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#79~#81

#79 11月20日 東京 …俺は、森山氏のご厚意に甘えて、彼のご自宅で寝泊まりをする事になった。 最後まで渋っていたまもちゃんは、森山氏の豪ちゃんへの愛を信じて…最後の最後で、やっと首を縦に振ってくれたんだ。 実の所…背に腹は代えられない実情もある…。 お教室の開店資金の為に、少しでも節約を心がけての事なんだ。 変な下心なんて…持ってないさぁ… あっはっはっは…! …ピンポン! 教えて貰った住所にやって来て、インターホンを押した。 「…はい。あぁ、藤森さん…どうぞ。」 インターホン越しに聞こえた森山氏の声と共に…目の前の自動ドアが開いた。 …彼は、豪ちゃんに会いに、マルセイユまで行ったんだ…。 あの子は、とっても喜んだそうだ。 俺のお節介も…少しは、彼らの役に立った様だ。 エレベーターを降りた俺は、右手に見える都内の景色を眺めながら森山氏の部屋へと向かった。 ガチャリ… 「あぁ…いらっしゃい。」 目の前の扉が開いて、いつもより、だらしない恰好のダークサイドなイケメンが姿を現した。 …そして、俺に、にっこりと笑いかけて来たんだぁ…! あぁ…!なぁにこれぇ! 俺は、危うく…胸キュンする所だった。 凛とした表情のまま彼の部屋に入った俺は、足元で仁王立ちして俺を睨みつけて来る鶏に…再会した… 「…フォ…フォルテッシモ…」 気の抜けた声で奴の名前を呟くと、森山氏はケラケラ笑ってこう言った。 「覚えていてくれたんですか?ははは…!藤森さんは意外と見た目によらず、マメですね?」 へえ… こんなインパクトのあるペット…忘れろって方が無理だよ…? 「このカップルは、鶏で繋がってるんだ…」 ブツブツ言いながらリビングに荷物を置いた俺は、中からスーツを取り出して、壁に下げながらこう言った。 「良い所住んでるね?三茶は、俺の実家の近所だ…」 「えぇ…?そうなんですか?それは…はは…。では、ご実家へ行かれますか?」 まさか! 咄嗟に顔を歪めた俺は、ソファにふんぞり返って座って、俺を変わらず睨みつけて来るフォルテッシモを見つめて言った。 「どうせ顔を見せたって…なぁ~んにも言わない親なんでね…会っても意味ないんですよ。」 すると、彼は苦笑いをしてこう言った。 「一番奥が、私の寝室なんで…」 はぁ! ドキドキドキドキ… 「その手前の…書斎を自由に使ってください。お布団も用意してあるんで、少し寝心地が悪いですけど…」 表情を変えずに胸キュンしていた俺は、森山氏の続けての言葉に冷静になって、いかんいかん…と考え直し、頷いて言った。 「あぁ…ありがとうございます。」 妙に色っぽいんだ、このダークサイドは… 「フォルテッシモ~!ん、ばっかぁん!ばっかぁん!」 俺は豪ちゃんの真似をして、黒いまだらの鶏に手を伸ばした… しかし、鋭い眼光を光らせたまま…奴は、俺との距離を一定に保ちつつ、近付いて来る事は無かった… 「…すみません。明日から忙しくて…25日から合同練習なのに、早めに来ていただいて、申し訳ないです。」 そんな森山氏の言葉に首を横に振った俺は、ソファにゴロンと寝転がって言った。 「良いよ、別に…。で、豪ちゃん…どうだったの…?喜んでたって、理久は言ってたけど…森山さんは、どうだったの?」 すると、彼は…嬉しそうに瞳を細めて…微笑みながら、こう言った。 「ふふ…とっても、成長していた…。きっと、運指の練習を頑張ったんだ。とっても指運びがスムーズになっていて、ボーイングなんて…非の打ちどころが無い程に、完璧だった…。やっぱり、あの子は…音楽の神様に愛されてる…」 あぁ…俺もそれには…同感だ。 そして、生きてる音楽の神様にも…同等に愛されてる… 俺は、あの時…森山氏が豪ちゃんに会いに行くと、理久にメールをしたんだ。 すると、しばらく経った後、彼が電話を寄越した。 そして、悲痛な声で俺にこう言って来たんだ。 「…豪ちゃんは、頑固者だから…会わないって言うかもしれない…!」 そんな彼に、俺はこう言った… 「もしそんな駄々をこねたら、俺が言ったと伝えてよ…」 「北斗、お前は分かってない…。あの子は、正真正銘の筋金入りの頑固者だ!誰が何を言っても…自分が納得しない限り、テコでも動かないんだからっ!」 ふふ…。 そう、理久は、森山氏とおんなじことを言って…あの子が、強情を張る事を危惧していたんだ…。だから、俺は彼にこう言った… 「…じゃあ…何も言わずに、直接会わせたら良い…。あの子が文句を言い出す前に、拒絶する前に、会わせてしまえば良いんだ…」 きっと、そうしたら…強情なんて張れないと、俺は踏んでた… まもちゃんを前にして、準備していた言葉も、予定していた行動も、何もとる事が出来なかった俺みたいに… ただ、嬉しいって感情だけで…いっぱいになるって、踏んだんだ。 だけど、理久は食い下がった… 「あの子は、今、急成長してる…それは、底なしなんだ!この成長を…彼に会う事で止めたくない…!」 そう言った彼の悲痛な声色は…他の感情を帯びている様に感じたんだ。 愛する豪ちゃんに、あの子が愛する森山氏を…会わせたくない。 そんな…嫉妬にも似た、彼の内側の思いを感じてしまった… やっぱり、彼は、あの子を愛してる。 だから、俺は声を落として…こう伝えた。 「…森山惺山の不幸は…豪ちゃんの不幸。彼の幸せは、あの子の幸せ。だから、会わせてあげる事は…結果的に、豪ちゃんの為になるんだ。」 すると…彼は押し黙って、しばらくの沈黙の後…不服そうに、こう言った。 「…どうして、勝手に煽ったんだよ。」 あぁ…全く… 往生際が悪いとはこの事か… 呆れた様に首を横に振った俺は、電話口の彼にこう言った。 「…あの子は、森山惺山の…天使だ。」 「…分かったよ!」 理久はそんな俺の言葉と声色に、全てを察した様に、乱暴にそう言って電話を切った。 …理久。 いつか、森山氏の元へ帰る豪ちゃんを、彼は、愛してしまったんだ… 真正の…どМなんだ… 「すみません…少し、向こうの部屋で作業が残っているので、私はこもりますね…」 森山氏はそう言って、機材の並んだ部屋へと行ってしまった… 俺は、リビングから見えるビルの群れを眺めて…その向こうの空を見上げた。そして、届かないとは分かっているけど…胸の中で、あの子にこう言った。 豪ちゃん、大丈夫だ… 俺は、自制心を持ったお兄さんだから、森山氏に変な事をしたり…しないさ。 まもちゃんと違う…若い肉体に、魅力なんて感じないさ… 長い髪から時折見える…切れ長の瞳に、ゾクゾクしたり、しないさ… -- 「そうだ。明日は…凄い所へ連れてってあげるよ…?」 先生の書斎で、僕は、サックスを吹いて遊んでいた。すると、書類を書いていた先生が、そう言ったんだ。 凄い所かぁ… 僕はソファに胡坐をかきながら、サックスを吹いてこう言った… 「プッパァ~~!」 そんな僕を見た先生は、瞳を細めて笑って、再び書類を書き始めた。 僕は、何だかんだ…サックスが吹ける様になったんだ。 それでもやっぱり、運指は…どの楽器においても、ネックになった。 どこを離せば良いのか、どこを押さえれば良いのか分かるのに、気ばかり焦って、指が絡まって行くんだぁ… 「先生…?このリードは、よく音が出るねぇ?」 「あぁ…本当?当たりだったか…」 サックスの口を付ける部分には、リードと呼ばれる竹の板を敷くんだ。 箱で買うんだけど…先生曰く、大体がハズレのリードなんだって。 …1枚、2枚使えるものがあったら、ラッキーで、それを大事に取っておくそうだ…。 変だよね?…売り物なのにさ。 僕は、首を傾げながら…サックスで“モーニン”という曲を吹いた。 すると、先生は、僕を上目遣いにチラチラ見て…ウズウズと体を揺らし始めたんだ… この曲は途中から…ひたすら、ソロだ。 僕は、そんなソロをメロウに音を掠れさせて吹き始めた。 「はぁ~~~!なんて!なんて!良いソロなんだぁ!」 先生はそう言って席を立つと、ソファに寝転がってサックスを吹く僕を抱えて、そのままピアノまで持ち運んだ。 もちろん、僕は吹き続けているよ?だって…頭の中で、リズムが流れて行くんだもん。 ピアノの前に僕を立たせた先生は、そそくさとピアノに腰かけて、こう聞いて来た。 「誰の…誰の、真似してるの…?」 そんな先生の言葉に僕は首を傾げながら、思いきり高音を出して…体をのけ反らせた。 「キャ~~~~~!」 つんざく高音に大喜びした先生は、僕の演奏に加わってピアノを弾き始めた。 そしてすぐに先生のソロに入ったから、僕はサックスを口から離して、ピリピリする唇で言ったんだ。 「…アート・ブレイキーのモーニンでトランペットを吹いてる人の真似したぁ…。少しだけ…アレンジしたんだぁ…」 ジャズって難しい… このノリは…真似して覚えるしかないって先生が言ったから、僕は、いつも誰かの演奏を真似してソロを吹いてる。 すると、先生はハァハァ言いながらピアノを弾いて、こう言った。 「はぁはぁ…良いねぇ、良いよぉ…」 そろそろ、先生のピアノのソロが終わる… だから、僕は、再びサックスに口を付けて、入るタイミングを見計らった。 ジャズって楽しい… 順番こにソロを演奏して…最後は、一緒に曲を終えるんだ。 それが、なんだか…仲良しみたいで、楽しい。 「あぁ…また、脱線してしまった…!!書類を今日中に書かなきゃ駄目なのに…!また、脱線してしまったぁ…!!」 ”モーニン”を吹き終えた後、先生はピアノに突っ伏して…項垂れていた。 コンコン… そんな中…窓を叩く音に首を傾げた僕は、窓の外に視線を移してケラケラ笑って言った。 「幸太郎~~!」 サックスを持っている僕に首を傾げた幸太郎は、お利口にこう言ったんだ。 「…豪、何で、サックスなんて持ってるの?」 「ん、先生と遊んでたんだよぉ?」 幸太郎の首に首輪をつけた僕は、リードを繋げて先生を振り返って言った。 「先生?幸太郎の、お散歩してくる~!」 「…人通りの少ない道は行っちゃ駄目だよ…」 先生はそう言って、僕にコートを着せてくれた。そして、ポケットの中に、GPSって言う機械を入れて…ポンポンと叩きながら念仏を唱え始めた… そんな彼がおかしくって、僕はケラケラ笑いながら先生のほっぺをプニプニと両手で挟んで遊んだ。 11月のフランスは、程々に肌寒かった… ベレー帽をかぶった僕は、幸太郎のリードを二重に手に巻いて、トコトコと公園までお散歩へ向かったんだ。 カサカサと足に纏わりつく街路樹の紅葉した葉は、見事に歩道を埋め尽くして、道行く人の足元を纏わりついた。 僕は、そんな落ち葉を、何くそっと…けり上げながら歩いた。 すると、前を歩く幸太郎が、僕を少しだけ振り返ってこう言ったんだ。 「…森山惺山、作曲家…今度、東京でコンサートを開くんだってね。」 あぁ…惺山… 僕は、幸太郎の言葉に首を傾げると、興味なさげに顔を逸らしてこう言った。 「…うん。でも…もう、良いんだぁ…」 「どうして…?」 どうして…? どうしてかな… もう、良いんだ… …何も、感じないんだ。 僕は、足元の落ち葉を靴の上に乗せながら、幸太郎の質問を無視した。 だって…僕だって、分からないんだもの… すると、彼は僕の隣に来て、優しく肩を抱いてくれた。そして、こんな話を始めたんだ。 「豪、この前…イリアちゃんとランチを食べたんだって?」 ランチ…? 僕は首を傾げて幸太郎を見上げた。そして、クスクス笑ってこう答えたんだ。 「イリアちゃんって、怖いんだぁ。でも…この前、連れて行ってくれた所のホットケーキはとっても美味しかったぁ!ハートの形をしててねぇ…?とっても、可愛いのぉ…。」 僕は、すっかりイリアちゃんのお気に入りになったんだ。 あちこちに連れて行かれて、暴力を受けたり、美味しい物をご馳走して貰ってる。 正直、面倒臭い…でも、彼女の事、僕は嫌じゃないよ? だって、美味しい物を食べさせてくれるし、笑うと…少しだけ可愛いって分かったから。 「なぁんだよ。イリアちゃんは…抜け駆けして、豪と結構遊んでいる!」 幸太郎は、鼻息を荒くして怒り始めた。だから、僕は彼の背中を撫でて、こう言ったんだ。 「よしよし…よしよし…幸太郎、落ち着いて…落ち着いてね…?」 すると、彼は僕の背中を同じ様に撫でながら、こう言った。 「…うん。」 幸太郎は、大分躾けられて、もうみだりに粗相をしなくなったんだ。 これも、ひとえに…彼を見放さないで、躾し直した…僕の成果だぁ…! 「幸太郎は、お利口さんだね…?」 僕は、隣を歩く彼を見上げて笑ってそう言った。すると、幸太郎は身を屈めて僕にキスをして、にっこりと笑いかけてくれた。 あの手紙が届いたら…彼は、どうするかな… 僕をあっさりと諦めて、他の愛する人を探し始めるのかな…? それとも、僕を思い続けてくれるのかな…? 惺山…あなたの感覚が、まだ体に残ってるんだ。 あなたの髪の感触も、あなたの声も、あなたの笑顔も…鮮明にまだ、僕の中に残ってる。 なのに…どうしてか…何も感じないんだ… #80 「はぁ…食った食った~!あの店、まだ潰れてなかったんだぁ~!」 久しぶりの地元、三茶で美味しいラーメンを食べた俺は、お腹をポンポン叩きながら森山氏の自宅へと戻った。 ガチャリ… 玄関を開くと、フォルテッシモが怪訝な表情で俺を睨みつけて来た… 人相…いいや、鶏相が悪い奴だな。 飼い主に似て…仏頂面なんだ… ふと、暗い廊下の下に漏れて見える部屋の明かりを見つめた俺は、肩をすくめてため息を吐いた。 森山氏は、ずっと作業部屋に籠っている様だ… よく集中力が続くな。 俺は、図々しく冷蔵庫から勝手にビールを取り出してリビングのソファに腰かけた。そして、テレビを付けて、視界の隅で俺を睨みつけて来るフォルテッシモに言ったんだ。 「俺は、北斗。お前の母ちゃんは、俺にちゃんと挨拶するぜ?」 すると、奴は首をヒョコヒョコ動かして、俺を見つめたまま…円形にウロウロと歩き始めたんだ… なぁんだよ…一体…!! ガチャリ… そんな時、部屋から森山氏が出て来て…おもむろにキッチンで料理なんて始めた… 信じられない…! ダークサイドが…カウンターキッチンで黙々と、料理をしてるんだ…! すると、彼の足元に、フォルテッシモが駆け寄って行った… 「あぁ…どうしたの。そうか…藤森さんにビックリしてるのか…大丈夫だよ、彼は優しい人だから…」 そんな…鶏に話しかけるダークサイドな男の背中を…俺はビールを啜りながら、ポカンと眺めた… 「…この前、急に海外へ行ったでしょう…?その時、知り合いに預かって貰ったんです。そしたら、こんな風に…警戒心が強くなっちゃって…すみませんね。」 そう話した彼の背中に…俺はコクリと頷いて返事を返した。 「うん…大丈夫…」 鶏を預かってくれる人が…居るんだ。 その方が俺は驚きだ… 「藤森さんは外で済ませましたか…?」 「うん…ラーメン食べて来た!背脂、増し増しの増しだ!」 俺の言葉にケラケラ笑った森山氏は、上手に作ったチャーハンを手に持って、ダイニングテーブルに座った。 「凄いね…自炊するんだ…」 驚いた表情で俺がそう言うと、彼は苦笑いをしながらこう言った… 「豪ちゃんの影響です。でも、いくら挑戦しても、あの子の…チャーハンを真似出来ない。これがまた、絶妙な味の薄さなんですよ…。いつも言ってた…味の決め手は、中華出汁なんだって…ふふ…!あの子の友達たちは、チャーハンの味が薄いって分かってるから…ウインナーを買って来たり、ハムをおねだりして、塩分を微調整してるんですよ?おかしいでしょう?ふふふ…!」 嬉しそうにそう話す彼を見つめながら、俺は、自然と笑顔になった。 だから、聞いてみたんだ… 「豪ちゃんの友達って、どんな子なの…?」 そんな俺の問いかけに、森山氏はにっこりと微笑むと、今まで見た事も無いくらいに穏やかな笑顔を向けながら、豪ちゃんと4人の友達の話を教えてくれた。 「…ずっと、一日中遊んでるんです。俺の子供時代と比べたら…それは羨ましいくらいの、充実した少年時代だ。あの、歌がピッタリ合う様な…そんな、少年時代です。」 一緒に居る事が当たり前の様に、豪ちゃんの”幼馴染”たちは、自然と集まった… 一緒に湖へ行ったり、釣りをしたり、木登りをしたり…そんな、他愛のない時間を共に過ごして、危険な事も…楽しい事も、共に経験した。 森山氏は、そんな彼らに…”少年時代“なんて歌の情景を重ねて見ているみたいだ。 そして、リーダー格の少年には…そうなる素質を見て、お調子者の子供にも、同じ様に、そうなる素質を見たそうだ… そんな話の中…俺が特に気に入った少年は、大吉だった。 だって、彼は、面白かったんだ。 「大吉は…やばい奴だな…」 ゲラゲラ笑いながら俺がそう言うと、森山氏はケラケラ笑ってこう言った。 「…大吉は、本当…飛びぬけて、呆れるくらいの…エロガキでしたね。」 ウケる…! そして、話は…豪ちゃんの唯一の家族…お兄さんの話題へと移って行った。 「…豪ちゃんの兄貴は、健太って言って…高校には行かずに、軽井沢の美容室で下働きをして、あの子を養っていたんですよ。」 そんな森山氏の言葉に、俺は目を丸くした… 「え…?そうか…確かに、誰かが稼がなきゃ…生きていけないもんな…。」 そうだ。 生きていく為にはお金が必要で…そんなお金を稼ぐためには、働かなければいけない。それは、当たり前の事だけど…高校にも行かずに、そんなシビアな世界に突入する子供もいるんだ…と、単純に…驚いた。 森山氏は、誰かを思い出している様に瞳を細めると、ニッコリと微笑みながら頷いてこう言った。 「…だから、家の事は…全て、あの子がこなしていた。掃除、洗濯、料理…その他、もろもろ…。外で働く兄貴の為に、あの子は…甲斐甲斐しく兄貴のお世話をしていたんです。」 「なるほど…!だから!」 俺は手のひらをポンと叩いて、納得した。 豪ちゃんの料理スキルが高いのは…あの子の趣味では無かったんだ。 生きていく為に…自然と覚えた事で、生きていく為に…熟練して行った。そんな、自然な事だったんだ。 すると、森山氏は右手に付けたミサンガを指先で撫でながら、こう言った… 「幼い頃から、人と違う事に違和感を覚えながら…それを隠して生きて来た。でも、たまに…ボロが出るんです。それが…頑固に、強情を張った時だ。あの子は絶対に引かないから…突拍子の無い行動に出るんです。すると、周りにいる健太も、幼馴染たちも、その家族たちも…ほとほと困ってしまう…」 あぁ… 「…突拍子の無い事って…?」 俺は、首を傾げてそう尋ねた。 「…あの子は、人の死期が…分かるんです。」 あっけらかんとそう呟いた森山氏は、クスクス笑いながらこう続けた。 「だから、もうすぐ死にそうな人の傍を付いて回った。…それは幼い頃から、俺と会うまで…ずっとです。その度に、あの子は…周りの人を困らせて、何も知らなかった健太には…どうして、普通に出来ないんだと…詰られた。」 ため息と一緒に、最後の言葉を吐き出した森山氏は、首を横に振りながらこう言ったんだ。 「それでも…あの子は、本当の事を絶対に言わなかった。死ぬ人が分かるなんて言っても、良い事なんて…ひとつも無い。と、理解される事を諦めて、変わった子として、生きる道を選んだんです。」 どうしてかな… こんな話を聞いているのに、俺の頭の中には…森山惺山の交響曲の第二楽章が流れ始めたんだ… それは…所々で不気味に不協和音を奏でる、マーチだ。 そして、その旋律は…俺の胸を揺さぶって、込み上げてくる涙に変えた。 「そ…そうか…!そうだったのか…!」 そんなに…辛かったか…! そんなに…苦労したか…! それなのに、お前は…いっつも、馬鹿みたいに… 俺は鼻を啜りながら、クスクス笑ってこう言った。 「確かに…豪ちゃんは、強いな…。あの子は、強い子だぁ…!」 「ええ…そうでしょ?ホント…頑固者で、強くて…優しい人なんです。」 嬉しそうに微笑んだ森山氏は、お皿を洗いながら、クスクス笑った。 そして、ビールを手に持って俺の近くに腰かけると、首を傾げてこう言ったんだ。 「…でも、あの子の強さの原動力は、恐怖なんです…」 へ…? 「恐怖…?」 俺は首を傾げて彼を見つめた。 だって、あの子からは…そんな言葉、到底、思いつかなかったからだ。 すると、森山氏はビールを開けて一口飲んで話始めた。 「そう。怖いから…強くなって、踏ん張っている…。あの子は…無駄に強いせいか…恐怖に立ち向かうんです。目をそらさないで…歯を食いしばって、必死に恐怖に耐えてる。昔は、他と違う自分が怖かった…だから、おどけて、変な子を気取って、誰にも話さないで…ひとりで、踏ん張った…。今は、俺が死ぬのが怖いから…強くなって、踏ん張ってる。」 え… ため息を吐きながらそう言った森山氏に、俺は首を傾げて言ったんだ。 「でも…あの子は、俺に、人は強いままでいられないって、言ってたよ…?だから、休める場所が必要なんだって…俺の場合は、それが…まもちゃんだった。」 不意に、あの時の豪ちゃんの顔を思い浮かべた俺は、潤む瞳を細めて、森山氏に言った。 「あの子には…森山さんが、そんな…休める場所なのかな…?」 すると、彼は首を横に振って…こう答えたんだ。 「…今は、俺を守る事に必死なんです。ふふ…何としても、死なせたくないんです。だから、俺は…休める場所では無い…。きっと…もしかしたら、先生が、そんな場所になってくれているのかもしれないです…。」 理久が… 「そうか…。なら、良かった…」 確かに…理久の傍に居る時の豪ちゃんは、屈託なく笑っている事が多い…それは、装ったものなんかじゃなくて、心から、笑っている顔だ…。 あの子のそんな場所になれたとしたら、少しは浮かばれるじゃないか…理久。 「早く…どうにかなると良いね…。ふたりが一緒に居る所を見てみたいんだ。あの子がどんな風にあなたに甘えるのか…見てみたい!ふふ…!」 森山氏を見つめた俺は、ケラケラ笑ってそう言った…すると、彼は悲しそうに瞳を歪めてこう言ったんだ。 「…俺は…早く、こんな事から…あの子を、解放してあげたい…」 あぁ…辛いな… こんなの…俺みたいな、鈍感、無神経の男には…何て言ってあげたら良いのか…分からないよ。 ただ、俺は、歯を食いしばって…落ちて来る涙をそのままに…森山氏の背中をポンポンと叩いて慰める事しか出来なかった… 大丈夫だ。なんて言えない… 心配するな。なんて、言えない… 森山氏の話を聞いた俺は、豪ちゃんの違う面を知る事となった。 そして、彼があの子を愛している事も、あの子が彼を必死に守ろうとしている事も、分かった。 豪ちゃんは…本当に、森山氏が大好きなんだ。 -- 「幸太郎…?お座りしててね…?」 お散歩から戻った僕は、キッチンでお水を入れて幸太郎に飲ませてあげた。 すると、書斎から先生が現れて、幸太郎に聞いたんだ。 「今度、豪ちゃんとアンサンブルする話、聞いてるかい?」 幸太郎は自分の首輪を指で撫でながら、ケラケラ笑って先生に答えた。 「知ってる…。豪?何を弾こうか…?」 そして、僕の髪を撫でながら、ひとつにまとめて遊び始めたんだ… 僕は、そんな幸太郎をジッと見つめて、首を傾げてこう答えた。 「ん、エッチじゃない奴ぅ…」 「ぷぷっ!」 すると、先生が吹き出し笑いをして、幸太郎は、がっかりした様に肩を落として首を横に振って見せた。 僕は、それがおかしくて…体を揺らしてケラケラ笑った。 「…先生、一緒に寝るぅ…」 パリスと枕を抱き抱えた僕は、書斎でお仕事をする先生にそう言った。すると、彼は眼鏡を付け替えて、僕に言ったんだ。 「分かった。でも、先生はお仕事があるから、豪ちゃん、先に寝てて良いよ…」 「はぁい…」 そう返事をしたのに、僕は、トコトコと書斎の中に入って、パリスをソファの上に置いて…先生の膝に座って彼に抱き付いた。 そして、彼の襟足を指に絡めながら…”愛の挨拶“を口ずさんで…ぼんやりと窓の外の暗がりを眺めた… すると、先生はそんな僕の”愛の挨拶”に美しいハーモニーを重ねて歌い始めたんだ。 僕は、それが嬉しくて…彼をギュッと抱きしめて、顔を埋めた。 「どうしてか…何も感じないんだぁ…」 ポツリとそう呟いて、先生の手のひらを自分の手に重ねて、握った。 「…疲れたのかもしれないね…」 彼はそう言って僕の髪に優しくキスをくれた… 疲れた… 疲れた。 ずっと…毎日、毎日、彼が死んでしまうんじゃないかと…怖かった。 でも、もう…心配しなくても大丈夫になった… 悲しくないのは、疲れたから…? 辛くないのは…疲れたから…? クスクス笑った僕は、先生の肩に口を付けて…こう言った… 「僕は…疲れたみたいだぁ…」 「ベッドまで連れて行ってあげよう。」 先生はそう言うと、僕と枕を抱えて書斎を出た… 足元を付いて来るパリスをたまに振り返って、先生は階段を上りながら、僕に言った。 「豪、俺が傍に居るよ…」 「…うん。」 僕の髪にキスをした先生は、ゆっくりと体を屈めて僕をベッドに下ろしてくれた。そして、枕を手渡して…足元を付いて来たパリスを僕の足の上に置いてくれたんだ。 「…お休み。豪ちゃん…」 「おやすみなさい…先生。」 僕は、何の為に、ここに居るんだっけ… 僕は、どうして、バイオリンを弾いてるんだっけ… もう…よく、分からない。 自然と閉じてくる瞼を落とした僕は、そのまま…眠りについた。 「コッコココココ…」 朝だ… だって、パリスが僕の足の上を、行ったり来たりしてるもん…。 瞳を開いて、僕の背中を抱きしめて眠る先生の腕をゆっくりと退かした。 いつもの様にパリスに餌を与えた僕は、いつもの様に畑の世話をしながら、実りを付けた野菜を収穫した。 ふと、空を見上げると…真っ白い雲が空を覆い隠していた。 そんな空を、馬鹿みたいに口を開けて眺めていると…鼻先に、雨がポツリと落ちて来た… 始めは一滴だけだったのに…続けとばかりに僕の顔に雨粒が落ちて来て…いつの間にか、自分の涙なのか…雨なのか…分からなくなった… 「おはよう…豪ちゃん。」 ガウンを着てテラスに出て来た先生に、僕は思わず駆け寄った。 そして、抱き付いて…しがみ付いて…大泣きしながら…叫んだ。 「先生…先生…!分からない…!どうして、僕はここに居るの…?彼の為に、バイオリンを弾いて来たのに…!彼の為に、強くなって、頑張っていたのに…!これでは…!彼が居なかったら…!僕は、どうすれば良いのか…分からないっ!!」 君は僕の全て、僕の幸せ、僕の人生… いつまでも…僕だけを思って、探して、待っててね… 君と同じ様に…僕も君だけを思って、探して、待つから… たとえ、離れた場所で鼓動を止めたとしても。 ベートーベンが、不滅の恋人に宛てた手紙だ… 僕は、彼と同じ思いを胸に…惺山を守ろうと、必死に、恐怖と戦った。 なのに… なのに… 僕では、彼を助ける事は出来なかった。 馬鹿みたいだ。 彼に喜んで貰いたくて…彼に褒めて貰いたくて、バイオリンを上達させる為に、フランスまで来たと言うのに… 馬鹿みたいだ… 「先生…僕は、大馬鹿野郎だぁ!大馬鹿野郎なんだぁ!!どうして…どうして?!なんで…こんなに…馬鹿なんだぁ!!」 勝手に胸の奥が震えて…僕の声が一緒に震えた。 手も足も、無駄に力んで…ガチガチに硬くなって、とても痛いんだ。 先生は…僕を抱きしめたままテラスにへたり込んだ。 そして、足元に散らばった野菜の中で…僕を大事に撫でながら一緒に泣いてくれた… 「俺が…俺が、傍に居るよ…」 「あぁああ…!!うわぁあああん!!」 僕が初めて、バイオリンを弾いた時…惺山は、とっても良い音色だって、褒めてくれた。 僕が初めて、バイオリンで“愛の挨拶”を弾いた時…惺山は、とっても驚いて…もう一度弾かせようとして、僕を怒らせた。 僕が初めて、人前で演奏をした時、惺山は、ピアノに座って…一緒に月へ行ってくれた。 神様は…多分、僕の事が嫌いなんだ。 だから、こんな酷い事をする… 僕の愛する彼は、他の誰かと赤ちゃんを作らないと助からない。 …僕では、助けられない… #81 コンコン… 「おはようございます…藤森さん。森山です。私、出ますので…部屋の中は自由に使っていただいて構いませんから…」 そんな森山氏の声を聞きながら、俺はフワフワの布団に包まって唸って答えた。 「うう~…はいはい…」 時計を見ると…朝の9:00… いつもならとっくに起きているというのに、このフワフワのお布団のせいだぁ… 「気持ちいなぁ…!羽毛布団…最高だぁ…!」 酔っぱらっていたせいかな…寝る時は気が付かなかったけど、書斎の机の上に…豪ちゃんの写真が、写真立てに収まって飾ってあった… ムクリと体を起こした俺は、机の上に飾られたあの子の写真を手に持って…瞳を細めながらクスリと笑った。 「あぁ…こんなに短かったのか…ふふ、可愛いな…」 ベリーショートの髪は、長い髪しか知らない俺には新鮮に映った… 森山氏の膝の上に座った豪ちゃんが、無表情でカメラを睨んでる。 そんな…写真だ。 「ふふ…」 その隣の写真の中では、森山氏の背中に抱き付いた豪ちゃんが、彼の首にバイオリンを挟んで…まるで、二人羽織りしてるみたいに…ふざけて…楽しそうに笑い合ってる写真。 「あなたは…天使の前だと、こんな表情をするのか…」 写真の中の森山氏の砕けた表情に口元を緩めて笑った俺は、豪ちゃんの頭を指先で撫でながら、涙をポタリと落とした… 「ギフテッドの代償として家族と人生を失った…その言葉の意味を、理解したんだ。…はぁ…豪ちゃん?早く、彼と、一緒に暮らせる様になると良いね…」 聞こえなくても良い。返事が無くても良い。ただ、そう言わせてくれ… 口に出させてくれ… 「どうか…このふたりが、またこうして…笑顔で傍に居られますように…」 「コッコッコッコ…」 部屋を出ると、目の前にフォルテッシモが立っていた… 「なんだ…おはよう…」 俺はボサボサの髪を手櫛で整えながら、フォルテッシモにそう言った。 すると、奴は警戒しながらも…俺に一定の距離を開けながら、後ろを付いて来た。 「ふぁああ~!」 大きなあくびをした俺は、両手を上に伸ばしてフォルテッシモに体の大きさを見せ付けて…威嚇した。 「コッコココココ…!」 すると、奴はすたこらさっさと逃げ果せて、廊下の隅から俺を睨み続けた。 パリスと違って…こいつとは、分かり合える気がしない! 俺は早々にフォルテッシモに匙を投げた。 森山家のニート…そんな物になりつつあった俺も、無事25日を迎えて…オーケストラたちと合流を果たした。 「おはようございます。本日から、合同練習…よろしくお願いいたします。」 既に顔合わせは済んで居たから、合奏は滞りなく始める事が出来た。 指揮台に上がって指揮棒を振るダークサイド惺山は…なかなかのイケメンさを醸し出している…あの仏頂面と、癖のある長い髪が…妙にセクシーなんだ。 天使は、意外とお目が高いのかもしれない… 「それでは…第一楽章から…」 譜面台に眼鏡ケースを置いて、森山氏はおもむろに眼鏡をかけた。そして、伏し目がちにそう言って、指揮棒を掲げる姿は…はぁ、ため息が出ちゃう位、セクシーだ… 「…やばい、キュン死する…」 そんな第二バイオリンの女性のため息を耳に聴きながら、俺は心の中で頷いて言った… 「エロい…」 思わず口に出して言ってしまったが…こんなの気にしない。 だって、エモいって言ったって…誤魔化しの利くレベルだからね。 ボロ雑巾の様にくたびれていた森山氏は…豪ちゃんに会って、少し元気を取り戻したようだ。 でも、一緒に過ごせない事は…変わらないまま。 「…少し、フルートが強いです。もっと…ここは、静かに…そうだな、母親のお腹の中に居る時みたいに…穏やかで、安全で、静かなんです。そんな雰囲気を持って…」 彼の指揮に興奮した女性フルート奏者が…鼻息を荒くして足並みを乱してる… そんな様子をコントラバスのおじさんは冷めた目で見て、コンマスは…俺の目の前でヤレヤレと首を横に振っていた… ただ一人、俺だけは、森山氏の情緒の説明に…しんみりとしたり顔をして頷いていた。 母親のお腹の中ね… これは…豪ちゃんの、産まれる前だ。 「第二楽章のマーチは、不気味になりがちです。特にバイオリンは、旋律の雰囲気に囚われないで、このメロディを…う~ん…そうだな、軽快に…弾いて欲しんです。例えるなら…う~ん…道化師。悲しみを隠した道化師が、無駄に明るくはしゃいでるみたいに…空回りする明るさを表現したい…」 オーケストラの調整は終盤に差し掛かって、作曲者兼、指揮者の森山氏の情緒を細かく理解して…音色に反映させる段階に入っている… 俺は、彼が話す言葉の全てに…あの子の存在を感じてるんだ。 この交響曲は俺の読み通り、あの子に宛てたラブレターだった。 粋な事をする男だ… 「では…第三楽章…藤森さん、こちらに…」 そんな森山氏の言葉に、俺はバイオリンの席から立ち上がって、彼の隣へと移動した。 あの子は…ここに立ちたがってるんだ。 豪ちゃん…ここから見ると、こんな感じだ。 妙に感慨深く感じた俺は、ここから見える森山氏を仰いで見て…コクコク頷きながら、自分の目を通してあの子にこの光景を見せてあげている気になっていた… すると、森山氏は不思議そうに首を傾げて聞いて来たんだ。 「…良いですか?」 「…どうぞ?」 澄ました顔をした俺は、首を伸ばして、顔を上げて凛と姿勢を美しく保った。 そして、左手に持ったバイオリンを首に挟んで…右手に持った弓を弦の上に構えた。 第三楽章…それは、マズルカとタンゴの絶妙な曲調の変化を見どころにした…ある意味、この交響曲の見せ場の様な章だ。 まるで、豪ちゃんの自由演奏の時の様に…曲がガラッと変わって行くその様子は、演奏している奏者をも楽しませてくれる。 背中に当たるオーケストラの音色を感じながら、俺は弓をバイオリンから外して、ソロの前の…静寂を保った… 豪ちゃん。 これから、彼の隣で弾くよ… 息を吐き切った俺は、呼吸と共に自然に弓を上げてふんわりと弦の上へと下ろした。 森山惺山は、豪ちゃんの才能の第一発見者… あなたには…あの子が…どんな風に見えたの…? 天使?音色?それとも…ただの愛しい人…? 「素敵だ…」 そんな誰かの感嘆の言葉を拾いながら、弾き続ける…俺のあの子のソロは、チェロの音色に、溶けて、混じって…ひとつのハーモニーを作り出した。 それは、本来の音源とは全く違う。 浮いてしまっていたあの子の旋律を、俺は敢えて溶け込ませたんだ… お前は行く場所へ向かえば…孤立する事も、目立つ事も、叱られる事も無くなるだろう。 …過ぎる事が、悪い事なんて事は無い。それは誰もが羨む…ギフトなんだ。 だから、どうか…自分の才能を疎まないで、自由に羽ばたける…そんな場所へと向かうんだ。そうすれば…このバイオリンの音色の様に、誰かとハーモニーを紡ぐ事だって、思いきり出来るんだから…! …そんな思いを込めて…俺は、豪ちゃんのソロを弾いた… 「…悪くないアプローチですね。」 第三楽章を弾き終えた後…森山氏がそう言って微笑みかけて来た。 そして、続けてこう言ったんだ。 「今後も、いくつかのパターンで弾いて貰っても良いですか…?」 「喜んで。」 俺はそう言って、にっこりと笑った。 -- 「豪ちゃん…」 先生は、僕の髪を撫でながら…悲しそうに眉を下げた。 でも、僕は…もう疲れてしまった様で…何も答えたくないし、何もしたくなかった。 だから、ベッドに横になったまま…ただ、そんな先生の顔を見つめていたんだ。 燃え尽き症候群って奴なのかな… 大泣きした後、僕は、何の感情も無くなってしまったみたいに…何にも関心が行かないんだ。 先生の朝ご飯も…掃除も、洗濯も…パリスと遊ぶことも、畑の世話も… 全て…どうでも良くなってしまった。 ただ、疲れた。 だから、僕はそっと瞳を閉じて、髪に触れる先生の指先を感じながら眠った。 いがらっぽい先生の咳払いに目を覚ました僕は、体を起こして…自分の机に視線を向けた。すると、僕の机で書類を書いていた先生が、僕に気が付いて、振り返って聞いて来たんだ。 「…豪、お腹空いてない?」 「…ない。」 一言そう答えた僕は、再びベッドに寝転がって…瞳を閉じた。 「豪ちゃんは、少し体調を崩している…もしかしたら、お前との合奏も無理かもしれない。」 「…大丈夫?病院へは連れて行ったの…?」 「ん…ちょっと、悲しい事があってね…落ち込んでいるんだ。」 そんな話声が聴こえて来て、僕は、そっと瞳を開いた。 寝たきり生活を始めて…4日が経った頃。 幸太郎が遊びに来たみたいだった… 先生は僕の介護をしてくれて、ご飯を食べさせてくれた。 でも…僕は、変わらず…何もしたくないままだったんだ。 階段を上がって来るふたつの足音を聞いて、目の前のドアが開くのを見つめていた。 目の前に現れた幸太郎は、僕を見つけて驚いた様に目を丸くした。そして、すぐに僕の体を大きな手で撫でて、こう聞いて来たんだ。 「…豪、どうした…?どうしたの…?」 どうした…? どうもしないんだ。何も、どうもしないんだ… 答える事すら億劫で、僕は…ただ、幸太郎の温かくて力強い手のひらに撫でられながら、そっと瞳を閉じた… このまま消えてなくなりたい。 ギフテッドも、バイオリンも、ハーモニーも、美しい音楽も、楽しい合奏も、もう…要らない。 「…豪!」 すると、予想外に聞こえて来た声に、僕は、眉間にしわを寄せて…布団を頭まで被ったんだ。 やばい…イリアちゃんだぁ… 「豪!釣りに行くって約束したでしょ!早く起きなさいよっ!ニートになるの?豪は、理久の家のニートになるの?」 「…イリアちゃん、豪ちゃんは、少し、元気が無いんだ…」 そんな先生の言葉なんて聞かないで、イリアちゃんは僕の布団を引っぺがして、こう言った。 「これ以上寝たきりを続けたら…本当のニートになるよっ!」 え… 「やぁだぁ!」 僕はそう言って、イリアちゃんのスカートをめくって、お尻を引っ叩いて言ったんだ。 「あっち行けぇ!ピンクパンツマン!」 「浸ってんじゃないわよっ!この…この、悲劇のヒロイン男!」 イリアちゃんは強かった… 僕の手を後ろ手に捻って…ベッドに押さえつけたんだ。 「よし!イリアちゃん、良いぞ!後は、俺に任せて…」 ズボンのチャックを下す幸太郎を長い足で蹴飛ばしたイリアちゃんは、枕に顔を埋めて暴れる僕に、こう言った… 「失恋でもしたのかぁ!欲しい物が手に入らなかったのかぁ!何が気に入らなくって、こんな事してる!」 「うるさぁい…!も、もう…!先生…やぁだぁ!」 「イリアちゃん…止めなさい…!」 先生は僕の背中に乗った彼女を下ろそうと手を伸ばした。すると、イリアちゃんはこう言って先生を脅したんだ。 「あたしに触ったら、ロリコンの変態って…訴えてやるからっ!」 「ひぃ!」 すぐに両手を引っ込めた先生は、僕の顔を覗き込んでこう言って来た… 「豪!体を揺らして…振り落とすんだぁ!」 えぇ…?! 僕はとりあえず、先生に言われた通りに体を揺らしてイリアちゃんを振り落とそうと努力した…でも、ちゃんとご飯を食べていないせいか…全然力が出ないんだ。 そんな中でも、イリアちゃんは強かった。 僕を仰向けにひっくり返して、肩を掴んだ彼女は、ゆっさゆっさと僕を揺すってこう言ったんだ。 「しっかりしろよっ!豪!釣りに行くって言っただろっ!男に二言は無いんだぞっ!何が、そんなに、悲しかったのか…!言ってみろってんだぁ!あたしが、全部…!受け止めてやるっ!!そして、豪を、また、笑顔に戻してやるッ!」 そんな事を言った彼女は…どうしてか、泣いていた… なんだよぉ… 何で…イリアちゃんが…泣くんだよぅ… 「うっうう…!!うわぁあん!うわぁああん!!」 彼女の流れ続ける涙を見ていたら…僕もつられたんだ。 溢れて来る涙を、堪え切れずに大泣きをしてしまった… いくら強い彼女に話したって、僕の状況が変わる訳でも、納得出来る気持ちになる訳でもないのに… なのに… 僕は、彼女が泣きながらそう言ってくれた事が…どうしてか、心強くて嬉しく感じたんだ。

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