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#64~#66
#64
「北斗ぉ!見て見てぇ!」
ご機嫌なまもちゃんの声に…俺は首を傾げてカウンターから厨房を覗き込んだ。
「これぇ!見てよぉ!」
そう言ってまもちゃんが俺に見せて来たのは…かわいい器に乗せられたてっぺんの切り取られた…卵だ。
「なぁんだ、どんだけ卵好きなんだ!もう、パリスを貰って来れば良かったね?」
呆れた様に首を振った俺は、満面の笑顔で卵を向けて来るまもちゃんを一瞥した。
すると、彼は口端を上げたまま…手元を傾けて、卵の中を見せて来たんだ。
「おお…!なんじゃこりゃ!」
俺はビックリして…目を丸くした。
だって、小さな卵の殻の中に…可愛いプリンが入ってるんだもん!
「はぁ~!手の込んだもの作ったねぇ~!」
感心してそう言った俺は、まもちゃんから卵プリンを受け取って…てっぺんに生クリームを乗せて貰って、ミントの葉を添えて貰った。
「可愛いじゃん!」
俺は、そんな卵プリンの見た目の可愛さに、思わずケラケラ笑ってそう言った。そして、彼が差し出して来たスプーンを手に持って…そっと、ひとすくいしてみたんだ。
「うわぁ…ぷりんぷりんだぁ…!」
思わず感嘆の声を上げてしまう程に、卵のプリンは弾力を見せて…俺のスプーンの上に、プルルン!なんて効果音を付けて乗った。
「はぁ~…!」
俺は、スプーンに乗せたプルプルのプリンを眺めて、その向こう側でニヤニヤするまもちゃんの顔を見つめて、こう言った。
「すんごい!」
「食べて!」
そんな彼の言葉ににっこりと笑った俺は、パクリと口の中に入れて…悶絶して言った。
「おいし~い!」
「あ~はっはっは!だろう!そうだろう!そうであると…確信していたのだよっ!あ~はっはっは!」
満足げに大笑いしたまもちゃんは、そんな声が、店内に響くなんてお構いなしにゲラゲラと笑い続けた…
これを、きっと、明日執り行われる…後藤さんの結婚記念日に出すんだ。
さすが…コックさんだ。
こんな手の込んだものをあっという間に作ってしまうんだもの。
手の中に収まった…可愛い卵のプリンをじっと見つめて、俺は、思わず…にっこりと笑った。
これはきっと…大喜びするに違いない…!!
そして…次の日の夜…
派手にめかし込んだメンヘラの奥さんを連れて…後藤さんが、来店した…
「さあさあ、佳代ちゃん!どうぞ!どうぞ!」
俺が案内するまでもない…
リザーブシートのプレートを手に持った俺は、後藤さんに案内される…メンヘラの佳代ちゃんをにっこりと営業スマイルで出迎えた。
「いらっしゃいませ~。」
「ほ…北斗ちゃん…!の…飲み物を…!!」
ガチガチに固まった後藤さんは、緊張感に包まれている。
それも、そのはず…
彼はね、奥さんに格好を付けたい。訳じゃないんだ…
メンヘラの奥さんは、ちょっとでも気にくわない事があると…へそを曲げて、ヒステリーを起こして、挙句の果てに…リストカットをする。
だから…こんな催し物…下手したらどうなる事か分からない。
死亡フラグを立てている様なもんなんだ。
馬鹿だよね…何もしなきゃ良いのに、喜ばせようとして墓穴を掘るんだもん。
俺は今まで、彼女がブチ切れる所を…3回は目撃している。
だから、今回…もし、ブチ切れる事があっても、冷静に対処出来る自信があるんだ。
始めての時は、ただただドン引きした…
2回目の時は、厨房に逃げた…
そして、3回目の時は、他のお客さんと一緒になって、身を縮こませたんだ。
次こそは、もっと近くで…キレざまを、観察したいと思ってる。
「わぁ…素敵~!」
だろうね…
テーブルの上には、オジジの所から拝借した…仏壇用の蝋燭が、雰囲気を一新して、おしゃれに見える様に立ってるんだもん。
わらけちゃうよね…?
後藤さんの奥さん…佳代ちゃんの掴みはOKの様だ。
すると、素敵な黒シャツ姿のまもちゃんが厨房から現れて…後藤さんと奥さんの前で、ペコリと一礼してこう言った。
「本日のコースは…スモークサーモンとチコリのアミューズ、スープ、ホタテのフランと白身魚のポワレ、合鴨のローストと、赤ワインのソース…デザート…となっております。」
…既視感のあるフレンチの内容に、俺は眉を上げてまもちゃんを見上げた。しかし、彼は得意げに厨房へと引き返したのであった。
今夜のお客さんは…後藤さん夫婦だけじゃない。
だから、俺は、気取った雰囲気を保ったまま…他のお客さんの注文も取るし、まもちゃんも、気取った雰囲気のまま…オムライスやイカの唐揚げを作るんだ。
周りのお客さんたちは、明らかに雰囲気の違う俺とまもちゃんに首を傾げている。
でも、一席だけ…真紅のテーブルクロスのかかっている蝋燭が灯ったテーブルを見て…何かを察した様に、静かにご飯を食べているんだ…
その状況が、少しだけ…じわじわと、ウケる。
だって、いつもはガヤガヤと賑わっている店内が…たった一席の影響によって、周りのお客さんを委縮させて、上級なフレンチ料理屋へと雰囲気を変えてるんだもん。
うちの常連客は、みんな良い人ばっかだ…
「北斗さん、北斗さん。」
そんな気取った声で…まもちゃんが俺を呼んだ。だから、俺も気取ったまま…カウンターへ向かったんだ。
「打ち合わせ通り…デザートの前に…バイオリンの生演奏お願いします。」
コソコソ声で話したまもちゃんが差し出したお皿の上には、どこかで見た事のある料理が乗っていた…
「これって…豪ちゃんが作ってたやつじゃん!護、パクるなよ!ダサいな!」
俺は、口を尖らせてそう言った。すると、まもちゃんは首を傾げてこう言ったんだ。
「豪ちゃんは…上に黒コショウを乗せなかった。でも、俺は砕いた黒コショウを乗せた…それでね、風味が…グンと変わるんだ。だから、この料理は…あの子の真似ではないんだよ?」
汚ねえな…
俺は後藤さん夫婦のワイングラスに赤ワインを注いで…上品なお皿に乗った、チコリとスモークサーモンのアミューズをお出しした。
「わぁ…!可愛い白菜!」
「佳代ちゃん…?これは、チコリって言うんだよ?」
…はい、1P加算された。
後藤さんはこの人と結婚した筈なのに…全然、彼女の事を分かっていないんだ。
表情を一瞬曇らせた奥さんの変化すら、彼は気付いていない。
得意げな顔をして、チコリのうんちくを垂れ流し続けてるもんね…
こうして…加算されて行くんだ。
爆発までの…怒りと、イラつきがね…
--
「幸太郎!ん、もう…!めっ!」
躾けのなっていない犬と歩くのは…正直、恥ずかしい…
僕は、幸太郎に首輪を付けて、彼に、こう言い聞かせた。
「お前はもう、僕の犬なんだから…ちゃんと言う事を聞くんだよ…?お利口にしたら、クッキーをあげるからね…?」
手に持ったクッキーをシャカシャカさせながら僕がそう言うと、幸太郎は、首に付けた首輪を指で触りながら…こう言ったんだ。
「豪。もっと、きつく締めてよ…気分が盛り上がらないだろ?」
ん、もう…!
僕は、身を屈めた幸太郎の首輪をもうひと穴…短くして留め直してあげた。
今日、僕が幸太郎を連れてやってきたのは…彼の所有するスタジオだ。
買ったばかりのトトさんのバイオリンを幸太郎に持たせて、彼を繋げたリードを手に持った僕は、目的地までトコトコと歩いた。
「幸太郎!」
すると、イリアちゃんが現れて、僕の手元のリードを叩き払って、こう言ったんだ。
「何してんのよっ!馬鹿!」
彼女は早々に沸点が頂点に達している!!
僕は目を大きく開いて、慌てて幸太郎のリードを足で踏んづけた。そして、イリアちゃんに眉を下げてこう言ったんだ。
「悪い犬だから…こうしておかないと、僕が恥をかいちゃう!」
「わんわん!」
幸太郎はイリアちゃんに興奮して襲い掛かろうとした。だから、僕は彼のリードを強く引いて、苦しむ様子を見せる幸太郎を制したんだ。
「…ね?大事でしょ~?」
首を傾げて彼女にそう言うと、イリアちゃんは顔を歪めてこう言った。
「変な性癖を、公に出さないでよ!気持ち悪いわね!」
彼女は…怒りんぼうだ。そして、僕の事が気に入らない…
そんな事を無視した幸太郎は、ズンズン進んでスタジオの一室へと向かった。僕は、そんな彼の後を付いて行く。
大きな部屋の中に入ると、既に数名の人と…先生が立っていた。
「先生~!幸太郎を連れて来たよぉ?」
僕はそう言って、彼のリードを短く持ちながら先生の元へと向かった。
「俺が…豪を連れて来たんだけどな…」
そんな小言を話す幸太郎を無視して、僕は先生によって…初めてお会いする人に紹介をされた。
直生さんと伊織さんの提案により…僕は、先生のお友達と合奏をする事になったんだ。大人の熟練したプロと一緒に演奏する事で、僕はもっと伸びるんだそうだ…
「この子が…話した、豪ちゃんだ。今日は一緒に合奏をして貰おうと思ってる。」
先生は、日本語とフランス語を話して、目の前の人たちに僕を紹介した。
「豪でぇす。よろしくお願いします…!」
僕はお辞儀をして…彼らに挨拶をした。すると、先生は僕にゆっくりとこう言った。
「左から…チェロ奏者の真奈美さん、コントラバス奏者のメルシーさん、バイオリン奏者の小鳥さん、ピアノ奏者のチボーさんだ。良い?」
「はぁい!」
元気に返事をした僕は、幸太郎のリードを一緒に付いて来たイリアちゃんに手渡して言ったんだ。
「暴れたら…引っ張って…?可哀想に見えるけど、苦しみを与えて…悪い事をすると、苦しくなるって…体で覚えさせているんだぁ。だから、容赦なく引っ張って良いからね?」
そんな僕の言葉に、彼女は顔を歪めて言った。
「…し、知らない!」
バイオリンをケースから取り出した僕は、先生に肩当てを付けて貰って…首に挟んだ。そして…そのまま首を傾げて、小鳥さんをじっと見つめた…
苗字が小鳥なんて…おじちゃんなのに、可愛いなぁ…
「…豪ちゃん。“死の舞踏”を弾いてみようか…?」
先生のそんな言葉に我に返った僕は、姿勢をぴんと正して元気に返事をした。
「はぁい…!」
僕の演奏は、人と合奏すればするほど良くなる…
そう言ったほっくんの言葉を、直生さんも伊織さんも…先生も、実践しようとしてる。
ここには、僕と年の近い…女の子はいない。
みんな年上のプロの大人ばかり…
「気兼ねなく…大暴れしなさい…」
僕の肩を抱いて、耳元で先生がそう言った…
だから、僕は眉を下げたまま…彼らを見つめて、コクリと頷いた。
ピアノの伴奏が始まって…僕は弓を掲げた。
“死の舞踏”は…格好良いから…大好き!
「これは…トトさんのバイオリンです。」
僕はそう言うと、トトさんのバイオリンに思いきり弓を当てて、かき鳴らす様にインパクトを付けて曲を弾き始めた。
すると、コントラバスの低音が…僕の足元を揺らして…チェロの心地良い音色が僕の体の周りをクルリと包み込んで来たんだ。
「わぁ…!」
小鳥さんのバイオリンは、僕の奏でるメロディに寄り添うようにピチカートでリズムを刻んでくれて…ピアノは、美しい強弱を保って…幻想的な雰囲気を作り出していく…
これは…これで…美しいメロディだ…
でも、僕は…もっと、行ってみたくなっちゃった。
だって、とっても…心地良いんだ…!
頭の上から降って来る、纏まった美しいハーモニーを見上げた僕は、ゆらゆらと体を揺らしながら、リズミカルに流れるワルツを少しだけ間を開けて弾き始めた。
これは…腐ったゾンビのワルツだ!
だから…所々うっかり抜け落ちてしまう…すると、僕に寄り添っていた小鳥さんのバイオリンが所々で音色を響かせて、不思議なハーモニーが生まれた。
これは、不愉快…?それとも…愉快?
「んふふ!」
クスクス笑いながら体を揺らした僕は、左の耳で、音の流れを聞きながら曲の中にどっぷりと浸かって行った。
小鳥さんは、所々で正確なリズムを刻んでピチカートをしてくれてる…
だから、僕は…そこに、少しだけズレた音を織り交ぜるんだ。
そして、混乱してくる様な…輪唱の様な…トトさんのお店で聴いた…音色がブレる感覚を…わざと出して行く。
ピチカートで、不気味な旋律を軽快に鳴らして、可愛らしいゾンビをトコトコと歩かせたら…いよいよ、静かな静寂を超えた先の…クライマックスへと向かって行く…
瞼を開いた僕は、自分の指先を見つめながら…目に力を込めて、弓を引く右手に神経を集中させた。
そして、一音たりとも無駄にしない心意気で、弓を引いた。
「オ~ララ~!」
この曲の見せ場…それは、クライマックスに訪れる…怒涛の如く、荒れ狂って行く…嵐なんだ!
それは木枯らしの様に渦を巻いて…地面に散らばったゾンビの体液すら…全て、全て、巻き上げてしまう程の勢いなんだ!
「わぁ…!ちょっと待って…!」
もっと…もっと…!激しく旋風を…!
バイオリンの音色は、そんな風を巻き起こした。
後は…厚さを付けて…勢いを付けて、立ち上げていくだけだぁ!
「キャッキャッキャッキャ!」
僕は体を屈めて、最後の仕上げに取り掛かった!
下から持ち上げて…空高くまで、思いきり…
旋風よ!巻き起これ~~~!
「いっけ~~~!」
僕はそう言って、体を伸ばして天井を見上げた。
そして、グングンと立ち上がっていく旋風を見つめて、バイオリンをかき鳴らしたんだ!
思った通り!
ゾンビたちは激しい風の渦に…体を持ち上げられて、グルグルと回りながら天へと昇って行った…。
このまま…成仏したら良いんだ…
僕はそんな思いを込めて、怒涛の旋律を激しく的確に弾き続けた…!
そして…嵐が過ぎ去った後…残されたゾンビのボロボロのズボンが、残り香みたいなそよ風に揺れている様子を最後に…僕はチャンチャン…と、ピチカートをしてお話に終いを付けた。
「ぷぷっ!」
吹き出し笑いをして演奏を終えた僕は、姿勢を正して、バイオリンを首から離した。
「…」
そして、シンと静まり返ったスタジオの中で…僕は、先生の元へ戻って彼を見上げたまま…首を傾げて言ったんだ。
「…今日は、ゾンビの舞踏会だったんだぁ…」
「豪!すっごいじゃないかぁ~~~!あ~はははは!さすが、俺の飼い主だぁ!」
静かなスタジオの中、そんな幸太郎の大笑いだけ響いて聞こえて、イリアちゃんに躾された彼がゴホゴホと咳き込む音まで…頭の上から降って聞こえた。
「オ~ララ~…ぶっ飛んでる…」
小鳥さんが、そう言ってバイオリンを首から外した…
「付いて行けなかった…」
真奈美さんはチェロを抱えて、項垂れながらそう言った…
フランス語でメルシーさんと、チー坊さんも何かを言っていたけど…僕には、オ~ララ~という、言葉しか…聞き取れなかった。
「今のを聴いて…この子に弾いて貰いたい曲は…何か、あるかな?」
先生は、目を点にし続ける彼らにそう聞いた。すると、チー坊さんが、手を挙げてこう言った…
「“ツィゴイネルワイゼン”…」
すると、先生は僕を振り返って、惺山のバイオリンを指さしながらこう言った。
「その曲は…こっちで弾いた方が良いかもしれない…」
「はぁい…」
僕はそそくさと先生の足元の…惺山のバイオリンをケースから取り出して調弦した。そして、新しく張り替えられた弦を見つめて彼に言ったんだ。
「全部、張り替えたのぉ…?」
「うん…」
指で弾く感覚も音色も同じなのに…どうしてか…僕は、惺山の全てが無くなってしまった様に感じて、少しだけ、寂しかった…
「惺山が張ってくれたのにぃ…」
「…弦は消耗品だよ?本体は森山君のなんだから、良いだろ?」
「…確かに!」
僕は眉を上げてそう言うと、コクコク頷いて納得した。
バイオリンを首に挟んで…少しの重さと、肩にかかる彼のバイオリンを感じながら…僕は、弓を高く上げて…“ツィゴイネルワイゼン”の冒頭を強く弾いた。
力強い音色は…トトさんのバイオリンよりも重厚で、肉厚だ…
「はぁ…」
思わず、ため息がこぼれてしまう…重たくて、上品な音色だ。
「俺は、あれで、しばかれた…」
そんな、幸太郎の声を無視して…僕はうっとりと体を揺らしながら、激しくも哀愁を漂わせる旋律を、まるで…うっとりと味わう様に弾いた。
ピチカートの音色さえ…重たい雫の様にボタリと音を立てて…落ちて行く。
素敵だな…
弓の動きを気にしながら、僕は“ツィゴイネルワイゼン”の佳境を弾きならした。
運指のお陰で指が良く動いて…僕の思った通りの音色を紡げて…どんどん、口端が上がっていく…
素敵だぁ…!
ピチカートの音色が曲に変化を付けると、まるで、早口言葉の様に次から次へと凄い速さで音色が…走り抜けて行くんだ!
それは、気を抜いたらあっという間にダメになってしまう…そんな緊張感を僕に与えて、どうしてもこの曲を素敵に弾き上げたい僕は、必死に神経を集中させて…一音一音を的確に、そして、力強く弾いたんだ。
「ブラボーーーー!」
「はぁ!なんてこったぁ!」
“ツィゴイネルワイゼン”を弾き終えた僕は、ペコリと一礼して、先生の元へと戻った。そして、彼を見上げて…首を傾げならこう言ったんだ。
「…やっぱり、惺山のバイオリンが一番好き~!」
すると、彼は呆れた様に首を横に振ってこう言った。
「はいはい…」
#65
「あっはっはっは!佳代ちゃぁん!これはぁ…ただのチキンじゃなくって、合鴨の肉だよぉ…!もう…物を知らないんだからぁ。覚えてね?これは…合鴨だよ~?」
後藤さんは、全力で佳代ちゃんの怒りのボルテージを上げて行った…。
最早、彼は、わざとそうしているのかと思えてしまう程に、ことごとく地雷を踏み、逆立った神経を、更に逆撫でていくんだ…
ある意味…猛者だ。
合鴨のローストと赤ワインのソースを彼らのテーブルに出した俺は、カウンターの裏に急いで戻った。そして、エプロンを颯爽と脱ぎ捨てて…燕尾服の上着を羽織ったんだ。
「…はぁはぁ…北斗、素敵…!素敵ぃ!」
そんな俺のファン…まもるの熱を帯びた声を浴びながら、俺は自分のバイオリンを取り出して…こっそりと調弦した。
「北斗~!お会計!」
すると、こんなタイミングでお客さんのお呼びがかかった…!!
「くそっ…!」
思わず顔を歪めた俺は、仕方なく…燕尾服を着たままレジへと向かった。
すると、ビシッと決めた俺の格好を見たお客さんが、目を丸くして…ゲラゲラと笑い始めたんだ…!!
「なぁんだ、そんな格好して!ごっこ遊びでもしてるのか!あ~はっはっは!」
まもちゃんのお店の常連さんは…俺が、バイオリニストだって知らない人が、ほとんどだ。
俺も自分から言ったりしないし…まもちゃんも、ペラペラと話す事もない…
だから、こんな格好を見ると…ピンとこないのか、ゲラゲラと大笑いされる始末さ。
「わぁ~!かっちょイイ服、着れて良かったね~?ボクちゃん良かったねぁ~?」
馬鹿にされてなんて無いさ…
だって、俺は、可愛いと美しいが半々の男だからね。
「また、どうぞ~!」
俺を振り返っては、ケラケラと馬鹿笑いする常連さんを見送った俺は、急いでカウンター裏に戻って、バイオリンを手に持った。そして、まもちゃんがホールに来たと同時に、入れ替わる様に…
お客さん係から…一級のバイオリニストに、変身するんだ…!!
肩で風を切って颯爽と後藤さんのテーブルへ向かう俺に、ほら、見てくれよ…
女の人は夢中じゃないかぁ!
観光で訪れたのか…見慣れない顔の女性客たちは、凛々しくも美しい俺の登場に、目をハートにして口々にこう言ったんだ。
「え…やだぁ、超格好いい!」
「本当…!めっちゃ美形!」
はっは~~~!
そうだろう…そうだろうね…
こんな美形、見た事ないだろ…?
しかも、俺は、今から、素敵なバイオリンを弾くんだよ?
せいぜい、触れられない俺を、よだれを垂らして見れば良い!
あ~はっはっはっは!!
そんな思いを滲ませもせずに、俺は、澄ました顔をして後藤さんのテーブルへ付いた。すると、後藤さんは、ソワソワとしながら…佳代ちゃんにこう切り出したんだ。
「か…か…佳代ちゃん。今日は…結婚記念日って事で…その、あの…ふ、ふたりの思い出の曲を…君に贈っても良いかな…?」
後藤さんのフルフルと震える声は、怯えというよりも…俺って、こんなに気が利いて…こんなに君を思ってて、こんなに緊張してるんだよ…?
…可愛い所があるだろ?
なんて、下心が透けて見えるほどに…大根芝居だった。
「えぇ…?!」
しかし、返答を返した彼女は、そんな事どうでも良いと言わんばかりに、声をイラつかせていた…
だから、俺は好奇心を抱きつつ…ポーカーフェイスのまま、そっと佳代ちゃんの表情を覗き込んでみたんだ。
すると、後藤さんを見つめた佳代ちゃんの目も、声も、表情全て…既に、ブチ切れ寸前に仕上がっているではないか…!
さっき合鴨のローストを置きに行った時は、70Pまで溜まっていたイラつきを…この短い時間の間で…後藤さんは、98Pくらいまで上げていた…
何やってんだよ…本当に夫婦かよ…
俺は天井を仰いで見た。
そして、遠い目をしながら、こちらの様子を伺うまもちゃんにアイコンタクトを取ったんだ…。
“駄目だ…”
“行ける!だって…お前は、めたくそイケメンじゃないか!”
「はぁ…」
聞こえない様にため息を吐いた俺は、バイオリンを首に挟んで弓を弦にそっと当てて…バラード調に編曲した“交響曲第9番”を佳代ちゃんへと贈った…
「わぁ…」
「素敵…!」
そんな、周りのお客さんの声に気を良くしたのか…佳代ちゃんはどんどん怒りのボルテージを下げて行った…
ひとえに、俺のバイオリンの音色のすばらしさのお陰だと思うけどね…?
“交響曲第9番”が思い出の曲なのは、何も、後藤さんと佳代ちゃんだけじゃない…
俺も、この曲が思い出の曲だよ…?
だって、まもちゃんと初めてエッチする時…俺はこの曲が頭の中に流れてたんだからね?
ふふっ!
わらけちゃうよね?
こんな物を頭の中に流しながら…俺は初体験を済ませたんだ…
自分を褒めてあげたいくらいに、センスがあり過ぎる…!
「ぷぷっ!」
ついつい、自分の思い出に浸ってしまった俺は、込み上げてくる笑いを堪えながら、凛とすました顔を続けて…“交響曲第9番”を弾き終えた…
「きゃ~~!素敵~~!」
佳代ちゃんじゃない、他のお客さんが…感極まってそう叫んだ。
その途端、ムッと頬を膨らませた彼女を見た俺は、彼女だけに、素敵にお辞儀をしてこう言ったんだ。
「後藤さんには、いつもお世話になっております。本日は、そのお礼もかねて…愛妻の佳代さんに、この曲を贈る大役を務めさせていただきました。お気に召したでしょうか…?」
もちろん、こんなアドリブ…プラス1万円を貰ったっておかしくない大サービスだ。
すると、佳代ちゃんは…眉間に寄ったしわを元通りにして、俺を見つめてこう言った。
「…カッコいい…付き合って…!」
やめてくれ!
俺は、普通の女性は嫌いじゃないよ?でも、すぐにキレる女は嫌だ!
きっと、自分の母親がヒステリーだったせいで、女性を見る目がシビアなんだ。
だって…あんな女と結婚なんてしたくも無いし、一緒にコンビニだって行きたくないもんね!!いっつもイライラしていて、生きた心地がしないんだよ。
「…お気に召された様で…良かった。では…」
にっこりと微笑んだ俺は、早々に体を起こして踵を返した。
こういう時は、逃げるが勝ちだ!
佳代ちゃんの見た目が豪ちゃんだったら、ブチ切れキャラでも頑張れたと思う。
でも、違うもんな…だから、やだよ。
「よくやった!よくやった!!」
俺のファン、まもるの感動をひとり占めした俺は、燕尾服を脱いで…再びエプロンを身に纏った…
そして、水差しを手に持って…いつもの様に、客席を回った。
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「…これは…参ったな…」
そう言ったのは小鳥さんだ…
僕は、彼の弾いた曲“アダージェット”を、すぐに弾く事が出来た。
だから、彼は、そう言って…困り果ててしまったんだ…
僕は、しょんぼりと眉を下げて先生の腕を掴んだ。
すると、先生はそんな僕をいつもの様に見下ろして、こう言ったんだ。
「上手に弾けたね…情緒のこもった良い演奏だった。」
「…ゴーチャン…オイデオイデ…!」
そんな片言の日本語で僕を呼んでくれたのは…ピアニストのチー坊さんだ。
僕はトコトコと彼の元へ行って…ピアノの椅子にチョコンと座った。
そして、小鳥さんと話し込む先生の後姿を…じっと見つめた。
小鳥さんも…いとも簡単に演奏を真似されて、不愉快になってしまったのかもしれない…
一生懸命練習して来たのに…僕が、勝手に真似してしまうから…嫌な思いになってしまったのかもしれない…
僕は、胸の奥がチクリと痛くなって…先生を見つめる視線を下げて、ブラブラと揺れる自分の足を見つめた。
「どうして…僕は、剛田なんだろう…」
ポツリとそう言った僕は、首を傾げるチー坊さんを見つめて彼に言ったんだ。
「俺のものは俺のもの。お前のものは俺のもの。これって…剛田的思考だと思うんだぁ。僕のやってる事って…結局そう言う事…。人の演奏を盗んで…自分の物にしてる。それって…失礼だし、酷い事だよね…?」
すると、チー坊さんは僕の頭をナデナデしながらこう言った…
「ウィ…」
…フランス人は、よく、こう言うんだ。
僕は、これが…失礼だとは分かっているんだけど…どうしても、モルモットの鳴き声に聴こえてしまう…
ウィ…ウィウィウィウィ…キュイキュイ…ウィウィウィウィウィ…
僕の故郷…湖の向こうのエモい養鶏場で、たまに開かれるふれあい動物園の目玉は…可愛いモルモットだった。
膝に乗せて…背中をナデナデ出来るんだ。
でも…モルモットは、粗相をしまくるから…何回もおしっこを漏らされた…
「ぐふっ!」
顔を真っ赤にして吹き出した僕は、慌てて、チー坊さんから視線を逸らした。
そして、僕に駆け寄ろうとして、イリアちゃんに首を絞められている幸太郎を見つめて、目を見開いて絶叫したんだ!
「あっ!大変だぁ~~!」
慌てて幸太郎に駆け寄った僕は、イリアちゃんの手からリードを外して、幸太郎の首輪を外してあげた…
「豪…豪、死ぬかと思った…!」
だったら、こっちに来ようとする事を、止めれば良いだけなのに…馬鹿犬だ。
僕は、呆れた様に首を横に振って…ハァハァしながら抱き付いて来た幸太郎の、背中をナデナデしてあげた。
「あんた…やばいね…超怖い!」
すると、イリアちゃんは目を見開いて、信じられないと言わんばかりに首を何度も横に振りながら、僕を見つめてそう言った。
そんな彼女の表情は、言葉に反して…前の様に僕を毛嫌いする物から、少しだけ、朗らかな様子を見せた様に感じた。
だから、僕は彼女に、肩をすくめてこう返したんだ。
「僕…ジャイアンみたいなんだぁ…」
「理久先生が、あんたの方に興味を持つのも、仕方が無いのかな…。だって、あんたが一番凄いもの…。誰よりも、ヤバい才能を持ってる…」
そんなイリアちゃんの言葉に…僕は何も言えないで、ただ…幸太郎の大きな背中をナデナデし続けた。
一番…?
違うよ…
僕は、そんな物、欲しくない…
ただ、みんなが音を楽しめたら…それで、良いんだ。
「…競争じゃない…一番なんて、いない。音楽は…音を楽しむ物だって、僕の大事な人が教えてくれたぁ…。だから、僕は…音を楽しんでるだけ。」
僕は、胸の中の幸太郎の髪を撫でながらそう言った。すると、彼は顔を上げて、僕にこう尋ねて来たんだ。
「…そいつが、惺山?」
「そうだよ…。そう、教えてくれたのは…惺山だよぉ…?」
コクリと頷いた僕は、幸太郎を自立させて…立ち上がった。そして、チー坊さんの所に置きっぱなしにしてしまった惺山のバイオリンを手に持って、首に挟んだんだ。
「音は楽しい…。だって、思いや気持ち…言葉や、情景を乗せて…聴く人に届ける事が出来るから…!」
そう言って弾き始めたのは…昨日、先生が弾いて聴かせてくれた…“Blue moon”。
笑顔の幸太郎を見つめて、微笑みながら…僕は、洒落て乙なジャズを、バイオリンの音色に乗せて奏でた。
すると、コントラバスの低音が、僕の音色に加わって…リズムを刻みながら、素敵な雰囲気を作り出してくれた…
後に続いて…ピアノ、チェロ…そして、バイオリンの音色が、同じ曲を弾き始めると…あっという間に、素敵な音が姿を現して行く…!
最後に必要な物は、それを聴いて…微笑んでくれる、笑顔!
その全てが合わさった時…音楽が出来上がる…
音を楽しんだ時に…やっと、音楽が出来上がるんだ!
「豪ちゃんを、一日お預かりしてだな…もにょもにょ…」
「それは…無理な話だな。」
僕は、バイオリンの小鳥さんに、ジャズの曲を沢山教えて貰った。
とっても良い香りのするチェロの真奈美さんに、抱きしめられて…コントラバスのメルシーさんに肉厚なキスを貰った。そして…チー坊さんには、シナトラなんて名前で呼ばれて…可愛がられた。
僕の杞憂は払しょくされた…
それは、僕の思いが…彼らと同じだからだって、先生は言った。
音を楽しんでこその…音楽だって、そんな単純な思いが、僕の剛田を受け入れて貰えるきっかけになったんだ。
惺山が…彼の思いが、僕を守ってくれた。
僕は、そう感じて…嬉しかった。
「大丈夫だったでしょ…?」
「う~ん…うん…。うん…大丈夫だったぁ…」
先生の手を繋いだ僕は、彼を見上げて頷いてそう言った。
実は、昨日の夜から…心配だったんだ…
この、僕の剛田たけしが…誰かを傷つけるんじゃないかって…怖くて、堪らなかった。
博美ちゃんを泣かせてしまった時の様に…誰かの尊厳を、土足で踏みにじってしまうんじゃないかって…怖かったんだ。
「今日は…外食にしよう…?」
「はぁい…」
先生と手を繋いで街を歩きながら、街灯の明かりに眼鏡を光らせる横顔を見上げて、僕はクスクス笑ってこう言った。
「幸太郎は…少しだけ、お利口になって来たと思わない?」
「あッはは…。あいつにあんな事出来るのは…今の所、豪ちゃんだけさ…。”犬“だなんて呼んで…公然の面前で、羞恥プレイをしてるんだもん…卑猥だよ。」
首をひねる先生を見上げながら、僕は首を傾げて聞いた。
「羞恥プレイって…なぁに?」
「所で…何を食べようか…」
そんな先生の問いかけに、僕は空を見上げて言った。
「ねえ、ここは…街の中なのに…夜空が綺麗だねぇ?東京は怖かったけど、ここは好きだよぉ?だって、みんなのんびりしてるもん。」
「パリは…また、違うさ。」
先生はそう言うと、前を向いて、誰かに気付いた様に手を振った。
そして、フランス語で話しかけながら足早に歩き始めたんだ。
僕はそんな彼の壊れた眼鏡のフレームを見つめたまま…お腹を空かせた。
#66
「佳代ちゃん、結局ブチ切れてたね?」
お店が終わった厨房で、俺は遅めの夕飯を食べながら厨房のお掃除をするまもちゃんの背中に向かってそう言った。
すると、彼は、振り返りざまに顔を歪めて…鼻息を荒くしてこう言ったんだ。
「せっかく…!卵プリンを出してやったのに!!手で握りつぶして…!!はっ!!」
ふふ…
今夜の佳代ちゃんは…凄かった…
俺のバイオリン演奏が終わった後…夢見心地になった佳代ちゃんに、後藤さんは、迷う事無く…地雷のラッシュを踏んで行った。
俺のお陰ですっかりムードが改善されたにも関わらず、後藤さんは、自分の企画したバイオリン演奏の出し物を得意気に語り始めたんだ…
「佳代ちゃん、あれは…ヴァイオリンって楽器なんだよ?佳代ちゃんみたいに若い子は知らないかもしれないけど、音楽ってさぁ…ああいう物を言うんだよね~?」
すると、佳代ちゃんは無表情のまま合鴨のローストを口に運び始めた。そんな彼女の様子に、何故か…後藤さんは逆にイラつき始めてこう言ったんだ。
「…まあ、佳代ちゃんには、少し難しかったかもしれないけど…。大人って、ああいう物に感性を揺すぶられるからさぁ!まあ…僕と一緒になった事だし、佳代ちゃんも、レディとして…嗜み程度にはクラシックを学んでも良いと思うけどねえ?」
こんな事言われて、怒らない人の方が珍しいと思う。
だから、俺は佳代ちゃんを…メンヘラ認定から解いたんだ。
彼女は、まともな反応をしていただけなんだ。
この夫婦の問題点…それは、間違いなく…後藤さんだ…!
「べちゃくちゃべちゃくちゃと…うっせえハゲだな!」
…佳代ちゃんは、怒った。
俺は、タイミング悪く…そんな彼女の手元に、護特製の”卵プリン“をお出ししたんだ…
すると、口をあんぐりと開けたまま固まる後藤さんを、ギロリと睨みつけた佳代ちゃんが、こんな事を彼に尋ねたんだ。
「大人、大人って言ってるけどさあ…どこら辺が大人なのか…言ってみてよ。」
後藤さんは、ハゲと言われた手前引けなくなったのか…そんな彼女の素朴な疑問に、無駄に胸を張ってこう答えたんだ。
「年齢だって、僕の方が上だし…!そ、そ…それに、社会経験も豊富だろ?税金の事だって分かるし、選挙の事だって分かる!大人じゃないかぁ!」
「はっ!笑わせんな!ハゲ!」
佳代ちゃんは退かなかった…
そして、自尊心を傷つけられた後藤さんがプルプルと震えるのを、前のめりになって瞳を細めて眺めると…彼女は、みんなに聞こえる様に…こう言ったんだ。
「セックスが下手くそで、キスも気持ち悪い。半目を開けながらこっち見て舌を出すとか、マジで…美形ならまだしも、お前がするなよって…いっつも思ってる。私が今まで付き合って来た誰よりも、汚いし、不細工…。でも、結婚した。なんでだと思う…?」
後藤さんのHPは、既に、0だ…
そんな事を俺も、お客さんたちも思った時…彼は、何故か得意気にこう言ったんだ。
「…優しいからだよねぇ~!」
凄い…
凄いよ…後藤さん。
あんたの鋼のメンタルを俺にも分けて欲しい…
すると、佳代ちゃんはケラケラ笑ってこう答えたんだ。
「金に決まってんだろ!この糞ハゲ!調子に乗んなよっ!すぐにイクくせに何回も何回もやりたがって…本当、迷惑してんだよ!この、早漏!しかも、ポークピッツなんだ!お前のチンチンはな、入ってんのかさえ分かんねんだよっ!」
くそっ!
…くそっ!!
面白いじゃないかぁ!!
そんな決定的な駄目出しに…さすがの後藤さんも、ショックを受けた様に押し黙ってしまった…
「…ポークピッツって…何…?」
「小さいウインナーだよ…子供の、お弁当に入れるやつ…!クスクス…」
そんなお客さんの声を耳に拾いながら、俺は後藤さんの目の前に護の”卵プリン“をお出しして、ふたりの食事済みのお皿を下げた。
すると、何を思ったのか…後藤さんは、佳代ちゃんを見つめてこう言ったんだ。
「みなぎってる時は…シャウエッセンくらいには、なるだろう…?」
あ~~~~~はっはっはっはっはっは!!
俺は肩を震わせながら、急いでお皿をまもちゃんの待つ厨房へと運んだ。
「…な、なんて言ったの…?ねえ、北斗…後藤さん、なんて言ったの…?」
流し台に掴まってしゃがみ込んだ俺は、込み上げてくる笑いを堪えながらまもちゃんに伝えた。
「…勃起したら、シャウエッセンぐらいには…なるって言った…!!ぐふふ!ぐふふふ!!」
「ぐほっ!ぐは~はっはっはっは!」
俺の言葉を聞いたまもちゃんは、漏れ聞こえる事なんてお構いなしに盛大に吹き出した。だから、俺は慌てて彼の口を押えて、小さな声でこう言ったんだ。
「…佳代ちゃんは、悪くない…!彼女を怒らせているのは、後藤さんだったぁ…!」
そうだ。
究極のKY、天然ボケ…それは、後藤さんや豪ちゃんみたいな人の事を言う。
TPOをわきまえる事が出来なくて…人の迷惑も顧みずに、どんどん墓穴を掘っていく人の事を言うんだ…!!
これは…見ものだ!
そう思った俺は、ニヤけてくる顔を両手で解しながら、再び…客席へと戻った。
すると、なにやら他のお客さんの様子がおかしくなっていた…
それは、笑いを堪える物から、恐怖へと変わっていたんだ。
俺が居ない間に…一体何があったんだ…!!
少しの乗り遅れた感を感じつつ、俺は、後藤さんと佳代ちゃんのテーブルをさりげなく観察した。
「だって…!子供だって…欲しいじゃないかぁ!だからぁ、何回もしてるだけだよぉ?」
「はっ!お前の半分ハゲてる精子なんて、絶対に受精させたりしないっ!!ぶっ潰してやる!」
後藤さん夫妻は、人目もはばからずに…そんな究極の話をし始めていた…
さすがに、そこはお店の店員だ。
他のお客さんが怖がるような話を、大声で始めるなんて…見過ごすわけにいかない。
俺は、スマートに後藤さん夫妻のテーブルに着くと、卵プリンを手の中に入れた佳代ちゃんと、半泣き状態の後藤さんにこう言ったんだ。
「すみません…他のお客様が…」
「お前の精子なんてっ…!こんな風に…!全部!!ぶっ潰してやるっ…!!」
佳代ちゃんは、俺の事なんて無視して…手の中で卵プリンを握り潰して、一張羅姿の後藤さんに投げつけた…!!
あ~~~~はっはっはっはっは!!
やりやがったぁ~~~~!
ベチョッ…なんて音をさせて、護の卵プリンは…殻ごと後藤さんにへばりついた。
食べ物を粗末にしてはいけない。
そう分かってるけど…俺は、余りの衝撃的な展開に、笑うしかなかったんだ。
厨房からその様子を見ていたまもちゃんは、体中から、悲壮感を漂わせていた…
そうだね…昨日の夜から、仕込んでいたのにさ。
あんなに張り切って考えたメニューだったのにね…悔しかろうに…
でも…めたくそ、面白かった…!!
あの時の怒りを思い起こしたのか…まもちゃんは、地団駄を踏みながら怒り始めた。そんな彼を見つめたまま、俺は首を傾げてこう聞いたんだ。
「ねえ、あんなに馬が合わないのに…あの夫婦は、どうして別れないんだろうね…?」
首を傾げながら、美しく焼き目の付いた白身魚のソテーを一口食べた俺は、丁度良い皮の歯ごたえと絶妙な味付けに悶絶して、思わず唸り声をあげた。
「ん~!美味しい!」
俺の感嘆の言葉に少しだけ口元を緩めたまもちゃんは、不貞腐れたまま…こう答えた。
「さあね。割れ鍋に綴じ蓋なのかもしれないよ…?あんなに周りに迷惑を掛けても、ケロッとふたりで帰って行くんだから。意外と、あれで、成り立ってる関係なのかもしれない。他人から見たら歪でも…当人たちには、正常なんだ。」
一理ある…
「人って、分からないね…」
付け合わせのプチトマトを口の中に入れた俺は、モグモグしながらまもちゃんを見上げた。すると、彼はクスクス笑って俺を振り返って、首を横に振りながらこう言ったんだ。
「渦中の当事者になると…なかなか、客観的に物事を見れなくなるなんて…しょっちゅうさ。俺だって…後から後悔する事はあっても、初めからそれを予測する事なんて、この年になったって無理だ。」
確かにそうだ…
大人なまもちゃんの意見に、俺は思わずにっこりと微笑んで、茶化す様にこう言った。
「まもちゃんの癖に…大人みたいな事を言うの…?ふふ…!」
「…だっ!」
すると、彼は顔を真っ赤にして…そそくさと掃除の続きを始めた。
彼の本音を聞いて以来…俺は、こうやってまもちゃんをおちょくってる。
別に虐めている訳じゃないよ?
こうして…あなたの子供っぽい本音を、俺はこんな風に弄り倒しちゃう位…何とも思って無いよって…言ってあげてるんだ。
だから…もっと、言っても良いんだよって…ハードルを下げてやってるんだ。
「も…二度と言わない!」
「あ~はっはっはっは!なぁんで!可愛いから、もっと言ってよぉ!」
不思議だね…
たったあれだけの事なのに…俺は、あなたがもっと大好きになって、他の誰の事も、どうでも良くなった。
確かに…渦中にいる内は、客観的に物事を見る事は難しいのかもしれない。
大人な護の言う通りだ…
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「チボーは、豪ちゃんが気に入ったみたいだ。奢ってくれるって…良かったね?」
僕は、先生と、チー坊さんと、おしゃれな…薄暗いお店へやって来た。
「わぁ…ステージがあるねえ…」
店内には、まるで魅惑の深海パーティーの様な飾りつけをされたステージが見えて、そこには…ドラムセットがあった。
「何か演奏するのぉ…?」
僕は先生の腕をそっと掴んで、耳を傾ける彼にそう聞いた。すると、先生は首を傾げてチー坊さんにフランス語で話しかけたんだ。
僕は、先生と会話をするチー坊さんを見つめながら…彼が、しきりに気にする…僕の開いたままの口を…そっと閉じた。
イケね…ほっくんにも、馬鹿っぽく見えるって…言われてたんだ…
「誰かは知らないけど…誰かが演奏するみたいだね…」
先生は肩をすくめてそう言った。だから、僕は天井を見上げながら、適当に頷いたんだ。
「ふぅん…」
注文を先生とチー坊さんに任せて、店内をキョロキョロと見渡した。
チー坊さんがつれ来てくれたお店は、よく、映画で見る…悪い大人が集まりそうな店だった…
薄暗い照明に、たばこの煙…そして、派手な化粧をした女の人。
黒いハットを被った、ギャングみたいな男の人もいる!
彼らが暴れ始めたら、きっと…先生も、チー坊さんも、殺されるだろう…
僕は下唇をフルフルと震わせながら、先生の腕にしがみ付いて…あたりの様子を伺い続けた。
すると、金髪の綺麗な女の人と目が合って…僕は、驚いて目を丸くしたんだ。
彼女は、そんな僕を見て、まるで、可愛い坊やね…なんて言わんばかりに、クスクス笑って、ウインクをした。
「…はっ!」
恥ずかしくなって一気に顔を熱くした僕は…そそくさと姿勢を正して…先生の手を叩きながら彼の顔を覗き込んで、こう聞いた。
「ん、お腹空いたねぇ…?」
「すぐ来るよ…」
こんな怖い所でご飯を食べても…喉を、通らないかもしれない。
「豪ちゃん?チボーは、豪ちゃんのアドリブが気に入ったって…」
そんな先生の声に我に返った僕は、お隣の席の男の人の襟足を見るのを止めて、先生を見て頷いた。
「へえ…」
「ふふ…!何を見てるの…?」
クスクス笑った先生は、僕に顔を寄せて…同じ方向を見つめた。そして、コツンと、頭をぶつけながら首を傾げたんだ。
だから、僕は、指をさして教えてあげた。
「あの男の人の…襟足が変だなって思ったのぉ…。だって、何か…浮いてるみたいに見えるんだもぉん。」
「あぁ…カツラなんだよ…」
つまらなそうにそう言った先生は、注がれたワインを口に入れて鼻でため息を吐いてる。
そんな先生の言葉に目を丸くした僕は、再び、カツラの男性の襟足を見つめて…オレンジジュースを飲んで、彼と同じ様に鼻でため息をついた…
浮いてるのに…誰も教えてくれないんだ…
そうこうしていると…目の前に、お料理が並んだ。
どれも美味しそうだけど…僕はそんなお料理の中に、良い物を見つけたんだ。
先生は、チー坊さんと楽しく話をしてる。
そんな彼を横目に見ながら、僕は、それをフォークで差して…彼の口に運んで、こう言ったんだ。
「先生、あ~んして…?」
「あ~ん…」
僕は、ワクワクしながら…どうなるのか、見ていた。
パクリと口を閉じた先生は、僕を見下ろして…ハッと表情を変えて…次の瞬間、大暴れしてこう言ったんだ。
「あっっふい!あっふいじゃないの~~~!」
「キャッキャッキャッキャ!」
面白い!
やっぱり、熱い物を他人の口に入れるの…面白い!!
白身魚のフリッターは、揚げたてなのか…表面がチリチリしていたんだ。
だから、僕は、これを…先生の口の中に入れた!
すると、チー坊さんは、僕を見て、呆れた様に首を横に振った。
僕は、そんな彼に笑顔を向けて、ジト目で僕を見つめる先生を横目に見て言ったんだ。
「…面白~い!」
「まぁったく!」
先生は、ため息を吐いて、鼻息を荒くしてそう言った。
先生とチー坊さんがおしゃべりをする中…ステージの上には、いつの間にか、楽器を持った大人が並び始めた。僕は先生に手を握られたまま…そんな彼らを眺めて、ワクワクしていた。
「先生…見て?何を演奏するのかなぁ…?」
先生に体を寄せた僕は、顔を傾ける先生の耳元でそう聞いた。すると、彼はステージを見て…にっこり笑ってこう言った。
「…さあね。」
そんな彼をジト目で見つめた僕は、フン!と鼻を鳴らして、チー坊さんに聞いた。
「チー坊さん?今から、何を演奏するんだろうねえ?」
すると、彼は肩をすくめて…眉を上げながらこう言った。
「…サアネ?」
わぁ…変なところで連携を見せるんだぁ…
チー坊さんと、先生は昔からのお友達だそうだ。
そのせいか…こんな、下らない連係プレーを見せるみたい。
だから、僕は口を尖らせて、顔を背けて…オレンジジュースを啜って飲んだんだ。
「あれえ…?」
そして、ふと、気が付いた…
いつの間にかバンド演奏が始まっていて、店内を、素敵な音楽が流れて彩っていたんだ。
僕はそんな光景に目を丸くして驚いた…
だって、とっても自然だったんだ。
始まりがいつあったのか気が付かないくらいに、それはとっても、自然だった。
そんな自然な音の流れを、僕はじっと聴き入りながら…口元を緩めて笑って言った。
「わぁ…先生みたいだね…?」
僕の言葉に首を傾げた先生は、そっと、僕の前髪を指先で分けてニッコリ笑って聞いて来た。
「…なにが?」
「さあね!ふん!ばぁか!ボロ眼鏡!」
仕返ししてやったぁ!
僕は、先生とチー坊さんのフランス語を聞き流しながら…目の前のご飯をモリモリと食べた。
中でも一番おいしかったのは、豚の脂身をカリカリに焼いた物!
絶対、太るけど、とっても美味しかったんだ…
「ふ~んふふん…ふんふん…」
すると、さっき、小鳥さんに教えて貰ったばかりの曲が聴こえて来て、僕は、思わず…一緒に鼻歌を歌いながら体を揺らした。
「“You Make Me Feel So Young”…」
チー坊さんは、そう言って僕を見つめてにっこり笑って…次に、先生を見つめて、ニヤニヤと口を緩めて笑った。
そんな彼を無視して、僕は体を揺らしながら鼻歌を歌い続けた。
「先生?今度、これを弾いて聴かせて…?僕、この曲…好きだよぉ?」
僕は、足を揺らしながら、先生の顔を覗き込んでそう言った。すると、彼は顔を赤くして…こう答えた。
「…良いよ。」
きっと、ガブガブ…ワインを飲んでいるから…酔っぱらったんだ。
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