはっは!」
笑いが止まらない!!
俺は、それとなく左手をちらつかせて、トボけながら体を左右に降らした。
「え~?なんだと思う?なんだと思う?」
そんな俺を見つめたまま…茂ちゃんは笑顔を崩さずに首を傾げた。
鈍感な男だな…
仕方なく、俺は左手を口元に当てながらこう言ったんだ。
「ん~…どうしよっかなぁ…言おっかな…言わないっかな…」
「北斗は、軽井沢に骨を埋めるそうだ…今の所はな。」
直生が、俺の頭の上から茂ちゃんを覗き込んで、そう言った。
すると、彼は、やっと…俺の左手の薬指の指輪を見つけて、ゲラゲラと大笑いをしたんだ。
笑う事じゃないだろ…?
首を傾げた俺は、茂ちゃんにしかめっ面を向けて言った。
「なぁんだぁ!」
「あ~はっはっは!ムリムリ!あ~はっはっは!」
ムリムリ…?
「まったく!どうしてそんな風に言うんだかっ!」
俺は、不貞腐れながら、大笑いする彼の肩を小突いて口を尖らせた。
そんなおしゃべりに花を咲かせつつも、俺は、しっかりと状況を読んでいる男だ。
場の整ったチェロを見つめて、直生と伊織に目配せをすると、ニッコリと頷いて自分のバイオリンをケースから取り出した。
辺りを見渡すと、いつの間にか、俺たちの周りを取り囲む様に人だかりが出来ていた。
そりゃそうだ…
“孤高のバイオリニスト 藤森北斗”と、チェロのデュオが演奏するんだからなぁ!
あ~はっはっはっは!
胸の中の高笑いを表には出さず、凛と澄ました顔を向けて、目の前の可愛い大奥様を見つめた。
さあ…まずは、何を弾こうか…
そんな事を考えながら、俺は、大奥様に胸を張って、一礼した。
「整いました。それでは…藤森北斗と、ふたつのチェロ…トリオによる、演奏をお楽しみください。」
「いつも自分の名前を先に言う…」
そんな伊織の小言を無視した俺は、美しい姿勢でバイオリンを首に挟んだ。そして…直生を見つめながら弾き始めたのは…“調子のいい鍛冶屋”だ。
軽快な音階移動に眉を上げて指を運んで行くと、直生と伊織が、そんな俺の主旋律に合わせてチェロの音色を絡めた。
あぁ…悪くない。
運指の練習の様なこの曲を…必死に運指の練習をする…遠くのあの子に贈ろう。
だって、どうした事か…目の奥に浮かんでくるのは、首をひねりながら、背中を丸めて…運指の練習をする豪ちゃんの姿なんだ。
「ぷぷっ!」
本当、全く…可愛いだろ…?
俺はあの子が…大っ嫌いだったんだ。
理久にベッタリとくっ付いて…コソコソと耳打ちをするあの子が、大嫌いだった。
でも、あの子を知って…考えが変わった。
それはあの子が…ギフテッドだからじゃない。
心の優しい…人だったからだ。
思わず目じりを下げた俺は、目の前を駆け抜けて行く…へっぴり腰でパリスを追いかけるあの子の後姿に、思わず吹き出し笑いをしながら指を動かした。
「ふふっ!」
軽快で…明るい…笑い声の堪えない、可愛い子…
この曲にピッタリだ。
でも、どうした事か…このハーモニーに、もう一音、ピッコロも入れたくなっちゃうんだもん。
やっぱり、俺は、コンマスの魂を持ってる男なんだ。
--
7月30日(日)
出来る事:家の敷地にいる事
出来ない事:ひとりで外へ行く事
目標:ない
今日も僕は、先生の書斎で寝ている…
だって、何もする事が無いんだ。
朝、知らない人が家に入って来て、ご飯を作って…掃除洗濯をして行った。
僕はその間…畑を弄っていた…
きゅうりの苗を取り払って…畑を耕した。
次に埋める野菜は、小松菜…
なのに、僕は…何もしないまま…ポストカードも出せずに…この家の中に居る。
“キラキラのきらきら星へ
僕は、毎日…先生の書斎で寝て過ごしています。
先生は、僕に甘くし過ぎたと言って、ご飯も掃除も、洗濯も禁止にしました。
惺山…僕は、何もする事が無いよ。
運指の練習は頑張ってます。でも、いつもひとりで寂しいです。
これは…贅沢な悩みなのでしょうか…?
偉い先生に指導して貰っているのに、僕は、まだまだ普通の人の様に出来ません。
頭の悪い…鶏より“
毎週のルーティン…惺山へ、そんな手紙をしたためた僕は、ラベンダー色の封筒に畳んでしまって、蝋でスタンプを押して…切手を貼った。
そして、出せずにいるポストカードと一緒に先生の机の上に置いて、メモに“出してください”と書いて一緒に置いた…
ガチャ…
先生は、今日も早く帰って来た。そして、自分の書斎で寛ぐ僕を見て、首を傾げながらジャケットをソファに放った。
僕はそそくさと椅子を降りて、トコトコ歩いて、先生の目の前を通って書斎を出た。
あの場所は落ち着くんだ…だから、ついつい入り浸っちゃう。
お昼も知らない人が家にやって来て、僕のキッチンでご飯を作った。
僕はそれをジト目で見つめながら…畑の世話をした。
「豪ちゃん、食事をとりなさい。」
そんな風に声を掛けられても、僕は、自分のキッチンを他人が使う事が嫌だった。だから、先生を無視して楓の木によじ登ったんだ。
秋になれば紅葉する楓の木…今は、まだまだ元気な緑の葉っぱが枝の先に付いて、太い枝の上をアリが歩いてる。
「ふふぅ…アリさん、アリさん…」
僕は楓の木の枝に寝そべって、アリの行く手を阻んでクスクス笑った。
「豪ちゃん!聴こえてないの?ご飯を食べなさい!」
木の下では、先生が、また怒り始めてる…
だから、僕は楓の葉っぱを一枚取って、下に落としながらこう言ったんだ。
「要らなぁい…」
「はぁ…!」
先生のため息…
僕に、うんざりしてるため息…
僕だって…
僕だって、自分にうんざりしてるんだ…!!
苛立った僕は、楓の木の上から飛び降りて、目を丸くする先生を通り過ぎると、ピアノの上に置いたバイオリンを手に持った。
そして、テラスに出て、先生を見つめたまま…こう言ったんだ。
「先生の、ため息…!」
そう言って、弾き始めたのは…リストの“ため息”。
いつもは美しいこの曲を、僕は、歪に形を歪めて演奏した。
暗くて、怖くて、強い…そんな形に変えた音色を、うんざりして嫌気がさした…誰かのため息に変えて…先生の耳へと届けた。
それを徐々に元の形に戻して…僕は、瞳を閉じながら…音色の波に揺られてゆったりと体を揺らした。
本来の旋律はこんなにも美しいのに、少し音を外すだけで歪だなんて呼ばれるなんて…不公平だ。
普通とは何…?
言われた事が出来る事を普通というの…?
だとしたら、それが出来ない僕は、普通じゃないの…?
息をして、ご飯を食べて、悪い頭で考えて、生きているというのに。
僕は、この美しい旋律の様に…うっとりするため息をあなたに付かせることは出来ないの…?
自然と零れてくる涙は、まるで、懇願するみたいな…涙。
もう、怒らないで…
もう、嫌なんだ…
そんな目で見られる事も、そんなため息を吐かれる事も、あなたに触れられない事も、もう…嫌なんだ。
「…はっ!」
先生は突然、そんな声を上げて僕を抱き抱えた。
そして、大慌てで部屋の中に向かったんだ。
…僕は、彼の手も、体も、声も…全て好き。
だけど…とっても力強く抱かれた体が…少しだけ痛かった。
「ん、もう…いたぁい!」
だから、僕は、先生の胸を叩いて彼を見つめて抗議したんだ。
すると、彼は僕を見下ろしながら…見開いた瞳をグラグラと揺らしていた…
そして…ピアノの前で、僕を抱きしめたまま…泣き崩れてしまったんだ。
「…撮られたぁ…!」
絞り出す様にそう言った先生の声だけ…抱きしめられた彼の胸を響いて、僕の耳に届いた。
#48
「では…最後の曲を…」
俺は、澄ました顔をしながら…すっかり出来上がった空気の中、キメキメに目の前の大奥様を見つめてそう言った。
カッコいいでしょ?うしし…!
そして…ゆったりと弾き始めたのは…彼女のリクエスト、パッヘルベルの“カノン”だ。
同じ旋律をずらして始まったり…全く別方向から同時に進行していく…そんな曲の流れを…カノンと呼ぶ。
諸説ある中、俺は、ふたつ以上の楽器で、同じ旋律を繰り返して、増幅させたり、変化させて行く物を…カノンだと思ってる。
伊織のチェロの音色に寄り添うように、俺が主旋律を追いかけると…直生が全く別方向からその音色にハーモニーを作って行くんだ。
そんな音の波に体を委ねながら、うっとりと呟いた…
「あぁ…美しい…」
幾重にも重なった音色は…何物にも代えがたい美しい響きを見せて、部屋の空気を振動させて…聴く者のため息さえかき消した。
曲を弾き終えた俺は、バイオリンを首から離して美しく一礼をした。
そして、拍手が鳴りやまない中…チェロのふたりを振り返って言ったんだ。
「…やっぱり、あなた達は…最高だね?」
「お帰り、ボス。」
微笑みながらそう言った直生と伊織の言葉の意味を、俺はきちんと理解している。
俺は、帰って来たんだ。
美しい旋律を、情緒を、紡ぎ出す音色を、再び奏でられる様になったんだ…!!
「北斗君…とても、美しかったわ。直生さんと伊織さんも、素敵なチェロをどうもありがとう。素晴らしいトリオの演奏でした。特に、カノンが美しかったわ。まだ、胸の奥が震えているの…うふふ。」
そんな大奥様のお褒めの言葉を頂いて、俺とチェロのデュオは再度深々とお辞儀をした。
まずまずじゃないか!うしし…!
「え…なに、この子…お人形さんじゃん。」
上出来の演奏に満足しながらバイオリンを片付けている最中…不自然に出来た人だかりの中からそんな女性の声が聞こえて、俺は思わず聞き耳を立てた。
「…即興で弾いてるの…?」
「まさか…転調してるよ?」
「ねえ、これって、隠し撮り…?」
お金持ちの趣味は分からんね。
隠し撮りの動画を寄って集って見てるんだもん。
変態の集まりだ。
俺は、呆れた顔をして、首を横に振りながら弓毛に松脂を塗った。
すると、そんな人だかりの中から…伊織が現れて、俺に言ったんだ。
「北斗…どこが、ガチムチだ…!」
は…?
すると、人だかりの中から直生も姿を現して、俺に言ったんだ。
「めちゃんこカワイ子ちゃんじゃないか!」
…は…?
慌ててそんなふたりを押し退けた俺は、人だかりの中心で再生され続ける動画に目を凝らした。
「はぁ…?!」
そう。
そこに映っていたのは…あのテラスで、理久にバイオリンを弾いて聴かせる…豪ちゃんの姿だったんだ…
聴こえて来るリストの“ため息”は、短調から始まって…途中、見事に転調を遂げた。そして、美しい旋律のまま…綺麗に終いを付けている。
そんな高尚なテクニックを見せつけて、うっとりと体を揺らして音色を紡ぐあの子は…とっても、可愛く見えた。
ヤバい…!!
後ろを振り返った俺は、そそくさとチェロをしまい始める伊織の背中に乗って、彼のもしゃもしゃの髪を鷲掴みして言ったんだ。
「駄目だ…!!」
「可愛い!可愛い!可愛い子めっけた!」
はぁ~~~~~?!
伊織の目は…ギラギラとギラついていた…
それは、まるで…次のターゲットを見つけた、ハンターの様だ!
「直生!しっかりしろっ!」
伊織の背中に乗りながら、俺は直生の後ろ髪を引っ張って、彼に言った。
「あの子は…駄目だ!」
「なぁにがダメなんだぁ!とっても、可愛いじゃないか!しかも…真っ白で、細くて、きゃしゃで…実に、俺好みだ…!あっはっはっは!良い匂いを付けて会いに行こう!」
俺は伊織の背中から降りて、自分のバイオリンを抱えると、大奥様に丁寧にお辞儀をして…急いで彼らを追いかけた。
まずい…まずい…!!
非常に…まずい事態だぁ!
「直生!待って!」
歩く速度が異常に早くなったふたり組は、俺がいくら全速力で追いかけても、距離を縮める事無く…先を歩いて進んだ…!!
俺の足が異常に遅い事を加味したとしても…彼らのエンジンがかかってしまった事を察した俺は、必死に、野獣を走って追いかけた。
「どちらからやるか…」
「そんなの、俺に決まってる…」
そんな物騒な相談事をしながら、チェロをそそくさと車の後部座席に詰め込んだ直生は、助手席のドアを開けて俺に言った。
「…ボス、急げ。あの、ちんけな男の所まで送ろう。」
「直生、待て…!伊織も、待て!…はぁはぁ…ゼエゼエ…ごほっごほ!」
俺は、頑張って追いかけすぎて…息が切れた。
そんな俺の背中をトントンと叩いて、顔を覗き込みながら伊織が言った。
「お人形さんみたいだった…」
あぁ…知ってる。
あの子は…しゃべらないで澄ましていたら…フレスコ画の天使そのものだ。
「はぁはぁ…す~は~!す~は~!」
息を整えた俺は、直生を見てこう言った。
「あの子は、ギフテッドだ。…それも、とんでもない逸材だ。だからこそ、理久は、慎重に事を運んでいる。今、お前たちの様な目立つ奴らと接触させて、余計なゴミに晒されたくないんだ。なあ、俺の言っている意味、分かるよな?」
俺の言葉に首を傾げた直生は伊織と顔を見合わせてこう言った。
「…いいや、分からないかもしれない…」
こんの野郎!!
トボける直生の頭を引っ叩いた俺は、彼の胸ぐらを掴んで自分に引っ張り寄せてこう言った。
「今は、まだ、そっとしておいて欲しいんだぁ!!」
「もう…知れ渡った。」
伊織はそう言うと、俺に携帯電話を向けて続けて言った。
「資産家のコミュニティーにあの動画が投稿された。ドイツ語で書かれた本文には、こう書かれている。“木原理久の元で、ギフテッドの少年が彼の指導を受けている。即興でこんなものを弾く美少年…見てみたくはないか?”だとさ。」
金持ちを、煽る様な内容だな…
一体、誰がこんなものを…!
俺は、苦々しい顔をしながら携帯電話を睨みつけた。すると、直生がこう言ったんだ。
「俺たちが行っても行かなくても…どの道、もう、始まってしまった様だ。だとしたら、俺たちの様な、強くてカッコいい大人が、傍にいてあげた方が良いと思うんだ…!」
何を言っているのかね…?
俺は首を傾げながら、熱弁を振るう直生を見つめて、首を横に振った。
すっかり、このふたりは、豪ちゃんのビジュアルに殺された。
「可愛かった…食べちゃいたい。食べちゃいたい。」
しきりにそう言って意気投合する馬鹿兄弟を横目に見ながら、俺は助手席に乗りながら、考えを必死に巡らせた。
あの子を隠し続ける事は不可能で、彼らを止める事も不可能だ…
こうなってしまったら、考えを変えるしかないな。
「直生!伊織!絶対に…あの子に手を出すな…!無理やりになんて何かしたら、俺は二度とお前たちとトリオを組まないからな…!!」
運転席に腰かけた直生と、後部座席から顔を覗かせる伊織に、俺は睨みつけながらそう凄んで言った。
すると、彼らは驚いた様に目を丸くして、こう言ったんだ。
「北斗…お前がそんな風に、言うとは思わなかったぞ…」
それは…きっと、脅しでも…二度とトリオを組まないって言った事だろう。
音楽が好きで…合奏が大好きで…このふたりと演奏する事が…好きだ。
そんな俺が、そんな言葉でけん制した事が…彼らは、驚きだったんだ。
コクコクと頷き続ける伊織を横目に、俺は直生に言った。
「あの子は、俺の…恩人なんだ。バイオリンの音色が汚くなってしまった俺を、助けてくれた…。酷い言葉を掛けても…叩いても…あの子は、俺を信じてくれた。そして、俺が…俺のバイオリンが、一番だって…泣きながら言ってくれたんだ…。」
ホロリとこぼれ落ちて行く涙は、あの時の事を思い出して…あの子の真摯な思いに…胸がいっぱいになって出て来た…感謝の涙。
誰にも言えなかった…誰にも甘えられなかった…誰にも知られたくなかった…
そんな俺の心の中に、力強く入って来た豪ちゃんは、弱って…震える…俺の心を、優しく両手で温めてくれたんだ。
眉を下げた伊織を見つめて、俺はクスクス笑って…泣きながら言った。
「今日みたいに良い音色が出せるのも…こうして、ふたりと話せるのも、ケラケラ笑っていられるのも…全部、それが無かったら…叶わなかった事なんだ。」
俺は、直生を見上げて、彼の腕にしがみ付いて言った。
「だから…どうか、あの子を、傷付けないでくれっ!!」
「…分かったよ、ボス。俺は、お前の言う事には弱いんだ。」
俺の言葉に…直生はそう言って、にっこりと微笑みかけてくれた。
「俺は、実は、弱くない…」
そんな言葉を口にする伊織の前髪を掻き分けた俺は、彼のおでこにグリグリとおでこを押し付けて…彼の可愛らしい垂れ目を見つめて、こう言った。
「兄ちゃんの言う事を、ちゃんと聞くんだよ?いおりん!」
「…うん。」
俺の圧に押された伊織は、バツが悪そうに視線を逸らしてそう言った。
理久…大丈夫かな…
動画の終わり…盗撮に気が付いた理久の悲痛な表情が瞼から離れない。
彼は…天使を守りたかったんだ。
白日の下に晒されてしまったあの子を、慌てて抱き抱えて部屋に入る彼の背中が、今にも壊れてしまいそうに見えて…心配なんだ。
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「先生…ご…ごめんなさい…。ぼ、僕が弾いたから、いけなかったのぉ…ごめんなさい…。先生…泣かないで…泣かないでぇ。」
僕は、泣き止まない先生の体を抱きしめて、何度も彼にそう言った…
でも、先生は…背中を丸めて…泣き続けた。
コンコン…
こんな時に…
幸太郎が、テラスにやって来た。
そして、僕を見下ろして…嬉しそうににっこりと笑ったんだ。
僕は、泣き止まない先生を抱きしめながら、彼の髪に頬ずりして言った。
「…幸太郎が来てるけど、僕は…何も話さないよ…?」
「豪!豪!こっちにおいで!もう…こんな所に隠れている必要なんて無いぞ!俺が自由にしてやった!おいで!一緒に海を見に行こう!」
そんな幸太郎の言葉に、泣き続けていた先生は顔を上げて、窓の向こうの彼を見上げて言ったんだ。
「…どういう事だ…」
すると、幸太郎は鼻息を荒くしながら先生に向かってこう返した。
「理久!豪をひとり占めするな!この子が…この素晴らしい才能が、ここに居るって…もう、みんな知った!知ったんだ!!だから、もう、隠れている必要なんて無い…!豪、俺と遊ぼう…?好きな所へ連れて行ってやる!」
幸太郎の言葉を聞きながら、僕は、先生の噛み締めた唇が…小さく震えるのを見つめた。
「…なぁんで!お前が…お前が…あそこから撮ってたのか!!消せっ!今すぐに…消せぇっ!」
顔を歪めた先生は、体を激しく動かして幸太郎に向かってそう怒鳴った。
すると、先生の書斎で、電話が鳴り始めたんだ。
先生の胸に入っている携帯電話もブルブルと振動音をさせて震え始めて…彼は、項垂れて何も話さなくなってしまった。
「今更、消しても遅いよ。多分、もう…遅い。」
先生の剣幕に驚いたのか…窓の外で、眉を下げた幸太郎がそう言った…
僕は、そんな幸太郎の言葉を聞きながら…先生をギュッと抱きしめた。
先生は、ギフテッドを支援する事業に携わってる…
その資金集めのパーティーで、僕は、いろいろな大人を見たんだ。
純粋に子どもの未来を憂いている人と…そうでない人が居る事を知った。
まるで、競馬のオッズを見る様に…誰が、一番、希少で…強い馬を持っているのか…そんな事を、競い合う様に夢中になって話していたのを覚えている。
その時、僕は…自分がギフテッドである事を恥ずかしく思った…
同時に、そんな彼らの価値観に踊らされて…傲り昂る幸太郎に、怒りを覚えたんだ。
そして…幸太郎に“ツィゴイネルワイゼン”を弾いてしまった。
それは、僕が思った以上に凄い事だった様で…
僕を自分の持ち馬にしたがった大人が現れてしまったみたいで…
先生は…僕が、そんな人の目に触れる事を、怖がって、隠した。
エリちゃんのパーティーでも、僕がバイオリンを弾かずに済む様に…無礼を承知であんな小細工をした…
なのに…僕は…
「ごめんなさい…僕は、自分が…そんなに、特別だと思わなかったんだ…。ごめんなさい…先生、ごめんなさい…。」
今更、謝ったって、遅いのかもしれない…
でも、それでも、僕は、そう言うしかなくて…先生を抱きしめて何度も謝った。
彼は…僕を、守ろうとしてくれていたんだ。
なのに…僕は…
「せっ、せ…先生…。ごめんなさぁい…。僕は…普通に出来ない…。言いつけも、守れないし…。普通に…我慢する事も…出来ない…!こんな…こんな、馬鹿で…ごめんなさぁい…!あっ…ああぁ~~ん!!」
胸の奥から込み上げてくるのは…浅はかで、愚かな…後悔ばかり。
惺山…僕はいつもそうだ…
後で、とっても…後悔する。
ギャン泣きする僕を見下ろしていた幸太郎は、悲しそうに眉を下げて、窓辺に座り込んでしまった。
僕は、背中を丸めてしまった先生を抱きしめて…泣きながら言った。
「先生が、大好きなの~~!大好きなのぉ~~!も…もう…わがまま言わないからぁ!へそ曲げたり…無視したり…しないからぁ…!言う事を聞ける様に…頑張るからぁ…!!僕を…僕を…お願い…置いてかないでぇ…!」
「置いてったりしない…!」
僕の言葉に…先生はすぐに、そう答えてくれた…
僕は…それだけで、胸の中が…不思議と満たされて行った…
そして、瞳からは、色を変えた涙が…ボロボロと溢れて落ちた。
「良かったぁ…ならぁ、良かったぁ…!」
ヘラヘラ笑いながら口を歪めて…僕は泣きながらそう言った。すると、先生は僕を強く抱きしめて…背中を撫でながら、こう言ってくれたんだ。
「俺は…豪が、ギフテッドじゃなくても…優しくするよ…?お前が、何も出来ない子でも…優しくする。バイオリンが弾けなくても…大好きだよ…」
「うっうう…うわぁあ~~ん!!」
どうしてかな…
とっても、その言葉が…嬉しかったんだ。
落ち着きを取り戻した先生が僕の涙を拭ってくれたから…僕は、テラスで打ちひしがれる幸太郎を家に入れてあげた。
そして、しゃくりあげの止まらない声で…レモネードをコップに注ぎながら言ったんだ。
「…せっ…先生?今朝の、朝ご飯は…あっ…あんまり、美味しくなかったねぇ…?」
すると、先生は…にっこり笑いながら、こう言った。
「そうだね…豪ちゃんの作った朝ご飯の方が、美味しいって…思ったよ…」
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