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#51
「まもちゃん、送って!オジジの工房まで送って!」
9月の到来だ…
繁盛期を終えた軽井沢は、いつもの静けさを徐々に取り戻していた。
今日の俺は、お休みを頂いて…オジジの工房で一日を過ごす事にしたんだ。
「あぁ…行く行く…ちょっと待って…ちょっと待って…お兄さん。」
まもちゃんは昨日の夜、どこまで起きてられるのか挑戦して…寝不足なんだ。だから、朝のジョギングの後…二度寝してる。
結局…2時には寝てしまっていた癖に、本人は5時まで起きていたって豪語してる。
…年寄りの勘違いほど…質の悪い物はない。
でも、俺はそんな彼の勘違いを修正せずに、思う存分…二度寝をさせてあげた。
「早くして…!オジジが…死んじゃう!」
やッと起き上がったまもちゃんの大きな背中を押して、俺は部屋を出た。
「ここから、山奥までなんて…ピュ~ン!だよ。」
余裕綽々で…まもちゃんはそう言った…
しかし、彼は重大な事を忘れている…
今は9月…夏休みシーズンを終えた別荘地のUターンラッシュの道路事情を加味してなかったんだ!!
いつまでも、どこまでも続く渋滞の中…目の前の車から、子供が後ろを覗き込んでは…銃の様な物で、まもちゃんを撃ち抜いていた…
ジワる…
「だから、早く起きてって言ったのに…!」
ブツブツと俺が言うと、まもちゃんは、撃たれ続ける自分の胸をナデナデしながらこう言った…
「だって…昨日の夜、5時まで起きてたんだもん。」
はぁ!
「ん、も~!ばっかぁん!」
俺は、まもちゃんの腕をバシバシ殴りながら、豪ちゃんの物まねをした。
不思議だよ…
これを言うと…どんな過剰な暴力もチャラになる気がするんだ。
さすが、天使だよ!
すると、まもちゃんは俺の髪をボサボサにしながら、こう言ったんだ…
「イタ…!痛いぃ!痛いよぉ~う!ほっくぅん!や~め~てぇ!」
そう…
すっかり、俺とまもちゃんの間では…豪ちゃんの物まねが流行っている。
馬鹿にしている訳じゃない…大人の嗜み程度の、おふざけだよ。
「ん、ばっかぁん!ん…もう、ばっかぁん砲…発射!」
俺はそう言って、まもちゃんの二の腕に、特大のパンチをお見舞いしてやった。すると、彼は顔を歪めて…俺を睨みつけながらこう言ったんだ。
「…ほっくぅん!やぁだぁ!やぁだぁ!」
ぐふっ!
さすが…まもるだ…!!
俺の笑いのツボを押さえている…
俺は、必死に笑いを堪えながら、首を傾げて…こう言った。
「まもるはぁ…嚥下障害なのぉ?」
「ぐほっ!」
…うしし!
嚥下障害は…まもちゃんのツボなんだ。
「ん…もう!怒ったぞぉ~!僕の、ばっかぁん砲で、ほっくんのヴァイオリンをぶっ壊しちゃうからぁん!」
「ぐふふっ!!」
ヤバい…!!
バイオリンじゃなくて…ヴァイオリンって言って来た!!
…ヴァって言って来たぁ!!
俺はフルフル震えながら窓の外を見つめて…ポツリと言った。
「…先生?僕のイチモツは、それなりだよねぇ…?」
「だ~はっはっはっは!!」
ははん!俺の勝ちだ…!
大笑いしたまもちゃんは、勢い余って、ハンドルをガタガタに揺らして反対車線にはみ出した!
全く!相変わらずのハンドルの甘さだ!
「北斗さん、お帰りは…?」
「決めてない。」
工房の前まで送って貰った俺は、まもちゃんにキスをしてこう言った。
「オジジのバイクに乗って帰るのも…悪くない!」
「はぁ…崖から落ちて一緒に死ぬから、それは駄目!迎えに来るから連絡を頂戴。良いね?」
ふふ!
「はぁ~い!」
俺は満面の笑顔で、両手を上げて豪ちゃんの真似をしてそう言った。すると、まもちゃんはジト目を俺に向けてこう言いながら車を切り返した。
「…ん、もう…!ほっくんはぁ…!ん、もう…!ほっくんはぁ!」
どんどん遠ざかって行くまもちゃんの車を見送った俺は、両手に抱えたバイオリンをブンブン振りながら、オジジの工房へと向かった。
「おっはよ~!」
「おぉ!北斗…!今日はなんだ…?!親孝行の日か…?!」
そんな職人の言葉に笑顔を向けた俺は、体を揺らしてこう答えたんだ。
「お父さぁんに、会いに来たんだぁ~!」
「ぷぷっ!」
俺のぶりっ子は破壊力が凄いのか…職人たちは、一斉に顔を背けて、肩をガタガタと揺らした…
工房の奥…いつもの指定席に腰かけたオジジは、俺が来るのを待っていたみたいに両手を広げてこう言った。
「北斗!お父さんだぞ!」
ふふ…!
さすが、まもちゃんのお父さんなだけある…オジジはね、お茶目なんだ。
「シャチョサン…オカネ、チョダイネ…!」
そんな片言の言葉を話しながらオジジの膝に座った俺は、彼の手元の製作途中のバイオリンの弓を見下ろして目を丸くした。
「わぁ…綺麗じゃないか…」
それは美しい…スネークウッドのバロックボウ…!
「…趣味だよ。」
伏し目がちにそう言ったオジジは、丁寧にやすりを掛けながら…得意気に鼻を鳴らして、また言った。
「…まぁ、ただの…趣味だよ…」
俺の使っているバイオリンの弓は、所謂…モダンボウなんて呼ばれる、一般的なバイオリンの弓だ。そして、オジジが趣味で作っているのは…バロックボウなんて呼ばれる。弓の先端にチップを付けないで弓毛を張る、昔ながらの弓なんだ。
「どんな弾き心地になるの…?」
首を傾げてオジジを見下ろすと、彼は首を傾げてこう言った…
「知らね…」
ウケる…
全てスネークウッドで作られたバロックボウは…普通の弓よりも軽くて、華奢に見えた…
「良いね…素敵だ。」
「欲しいか…?」
俺の顔を覗き込んで、オジジがそう聞いて来たから、俺はにっこりと笑って…こう答えたんだ。
「…あげたい人が居る。」
あの子の繊細な弓の使い方は…弓に反りが付いたモダンボウよりも…こんな風に真っすぐな弓で、テンションの付いていない弓毛で弾いた方が…表現の幅が出そうだ…
「へえ…愛人か…」
オジジはクスクス笑ってそう言った。
「違う…恐れ多い…。…天使だよ。天使にあげたいんだ。」
そんな事を話していると…ポケットに入れていた俺の携帯電話が震えて…メールの着信を知らせた。
「ヤダぁ…エッチなおもちゃを持って来ないでぇ~!」
そんなオジジのセクハラを無視して、俺は携帯電話を眺めながら彼の膝から立ち上がった。
そして、そのまま…眉間にしわを寄せて工房の外へと向かった…
「…全く、何やってんだよ…あのふたり組は…」
1カ月前…彼らは、俺の予想通り…理久の自宅を訪れた。
ピンポン…
「はぁい…誰ですかぁ…?」
いつもの様に…豪ちゃんは気の抜けた様な声で…玄関に向かってそう言ったそうだ。
…直生と伊織は…その声を聴いただけで…爆発寸前だった。
豪ちゃんのビジュアルが…彼らのドストライクだったんだ。
中世ヨーロッパの、可愛い貴公子…見た目だけで判断すれば、豪ちゃんはそんな雰囲気を醸し出した…天使だ。
しかも…語尾を伸ばす、あんぽんたんな話し方をする。それに加えて、あの子は…ギフテッド。
色々…詰んでるんだよ。
彼らのニッチなポイントに、がっちり嵌ってるんだ。
「…良い人です。」
直生と伊織は、玄関に向かってそう答えたそうだ…
「えぇ~?ふふっ!本当ですかぁ…?」
豪ちゃんは、いつもの様に…そう返した。
そのやり取りに…すでに彼らは悶絶を打って、玄関前で七転八倒をした…
どうかしてるよね。
仕方が無いんだ…40を過ぎたロリコンは…極めてる。
純真…無垢…イノセントを、ひたすら…探求し始めるんだ。
「…本当です。」
息も絶え絶えになった伊織は…玄関に向かってそう答えた。
ガチャリ…
すると、鍵が開く音が聴こえて…少しだけ開いた玄関から、あの子が顔を覗かせたそうだ…。
そして、彼らの言う所の…穢れの無いまん丸の瞳をウルウルと潤ませて顔を見上げて、こう言ったそうだ…
「わぁ…!おっきい!」
その瞬間…ふたりは、天にも昇る様な至福な感覚を味わって、意識を失いかけて、この世に産まれて来た事を…感謝した。
とにもかくにも…玄関を上がった彼らは、フラフラと歩く豪ちゃんに誘われて…リビングへ向かった。そして、そこで…天使に紅茶を差し出されて、得も言われぬ美しい笑顔で微笑みかけられたそうだ。
「はぁ…ロリコンって、みんな、こんな風に子供を見てるのか…犯罪者どもだな…」
顔を歪めた俺は、彼らから送られて来た…豪ちゃんの、お昼寝の寝顔写真を見つめて…ぐったりと項垂れた…
話の続きだ…
「…先生を、呼んでくるから…少し、お待ちくださぁい…」
豪ちゃんはそう言って、書斎へと…理久を呼びに行ったそうだ。
残された彼らは…はねる鼓動を抑えられずにいた。
手に滲む汗…早まる鼓動…自分の服装が汚れていないか、何度も確認して…お互いの顔を見合わせながら…自分のイケてる度を確認し合った…
「…直生さんと、伊織さんだよ。」
書斎から現れた理久は、豪ちゃんにふたりを紹介した。
俺から事前に聞いていたお陰か…理久は、ふたりの訪問を驚かなかった。
しかし…豪ちゃんから視線を逸らして、妙にソワソワする…そんな、ふたりの様子に、首を傾げたそうだ…
だって、絶対に食い付いて…あわよくば悪戯を始めると、理久は踏んでいたからね…
「直生さんと…伊織さん…初めまして。豪です…。」
豪ちゃんは、理久の隣に立って…ペコリをお辞儀をして挨拶をした。すると、いつもなら無神経に下ネタを全開にする彼らが、お上品に微笑んで、会釈を返したそうなんだ…!!
信じられない!!
俺は、早々に…彼らに食われたって言うのに…!
どういう事だぁ!
そう、困惑したのは…理久も同じだった様だ。
「北斗が…言ってたよ。多分、訪ねて来るだろうって…」
彼は戸惑いながらも…ふたりの前に腰かけてそう言った。すると、直生は、照れたように首を傾げて…伊織にいたっては…ガチガチに体を緊張させて、何度も額を撫でていたそうだ。
「はぁい、先生…コーヒーをどうぞぉ…?」
いつもの様に、豪ちゃんはそう言って…理久の前にコーヒーを出した。
すると、そんなあの子を、見たいけど…見れない…だって…目が合ったら、恥ずかしいんだもん!
なんて声が聞こえて来そうな様子を…ふたりは見せたそうだ。
「…豪ちゃんは、向こうへ行ってなさい。」
「はぁい…」
まともに話も出来ないと…理久は豪ちゃんを下がらせて、彼らにこう話した。
「あの子は、ギフテッドで…バイオリンを弾くんだ。一度聴いただけで、その曲を弾けるようになってしまう…。なんとも…我々としては、認めたくない…残酷な奇跡を持っている子なんだよ。」
フワフワと歩き回る豪ちゃんをチラチラと目で追いかけては、顔を伏せる…
話を聞いているのかどうかも…怪しい…
そんなふたりを見つめたまま…理久は、豪ちゃんを横目に見て言った。
「豪ちゃん…何か弾いてくれないか…?」
語るより、見た方が早いと、そう思ったんだな…
「はぁい…」
あの子は、ピアノの上に置いたままのバイオリンを手に持って…理久と、ふたりの前で、構えて見せた…
すると、直生は頬を真っ赤にして目を見開いて、伊織は自分の前髪を全て、片手で持ち上げて…兄と同じ様に、食い入るようにあの子を見つめた。
豪ちゃんは、弓を持った手で、長くなった前髪を掻き分けながら、そんなふたりを見つめて…にっこりと笑った。
この時点で…彼らは昇天していたと、理久は言っていた。
「では…弾きまぁす…」
豪ちゃんは、そう言って構えた弓を、そっと弦に下ろして弾き始めた。
“愛の挨拶”…
豪ちゃんは、”愛の挨拶”が好きみたいだ…
あの曲によく合った…温かくて、優しい…穏やかで、角の無い音色を出すんだよな。
俺は、ふと…あの子の音色を思い出して…思わず口元を緩めて微笑んだ。
バイオリンを弾き終えた豪ちゃんが、弓を外して、理久に言った。
「…お昼ご飯を作らなくちゃ…おふたりは、どうするの…?僕が、作っても良い…?」
そんなあの子の問いかけに、理久は、直生と伊織を伺い見た…
すると、彼らは…顔を真っ赤にしてフルフルと小刻みに震えていたそうだ…
それは、あの子の音色に感動したのか、それとも…あの子のバイオリンを弾いていた見た目に、感動したのか…どちらなのか、理久には、分からなかった。
「…じゃあ…作って貰って良いかな…?」
豪ちゃんはそんな理久の言葉に、ウキウキと体を揺らしてキッチンへ向かった。
あの子は料理が好きだから…誰かにご馳走する事が、嬉しいんだ。
でも…あの家は、ダイニングテーブルのすぐ傍に、アイランドキッチンを置いている。
そう…直生と伊織が座った…ダイニングテーブルの、すぐ脇で…豪ちゃんが楽しそうに料理を始めたんだ。
「…こっちには、いつまで居る予定なの…?」
そんな理久の問いなんて聞いちゃいないさ…だって、隣で、豪ちゃんが料理を作ってるんだからね!
「トントン…トントン…」
満面の笑顔でにんじんを刻む豪ちゃんを…口を開けて惚けて見つめるふたり組。
そんな彼らに、挫けないで話しかけ続ける…理久。
カオスだ…
「…もし、良かったら…豪ちゃんに演奏を聴かせてくれないか…?」
「もちろんさ…」
こんな声、出すんだ…
理久は、直生を見つめてそう思ったそうだ。
「わぁ!すごぉい!直生さん、何を弾いてくれるのぉ?」
あの子は手際よく野菜を調理しながら、直生を上目遣いに見てそう尋ねた。
「あ…あ…あぁ、な…何が…良いだろうか…」
すると、急にドギマギし始めた直生は、チラチラと伊織を横目に見ながら…顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「…直生さんは、恥ずかしがり屋さんなのぉ…?大丈夫…僕は、意地悪したりしないよ…?」
そんな、豪ちゃんの発するワードのひとつひとつが…彼らの心を抉って…締め付けて…虜にした。
「…ご…ご…ごご…豪ちゃんは…何が、聴きたぁい…?」
伊織は、兄の失態を挽回する様に…豪ちゃんに果敢に話しかけた。
すると、あの子は、伊織を見つめて、満面の笑顔でこう返したんだ。
「ん…そうだなぁ…僕はぁ、伊織さんの弾きたい曲が…聴きたぁい!」
そんな豪ちゃんへの彼らの反応は同じ…だから、以下略だ…
そして、彼らは、この世の物とは思えない程の美味しさのグラタンをご馳走になって…美味しいレモネードを一緒に頂いた…
直生は、口の端に付いたクリームを、豪ちゃんに指で拭って貰って…胸が爆発したそうだ。
伊織はそんな兄を見習って…自分の口に、わざとクリームを付けてアピールした。そして、豪ちゃんにクスクス笑われながら、同じ様に指先で拭って貰った…
「伊織さんは…可愛いね?」
そして、そんな至福の言葉も一緒に頂いたそうだ…
はぁ~~!バッカみたいだろ…?!
俺は、彼らにそんな事は求めてなかった!!
豪ちゃんのスキルを上げる為に、一緒に合奏をバンバンして欲しかったんだ!
俺を伸ばしてくれた時の様に…あの子に、自然に、音楽の技術を体感させて、伸ばして欲しかったんだぁ!!
しかし、彼ら自身も予期していなかった事態が…起こってしまったんだ。
…彼らは、豪ちゃんに…恋をしてしまったんだ…
あの子は、ビジュアルキラーだから、少しだけ、危惧はしてはいたんだ。
しかし、時間を共に過ごせば、自然とあの子の素の顔を知る事になる…。
菅野さんの奥さんの様な…おばちゃんの姿だ。
可愛い…とは、かけ離れた…貫禄と、主婦歴が長そうな物腰…それは、はっきり言って…萎える。
だから、大丈夫だと…俺は、思っていたんだ。
でも…間違っていた…
40代の独身男性の…極めたロリコンと…“幸せな家庭”への憧れという物を、俺は、甘く見ていた…
彼らの中に…”お料理の出来る家庭的で幻想的なロリータ“という謎のポジションを豪ちゃんは確立させた。
そんな事で…彼らは、未だに、豪ちゃんと合奏のひとつも出来ていない…
恥ずかしくって、胸がドキドキしちゃうらしい。
「はぁ…」
未だに蒸し暑さを残す9月の天気…汗ばんだ首元を手で拭いながら…俺は空を見上げて、深いため息を吐いた…
--
「伊織さんは、僕と同じ…前髪が長いね…?ふふぅ…!目に刺さらない?」
「あ…あ…うん…」
ほっくんと、先生のお友達…直生さんと伊織さんは、人見知りが強い…恥ずかしがり屋さんみたい。
僕が話しかけても…いっつも、もじもじして…可愛いんだ。
いつもの様にチェロを2つ持ってきた二人は、いつもの様にダイニングテーブルに座ったまま…もじもじと体を揺らしてる。
だから、僕は彼らに紅茶を出して…美味しいマドレーヌを出してあげたんだ。
「…僕が作ったんだよ?ねえ、お味を見て…?」
彼らの正面に座った僕は、小皿に乗ったマドレーヌを摘んで、直生さんの口元に運んで、首を傾げて言った。
「あ~んして…?」
「…」
恥ずかしいのかな…直生さんは伏し目がちに視線を逸らして…小さく口を開いた。
だから、僕は、彼の口にマドレーヌを、そっと…入れてみた。
「美味しい…?」
首を傾げて、顔を覗き込みながらそう尋ねると、直生さんは小さくコクリと頷いてくれた。
「良かったぁ…」
僕はそう言って、隣の伊織さんを見つめてにっこりと笑った。そして、彼にもマドレーヌを運んで言ったんだ。
「はぁい、伊織さんも…あ~んて、して…?」
僕は、伊織さんの長い前髪越しに、彼を見つめて、首を傾げながら小さく開いた口にマドレーヌを運んだ…
ハムっとかじった瞬間が、妙に可愛くて…僕はクスクス笑って言った。
「可愛い~!」
すると、彼は、顔を真っ赤にして…眉を思いきり下げて…フルフルと震えた。
…きっと、僕が大きな声を出したのが…ビックリしちゃったんだ。
コンコン…
そんな時、テラスの窓を誰かがノックした…
「あ~!幸太郎~!」
そこには、出入りが自由になった…幸太郎が立っていた。
彼は、直生さんと伊織さんを見つけると、ギョッと顔を歪めて、僕に手招きをした。
「なに?なに?」
テラスに出た僕は、幸太郎に抱き付かれながら彼の顔を見上げて、首を傾げて言った。
「幸太郎…待て、だよ?」
すると、幸太郎は僕から体を離して…ムスッと頬を膨らませた。
お利口に、待てが出来た彼の頭をナデナデした僕は、幸太郎の手を掴んで部屋の中に入った。そして、彼をソファに座らせて言ったんだ。
「待てが出来て…偉いねぇ?クッキーあげるね?ちょっと待っててねぇ?」
「幸太郎だ…」
直生さんがそう言って幸太郎を見て、口をひん曲げた。
僕は、そんな彼の顔を始めて見て、あまりに面白くて、ケラケラ笑って言った。
「直生さん、可愛い~!」
「はっ!豪、こんな奴らを家に入れて…理久に怒られるよっ?!」
幸太郎はそう言って、直生さんと伊織さんに、態度を悪くした…
「こら!幸太郎!めっ!めっだよ!」
僕は、慌てて幸太郎に怒った。
躾がまだ十分じゃないのに、人前に出した…僕の責任だ…
知らない人を見て興奮しちゃったのか…幸太郎は僕にしがみ付いて、僕のおでこにチュッチュとキスしながら、直生さんと伊織さんにアッカンベをして言ったんだ。
「豪は、俺のだからな!…勝手に、手を出したら、許さないからな!」
「こらっ!幸太郎!めっ!めっ!」
僕は先生の読み終えた新聞紙をクルクルと丸めて、幸太郎の頭を叩いて怒った。そして、直生さんと伊織さんを振り返って…眉を下げてこう言った。
「ごめんなさい…この子、僕の犬なの…。でも、飼育放棄されていたから…躾が出来てないの。」
「ぶほっ!」
伊織さんが、幸太郎の馬鹿犬具合に…吹き出してしまった。
「僕は、幸太郎のご主人様でいる事が、恥ずかしくなったぁ…!ん、も~!ばっかぁん!どうして、そんな駄目犬なのぉ!」
地団駄を踏んで怒った僕は、幸太郎の胸に顔を埋めてグリグリと顔を振って泣いた。
「…犬?」
ポツリと、直生さんが僕に聞いて来た。だから、僕はグスグスと鼻を啜りながら彼を振り返ってこう返したんだ。
「…うん。幸太郎は…僕に、腰を振って来るから…僕が、ご主人様になって…躾けてあげてるの。」
「何回もイッたもんね…?気持ち良かったもんね…?」
幸太郎はそう言って僕の体を撫でまわし始めた。
だから僕は怒って、新聞紙を彼のありとあらゆる所にぶつけて、怒って言ったんだ。
「幸太郎!こらぁ!だめぇん!ばっかぁん!!」
惺山、他人の前で、自分の犬を叱る事程…恥ずかしい物はないよ…
「イッた…?」
「そうだよ?豪は、とってもトロけて、可愛いんだ…。俺は知ってる。でも、お前らは一生知らないだろうな!ば~かば~か!」
伊織さんの問いかけに、幸太郎が暴走してそう言ったから、僕は…先生に買って貰った鞭を手に持って、毅然とした態度で言ったんだ。
「…幸太郎!これで、殴るよぉ!」
「ご褒美だ!」
ん~~~~!変態の犬だぁ!
「豪ちゃん…ご主人様…犬…」
直生さんが、ポツリポツリとそう呟きながら、顎に手を当てて…考え事を始めた。
僕は、幸太郎にあげるつもりだったクッキーを手に持って、彼を見上げて怒って言ったんだ。
「あげようと思ってたけど…悪い子だから、あげない!」
「キスして…」
幸太郎は、いつもは良い子なんだよ…?でも、知らない人に興奮すると…簡単に、馬鹿犬に戻っちゃうみたいだ。
だって、僕を持ち上げて…直生さんと伊織さんの座ったテーブルの上に乗せたんだ。
「ん~も、怒ったぞぉ!」
幸太郎の髪の毛を鷲掴みにした僕は、思いきり引っ張り上げながら、僕のブラウスを脱がせ始める彼に抵抗した。
「あ…あぁ…」
目の前で繰り広げられる…不躾な犬の暴走に、伊織さんが目を点にしてる…!!
恥ずかしい…
でも、この犬が馬鹿なのは…僕のせいじゃないんだ。
環境が悪かったんだぁ~!
「ん…やぁだぁん…やめてぇ…ばぁかぁ!」
幸太郎は僕の両手を掴んで、ブラウスを開いた…そして、剥き出しになった…ちっぱいを舐め始めたんだ。
「あっああ…ん~~!だめぇん…はぁはぁ…やぁ…ん…」
飼い主としては、あるまじき行為だって…分かってる。
でも、力が強すぎて…抵抗出来ないんだ。
だから、僕は目の前の直生さんを見つめて、お願いしたんだ。
「…直生さぁん!た、たすけてぇ…!」
すると、彼は…ハッ!と我に返って…幸太郎のバカタレを僕から引き離してくれた。
さすが…体の大きな大人は、強かった。
僕は、ちっぱいに釘付けになった伊織さんを見て、彼にもお願いした。
「伊織さん…幸太郎を追い出してぇ…!」
すると、彼は…ハッ!と我に返って…幸太郎のバカタレを、テラスへと追い出してくれた。
「頭を冷やしなさい!幸太郎!!しばらく、お前の顔なんて見たくないぞぉ!」
僕はテラスの鍵を閉めながら、鼻息を荒くしてうろつく幸太郎に、そう言って叱りつけた。
そして、はだけた胸元のボタンを留めながら、直生さんと伊織さんを振り返って…お礼を言ったんだ。
「ありがとう…。幸太郎は、馬鹿犬で…どうしようもないんだぁ…いっつも、こんな事ばっかりして…もう、捨てちゃいたい。」
「可哀想に…」
直生さんは、そう言って…僕を抱きしめてくれた。
人見知りの彼が、僕に優しくしてくれた…
それが嬉しくって…僕は、彼の胸に顔を埋めてこう言った。
「…優しい…」
すると、伊織さんまで…僕の背中を抱きしめてくれたんだ…
優しい人たちだ…
だから、僕は、手を後ろに回して…伊織さんのわき腹を撫でた。
#52
「はぁ…そんな天才がこの世に居るんだなぁ!」
工房の中に戻った俺は、頬杖をつきながら足を揺らして…オジジに豪ちゃんの話を聞かせていた。すると、彼は弓にやすりを掛けてそんな感嘆の声を上げた。
だから、俺は指を立てて…横に振りながらこう言ったんだ。
「違う。あれは…天才じゃない。生まれ持った…才能だ。天才って言うのは、俺みたいな努力の人の事を言うんだよ?」
「ふっふっふっふ!」
吹き出し笑いを堪えながら…オジジは、弓の出来を眺める様に目の前に掲げてじっと見つめた。そんな彼を見つめたまま…俺は続けてこう言ったんだ。
「…ある意味、可哀想な子だよ。だって…“過ぎてしまう”んだもの。何事もさ…程々って塩梅があるだろ…?それを優に超えて、極端に、過ぎてしまうんだ。」
「でも…その子は、強いんだろう…?」
オジジはそう言って俺を横目に見つめた。
人は強いままでは生きていけない…そう言ったのは、豪ちゃんだ。
あの子が強いというのなら、その強さをキープ出来る…あの子にとっての”逃げ場“はどこなんだろう…
森山氏…?
それとも、毎日の畑仕事…?パリス?
「…強いよ、強くて…頑固者だ…。」
肩をすくめた俺は、オジジに向かってそう言った。すると、彼はクスクス笑いながら…弓を机の上に置いて、俺の真似をして肩をすくめてみせた。
「…頑固者は厄介だな…?」
お前もだよ…
そんな事を心の中で呟いた俺は、ニッコリ笑って、持って来たバイオリンをケースから取り出してこう言った。
「そうだ!俺が…豪ちゃんの真似をしてあげる!あの子は…こうやってバイオリンを弾くんだ!ビックリするよっ?」
「ほほっ!すっかり、北斗はその子の事が気に入ったみたいだな!」
ケラケラ笑うオジジを見下ろした俺は、ニヤリと口端を上げて笑った。
「だ~い好きだ!」
首に挟んだバイオリンを少しだけいつもより下に下げて、俺は豪ちゃんの真似をして、上目遣いにポーズを取った。
「あはは!立ち方まで…可愛いじゃないか!」
笑えば良いさ!これから…もっと可愛くなるんだから…!!
「ほっくぅ~ん!きらきら星を降らせようっ!」
森山氏に聴かせて貰ったあの子の“きらきら星”を思い出しながら、頭の中でピアノの前奏を流した俺は、クルクルと回って弓を引いた。
そして、空に高く星をあげる振りをしながら口でこう言ったんだ。
「きらぁ~ん!」
「あ~はっはっはっはっは!!」
馬鹿笑いを続けるオジジの目の前で、俺はあの子の物まねをして、空に上がりもしない星を口で紡いで出した。
「きらきらぁ~ん!」
馬鹿にしてる訳じゃない…
俺は、豪ちゃんの…この演奏スタイルが、可愛くて仕方が無いんだ。
今度、また、一緒に合奏をする機会があったら…俺は、恥ずかしがらずに、あの子と一緒に”きらきら星”を空に上げてみたい。
だって…それは、きっと、とっても…楽しいから!
「そんなに可愛い演奏をするのに、強くて頑固者なのか…?!こりゃ、まいったな!あっはっはっはっは!」
オジジと、職人たちの馬鹿笑いを体中に浴びながら、俺は全く同じ事を思った…
そうだよ…あの子には、参ってるんだ!
--
「こうして…こうして…ふふ…可愛い!」
僕は、伊織さんの前髪を可愛く結んであげた。
ジェンキンスさんのおばあちゃんが、僕の長い前髪を留める為に、電話線みたいな可愛いゴムを沢山くれたんだ。
だから、僕は…黄緑色を伊織さんにも、分けてあげた。
「見える~?」
僕は、ソファに腰かけた伊織さんのお膝に跨って、彼の可愛い目を覗き込んで、そう尋ねた。
すると、伊織さんは顔を真っ赤にして…コクコクと何度も頷いてくれた。
可愛い!
「豪ちゃんの髪も…留めてあげよう…」
直生さんは僕の後ろに回ってそう言うと、膝立ちして、グラグラと揺れる僕の体を抱きしめて、動きを止めてくれた。
「あ~ふふ!可愛くしてねぇ?」
僕は、首を伸ばして上を見上げてそう言った。
「あぁ…豪ちゃん、倒れちゃうよ…」
伊織さんはそう言って、僕の腰を支えてくれたぁ!
「優しいね?」
伊織さんの肩に掴まりながら…直生さんにもたれかかった僕は、彼の大きな手ですくわれる自分の前髪を見つめてケラケラ笑った。
「じゃあ…直生さんも可愛くしてあげる!」
彼によって上手にまとめられた髪に満足した僕は、今度は直生さんをソファに座らせて、彼のお膝に跨って座った。
でも…直生さんは髪が長いから…1個のゴムでは足りなさそうだった…
「伊織さん。ゴムをもう少し持って来てぇ…?」
「はぁはぁ…はぁはぁ…!」
きっと、呼吸器系に…少し、問題を抱えてるんだ。
ゼエゼエする伊織さんからゴムを受け取った僕は、直生さんの髪を綺麗に等分に分けた。
「艶々で…良い香りのする髪の毛…。僕…長い髪の人が好き…。だって…ほらぁ。こうして指でとかすと…指の間がひんやりして、気持ちが良いの…。」
「き…き、き…気持ち良いの…?」
顔を真っ赤にした直生さんがそう聞いて来るから、僕はクスクス笑って彼の頬を撫でながら言った。
「うん…気もちいの…だから、好き…」
「豪ちゃん…俺のも気持ち良いよ…」
伊織さんはそう言って、僕に頭を差し出して来た。
ふふ…!
ほっくんと、先生のお友達…直生さんと、伊織さんは、とっても優しい人だった。
僕は、伊織さんの髪に指を入れて、優しくとかしながらこう言った。
「あぁ…とっても…気持ち良い…!」
「はぁあ~~~~ん!」
伊織さんは呼吸系の問題を抱えてる。
だから、僕は、床に突っ伏して倒れる彼を…そっとしておいた。
直生さんの髪を可愛く結んだ僕は、彼の顔を見つめながらこうお願いした。
「…ねえ、チェロを聴かせてくれませんか…?」
だって、聴いてみたかったんだ…
彼らは、いつも…チェロを持って来てくれるけど…まだ、一度も、聴いた事が無いんだ。
いつも…こんな風に、僕と遊んでくれるから、ケースを開いた事も、本体を取り出した事もない…
でも、見てみたいでしょ?
だから…僕は、直生さんの頬をなでなでしながら、おねだりして言ったんだ。
「…僕では…だめ…?」
「ダメジャナイ…!!」
急に片言みたいな話し方になった直生さんは、僕の腰を掴んで持ち上げた。
「わぁ…!力持ち~!」
ケラケラ笑う僕を隣に優しく下ろしてくれた直生さんは、ソファを立って…チェロをケースから取り出した。
「あぁ…なんて…なんて、綺麗な色だろう…!」
それは新品のバイオリンの様に…黄色味のかかった…あめ色のチェロだった。
僕はウキウキと体を揺らして、伊織さんがチェロを出すところを見つめた。
「わぁ…カッコいい!」
思わずそう言った僕に、伊織さんは、にっこりと瞳を細めて微笑んでくれた。
僕は、大慌てで、ダイニングの椅子をふたつ運んで、彼らの後ろに置いた。
そして、顔を見上げて言ったんだ。
「はぁい…どうぞぉ…?」
恥ずかしがり屋さんのふたりは、また、顔を真っ赤にして、はにかみ笑いをした。
僕は、それが嬉しくて…クスクス笑いながら、彼らの周りをクルクル回って踊った。
「昇天する…」
椅子に腰かけた直生さんが、ポツリとそう言った。
すると、隣に腰かけた伊織さんは、コクリと頷いて答えた。
きっと…何かの暗号なんだ。
彼らは、兄弟。
お兄さんが直生さんで…伊織さんは、弟。
小さい頃からチェロを一緒に習っていて…大人になっても、ずっと一緒に居るんだって…!凄いよね…?
僕は、兄ちゃんとそんなに一緒にいたくない。
だって、兄ちゃんの足は臭いし、すぐに怒るし、すぐに暴力を振るんだもん…
「僕の兄ちゃんは、納豆みたいな足の匂いがするんだぁ…」
僕は、思わず…伊織さんにそう言った…
すると、彼は優しく微笑んで言ったんだ。
「…弾いてみる…?」
え…!!
僕は目を丸くして驚いたまま…直生さんを見て、再び伊織さんに視線を戻した。そして、満面の笑顔で言ったんだ。
「…うん!」
「こ…こ、ここに…座って…?」
恥ずかしがり屋の伊織さんの足の間に腰かけた僕は、彼の様に足を大きく開いて…チェロを跨いだ。
「あぁ…とっても足を開くんだぁ…」
感心した僕は、背中の伊織さんを見上げてそう言った。すると、彼は顔を真っ赤にしたまま、僕に言った。
「…ゆ…弓を持って…」
「はぁい…」
伊織さんの差し出して来た弓を見た僕は、彼の手に自分の右手をそっと乗せて、チェロのネックを見上げて言った。
「どこを…握れば良いの…?」
「はぁはぁはぁはぁ…」
伊織さんは、恥ずかしがり屋さんで、呼吸器系にトラブルを抱えてる…だから、こんなに近くで聞かれて、ドキドキしちゃってるんだ。
僕は、彼の胸に頬ずりして、安心させようと…したんだ。
「大丈夫…怖くないよ…?」
「はぁはぁ…あぁ…どうしよう…」
伊織さんは、僕の左手をネックから外して…自分の膝の上に置いた。そして代わりに自分の左の手でネックを持って…右手の弓を引いて見せてくれた。
「あぁ~~!すっごぉい!キャッキャッキャッキャ!」
そう。それは…まるで、地響きのような体を震わせる振動だった!!
僕は、彼が弾く音色をもっと直に聴きたくて…チェロの背中に左の耳を当てて…チェロが震えて音を鳴らすのを感じた。
「ほっぺがフルフルする…」
瞳を閉じて音色を聴き続けた…
まるで、バイオリンの音色とは違うんだ…太さも…強さも…迫力も…
うっとりする様な艶めいた音色は、1音を伸ばして弾いただけなのに…僕を魅了した。
「…素敵だ…」
うっとりとそう呟いて、やっと体をチェロから離した僕に直生さんが言った…
「…豪ちゃん、こっちのチェロは…また、違った音色だよ…」
「本当…?」
僕は、直生さんの足の間に座って、さっきした様にチェロに耳を付けた。
そして…彼の手の上に置いた弓を一緒に弦に当てて…引いたんだ。
「あぁ…本当だぁ…違う…」
弾く人によって音色が変わるって…惺山は言ってた。
でも、これは、それ以前の事の様に感じた。
僕はチェロから体を起こして…直生さんを見上げて言った。
「…何か…弾いて…?」
「かしこまりました…」
クスクス笑ってそう言った彼は、僕の右手を弓の上に乗せたまま…素敵な曲を弾いてくれた…
「…これはぁ…?」
僕が小さい声で尋ねると、直生さんは僕の耳元で囁いて答えた。
「無伴奏チェロ組曲…第1番…」
綺麗だ…
僕は、そっと左手を伸ばして…あめ色のチェロの曲線を指先で撫でた。振動を感じた指先が、手のひらへと震えを伝えて…体中を震わせて行く…
それは音色の幅と、大きさに比例して…強く感じたり、弱く感じたり…強弱をつけた。
右手で操られる弓の繊細さにうっとりしながら、僕は瞳を閉じてチェロの体から流れて来る音色と…弓を伝わって響いて来る振動を楽しむ様に、脱力した。
「はぁ…あなたは、美しい人だ…」
僕は、直生さんの体にもたれかかって…首を横に振りながらそう言った。
このまま…彼の中に溶けてしまっても、僕は嫌じゃないかもしれない。
そのくらいに、彼の弓は…繊細で、自然で、美しかった…
#57
9月の軽井沢…山奥は日が暮れ始めると、程々に肌寒さを感じさせた。
俺はオジジの上着を肩から掛けて、彼が起こした焚火を囲んでマシュマロを焼いていた。すると、目の前に腰かけたオジジが…言い辛そうに、こう切り出したんだ。
「北斗が…ずっと、ここに居るって事は、お前は…何だ、その…まもると…トゥギャザーする事に決めたのか…」
トゥギャザー…?!
オジジの言葉選びのセンスに、俺は足をバタつかせて笑いながらこう返した。
「んふふ…!そうだよ?俺はね、まもちゃんとトゥギャザーする。彼が死ぬまで…ずっと、トゥギャザーするって…決めたんだ。」
そんな俺を見つめたオジジは…瞳を細めて言ったんだ。
「…ふつつかな息子だけど…お前が一緒に居てくれるなら、俺は安心だ…」
あぁ…もう…
「馬鹿だなぁ…当然だろぉ~?」
潤んだ瞳を誤魔化す様に、俺はそう言いながら熱々のマシュマロを口の中に放って入れた。
「あっ!馬鹿野郎だな!」
「あっふい!あっふい!はふはふ!はふはふ!」
まるで火の周りを踊り狂うインディアンの様に、俺は、呆れた様に首を横に振るオジジと焚火の周りを、バタバタと走り回って、口の中のマシュマロを冷ました。
「これ見て?まもちゃんがくれたの…素敵だろ?」
そして、左手をオジジに差し出して、彼のくれた指輪を見せてあげたんだ。
「あぁ…ふふっ!なんだ、あいつは…こんなの買ってたんだ…」
意外そうに…でも、嬉しそうにそう言ったオジジの声は…とっても、優しかった。
俺は、この親子が好きだよ。
きっと…お兄さんの譲さんが生きていたら、彼の事だって…俺は、大好きになったに違いない。って…いつも、思うんだ。
「素敵だろ?11年物のシングルモルトだよ?」
オジジの隣に座り直した俺は、彼に指輪を自慢しまくった。
「11年って…お前、幾つの時だよ…」
クスクス笑ったオジジは、俺の髪にキスをしてそう聞いて来た。
「…15歳だよ…」
俺は、ゆらゆらと揺らぐ焚火のオレンジ色の火を見つめてそう言った。
すると、オジジはため息を吐いて…こんな憎まれ口を聞いたんだ。
「…犯罪者だな…」
自分の息子にこんな事…言っちゃうんだもん。
やっぱり、この家族は…面白い!
日も暮れた頃…工房の職人たちに挨拶を済ませた俺は、バイオリンを片手に急いで工房の外へ向かった。
「ヘルメットを被れよ…」
「あいあい…!」
俺はオジジの後ろに跨って乗って…胸にバイオリンを抱えながら、彼の腰に抱き付いてヘルメットを5回ほどぶつけてみた。
「…あ、い、し、て、る…のサインか…?」
すると、ヘルメットのシールドを上げて、オジジが、首を傾げてそう聞いて来た。だから俺は自分のシールドを下げてこう言ったんだ。
「…し、な、な、い、で…のサインだ…!」
そして、俺はまもちゃんに禁止された…オジジのバイクでにけつをして山を下るのであった…
ノロノロ運転のまもちゃんと違って…オジジのバイクはとっても早いから、楽しいんだ!
まるで、風になったみたいに…気もちが良いんだ!
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「はぁ…素敵だったぁ…!僕、直生さんとひとつになりたいよぉ~!」
「ぐはぁっ!」
直生さんは突然顔を真っ赤にして…鼻血を出してしまった!
僕は、目を丸くして、大慌てで彼の鼻をティッシュで押さえてあげた。
「…1人で抑えられるよ…豪ちゃん…」
伊織さんがそう言って、僕のブラウスを引っ張るけど…僕は直生さんの鼻にティッシュを当てたまま、彼を振り返ってこう言ったんだ。
「…でもぉ…可哀想だもん…」
「…」
伊織さんは、そんな僕を見つめて顔を赤くすると、そっと…僕の後ろに立って…ギュッと抱きしめて言ってくれた。
「…可愛い…」
そのままユラユラと彼に揺られながら、僕はクスクス笑った。
「ただいま…」
先生が、早く帰って来たぁ!
「わぁ~い!先生だぁ!」
僕は大喜びして先生に飛びついた。そして、彼の顔を見つめて教えてあげたんだ。
「直生さんと、伊織さんが、チェロを聴かせてくれたぁ!とっても…音色が繊細で美しくて…僕は、感動しちゃったぁ!だから、僕…直生さんとひとつになりたいんだぁ!」
そんな僕の言葉に眉を顰めた先生は、直生さんを見下ろして言った。
「…それで、鼻血を…?」
「…鼻くそをほじくったんだ…」
直生さんはそう言って、あめ色のチェロをしまい始めた。だから、僕は彼に聞いたんだ。
「直生さん…。このチェロは…音色が揺らぐんだぁ。フルフルって…気が付かない位の揺らぎがある。それは…どうしてぇ…?」
僕の言葉に首を傾げた直生さんは、チェロを見つめて首をひねって言った。
「…さあ。」
「聴いててね…?」
僕はそう言って、あめ色のチェロを優しく撫でながら持った。そして、直生さんの弓を借りて…1音、伸ばして弾いたんだ。
「あぁ…ほらぁ、揺らいでる…まるで、湖の上の船に乗ってるみたい…。ユラ~ユラ~。だから”無伴奏チェロ組曲“の揺らぎと…ピッタリ合わさって、格段に美しく聴こえたんだぁ…」
僕はそう言いながら体を左右に揺らして、音色の揺らぎを表現しながら直生さんに言った。
「テンポの速い曲は、この子には合わない…ゆったりと、揺らぎを魅せられる曲が良いねぇ…。そうだなぁ…“チャルダーシュ”とか、きっと…とってもエッチになるねぇ?」
「そうだな…俺も、そう思ってた。」
僕がそう言うと…直生さんは、にっこりと微笑んでくれた。
「…チェロもバイオリンも、木で作られている。音色は弦から出るんじゃない。このボディで響かせて…放出してるんだ。製造過程で、そんな…揺らぎが偶然出来たのかもしれない。それがいつしか…このチェロの個性に変わった…」
直生さんは、優しく瞳を細めて…僕に、そう教えてくれた。
「へえ…」
とっても優しい笑顔に、僕はにっこりと笑いかえした。そして、彼に弓を返して伊織さんと、直生さんにお辞儀をして言ったんだ。
「素敵なチェロを聴かせてくれて…ありがとうございましたぁ…お返しに、僕の大好きな曲をプレゼントしまぁす…」
走ってピアノに向かった僕は、自分のバイオリンを手に取って、調弦した。そして、首に挟みながら彼らを振り返って、ペコリと一礼した。
そして…弾き始めたのは…“タランテラ・ナポリターナ”!
「キャッキャッキャッキャ!」
僕は、小躍りしながらタランテラのリズムに乗った。
だって…この曲は、僕の体を自然と踊らせるんだ!
「はは…!とっても…とっても…可愛い!!」
伊織さんはそう言うと、しまいかけたチェロを取り出し直して、僕のタランテラに合わせて低音のリズムを刻んでくれた!
「わ~はっはっはっは!」
大喜びした僕は、彼の周りをスキップしながら踊って回った。
先生が笑顔で手拍子をくれるから、僕はいつも以上に…可愛く踊ったよ?
すると、直生さんもチェロを立てて、僕の音色に合わせて弾き始めたんだ!!
「うわぁ~い!タランチュラの毒で…死ぬんだぁ~い!」
惺山が教えてくれた…タランテラって…タランチュラの毒で苦しんでる人が、踊る踊りなんだって…!怖いよね。
だから、僕は…苦しいくらいの高音を出して、呻きながらバイオリンを弾いてみた。
「あっはっはっはっは!」
チェロのふたりが笑うから…僕は調子に乗って…弓を小刻みに震わせて、掠れる音色を出しながら、タランテラを弾いた。
これは…タランテラ…苦しみを、楽しみに、変える曲だ。
だから、僕は陽気にピチカートしながら苦しみ続けた。
彼らは、とっても自然に僕に合わせてくれる。
様子を伺ったり…動揺したりしないで、まるで…もともとその曲があったかの様に、自然と合わせてくれるんだ。
だから、僕は、すっかり夢見心地になって…いつもと違う編曲を加えてタランテラをロックに弾き終えた!
そんな最後のキメポーズは…先生へ!
「決まったぁ!」
満面の笑顔で、僕はそう言った。
「はっはっはっは!あ~はっはっはっは!」
大笑いする直生さんと伊織さんは、もう、恥ずかしがらなくなったみたいに、大口を開けて笑ってる。だから、僕も嬉しくなって…彼らの真似をして大きく笑ってみせたんだ。
「あ~はっはっはっはぁ!」
すると、先生は嬉しそうに目じりを下げて、こう言った。
「とっても、楽しい…演奏だった!」
音楽は…音を楽しむものって…惺山が、僕に教えてくれた。
だから、僕は…音を楽しむんだ。
「…それで、その金持ちが…聴きたいって?」
「あぁ…今の所、彼は北斗の言う所の…上位の金持ちだ。そのつてで、もっと上の金持ちに話が行く事を想定して…」
直生さんと先生が難しい話をしている。
僕は、伊織さんの髪を弄りながら、もう恥ずかしがらなくなった彼に言ったんだ。
「クルクルなのは…元からなのぉ?」
「違う…パーマネントだ…」
「へえ…」
彼も直生さんも体が大きいんだ。それは、惺山や…先生の一回り位違う。だって、こうしてお膝に向かい合って座ると、僕の膝が浮きそうになるんだもん。
大きな馬に乗ってるみたいで…楽しい。
目の前の伊織さんは僕の髪を指に絡めながら、うっとりと瞳を細めて言った。
「豪ちゃん…可愛いねぇ…」
だから、僕はにっこり笑って、指先で彼の目じりを下げながら言ったんだ。
「ふふぅ…!伊織さんも…可愛いよぉ?特に、お目目が可愛い!」
「はぁはぁ…可愛いなぁ…可愛いなぁ…」
伊織さんは、僕をべた褒めしてくれる!
先生だって、こんなに褒めてくれたりしないのに…ずっとずっと、可愛いって言ってくれるんだ。だから、僕は嬉しくなって…彼のおでこにキスをして言った。
「大好きぃ~~!」
「豪ちゃん、あんまり…あんまり、煽っちゃ駄目だ!」
先生はそう言うと、僕を伊織さんの膝から抱き上げて、ダイニングの椅子に座らせた。
直生さんが僕を横目にチラチラと見て来る中…僕は、お利口さんにお勉強を始めた。
どう…?凄いでしょ?
そんな気持ちが無い訳ではないけど…僕は、惺山の書いてくれた音楽記号のリストを見ながら、自分のノートに書き写して行ったんだ。
「…豪ちゃん、これは…?」
そう言って、直生さんが“f”が10個書いてある所を指さして聞いて来た。
だから、僕は胸を張って言ったんだ。
「フォルテシシシシシシシシシ…モだよぉ…?」
「ぐはぁっ!あっはっはっは!あ~はっはっはっは!!」
僕は、大笑いする直生さんを無視した。
だって…シシモはそういう物だもの。
あんなに、上手にチェロが弾けるのに…そんな事も知らないんだ!
「…先生、これ…目みたいだねぇ…?」
僕は、ひとつの記号を指さして言った。すると、先生はクスクス笑った。
「フェルマータだよ…この記号が付いてる音符を伸ばすんだ。休符にも付けられる。」
へえ…
「フェラマータ…」
「違う。フェルマータだよ…」
先生はそう言って、惺山のリストの記号の横に、カタカナで書き足してくれた。
「…フェラマータ…」
直生さんがポツリとそう言った。
でも、お利口な僕は、そんな彼を無視して…熱心に勉強に取り組んだ。
「北斗の読みだと…豪ちゃんはいろんな奏者と積極的に合奏をさせた方が良いそうだ。この子は、耳コピの他にも、相手の表現方法を…いつの間にか真似して習得して行くみたいで…」
「そうだな。俺の弓を既に真似してた。力加減までは難しいが、あの癖の強いチェロを、安定して1音を伸ばす事が出来た…。あれは、俺と一緒に弓を引いていたから、出来た事だと思う…。正直、驚いた…」
直生さんはそう言って僕を見つめて、小さなため息を吐いた。
「…一回で、出来る様になるんだな。豪ちゃんは…」
「それが、この子の受け取った贈り物なんだよ。実に…厄介だ。」
先生はそう言って僕の髪を撫でた。
「…そして、もうひとつ…特徴がある。この子は、自分の思い描く情景の中に、人を引きずり込む癖がある…」
「何それ…?」
伊織さんが首を傾げて、ダイニングテーブルに座った。
だから、僕はさっきよりも頑張って、お勉強を続けたんだ。
「…この子を私に預けた…森山惺山という作曲家が居る。彼は、豪ちゃんを共感覚伝染させる事が出来る…表現者だと言った。」
「大げさだな…!演奏家は誰だって…聴く側の情緒を多少操る事が出来る。」
直生さんは肩をすくめてそう言った。でも、先生は彼を見つめてこう言ったんだ。
「眉唾じゃない。俺も、北斗も体感した…。森山君は…それをコンサートホールでやろうと考えている。お客さんを豪ちゃんの情景の中に…引きずり込みたいんだ。耳で聴く音楽から…体感する物へと変える。そんな事を…この子がいれば出来ると思ってる。」
惺山…
「そんな事が出来たら…俺たちは食いっぱぐれるだろうな…」
伊織さんはそう言って、僕のノートにへのへのもへじをいたずら書きし始めた。だから、僕は、口を尖らせて…嫌がって手で払ったんだ。
すると、伊織さんは、今度は、反対の手でいたずら書きを始めた。
「ん…も…やぁだぁ…」
「そうだ。でも…この子は、それくらい…平気で出来るだろう…」
先生はそう言って、直生さんと伊織さんを見つめて…首を傾げて言った。
「自分たちの首を絞める可能性のある、この子に…音楽を一緒に教えてくれないか…?」
すると、直生さんは僕を見つめて…そっと、僕の手を握った。
そして、顔を覗き込んで聞いて来たんだ。
「…豪ちゃんは、どうしたいの…?」
穏やかで…優しい…そんな彼の瞳は、僕の答えを待っていた。
だから、僕は、彼の問いかけに…惺山の言葉を引用して、こう答えたんだ。
「…僕は、音楽の楽しさを伝える…唯一無二のバイオリニストになって、惺山の交響曲を、彼の隣で弾きたい。」
そう…それが、僕がここにいる…理由で、意味で、目的なんだ。
…そうだよね?惺山…
「でも…その前に、今日の晩御飯を作ろぉ~っと!」
ケロリと表情を変えた僕は、いそいそとキッチンへ向かって、下ごしらえの済んでいる材料を取り出して、晩御飯の支度を始めた。
ねえ、惺山…
沢山の人と演奏したら、僕はもっと上手になれるのかな…?
直生さんと伊織さん…そして、先生が音楽を教えてくれたら…僕はもっと上手になれるのかな…?
あなたの言葉を思い出して、あなたの思いを、思い出して…僕は、少しだけ…寂しくなってしまった…。
胸の奥が…ギュッと…苦しくなっちゃった。
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