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#71~#72

#71 「北斗…おはよう。走って来るね…?」 「ん…」 そして、また朝がやって来た… 俺は左手にはめた指輪を指先で撫でながら、ぼんやりとまもちゃんの部屋を見渡した… デデンと場所を取る大きなスピーカーと、壁に付いたスピーカー…オーディオ機器…壁には小さな棚が付いていて…水笛の鳥が置かれている。 昔から…変わらない… ムクリと体を起こした俺は、おもむろにスピーカーに携帯をつないで…“パッヘルベルのカノン”を再生させた… そして、柔らかいスピーカーの表面に手のひらを当てて…音の振動を感じながら、瞳を閉じた。 この曲を、豪ちゃんと弾いたら…あの子は、どんな情景を思い浮かべて弾くのだろうか… 押し寄せては引いて行く波の様に…止め処の無い主題を繰り返して…違う二つの旋律が、いつの間にか重厚なハーモニーを紡ぎ出して行く。 それは、一見、同じ事の繰り返しの様で…単調。 でも、少しづつ変わって、交わって…美しく音を響かせて…異なる旋律へと変化させていくんだ。 そんな自然で…当たり前の様で、実は…奇跡の様に尊い旋律。 それが、カノン… 「おぉ…!ただぁいまんもぉす!」 まもちゃんが帰って来た。そして、俺の背中に抱き付いて、嬉しそうにこう言ったんだ。 「あぁ…北斗だ…北斗が、うちにいる…!」 ふふ… スピーカーに置いた手を下に下ろして、俺はそのまま…耳をそっとスピーカーに付けた。 「…鼓膜が、震えて…音が体中に伝わっていく、この感覚が…大好き。」 俺は、口元を緩めてそう言った。すると、まもちゃんは俺の髪にキスをして…耳元で囁いた。 「そんな北斗を…こうして抱きしめるのが…大好き。」 きっと日常ってこんな感じ。 同じ事の繰り返しの様に見えても…徐々に周りは環境を変えて、自分も変わって行くんだ… そして、素敵なハーモニーを紡ぐ…誰かと出会う。 それは、恋人や夫婦に限る事では無くて、友達や…人生においてキーマンとなる存在も、然りだ。 その人に会った後…自分の音色が変われば、それは立派なカノンを共に紡いだことになる…。 だとしたら、俺は、あの子とカノンを演奏し続けている…。 そんな気がするんだ。 それがいつまで続くのかなんて分からない。 でも…確実に、俺は天使とカノンを紡いでいるんだ… 「さあ!今日の、お勧めのランチを発表しようと思うよ?」 やる気に満ち溢れたまもちゃんは、着替えを済ませて張り切ってそう言った。 だから、俺はベッドにゴロゴロと寝転がりながら、鼻で笑って言ったんだ。 「ビーフシチューでしょ!」 「…ち、違う!きょ、今日は…ビーフストロガノフにする!」 同じじゃないの! ほぼほぼ、同じじゃないの! そんな野暮な突っ込みはしない。ただ、両手を広げて…素敵なまもちゃんにおねだりするんだ。 「まもちゃん…ギュってして…!」 「甘えん坊の北斗…可愛いねえ!」 大きな彼の体に抱きしめられると、とっても…安心するんだ。 昨日から、胸の奥をざわつかせる…この胸騒ぎが、どうぞ…あの子の物ではありません様に… まもちゃんの温かい胸に包まれながら、そんな願いを込めて目を瞑った。 -- 「わぁ!すっごぉい!海だぁ!」 僕は、先生の車に乗って…海の見える街、マルセイユまでやって来た! 車で3時間…! 途中、美味しいお昼ご飯を食べて、先生とのんびり休憩を挟んだから…もう、お昼過ぎになってしまった。 「秋でも、海に入れるかなぁ?」 運転席の先生にそう聞くと、彼は、首を傾げて口を尖らせた。 「…寒いね。鳥肌もんだよ…」 えぇ…! 残念だぁ… 「なぁんだぁ…!」 ガッカリした僕は、助手席のシートに体を沈めて窓の外を眺めた。 丘の上の大豪邸…そんな場所を訪れた先生は、車を降りて大きな柵の門扉に付けられたインターホンを押した。 「うわぁ…何ここ、こんな所に住んでる人が居るんだぁ…」 まるで、観光地の様に整備された庭の花壇は、秋だというのに、どの花も季節外れに咲いていた… いつの間にか、僕は、先生と一緒に車を降りて…柵越しにそんな不自然な庭園を眺めていた。すると、インターホンに用件を伝え終わった先生が僕にこう言ったんだ。 「豪ちゃん、門が開くよ。車に乗って…?」 「はぁい…」 車の中から庭園を眺めて、僕はため息を吐いて先生にこう言ったんだ。 「土が新しい…まるで、咲いてる花をどこからか持って来て、わざわざ植えたみたいだぁ。こんな涼しい季節に、花達はびっくりしてるみたいだよぉ?」 「あぁ…本当…?」 そんな先生の気の抜けた返事に頷いた僕は、口を尖らせて花達を見送った… 可哀想だな… 見る人を喜ばせる為だけに、ここに無理やり埋められたんだ。 花達は大事に育てていれば、季節が来る度に咲いてくれると言うのに…この家に住んでいる人は、そんなのお構いなしに…自分たちが楽しみたいからと、無理やり季節外れの花を植えたんだ。 それは…傲慢だ。 大きな玄関の前に車を停めた先生は、僕のバイオリンをふたつ両手に持って車を降りた。僕は、そんな彼に駆け寄って、服の裾を掴んで顔を見上げて言ったんだ。 「エリちゃんのお家より大きいねぇ…?」 すると、先生は呼び鈴を押しながら、僕を横目にこう言ったんだ。 「…ここは、別邸だよ。数ある家のうちの…ひとつだ。」 ええ…! 僕は、そんな先生の言葉に、驚いて目を丸くした。 しばらくすると、目の前の大きな玄関の扉が開いて、厳しそうなおじいちゃんが現れた。彼は僕をじろじろ見ると、先生にフランス語で何かを伝えた。 「…クソガキは入っちゃ駄目って言ったのぉ?」 先生の手を引いて、彼を見上げながらそう尋ねた。すると、先生は僕を見下ろしてこう答えた。 「いや…お待ちしておりました…だって。」 そんな態度に見えなかったよ?ツンとして…偉そうだったよ? 首を傾げながら、怖いおじいちゃんに案内されるまま…先生と一緒に、大豪邸をお宅探訪した。 「見て下さい…!この、天井…!これは…どちらの拘りですか…?」 僕が手を挙げてそう聞くと、先生はコクコク頷きながらこう言った。 「あ…主人ですぅ~…」 さすがの先生は、僕の問いかけにそんな素敵な答えを返してくれた。だから、僕は調子に乗って、こう言ったんだ。 「開放感がありますねぇ…!こんな中でビールなんて飲んだら、悪酔いしそうだぁ!」 「ふふ、揚げ物はするなって…主人に言われてますぅ…」 凄いなぁ… 先生は、すぐにこんな返しを思いつくんだ。 「先生って、変な人!」 僕は、足早に先生の目の前に回って、ケラケラ笑いながらそう言った。すると、彼は瞳を細めてそんな僕を見下ろした。 案内された大きな部屋には、テラスに続く大きな窓が付いていて、少しだけ見えるその向こう側には、青い海が覗いて見えた。 「わぁ…!!」 思わず僕は目を輝かせてそう言った。 だって、白い部屋の窓に、まるで絵でも飾っている様に見える鮮やかで青い海がとっても映えて、美しかったんだ。 白いレースのカーテンは少しのそよ風にもたなびいて…そんな光景に“風”なんて言う要素を付け足した。 僕は、走り出したいのをグッと堪えながら、先生の空いている手をギュッと握った。 すると、ソファに座っていた女性が僕を見て、こう言ったんだ。 「ビアンヴニュ!」 「いらっしゃいって…言ってるよ?彼らは、コルベールご夫婦だ。」 先生は僕を見下ろして、そう教えてくれた。 「初めまして…豪です。」 僕は、伏し目がちに彼女を見て、ぺこりと頭を下げた… ふと視線を逸らした先には…大柄な男性がソファに腰かけていて、僕を見つめてにっこりと笑いかけて来てくれた。 その男性を見た瞬間…僕は、一気に顔を強張らせたんだ。 「は…!」 思わず顔を伏せた僕は…先生の手を、痛いくらいに強く握った。 だって その男性の体の周りに…あの、モヤモヤが見えたんだ。 大丈夫… 彼は、僕が離れれば、死んだりしない… ソファから立ち上がって、お腹を庇う奥さんの腰を抱いた男性は、僕の顔を覗き込んで、クスクス笑って先生に何かを言った。すると、先生は僕と繋いだ手を揺らしてこう伝えて来たんだ。 「…ビックリさせちゃって、ごめんね。って言ってるよ?」 「…あ、あの…その…は、はぁい…」 久しぶりに近くで見たモヤモヤは、海外でも同じ色をして…同じ動きを見せた… 惺山…あなたを思い出したよ。 僕が、この…モヤモヤを連れて来ちゃったのかな。 見た所…奥さんは妊娠している…お腹の中に、新しい命が芽生えているんだ。 早く、離れたい… そんな思いを抱きながら、僕はバイオリンをケースから取り出した。 「先生…は、早く…帰ろう…?」 「…うん。」 先生は、僕の様子を心配しながら、男性にフランス語で何かを話しかけている。 「豪ちゃん…“愛の挨拶”と、“愛の夢”を弾いて下さいって…言ってる。先生が伴奏をするから、一緒に弾こうね…?」 そう言って僕の肩を撫でた先生は、小刻みに震える僕に気が付いて、目を丸くして顔を覗き込んだ。 「…どうした?」 僕は、そんな先生を見つめて…目を泳がせて言ったんだ。 「…モ、モヤモヤが見えるぅ…。旦那さんに、見えるのぉ…。僕は、だから…早く、彼から離れたいんだ…。死んでしまうかもしれない…。僕が傍に居たら、彼は、死んでしまうかもしれない…あ、赤ちゃんが居るのにぃ…」 すると、先生は僕をギュッと抱きしめて…ゆらゆらと揺れながら、こう言った。 「…大丈夫。大丈夫だよ。落ち着きなさい…」 「…うん。」 大丈夫…? そんな訳無い…! 愛する奥さんが新しい命を宿しているというのに、これから、楽しい家族を築いていくというのに…僕のせいで、死んでしまうかもしれない… そんなの、全然、大丈夫じゃない…! そんな僕の心の内が分かるのか…先生は僕の顔を覗き込んで、こう言った。 「豪ちゃんは、森山君の願いを受けて…音楽家になる。ならば、演奏をする時は…どうするんだ?北斗に、なんて言われた…?」 ほっくん… 僕は、先生のそんな言葉に、眉を下げて答えた… 「…いつも、どんな時でも…凛としろ…」 「ならば、そうしなさい…」 先生はそう言うと、僕の手に持ったバイオリンを取り上げて、惺山のバイオリンを手渡してこう言った。 「“愛の挨拶”と“愛の夢”は、こちらのバイオリンで弾く方が良いだろう…」 「…はぁい…」 ほっくん、僕は…恐怖に、心が震えてしまうんだ。 助けてよ… とっても、怖いんだ… あなたの…強さを、僕に少しだけ貸してよ… ほっくん… ほっくん… ピアノに腰かけた先生は、僕を隣に呼んでこう言った。 「…俺だけを見ていなさい。」 惺山…僕は、あのモヤモヤを…もう、見たくない… 「…はぁい…」 先生のピアノの伴奏が無慈悲に流れ始めて、僕はバイオリンを首に挟んだ。そして、弓を掲げて…次に、下ろさなきゃいけないのに… 手が震えて、出来なかった… そんな僕を見つめて…先生はピアノの伴奏をとめた。そして、コルベール夫妻にフランス語で何かを話しかけたんだ… すると、ケラケラ笑った旦那さんが、僕の背中を撫でて窓の向こうを指さした。 「外を見て来て良いよって、言ってくれてる。気持ちを切り替えておいで…?」 先生はパラディスの”シチリアーノ”をピアノで弾きながら、僕にそう言った。 この曲は、最近の僕のお気に入りなんだ… きっと、僕を励まそうとしていると分かったから、僕は先生をジッと見つめて下唇を噛み締めながらこう答えた… 「…はぁい…」 惺山…僕は、怖いんだ… 助けて… #72 「で…豪ちゃんの親父は、あの子と兄貴を捨てて…他で家族を作ってたってのか!はぁ~!やんなるね!世も末だ!」 厨房の中…朝食を作りながら、まもちゃんは鼻息を荒くしてそう言った。 確かに、あの子の親父は、最低なんだ。 理久から聞いた話では、豪ちゃんは死期が分かる子で、もうすぐ死ぬ人の周りに…何かしらのサインが現れるそうだ。 あの子と兄貴を捨てて出て行った親父にも、そんな物が現れていたのに、10年後、ばったり会った時には…消失していたそうだ。 だから、あの子は…森山氏と物理的に距離を取ってる… 豪ちゃん。 森山氏は…そんな君の願いを聞いて、会いたくても会いに行けないみたいだ… 死んでも良いから傍に居たいと願う事は、強情っぱりのあの子にとったら、受け入れがたい心情なんだろうな… 「ねえ、まもちゃんだったら…どうする?俺の傍に居たら、死ぬかもしれないって…そんな話を俺が妄信して、まもちゃんから離れたいって言ったら、どうする…?」 まもちゃんは俺の為にランチョンマットを敷きながら、そんな話に眉を顰めた。そして、お皿を手に持ってこう言ったんだ。 「…考えたくもないよ。怖いし、悲しい。」 そうだね…俺も、考えたくもない。 でも…あの子は、そんな事ばかりを考えて…心を痛めながら、必死に…最愛の人を守ろうとしているんだ。 そんなあの子の思いを分かっているから…彼は、会いに行く事を躊躇した。 残酷だな… 鼻でため息を吐いた俺は、目の前に出されたお皿の中を覗き込んだ。そして、ニッコリと笑って、まもちゃんに言ったんだ。 「わぁ!ハートのウインナーめっけ!」 すると、まもちゃんはクネクネしながら声を艶めかせて言った… 「ちょっとだけよ~ん…」 ウケる…! 目の前に腰かけたまもちゃんは、今日もご機嫌に卵料理を食べている。 彼は、本当…卵が好きだな… 「スクランブルエッグの焼き加減が絶妙だ…」 うっとりとそんな自画自賛を言いながらフォークの先に突き刺した卵を眺める彼は…まるで、アントニオなんてイタリアな名前が付きそうなくらい…右の眉と左の眉が上がって…下がっていた… 「ヴォ~ノ!ん、ヴォ~ノ!」 スクランブルエッグを口の中に入れて…こんな、似非イタリア人の真似をしても、彼の見た目が素敵なせいか、それとも…真似する対象が陽気なイタリア人のせいか…妙にしっくりくるんだもん。 わらけてきちゃうよ。 「そう言えば…後藤さんの奥さん、佳代ちゃん…?実家に帰ったらしいよ?」 そんなまもちゃんの言葉にケラケラ笑った俺は、涙目になりながら、こう言った。 「何回目だよっ!」 「あっはっは!ギネス更新に挑むぞ!」 一緒になってケラケラと笑う愛する人を見つめながら、俺はどうしても…考えずにはいられないんだ。 もし、彼の死期が分かったら、俺は…あの子の様に、強くいられるんだろうか。 もし、まもちゃんが、俺が傍に居ると死んでしまう運命だとしたら…俺は、自分の思いを押し殺してでも、彼から離れる事が出来るのだろうか… 豪ちゃん…お前は、必死なんだな。 そして、森山惺山を守る事に…本気なんだ。 -- 鮮やかで青い海は…日本の海と違った… だけど、どこまでも続いて行く青い空と…僕の丁度目線の先で、交わってる様に見える海は、本当は、日本まで続いている。 「…不思議だぁ。」 惺山…あなたにも、見せてあげたい。 こんなに美しい景色が、あるんだ… ねえ、不思議だね。 毎日の生活に困っている人が居るのに、幾つもの豪邸を持っている人もいる。 そして、心を揺さぶる様な景色を独占して…季節外れの花を花壇に植えて、音楽なんて聴いて心を癒そうとするんだ。 本当に癒されたいのは…誰なのかな… この差はどうして産まれてしまったのかな… でも、彼らが悪い人な訳じゃないんだよ。ただ…生まれながらの、お金持ちなんだ。 それって…ある意味、僕に似ていると思わない…? 生まれた時から…そうなんだ。 世の中は…理不尽で不公平だね。 そんな中…音楽だけは、平等だ。 だって、誰の耳にも届くし…誰の心にも響く物だから。 そうだよね…惺山。 「豪ちゃん…」 背中にかけられた声に振り返った僕は、バルコニーを覗き込む先生にこう言った。 「海を見ながら…弾いても良い…?」 もしかしたら、この波に乗って…僕の音色が、あなたに届くかもしれない… 「良いよ…」 先生はにっこり笑ってそう言った。 だから、僕はバイオリンを首に挟んで…弓を掲げたんだ。 惺山…あなたに届きますように… お手紙をくれないのは、どうして…? 寂しいよ… あなたが作った交響曲と同じくらいに、あなたを感じられる物なのに… どうして、僕に…あなたを感じさせてくれないの。 とっても、とっても、寂しいよ… 僕は、弓を優しく弦に下ろして…彼を恋しむ思いを歌う様に“愛の夢”を弾き始めた。 部屋の中から聴こえて来る先生のピアノは、僕のバイオリンの音色に絡まって…美しい帯を付けながら海へと流れて行く… 「はぁ…素敵だ…」 うっとりと瞳を細めて…自分の音色と、先生の音色の帯を見送り続けた。 情熱的に盛り上がりを見せるこの曲は…まさに、愛の夢だ… いつの間にか…バルコニーには、コルベール夫妻が寄り添って立っていた。そして、僕の演奏にうっとりと瞳を細めて微笑んでいたんだ。 そんなふたりの姿を、僕は、美しいと思うのに…旦那さんの体に纏わりついたモヤモヤを見たくなくて…視線を落として足元だけ眺めた。 「ハァ…ブラボーー!」 ”愛の夢“を弾き終えた僕は、そんな感嘆の言葉をくれるコルベール夫妻の足元を見つめたまま…今度は、”愛の挨拶“を弾き始めた。 それは、優しくて…穏やか…そんな包み込むような愛だ。 すると、目の前の奥さんは嬉しそうに微笑みながら、自分のお腹に両手を当てて旦那さんを見上げて、クスクスと笑った。 おなかの赤ちゃんは、聴こえてるのかな…この音が。 君の周りに漂う…モヤモヤは、分かるのかな… バイオリンの美しい音色で追い払えるものなら、追い払ってあげたいよ。 でも、大丈夫… 君のお父さんは、僕に、これ以上会わなければ…死んだりしないからね… だから、今はゆっくりと…お母さんのお腹の中で、この曲を聴いて… 産まれる前から、愛されていたと…覚えておいてね。 うっとりするため息が聴こえる中…僕は、お腹の赤ちゃんへ向けて…優しい”愛の挨拶”を弾いた。 そして、弓を弦からそっと下ろして…伏し目がちのまま、ぺこりと頭を下げて言ったんだ。 「…安産、祈願…」 きっと、褒めてもらっている…そんなコルベール夫妻の声を耳に聴きながら、笑顔をチラッチラッと伺い見た。でも、僕は、先生の腕にしがみ付いたまま…視線を落として、適当に相槌を打ち続けた… 「素晴らしいバイオリンだったと、仰ってるよ…?」 「はぁい…」 「…おなかの赤ちゃんが、喜んでるみたいに暴れていたそうだよ…?」 「…へえ」 早く、彼から離れたい… 僕は、その一心だった。

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