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#67~#70

#67 10月の半ば… 夏の繁盛期を終えた俺とまもちゃんは、店をお休みして、豪ちゃんの言っていた…“エモい養鶏所”を訪れていた… 「うわぁ、まじで…鶏が、いっぱいいる…!」 あちこちから聞こえてくる…コッコッコッコ…と喉を鳴らす音にビビった俺は、大きな体のまもちゃんにしがみ付いて、遠目に鶏の群れを眺めていた。 等間隔に区切られた柵の中には、白や、茶色の鶏が、勝手気ままに闊歩して、しきりに地面を突いていた。 パリス一匹だけなら可愛いもんだけど…こんなに群れになってると、威圧感が半端ないなぁ… 「あぁ。この中に、豪ちゃんが育てた鶏もいるのかぁ~!」 俺が完全に委縮する中、ケラケラ笑ったまもちゃんは、鶏たちが蠢く柵を覗き込んで…こう呼び掛け始めた。 「ん、も~!も~…!パリスゥ!パリスゥ!ばっかぁん!」 ウケる…! すると…なんと…! 固まった鶏の群れの中から数羽が近付いて来て、まもちゃんを見上げたんだ。 「はっ…?!」 鶏も、まもちゃんも、お互い…ギョッとしている…そんな、状況だ… 「北斗…寄って来たぁ…!」 まもちゃんは嬉しそうにそう言うと、背中に隠れた俺が覗き込みやすい様に腕を少し高く掲げた。 「もしかして、豪ちゃんの知り合いの方…?」 そんな声に振り返った俺は、優しそうなおじさんを見つめてペコリと頭を下げた。 「私は、江森です…。この養鶏所の責任者です。豪ちゃんの…あの子のお知り合いですか…?なに…パリスなんて言って、あの子の鶏たちが…嬉しそうに寄って来たから…声をかけてしまったんですが…ふふ。」 はにかみ笑いをした江森さんは、嬉しそうに瞳を細めてそう尋ねて来た。 だから、俺はにっこりと微笑み返してこう言ったんだ… 「えぇ…あの子の、知り合いです。」 「あぁ…豪ちゃん。今、どうしてますか…?高校生になって、勉強を頑張っているのかな…ふふ。会いたいなぁ…。」 クスクス笑ってそう言った江森さんに、まもちゃんは得意げにこう答えた。 「豪ちゃん…今、フランスに居るんですよ。」 「はぁ…?!」 目を丸くして驚いた様子の江森さんに、俺は続けてこう説明した。 「…あの子、バイオリンがとっても上手で、今、フランスの先生の所で教えて貰っているんですよ…」 そんな中、まもちゃんの足元には、豪ちゃんの鶏なのか…数匹の鶏が首を傾げながら上を見上げ続けていた… 俺は、そんな様子を写真に撮って…クスクス笑いながらこう言った。 「…きっと、喜ぶ…あの子に送ってあげよう…」 「豪ちゃん…不思議な子だったけど…。そうかぁ…あの子には、そんな未来が…あったんだなぁ…。ふふ…良かった…。あぁ…良かった!」 感慨深げにそう言った江森さんは、嬉しそうにニッコリ笑った。 「ゆっくりして行ってくださいね…では。失礼します。」 そんな言葉を残すと、江森さんは両手に飼料を抱えながら鶏小屋へと向かった… 「エモいな…」 まもちゃんは、ポツリとそう言った。だから、俺も一緒になってコクリと頷いたんだ。 江森さんは名実ともに…エモそうな人だった。 ”豪ちゃんの鶏…どれだ?!“ そんなメッセージと鶏の写真を理久に送った。すると、すぐに返信が返って来たんだ。 その内容が…また、難解だった。 “キャサリンゼタジョーンズ!ジュリアロバーツ!アンヘッシュ!ほっくん!エモい養鶏所に行ったなら…ずんだのアイスを食べて!とっても美味しいよ?” 「なぁんで…ハリウッド女優の名前を羅列してんだよ…」 携帯電話を覗き込みながら、俺は首を傾げた…すると、まもちゃんは、再び柵に向かって、今度は…こう呼びかけ始めたんだ。 「キャサリンゼタジョ~ンズゥ!」 「ココッ…!」 何でお前、知ってんの?!…そんな表情を見せた鶏は、まもちゃんを見上げながら、しきりに訝しがる目を向けていた… 「アンヘッシュゥ~~!」 「コッコッコ!」 ウケる… 鶏と通じ合う卵好きのまもちゃんは、このまま放っておくと、豪ちゃんの様に鶏を飼い出すんじゃないかと心配になるくらいに楽しんでいた。 「こっちだよぉ~~!ん、もぉ~!ばっかぁん!」 そう言ってまもちゃんがバタバタと走って柵の反対側へ行くと、豪ちゃんの鶏たちは、彼を追いかけて走って付いて行くんだ。 あの鶏たちは…豪ちゃんが、あんなデカいおっさんに、成長したと…思ってるんだろうか。それとも、自分たちの名前を知っている彼から、豪ちゃんの情報を聞き出そうとでもしているんだろうか… ケラケラ笑って走り回るまもちゃんは、まるで大型犬の様に飛び跳ねてはしゃいでいた。 「あ~はっはっは!北斗!見て見て!!」 彼を追いかける数羽に引きずられた大きな鶏の群れが、ゾロゾロとまもちゃんの後を追いかけ始めた頃… 俺は、彼の下らない遊びを止めさせて、鶏の柵から離れた。 そして、豪ちゃんのお勧め通り…俺とまもちゃんはずんだのアイスを買って、目の前のベンチに腰かけて食べた。 ぼんやりと視線を遠くへやると、白に近い水色の空に、うっすらと霞んで見える鱗雲が、綺麗な模様を付けていた。 そんな中を…鳥が、群れを成して飛んでいくではないか… 「…あぁ、何か…緩くてイイわぁ…」 心がホッと和む光景に瞳を細めてそう言うと、まもちゃんは何も言わずに一緒に空を見上げて、大きく深呼吸をした。 俺はね、きっと…人生を行き急いでいたんだ…。 だから、トータルバランスを取る為に、休息の時間に入ってる。 目的もなく、ただ空を見上げてずんだのアイスを食べる… たったこれだけの事に、こんなにも穏やかになれる理由を知ってるよ。 俺はいつも、目標を持って、そこに向かって突き進むのが人生だと思ってた。だから、余裕なんて無いし、時間だって押せ押せだった。 そんな毎日を送って来たからこそ…この何もしない時間の尊さも、隣にいる人の大切さも、身に沁みて感じるんだ… ここには下らない派閥も無いし、パトロンにおべっかを使う必要もない。 ただ、ただ、毎日を、のんびりと…安心出来るまもちゃんと一緒に過ごすんだ。 素敵な時間だよ… 「北斗…いつだっけ、東京行くの…」 そんなまもちゃんの気の抜けた声に、俺は、彼の腕にもたれかかりながら遠くを見つめて答えた。 「…11月の4週目…でも、明日…一度打ち合わせに、東京へ行くんだぁ…」 「はぁ…?そう言う事はさぁ…もっと、早めに言うんだよぉ…。」 このエモい養鶏所のせいなのか…それとも、ずんだアイスなんて舐めたせいなのか…のんびりしたまもちゃんは、ダラダラと笑いながらそう言った。 「はは…そうだね…もっと、早めに言えば良かったぁ…」 俺は、そんな彼にクスクス笑って…気の抜けた声を出してそう答えた。 もうすぐオーケストラと合同練習が始まるんだ。 だから、俺は、11月の4週目から、東京でホテル生活をする事になってる。 そして、12月20日、21日の…コンサート本番へ向けて、調整と、準備をする。 大変…? そうでもない…もう、慣れてるんだ。 しかも、豪ちゃんの恋人の交響曲だからね… 森山惺山。 彼が指揮するコンサートを…絶対に、成功させなくちゃ駄目なんだ。 -- 「じゃあ…整理するよ。良い?よく聞いてて?」 僕は、いつもの様に、先生の書斎で彼の足の間に腰かけて…目の前に出された白い紙を眺めていた… 「まず…海の見えるお家へ行って…バイオリンを弾きます。」 先生は僕の顔の横から顔を出して、目の前の白い紙にサッサッと音を立てながら、今後の予定を書き込んで言った。 幸太郎が、僕がバイオリンを弾く所を動画で撮影して…みんなに、バラまいた。 その結果…先生は、路線を変更したそうだ。 お金持ちの中でも、特に影響力のある人だけに僕のバイオリンを聴かせて…僕の…格?を上げてしまうそうだ。そうすれば、多少のお金持ちは、僕に声を掛けられなくなると…彼は、そう踏んでいるらしい。 その作戦がうまく行くかどうかなんて…僕は、あんまり気にしてない。 何がどうあっても、僕は、海が見える所へ連れて行って貰えるんだもん。 それだけで、楽しいよ? 「その次に…緑の多い…お城に行って、バイオリンを弾きます。」 「ふぉ~~~~!お城~!」 僕が興奮して体を揺らすから…先生の文字がぐちゃぐちゃになってしまった…! 「そして…音楽院に行って、先生の公演の後に…一曲弾いて貰って、後は…幸太郎とセットで、ギフテッドの子供たちの基金集めのチャリティに出て…庭園の綺麗なお屋敷で弾いて…牧場のあるお屋敷でも弾いて…テレビに出る様な有名人のお宅へも行くよ…?後は…」 「多いね~?」 僕は首を傾げながら…先生の顔を見つめてそう言った。 すると、彼は同じ様に首を傾げて、こう言ったんだ。 「多いねぇ…」 僕は、所謂…ハードで、タイトなスケジュールってやつをこなさなければいけないみたいだ… 「でも…一回きりで良い。」 先生はそう言うと…僕の髪にキスをしてギュッと抱きしめてくれた… 彼の読みでは、そんな影響力のあるお金持ち限定の演奏家をしていれば…もっと上のお金持ちが僕に声を掛けてくると…そう思ってるんだ。 そうしたら、さっきの工程を…今度は、そんなもっと上のお金持ち相手にする。そんな感じで、僕に集まって来るお金持ちたちを振り落として行って、最終的には、最強のお金持ちに守って貰う。 そんな、最終目標を見据えた…第一歩って感じで、先生は、今回…お金持ちのお家探訪を決行するんだって。 “キラキラのきらきら星へ 僕のバイオリンを聴きたいと言う人が沢山います。 僕は嫌じゃないよ?だって…海を見せてもらえそうなんだ。 でも、この事が…あなたの望んだ未来へと繋がるのかどうか… 正直、僕には…よく分からないんだ。 惺山?楽譜は、まだ読めないけど…僕は、沢山の曲を教えて貰ったよ。 特に好きなのは…ジャズ! だって、とってもかっこ良いんだもん。今度、一緒に弾けると良いね! 頑張る鶏より“ 先生が自分で書いたスケジュールの紙と睨めっこをする隣で、僕は惺山にこんなお手紙をしたためた。 毎週、彼に送っているお手紙は…もう、何通目になったのかな。 僕は、おもむろに先生の足の間を抜けて…ソファに置いたままの“お手紙入れ”の中をゴソゴソと漁り始めた。 ここには、気に入った便箋と封筒…そして、惺山や、僕の家族…ほっくんから届いたお手紙を入れてしまってるんだ。 「ん…先生?惺山から…お手紙届いてなぁい?」 僕は、机に向かって考え事をする先生にそう尋ねた。すると、彼は口を尖らせて首を傾げながらこう答えたんだ。 「そうだね…預かっていないよ…?」 あぁ~あ… お手紙入れの中から、ほっくんがくれたポストカードと、惺山が最後にくれたお手紙を取り出した僕は、再び先生の足の間に体を入れて、ふたつを並べてみた… 「ほっくんは、この前の…お菓子のお礼で、可愛いお手紙をくれたんだぁ…でも、惺山のお手紙は…9月に来た、これだけぇ…。ね、どうしてぇ?」 先生を見上げてそう尋ねると、彼は首を傾げて切手に押された消印を見つめた。そして、僕の髪にキスをしてこう言ったんだ。 「…きっと、コンサートの準備で忙しいのかもしれないね…」 確かに… 「そうなのかなぁ…」 そう納得しながらも…僕は、少しだけ…悲しくなった。 “可愛い鶏ちゃん きゅうりとトマトが順調に育って良かった。 来年はキャベツをリベンジしないといけないね。 君と離れて…1年経つけど、まだ体のモヤモヤは消えないみたいだね… 残念だよ。 そちらの生活は慣れた? 先生の言う事をよく聞いて、いつも笑顔で、朗らかに…君らしくいてね。 きらきら星より“ そんな彼の書いた手紙を見つめたまま…僕は眉を下げて、ため息を吐いた… 先生の携帯電話に定期的に送られてくる惺山の写真を見て、モヤモヤのあるなしを判定し続けているんだ。 それも…9月を境に、ぱったりと送られて来なくなった。 …どうしたの…? 寂しいよ…惺山… #68 「行ってくるよ~!まもちゃぁ~ん!日帰りだから…あっという間に帰って来る!」 ひとりで乗り込まなくちゃいけない…こんな時の、新幹線のホームは…嫌いだ。 きっと、彼も…そう思っている筈。 だって、ずっと眉間にしわを寄せているんだもん。 「行ってらっしゃい!待ってるから…帰って来るの、待ってるからっ!」 まるで…遠距離恋愛中と変わらない… そんな別れに、俺は…ついつい、目頭が熱くなってしまった… 「ん、すぐ帰って来るからぁ!」 俺は眉間にしわを寄せて、デッキで仁王立ちしてそう言った。 でも…そんな声を途中で遮る様に…新幹線のドアが閉まってしまったんだ。 すると、訳も無いのに…反射の様に涙が込み上げて来た… 「うっうう…ま、まもちゃぁん…!」 「北斗ぉ…!」 知ってる。 俺たちは…もう離れたりしないって… だけど、このシチュエーションには…やっぱり、引きずられてしまうよ。 まるで、しばらく会えないふたりの様に、俺とまもちゃんは新幹線の中と、ホームで、馬鹿みたいに大泣きをした。 そして、あっという間に東京に着いた。 現在、朝の10:00だ。 すっかり俺はリカバリーしたよ? だって、日帰りだもん。 あの時は、シチュエーションに酔っただけだ。 右手に持ったバイオリンを胸の前に抱きかかえた俺は、朝の通勤の余韻の残った都内の道を、約束をしたスタジオへと向かった。 これから、森山氏の元へ向かうんだ。 天使の…あの子の恋人…森山惺山に再び会う事を、俺は、少し楽しみにしていた。 コンコン… 凛と首を伸ばして姿勢を正した俺は、スタジオのドアをノックして…中に入った。 そして、目の前の森山氏を見つめて、こう言ったんだ。 「ん、も~!せいざぁん!ばっかぁん!」 「ぐふっ!」 そうだ… まず、挨拶代わりの…先制攻撃をした。 吹き出し笑いをする森山氏に目じりを下げた俺は、鞄の中にゴソゴソと手を入れて、あの子の作った焼き菓子をひとつ取り出すと、彼に差し出しながらこう言った。 「…豪ちゃんは、俺の所に毎月の様にお菓子を献上してくれるんだ。…お裾分けをあげよう。ありがたく、食べてくれても良いですよ。」 「…あぁ、ありがとうございます…」 嬉しそうにフィナンシェを受け取った森山氏は、俺を見つめてこう言った。 「藤森さん。早速、始めましょうか…」 おや… もっと、あの子の近況を伝えたかったのに、公私混同を嫌うタイプなのか、森山氏はあっさりとビジネスモードに突入した。 彼はマネージャーを持たないし、どこかの団体に所属して活動している訳でもない…。所謂、一匹狼な作曲家なんだ。だから、興行会社とのやり取りも、ホールとの打ち合わせも、オケのスケジュール管理も、ソリストの俺のスケジュール管理も、当然の如く、自分で行わなければならない。 そんな事務作業をそつなくこなす為に、今は…あの子の話にかまけている場合では無いのかな…? 首を傾げながらも、俺は森山氏の言葉に頷いて彼の前の席へと腰かけた。 森山氏は胸ポケットから眼鏡ケースを取り出して、おもむろに眼鏡をかけた。そして、手元のスケジュールを確認する様に目を落として、俺に言ったんだ。 「では…今後の予定をお話ししますね…。コンサート自体は12月20、21日と予定通り…行います。それにあたって…11月25日あたりから…オケとの合同練習の時間を頂きたいと思ってます。ただ、藤森さんはお忙しい方だから…」 「良いよ。俺は、いつでも大丈夫だ!」 俺は、森山氏を見つめて、にっこりと笑ってそう言った。 すると、彼は目を点にして首を傾げたんだ。 「でも…他のお仕事は…?」 「うん。まもちゃんのところの、店番くらいだ!」 そんな俺の言葉に眉を下げた森山氏は、自分の作成した工程表に目を落としながら、申し訳なさそうに言った。 「…合同練習は、オケのスケジュールを優先して…飛び飛びに入れてしまったんですよ。これでは、約一カ月ほど…藤森さんは、何もしない日も東京に滞在しなくてはいけない…。長期の滞在にもなるので…もし、良かったら、私の家で寝泊まりしてください。…この、3日間…予定の無い日とか、申し訳なさすぎる…。ホテル代も馬鹿にならないし…ブツブツ…」 え…?! 私の家で…寝泊まり…? 「…ま、ま、ま、ま、まずいよ…さすがに!俺は、天使の恋人と浮気なんてぇ…恐れ多くて出来ない!!殺される!ばっかぁん砲で…ヴァイオリンをぶっ壊される!」 顔面蒼白になった俺は、思わず席を立って…首を横に振りながら後退りした。そして、自分の体を強く抱きしめながら、内股になって、天を見上げてこう言ったんだ。 「まもちゃぁん!ダークサイドなイケメンが…ダークなイケメンがぁ!俺を誘って来たぁあ!どうしたら良いのぉぉお!!」 「だ、誰に言ってるんですか!そ…それに、そんな意味で、言ってないですよっ!」 大慌てになった森山氏は、ガタンと椅子を倒しながら席を立って、俺の行動と発言を全否定した。 本当かな… そんな拭いきれない疑念を抱えたまま…俺は森山氏の目の前に座り直して、上目遣いに彼を見つめた。 そして、ふと目に入った彼の眼鏡ケースを手に取って、感嘆の声を上げて言ったんだ。 「わぁ。綺麗だね…?どこの民芸品なの…?」 美しい模様が織られた織物に、可愛いガラスのボタンなんて付いている眼鏡ケースは、一点ものの様に上等な仕立てがなされていた。 フランス…?スロバキア…?この上品さは…どこの物だろう…? 「ふふ…何これ…」 そんな眼鏡ケースの下に描かれていた…黒い刺繍糸のヒエログリフを指さして、俺はクスクス笑いながら森山氏を見上げてそう聞いた。 すると、彼は悲しそうに瞳を細めて…こう答えたんだ。 「…この眼鏡ケース。豪ちゃんが作ってくれたんです。可愛いでしょ…?ふふ。これは…俺の名前…」 森山氏は、ヒエログリフで…名前を書かれて…悲しそうに微笑んでいた。 彼の心情を推し量った俺は、肩を叩いてこう言ってあげたんだ。 「あの子は…ほら、ぶっ飛んでるからね。今度から…ちゃんと文字で書く様に伝えておくよ…うん、うん…。きっと、そんな深い理由は無いんだ…。わぁ、せいざぁん!キャッキャッキャッキャ!って…何も考えずに、針と糸を動かして書いたんだ…うん。」 すると、森山氏は、そんな俺を見つめて…今度は嬉しそうに瞳を細めて、こう言ったんだ… 「ふふ…!藤森さん。あなたは、本当…豪ちゃんを気に入ってくれたみたいですね。良かった…!きっと、あの子も喜ぶ事でしょう…。あなたの事が大好きだったから、ふふ…。きっと…今、とっても幸せなんじゃないかな…?」 気のせいかな… 彼がとても、寂しそうに見えるんだ。 コンサートを控えた彼が、暇だとは思わないよ。でも…それでも、疲れとは別の、くたびれた悲壮感を感じるんだ。 そんな彼を見つめたまま、俺は肩をすくめてこう言った。 「…俺は、豪ちゃんの事…好きだよ。良い子だからね。」 すると、彼は、何度も頷きながら…手元の眼鏡ケースの刺繍を指先で撫でて、口元を緩めて笑った。 「この模様は…私の名前なんですよ…?ふふ…可愛いでしょう。あの子は、こういう感性も持ってるんだ…。森山惺山。それを情景にしたんです。麓に…森がある二つの山の間に…小さな、きらきら星が…」 彼はそう言うと…両目からボロボロと大粒の涙を落とした。 不意だったのか…森山氏は、自分でも驚いた様に慌てて顔を覆って…乱暴に目元を拭っていた。 あぁ…辛いんだ。 俺はそう思って…ジッと下唇を噛み締めて彼を見つめた。 「…行けば良いじゃん…」 そんな俺の言葉に、森山氏はクスクス笑って首を横に振った。そして、目じりに涙を溜めながらこう答えたんだ。 「…あの子は、頑固者だから…きっと、そんな事したら…怒る。俺を助けたい一心で…遠く離れてるんです…。それなのに、俺がそんな事をしたら…きっと、怒る。」 豪ちゃん… 俺はあの子の強さを知ってる。俺に引っ叩かれても、蹴とばされても泣いたりしなかった。それどころか…果敢に飛び込んでくる勇ましさを持っている。 でも…お前だって、彼に会いたいだろう…? 恋しく思ってるだろう…? しょんぼりと背中を丸める森山氏を見つめたまま、俺は食い下がった。 「でも…あの子だって…!」 「ふふ…すみません。昨日…きっと、田舎暮らしのテレビなんて見たから、少し…あの子が、恋しくなってしまったんです。すみません…」 森山氏は…込み上げる思いを振り切る様に、俺の言葉を遮ってそう言った。 そんな彼の姿を見て、俺は察してしまったんだ… 彼は、豪ちゃんに会いたくて…でも、会えないから…敢えて、あの子の話題を避けていたんだって。 話せば話す程、あの子を思い出して…胸が苦しくなってしまうから、だから、敢えて…あの子の、話題を避けたんだって… 「そうだ…第三楽章のバイオリンのソロを…弾かせて下さい。」 ふと、バイオリンをケースから取り出した俺は、目を真っ赤にした森山氏に瞳を細めて笑いかけた。すると、彼は、無理やり作った笑顔を俺に返して、こう言ったんだ。 「…えぇ、お願いします…」 俺は、姿勢を整えてバイオリンを首に挟んだ。 そして、呼吸を整えて、右手に持った美しく弓を掲げて、祈りを込めるみたいに…そっと、瞳を閉じて弦に弓を下した。 豪ちゃん… お前の姿を…彼に見せてあげよう? 頑固者で、意地っ張りのお前が怒ると思って…会いたくても会いに行けない…そんな優しい恋人に、見せてあげよう…? 俺が、今、このフレーズに乗せて想像するのは…天使じゃない… 麦わら帽子をかぶった…屈託のない笑顔で笑いかけて来る、優しい人だ。 短くて…シンプル。 そんなフレーズに、俺はあの子の姿を叩き込んで…弾き上げて行く… 「ん、もう…ばっかぁん!」 「ねえ…お味を見てみてぇ…?」 「キャッキャッキャッキャ!」 そんなあの子の声と表情を、瞼の裏に思い描くと…次は、森山氏への思いを、やるせない…切ない表情で語ったあの子の姿を映した。 森山さん。 傍に居ると死んでしまうから…だから、離れて暮らして居る…そう語ったあの子は、いつもの朗らかな表情を一変させて…とても、とても、寂しそうだったよ。 「…早く、その時が、来ると良いね…」 俺がそう言うと、豪ちゃんは…どこか寂しそうににっこりと笑って、優しいキスをくれたっけ… あの子は、あなたに会いたがってる… だったら… 恋焦がれて泣いてしまうくらい会いたいのなら… 会って来たら良いんだ。 あの子の切ない笑顔と、そんな思いを込めて…俺は、ソロを弾き切った。 そして、ゆっくりと瞳を開いて…目の前で、泣き崩れる森山氏に言ったんだ。 「…会いに行けば良い…」 すると、彼は泣きながらこう言った… 「…ふふ、駄目ですよ…」 「…俺は、あなたと豪ちゃんが会えない理由を知っている。でも、それが真実だとは、思っていない。言うなれば…あなたは、あの子の思い込みに付き合ってる状態だ。」 俺はそう言って、彼の顔を覗き込むと…笑いながらこう言った。 「そうでしょう…?」 すると、森山氏は力なく項垂れて、こう言った。 「あの子は、俺の為なら…俺が生きる為なら、どんな事だってするんです。それが、可能性のひとつだとしても、そこに賭けずにはいられない。何もしないまま、失う事を恐れて…そう、決めたんです。ね…?頑固者の、強情っぱりでしょう…?」 あの子の見えるモヤモヤを纏った人は、本当に死んで行った。 でも、 あの子から離れれば…死ななくなる。 そんな仮説は…未だ証明されていない。 だとしたら、そうじゃない可能性だってある訳じゃないか… 森山氏だって、そう、思っている筈だ。 だけど、そんな主張をしないのは…あの子が、それを信じているから。 あの子の気の済む様に…付き合っているんだ。 何故なら…彼は、豪ちゃんを愛してるから。 俺は、森山氏の顔を覗き込んで、こう言った。 「だとしても…あの子だって、あなたに会いたがってる。」 理久…ごめんね。 でも、あの子を愛しているなら…あの子の幸せを、願うだろ…? 俺の言葉に、森山氏は涙を堪える様に唇を噛み締めた。 そして、ポツリとこう呟いたんだ。 「…リヨン。」 「そうだよ。リヨンだ。」 理久…ごめんね… 涙を乱暴に拭った森山氏は、そそくさと自分の荷物を纏めて、眼鏡を外しながら…俺にこう言った。 「…す、すみません…!ちょっとだけ…ちょっとだけ、行って来ます…」 「良いって事よ!」 -- 今日は、先生と文句垂れぞうのコンマスが率いるオーケストラのコンサートがあるんだ。 僕は、先生と一緒に綺麗な服に着替えて、自分の首元に蝶ネクタイを掛けた。 「ん、もう…!どうして、いつも…捩じっちゃうのぉ…?」 先生の蝶ネクタイを直しながら、僕は彼を見つめて頬を膨らませてそう言った。すると、先生は眉を片方だけ上げて、とぼけた様にこう言ったんだ。 「…さあね。」 きっと、ひねくれてるから…蝶ネクタイまでひねくれちゃうんだ… そして、いつもの車に乗り込んで、運転席の先生を見ながら体を揺らして鼻歌を歌った。そんな僕を横目に見た先生は、一枚のチケットを差し出して…こう言って来たんだ。 「…イリアちゃんの隣の席を取ってあるから、彼女の傍に居なさいね。」 イリアちゃん… 先生は、すっかり、彼女を、僕の監視役に…任命してる。 「はぁい…」 僕は、またか!と項垂れた。そして…口を尖らせて、返事をしたんだ。 イリアちゃんは、僕をもう嫌いじゃなくなった… それは、僕が激しく剛田だって分かった瞬間に…まるで雪解けでもしたかの様に、ケロッとコロッと変わったんだ。 幸太郎は、イリアちゃんが豪を認めたからだって言っていたけど…僕には、よく分からないよ。 だって、彼女は、いっつも怒ってるんだもん… 「…豪!そっちじゃない!こっち!もう、早くしなさいよ!」 楽屋口へ向かう先生と手を繋いで歩く僕に、早速、イリアちゃんの雷が落ちた! 「ん、こわぁい…!」 僕は先生の体にしがみ付いて、フルフル震えながら彼を見上げた。 「イリアちゃん怖いねぇ…?」 すると、彼は、楽屋口を見つめながら、僕をチラッと見て…こう言った。 「怖くない。豪ちゃんと一緒に行ってくれるって…あの子がそう言ってくれたんだ。しっかり者のイリアちゃんが傍に居てくたら、俺だって安心だよ…。君はいつも、フラフラッとどっかに行っちゃうんだから…俺の為にも、彼女のご厚意に甘えさせてくれよ。」 えぇ…?! 「なぁんだぁ!も、もう~!眼鏡~!」 頬を膨らませて先生の手を掴んだ僕は…ブンブン振り回して、ちょっとだけ怒った。 「…豪!早くしなさいって言ってるでしょ!まったく!」 イリアちゃんは僕の腕を無理やり組んで…先生から引き剥がした。 そして、僕を少しだけ心配そうに見つめる先生からどんどん遠ざけて…お客さんの並んだ列に連れて行ったんだ。 「いたぁい!」 「痛くないでしょ?!」 僕は、イリアちゃんを見つめて、口を尖らせて怒った。 すると、彼女はおかっぱの髪を手櫛で直しながら、涼しい顔でこう言ったんだ。 「うふふ!ラッキーよ?1番前の席なんだもの!」 イリアちゃんは…いっつも、いっつも、1番、1番って言うんだぁ… だから、僕は不貞腐れた様に顔を背けて…ふん!って鼻を鳴らした。 先生が言ってた。オーケストラの音色を味わいたいなら二階の席が1番良いって… でも、僕とイリアちゃんが貰ったのは、ステージから1番前の…どっちかというと、イケてない…保護者席なんだ。 …なのに、彼女は、嬉々として喜んでる。 理由は簡単…ただ、単に…1番前の席だからだ。 チケットを渡してホールの中に入ると、お客さんは既に席に座り始めていて、真っ赤なシートが見えなくなっていた。 すると、いろんな人が、僕を振り返って見て…ヒソヒソと声を潜めて話始めたんだ。 その視線は…幼い頃に感じた好奇な視線とよく似ていて…僕は、堪らなく嫌な気持ちになって…咄嗟に、顔を伏せた。 「豪…気にしないの…」 僕の手を掴んだイリアちゃんは、そう言って…どんどん先へと進んで行った。 フランス語や英語で交わされるヒソヒソ声に、僕はこれが日本語じゃなくって良かったと…心の底から思ったんだ。 だって…悪口を言われていても、僕には…分からないもの…。 ズンズンと前を行くイリアちゃんの揺れるおかっぱを見つめながら、僕は尋ねた。 「幸太郎はぁ?」 すると、彼女は僕を少しだけ振り返って肩をすくめて言った。 「今日は…コンサート。丁度…隣のホールで演奏してる。」 へえ… 席に到着した僕は、イリアちゃんの手を離したかった。でも、彼女は…絶対、離してくれないんだ。 僕の隣の席には誰もいない…イリアちゃんの隣にも、誰もいない。 どうやら最前列の席は…僕と彼女と、音響のスタッフさんだけみたいだった。 ホッと一安心すると、イリアちゃんは僕を横目に見ながらこんな話を始めた。 「豪?聞いて?この前、自転車に乗る練習をしたの…そしたら、右足と左足を同時に動かして…転んでしまったの…」 ぷぷっ! 「あっはっはっは!ばっかだぁ!」 僕はイリアちゃんを指さしてゲラゲラと大笑いをした。 すると、彼女は鋭い視線で、僕を見つめてこう聞き返してきたんだ… 「…何て?」 う…こえぇ! 「…ペダルは、片方づつ…動かすんだよぉ…?」 すっかりビビった僕は、眉を下げて、もじもじしながらそう答えたんだ。 「そんな事知ってる!でも、頭と体がうまく連動しないの…!もう、一生自転車なんて乗らなくても良いって思った。」 へえ… 僕はそんな事、結構どうでも良かった。だから、イリアちゃんから顔をそらして…目の前のオレンジに光るステージだけ見て、足を揺らしていたんだ。 そして…開演の時間となった。 場内の明かりは暗くなって、あっという間に目の前のオレンジのステージにはオーケストラが着席して、自分の楽器を準備し始めた。 怒りんぼうの文句垂れぞうは、指揮者の左に陣取って…僕に投げキッスをするくらいの余裕のよっちゃんだった。 そして…素敵な先生が、左の袖から現れた。 僕は、誰よりも大きく拍手をして…彼の登場を喜んだんだ! 「はぁ…先生ってば、素敵…!」 うっとりとそう言った僕を小突いたイリアちゃんは、不満そうに口を尖らせてこう言った。 「ばぁ~か!」 …なんだい!なんだい! そんなイリアちゃんを無視して、僕を見つめてお辞儀をする先生に…僕はすっかりクラクラしながら、鼻の下を伸ばして手を振った… どうしてかな…いつも、くたびれてる先生が、とっても…素敵に見える。 「あぁ…カッコいい…」 「ばぁか…!」 イリアちゃんは、僕がポツリと呟く度に…反射の様にそう言い続けた。 先生と、オーケストラのコンサートは…とっても素晴らしかった。 彼の指揮棒の上を、オーケストラたちが紡いだ旋律の帯が、美しくうねりながら…客席を覆って行くんだ。 それは…肌をピり付かせる…音の波動とは違う。 うっとりと…身を任せてしまう揺らぎの様に、静かで…穏やかで…繊細な彼が指揮する、彼の音色だった。 やっぱり…先生は、美しい人だ… #69 「どもども…初めまして。私、藤森北斗と申します。本日、森山先生は、都合が悪くなりまして…私が、ひとりでやって来ました。どうぞ、よろしくお願いします。」 本日の打ち合わせ…それは、森山氏と今後のスケジュールを確認するだけじゃなく、当日、一緒に共演するオーケストラとの顔合わせも含まれていた… …俺は、強い子だ。 森山氏が居なくたって…オーケストラが練習する中に、果敢に突入出来るさ。 俺を誰だと思ってんだ…? 海外の荒波にもまれ続けた男だよ? “孤高のバイオリニスト”は…こんなの、怖くない。 俺がヘラヘラ笑ってオーケストラに近付いて行くと、コンマスらしき男性が立ち上がって、不敵な笑みを浮かべて…こう言ったんだ。 「…初めまして。どうしますか…?一緒に合わせて見ますか…?」 はん! 上等じゃねえか! 今は、10月…合同練習として、森山氏が提案したのは…11月25日からだ。 でもね、こんな風に言われて、俺だって引けない! 俺の腕前を拝見したいあんたと同じ様に、俺だって、あんたの腕前を計らせて貰おうじゃないか…? コンマスのお前の実力…俺に見せて見ろよ… 「えぇ…良いですよぉ?」 相手を油断させる為にヘラヘラ笑った俺は、おもむろにまもちゃんのバイオリンをケースから取り出して、図々しく、バイオリン奏者たちの列に加わった。 そして、得意げに俺を煽って見つめて来るコンマスに、どうぞ?って感じで鼻を鳴らしながら首を傾げてやったんだ。 「では…第一楽章から…」 指揮者不在の指揮台の上には…コンマスが居る。 そんな彼を見つめて、俺はバイオリンを首に挟んで弓を構えた。 俺はね…あのソロ以外は…既に完璧なんだよ。 弓の上げ下げだって、完璧に合わせられるぜ? かかって来いよ… 目の前の指揮棒が動き始めると、体中を揺るがすオーケストラの音の波が…あっという間に広がって行った。 俺は周りのバイオリニストと息を合わせて、丁寧に音を紡いで行った。 叩き上げの…俺の即戦力を舐めるんじゃねえよ… オーケストラは、ひとつの世界であり…団体であり、塊であり、人である… こうして飛び入りで参加する俺の事を、大抵の人は、初めは様子を伺う様に…俺の音色に耳を澄ませながら自分の楽器を演奏するんだ。 そんな周りの様子を察しながら、俺は、自分のバイオリンパートと息を合わせて、旋律を自然と流れて行くんだ。 まるで、元から、この楽団の一部だった様に…歩幅を崩さずに、求められる音色を正確に当てて行く。 これは、海外で転々とオーケストラを渡り歩いた…俺の、処世術だ…! はなっから拒絶される事もあれば、ダラダラと受け入れてくれる楽団もいる。 このオーケストラたちは、さすが…日本人。 心の内は知らないけれど、あからさまに嫌がる様子なんて見せてこない。 だから、俺は、澄ました顔をして…相席させてもらうのさ。 「わぁ…素晴らしい。素敵な音色ですね?藤森さんは、どちらのオケにご在籍したんですか?」 第一楽章が終わると、第一バイオリンパートの女性が笑顔で話しかけて来てくれた。 「ありがとうございます。私は、海外で活動していたので、どこの…と言われると、点々と…としか、お答え出来ないんですが、ソロで活躍をしていた時は…”孤高のバイオリニスト“なんて呼ばれて、重宝されたんですよ。」 自慢を程々に挟みながら、俺は謙遜してる風にそう言った。すると、目の前のコンマスが俺に言ったんだ。 「森山先生とは、お知り合いだったんですか…?」 お~、ほほ! 俺がソリストに選ばれたのが、不満の様だ! 他の奏者たちは、俺と一緒に演奏をして十分に実力を認めた様なのに、コンマスの彼は、未だに怪訝な表情を崩さないで、首を傾げて俺を見つめていた。 コンサートマスターはバイオリンのトップ…オケの顔。そんな彼の、解せない気持ちも分からなくもないよ? 実力で与えられたポジションなのか…コネで与えられたポジションなのか… 知りたいんだ。 もちろん、実力を見込まれてのオファーだったけど…こんな時は、面倒なのでこう言うに限るんだ。 「いいえ?でも…彼の師だった…木原理久先生との繋がりで、ご指名を受けたのかな…なんて、思っていますけど…?」 そう。理久の名前を出すんだ… そうすれば、あっという間に戦意を喪失させる事が出来るからね。 するとコンマスは、納得する様に頷いてこう言った。 「…そ、そうですか…なるほど…」 ほらね…? ははっ! 彼の名前は、特に日本では、強力な武器になる…! -- 素敵な時間は…あっという間に終わってしまった。 たったの2時間半で、先生の指揮が見られなくなるなんて…ある意味、残酷だ。 「先生、素敵だったね?僕、まだ…胸がドキドキしてるぅ…!」 胸に手を当てながら僕がそう言うと、イリアちゃんは僕の顔を覗き込んでこんな憎まれ口を聞いて来た。 「死ぬんじゃない…?豪、もうすぐ、死ぬんじゃない?」 ふぅん!もう…!! お迎えに来てくれた先生は、少し疲れた顔をして、僕に手を差し出してこう言った。 「イリアちゃんを、音楽院の寮まで送ってあげよう…さあ、行こうか…?」 「はぁい!」 早く帰ったら良いな…? 僕はルンルン気分で先生と手を繋ぎながら、もう片方の手を繋いで離さない彼女に、そんな意地悪な事を思っていたんだ。 「イリアちゃんは、豪ちゃんが好きみたいだね?」 クスクス笑った先生が、突然、そんな縁起でも無い事を口走った! だから僕は、眉を下げて先生を見つめた。 すると、僕の手を繋いだイリアちゃんは、激しく動揺し始めたんだ… 「なっ!んな訳無いし!あたしは、幸太郎で良いかなって思ってたけど?豪なんて、女の子みたいだし!馬鹿だし!ぜんっぜん興味ないけどぉ?まあ、あたしみたいな…カッコいい女の子に、その気になってしまっても…それはそれで、仕方が無いのかなって…半ば諦めてる!」 どうかしてる!! 僕は、眉を、思いきり下げて…先生を見つめ続けた。 もう…これ以上、その話をしないで…? そんな思いを込めて、彼をじっと見つめたんだ。すると、先生は、僕から視線を逸らして…車のカギを開いた。 そして、イリアちゃんにこう言ったんだ。 「…イリアちゃんは…後ろに乗るかい?」 「豪と乗るわ…。」 彼女は、先生にそう言って、僕と一緒に後部座席にムリムリと乗り込んだ。 そんな時…スカートの中が少しだけ見えて、僕は目を疑った… 「イリアちゃんって…スカートなのに、黒パン穿かないんだぁ!おパンツが丸見えだったよぉ?ピンクだったぁ!あっはっはっは!ピンクのパンツぅ!」 バシンッ! 次の瞬間、先生は疲れた顔を止めて…目を大きく見開いた。そして、僕が引っ叩かれる瞬間の目撃者になったんだ… 「うううっ!」 「変態!豪の…変態!スケベ!痴漢!さいって~!」 そして、後部座席に座った僕は、ありとあらゆる暴言を彼女から浴びせられ続けた… それは、彼女が車を降りるまで…ずっとだ! 「次やったら…許さないんだから!エッチ!」 そんな言葉を残して…彼女は、ツカツカと寮へと帰って行った… 「ん、も~~~!やだぁ!やだぁ!」 僕は、思いきり運転席の先生に抱き付いて、大声で叫んだ。すると、彼はケラケラ笑って僕のほっぺを撫でながらこう言ったんだ。 「痛かったね…?可哀想…」 「うう…見えたんだよぉ?おパンツが見えたんだぁ。だから、そう言っただけなのに…!!キーーーーー!」 僕は先生に頬ずりして、怒りを爆発させた!! 彼の髭は今朝剃ったばかりだというのに、既に少しだけジョリジョリしていた… 家に戻った僕は、先生の指揮とオーケストラの素晴らしかった所をトクトクと彼に話しながら、いつもの部屋着に着替えた。 「だからね?あの曲は…とっても、綺麗だったんだぁ…!」 「それは…良かった!」 先生は楽なシャツを羽織りながらそう言った。 だから、僕は先生の胸に抱き付いて、彼をベッドに押し倒してこう言ったんだ。 「なんだか、先生がいつもより素敵に見えたよ…?」 「ははは…それは、ある意味…辛らつだな。」 苦笑いした先生は、僕の着替え途中のブラウスのボタンを留めながらクスクス笑った。だから、僕は、お返しに、先生の楽なシャツのボタンを留めてあげたんだ。 「ピリッとしてる方が素敵かと思ったけど…僕は知ってるんだぁ!」 クスクス笑って僕がそんな意味深な言葉を言うと、先生は首を傾げてこう言った。 「…なぁにを…?」 ふふ…! 「光があるから影が出来る様に…!先生のだらけている姿を知っているからこそ!ピリッとしている姿が素敵に見えるんだ!あっふふ!そうでしょ?ねえ、そうでしょ?」 ケラケラ笑った僕は、先生に抱き付いて彼をひとり占めした。 「はっはっは!確かに…その通りだ!」 すると、僕の下で、先生もそう言ってケラケラ笑った。 この人は…美しい人。 そんな彼をひとり占め出来て…僕は、嬉しい。 ソファで寝始める先生を横目に、僕はいつもの様に畑の野菜を収穫しながら、今晩の献立を考えた。 でも、あの…オーケストラの演奏が素敵すぎて…僕の頭の中には、未だにどこかのフレーズがしつこく渦巻いているんだ。 「ふ~んふんふん…ふんふんふ~ん…」 鼻歌を歌って…体が動くままに踊りながら、収穫したにんじんを上に掲げてポーズを取った。すると、通りすがりのジェンキンスさんが、クスクス笑ってこう言った。 「ミミ~!トレビア~ン!」 「ふふぅ、メルシ~!」 惺山… 今日、とっても美しい音楽を聴いたんだ。 僕の隣に…おっかないイリアちゃんじゃなくて、あなたがいてくれたら…良かったのに。 ねえ… どうして、お手紙をくれないの…? どうして… #70 「…素晴らしいです。一緒に演奏出来て…光栄です。」 そんな嬉しい言葉をコンマスから頂いた俺は、勝ち誇った顔をひた隠しにして…謙虚にこう言った。 「いやいや…私なんか、まだまだ…」 第三楽章のソロを合わせて見た… それは、まるで…目の中に映したあの子が…俺の周りを駆け回るみたいに、生き生きと、躍動感を感じさせる様な…素晴らしい出来だった… 俺は、このままだと…森山氏の専属ソリストになっちゃうかもしんない…! そんな心配をしてしまう程に、俺のソロは完ぺきだったんだ。 それを証拠に、初めこそ…ワンパンをかましたコンマスの態度は軟化して、オケの表情も雰囲気も俺を受け入れる物へと変わった… 森山惺山… 豪ちゃんのソロを、俺は、克服したぜ…? 一緒に寝泊まりするだなんて…止めろよ。 ドキドキして来るだろ… はぁはぁ… コンマスを涼しい顔で見つめ続けながら、俺は心の中で…葛藤に苦しんでいた。 しかし、演奏の時だけ右手に差し替えた指輪を見つめて…思い直したんだ。 まもちゃん… 俺は、もう…他の男になんて、甘ったれたりしないよ! 硬い決心を打ち込む様にコクリと頷いた俺は、オーケストラとコンマスに挨拶を済ませて、颯爽と家路へ急いだ。 きっと、森山氏はあの子の元へ行っただろう… そう踏んだ俺は、おもむろに携帯電話で理久へメールを打った。 “森山惺山が、豪ちゃんに会いに行った。少しで良いから、あの子に会わせてあげてくれ。あのままでは、12月のコンサートは上出来にならないだろう。だから、あの子に会わせてあげてくれ。” ごめんね…理久。 お前の愛する天使を、少しだけ…あの子の愛する人に、会わせてあげてくれ… 現在…夜の10:00…フランスは、午後の3:00か… こんな夜更けの新幹線は、くたびれたサラリーマンと、遠距離恋愛のカップルの片割れ…そんな、面々がシートに体を預けてどんよりと暗い空気を醸し出していた。 そんな俺も…もれなく、ヘトヘトだ… 渾身の集中力でオーケストラと合奏をしたんだ。 疲れて当然だ… 森山惺山の交響曲は…生で聞いた方が、断然に美しかった。 12月のコンサートに、何としてでも…あの子を引っ張って連れて来たい… きっと、涙を流して、俺に陶酔するに違いないからね。 しかし その前に… ボロボロの森山氏をシャキッと生き返らせてもらおう。 あなたは、あの子の前だとどんな風になるのか…少し楽しみでもあるんだ。 俺とまもちゃん…豪ちゃんと森山氏で、ダブルデートをするのも悪くないね。 俺たちは、ふたりの一挙手一投足に…ケラケラと笑い転げる自信があるよ? だって…なんてったって…あの天使の恋人だもの! 見ものだろ? 「まもちゃぁ~ん!疲れたぁ~!」 軽井沢駅…ヘトヘトで帰って来た俺は、満面の笑顔で出迎えてくれたまもちゃんに抱き付いて、鼻をスンスンと鳴らして言ったんだ。 「森山惺山が、シクシク泣いていたんだ。だから…俺は、豪ちゃんの元へ行けって…言ってやった!」 そんな俺を抱きしめたまもちゃんは、顔を覗き込む様にして俺を見つめて言った。 「シクシク…?あの、ダークサイドが…?」 そうだよ…護。 「…悲壮感たっぷりで、俺は…彼のそんな様子を、他人事だと思えなかったんだ。だから…あの子が俺にそうしてくれた様に…彼の背中を押した。」 まもちゃんを見つめたまま…俺は、そう言って…クッタリと脱力した。 お節介だったなんて…思わない。 だって、俺は…そのお陰で、ここに居るんだもん。 俺は再び鼻をスンスン鳴らすと、まもちゃんを少しだけ見上げて、こんな話をした。 「…あとぉ、森山惺山がぁ…11月の25日からぁ…本番までぇ…俺の家に泊ればEEEYO!って、言ったぁ…」 「はっ!駄目に決まってる!」 まもちゃんはそう即答すると、疲れ切って脱力した俺を抱っこして、路上駐車した車へと急いだ。 -- 「先生?海は、遠い…?」 お疲れの先生は、朝からぼんやりしてる… 膝に乗って、顔を覗き込む僕の声も聞こえないみたいに…首を少しだけ傾けたまま…機能停止してるんだ! 「…ん、もう…朝ご飯、食べてぇ?」 きっと…何か、考え事をしてるんだ。 僕は早々に先生を諦めて、隣の椅子に座り直した。 そして、彼のお茶碗を手に持って…お米を摘んで、口元に運んであげたんだ。 「先生?あ~んして…?」 「…あ~ん。」 ぷぷっ! …誰かさんにそっくりだ…! クスクス笑いながら、僕は、先生に朝ご飯を食べさせてあげた。 可愛い…? うん、可愛い… 「髭を剃らないと…。ねえ、聞いてるぅ?」 僕は、彼の髭を指の背中で撫でながらそう言って顔を覗き込んだ。でも、先生は…ぼんやりしたままだ… 「どうしたの…?疲れたのぉ…?」 流石に心配になった僕は、先生の頬を両手で包み込んで、彼の眼鏡の奥の瞳を覗き込んで…首を傾げて聞いた。 「先生…?どうしたの…?お腹が痛いの…?」 「豪ちゃん…」 やっと、先生に手応えを感じた僕は、クスクス笑いながら彼の鼻を指で撫でてこう言った。 「なぁに?先生?」 すると先生は、こんな事を言ったんだ… 「…君の、お父さん…。君と離れていた事以外に…何か、そのモヤモヤが消える…理由は思いつかないのかい…?」 え… 僕は先生の顔を見つめたまま…考えを巡らせた… どうして、彼が、こんな事を言うのか…僕には、見当も付かなかったんだ。 「…どうしてぇ?」 「よく、考えてごらん…?」 先生は、僕をじっと見つめてそう言った… 僕と離れていた…他に、思い当たる事…? 何だろう…? 僕は、首を傾げたまま…先生と同じ様に、機能停止した様に考え込み始めた。 「ちょっと…考えてみるねぇ…?」 「うん…」 先生は、考える事を止めたのか…ご飯をやっと食べ始めた。 だから、僕は、考えを頭の隅っこに置いて、忘れない様にしながら一緒にご飯を食べたんだ。 「この…にんじんは、畑で取れたの…?」 お味噌汁に入ったにんじんを先生がお箸で摘んで持ち上げて、そう聞いて来た。だから僕は、ケラケラ笑ってこう答えたんだ。 「ふふぅ!そうだよぉ?市場のよりも大きいけど、でもやっぱり、日本のに比べると細いよねぇ?」 「ふふ…本当だね…」 考え事を止めた先生は、いつもの先生に戻った。 僕のお父さんの体に…モヤモヤが纏わりついていた。 そのまま、家を出て行った彼は…どこかで死んでいると思っていた。 でも…生きていた。 そして、僕に、言ったんだ… 悪魔から離れれば、死なないって… だから、僕は、惺山と離れて暮らす事を選んだ。 それで、彼が死なずに済むのなら…容易いと思ったんだ。だって… モヤモヤが無くなったら、また、一緒になれるんだから。 先生は、朝から…その事を考えていたみたい… 離れる事以外に…他に、モヤモヤが消える理由に、心当たりは無いか。 「豪ちゃん、支度をしてね…」 テラスで畑を見つめていた僕の背中に…先生がそう声を掛けた。 僕は、遠くで土の中をほじくるパリスを眺めながら…頷いて言った。 「…はぁい。」 今日は、海の見えるお家で…バイオリンを弾く。 先生は、昨日コンサートをしたって言うのに、疲れたなんて言わないで、テキパキと動いて身支度を整えている。 僕は、先生に言われた事を考えながら、ぼんやりと…惺山のバイオリンと、トトさんのバイオリンをケースにしまった。

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