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#85~#87
#85
「そろそろ…着く頃かもしれない…」
合奏の休憩時間…俺は、自分の服の下に入れた、バッハの楽譜を右手で撫でながら、覚悟を決めていた…
こんな所で、死ぬ訳にはいかないんだ…
俺は、藤森音楽教室を開講するんだから…!
…まだ、死ぬ訳にはいかないんだ…!
はぁはぁ…ゴクリ…
もし、豪ちゃんが襲って来たら…まず、刃物を持ってる右手を譜面台でぶん殴ろう。
そして、怯んだ所で…隣のフルート奏者のフルートケースで、あの子の顔面を潰そう。
いったぁ~い!ってしゃがんで泣きだしたら…最後に、このパイプ椅子を折り畳んで、背中にお見舞いするんだ…!
出来る…出来る気しか、しない…!!
俺がイメージトレーニングに精を出していると…目の前の指揮台に立った森山氏は、落ち着きない様子で…譜面台に乗せた時計を気にしていた。
「はぁ…素敵…イケメン…!惺山先生…ぽっ!」
妙齢のクラリネット奏者の女性がそう言って…森山氏をうっとりと見つめている。
彼は、引く手数多だな…
豪ちゃんの…あの、無慈悲なお願いを聞いたとしても、きっとすぐに相手が見つかる事だろう。
俺はそんなセクシー惺山を見つめながら…ひとり深いため息をついた。
「はぁ…」
…あの子は…酷く、落ち込むだろうな…
だって、大好きな彼が他の誰かと一緒になる事を、求めなきゃいけないんだもの。
そんなあの子の状況と、昔の自分の状況が、重なり合うんだ…
鈍く痛む胸を押さえた俺は、眉間にしわを寄せて唇を噛んだ。
彼は、自分のお兄さんを自殺に追い込んだ財閥に…復讐をしていたんだ。
結婚という形で、自分に惚れた財閥の娘に毒を盛って…殺した。
次に…孫娘と結婚をして…その人も殺そうとしていた。
彼は、全ての復讐を終えた後、自分も死のうと考えていたんだよ…
そんな時…俺は彼と出会ったんだ。
彼の裏側を知った俺は…なんとかして、結婚を止めようとした。
…愛するまもちゃんに、死んで欲しくなかったから…必死になって止めたんだ。
その時感じた…絶望感と、やるせなさは…今でも、鮮明に思い出せる。
あのまま…あの結婚が成就していたら…どんなに取り繕ったって…どんなに愛なんてない結婚だって、分かっていたって…俺は、その後の事なんて見たくないし、何も知りたくなかっただろう。
結婚した後、財閥のお金を自分に回せなんて…まもちゃんに、ケラケラ笑って言ったけど…実際の所、そんな事を出来る度量も、想像力も無かった…馬鹿なガキだったんだ。
でも、今なら分かる…
愛する人が、誰かと家庭を築くなんて…耐えられる訳ないんだ。
豪…
別れを選択して…当然だ。
愛してるからこそ…そんな物、耐えられないよな…。
割り切れる訳、無いんだ…
俺は、物騒なイメージトレーニングを中断して、背中を丸めて…ため息を吐いた。
そんな時…
「…だから、国会議事堂じゃなくて…公会堂だって、理久が言ってただろ…?」
「ん…もう…!知らなぁい…!」
そんな…聞き覚えのある声が聴こえたんだ…
しかし、声はすれど…姿が見えず。
ボリュームを抑える事もしないで、ケラケラ笑いながら近づいてくる声に…森山氏は、指揮棒を握った手を譜面台に乗せて、ステージの壁を穏やかな笑顔で見つめた。
すると、彼の視線の先の…ステージのドアが開いて…トコトコと、豪ちゃんが現れたんだ。
あの子は…いつもの様に、幸太郎に首輪を付けてリードを二重に手に巻きながら、幸太郎を振り返ってこう言った。
「ん、もっ!それ以上言うとぉ…!ぶん殴るからなぁ~!」
「豪ちゃん!」
あの子を見つけた途端、歓喜の声を上げた森山氏は、指揮台から駆け下りて、間抜けな顔をしたあの子を思いきり抱きしめて、持ち上げて、回した。
そうだ…目を回させろ…!
俺は、したり顔をしたまま、大きな体のバイオリン奏者の影に…コソッと体を隠した…
すると、デレデレの森山氏の頬を両手で掴んだ豪ちゃんは、彼を見つめて首を傾げて聞いたんだ。
「ん…せいざぁん、ほっくんはぁ…?」
来た…
再会を喜びもしないで…ターゲットの所在を、まず、確認するなんて…!
豪、恐ろしい子…!!
すると、おもむろに…幸太郎はオーケストラを見渡して、指をさしながら…こう言った。
「バイオリンだから…あそこら辺に居るんじゃね…?」
そんな幸太郎の要らないサポートを受けた豪ちゃんは、森山氏に抱きかかえられながら、俺を目で探し始めたんだ…
…僕は今、透明人間になっています…
そんな情緒を込めた俺は、大きなバイオリン奏者の体の影に入って…息を潜めた。
唖然とした表情で豪ちゃんと幸太郎を見つめるオーケストラたちは、さすが日本のオケとでも言うべきなのだろうか…
幸太郎の存在も豪ちゃんの存在も認知しておらず…みんな、ちょっと危ない同性カップルがステージに来てしまったと…戸惑いを隠せないでいた。
「…あぁ、はは…そんな事は、ど、ど、どうでも…良いじゃないか…」
森山氏は、豪ちゃんを抱き抱えたままあの子を見上げてそう言った。すると、豪ちゃんは手に持ったバイオリンを犬の幸太郎に手渡して、森山氏の髪を撫でながら抱き付いて、甘ったれて、彼の耳に口を当てて…何かを話したんだ。
「…はっ…!」
その瞬間、森山氏が…そんな驚きの声を上げたから、俺は瞬時に、察した。
きっと…
「ん、でもぉ…僕はぁ、ほっくんをぶっ殺しに、フランスから来たんだよぉ…?」
とか、言ったんだ…!
首を傾げたコンマスは、わちゃわちゃするステージの袖へ行くと、森山氏に言った。
「森山先生…お知り合いの方ですか…?もう、休憩時間が終わりました。それに、ここは、関係者以外立ち入り禁止です。せめて、ステージの上から降りて頂いても宜しいですか…?」
確かに、休憩時間は5分前に終わった。
すると、豪ちゃんは森山氏の体から降りて、コンマスに頭を下げてこう言ったんだ。
「コンマスさん、ごめんなさぁい…。僕は、豪と言います。ほっくんを探しに来ましたぁ。第三楽章のソロを弾く…ツンと澄ました美人で凄腕のバイオリニストの…ほっくんですぅ。彼を、ご存じありませんかぁ…?」
止めろよ…美人とか、凄腕とか…本当の事を言うなよ。
つい…手を上げたくなっちゃうじゃないか…!
すると、コンマスは無慈悲に俺を指さして、豪ちゃんにこう言ったんだ。
「…あの方ですか?」
「あ…!はぁい、そうですぅ…。ご親切にありがとうございますぅ…」
おかしい…
妙に丁寧にコンマスに挨拶をした豪ちゃんは、俺を見つめて、にっこりと笑って、ステージの下へと降りて行った。
おかしい…
破天荒、自由人、お馬鹿…そんな豪ちゃんならば、俺を見つけた瞬間、飛び掛かって殺しにかかって来てもおかしくない筈なのに…あの子は、妙にステージの上で…いいや、コンマスに礼儀正しくした。
「めちゃくちゃ可愛い…あの僕っ娘、森山先生の…彼女…?」
「ありゃ、敵わない!」
第一バイオリンの女子陣がそんな言葉を口走ると…第二バイオリンの男性がケラケラ笑ってこう言った。
「甘え方が…半端ない…!はぁはぁ…ドキドキ…はぁはぁ…!」
あぁ…
あなた達は間違ってる…あの子は、男の子なんだ。
…ウケる!
「何よ…若さとは一瞬の輝きでしかないのよ…!いずれ…老いて行くんだからっ!」
そんなフルート奏者の小言を耳に聴きながら、俺は、自分の椅子に座り直して、姿勢を正しくした。
すると視線の先の豪ちゃんが、手を俺に掲げて…念でも送る様にグルグルと動かし始めたんだ。
きっと、ほっくんが上手に弾けますようにって…祈ってくれているに違いない。
なんだかんだ言って…俺の事が、ほ~んと大好きなんだから。
--
「北斗~~!失敗してしまえ~~!」
「豪…何してる?」
僕が破滅の気功を使おうと努力しているのに、ほっくんは満面の笑顔で僕に手を振って来た。だから、僕は…しょんぼりと背中を丸めて、隣に座った幸太郎に小さい声でこう言ったんだ。
「ほっくんの体がバラバラになります様にって…気を送ってたんだぁ…」
すると、幸太郎は首を傾げてこう言った。
「…豪って、馬鹿だな…」
うん…
僕は、大馬鹿野郎だ…
だって、ほっくんの煽りに乗って…結局、惺山の所に来てしまったんだもの…
でも、コンマスには…礼儀正しくしたよ?
だって、彼はオーケストラのボス。
惺山の指揮する…交響曲を弾いてくれる人たちのボスなんだ。
そんな人に、粗相したら…駄目だって、僕は知ってるもん。
しばらくすると、僕の惺山が指揮台に上がって…少しだけ振り返りながら、僕を横目に見たんだ。
その瞬間…僕は、クラクラして…息が出来なくなった…
…あぁ!惺山!カッコいい…!!
僕は、胸をキュンキュンさせながら、頬を熱くして、前のめりになって彼を見つめた。
先生みたいに指揮棒を掲げた惺山は、オーケストラを指揮しながら…僕に、第一楽章を聴かせてくれた。
「わぁ…!」
「おぉ…綺麗なメロディだね?」
そんな幸太郎の感嘆の言葉に、僕は心の中で…こう呟いた。
…当たり前だよ!誰の男だと思ってんだ!俺の、惺山だぜ?
彼の交響曲を、僕は、何度も聴いた…
出来上がる過程も…出来上がった後も、何度も、何度も、聴いたんだ…
でも、目の前で…沢山の楽器によって奏でられた生の音は、それを凌駕する程に素晴らしく、美しかった。
僕に叩きつけて来る音の波は、全身を振るわせる程に細かい振動を体に伝えて来る…なのに、僕を癒すみたいに、ジンと体の奥が熱くなって行くのは…どうしてなんだろう…
「うっうう…うう…ぐすっ…ぐすっ…うっ…ひっく…ひっく…!」
込み上げてくる涙を止められないんだ。
拭っても…拭っても、僕の涙も、僕の込み上げてくる泣き声も、止められなかった。
だから、僕は必死に口を押えながら、体を震わせて…静かに泣いたんだ。
素晴らしい…
僕は、体の底から感動して、第一楽章が終わった瞬間、立ち上がって…惺山に、拍手を送ったんだ。
「惺山!!ブラボーーー!!」
すると、彼は涙を拭いながら、僕を振り返って…にっこりと笑った。
#86
凄い…
どうした事か、豪ちゃんの出現により、森山氏のやる気がみなぎっている。
いつもよりも、気迫を感じるんだ…
それは、まるで…あの子の為だけに演奏される様に。
彼の指揮は冴え渡っていた。
細かな情緒の細部にまで注文を付ける様な指揮は、今までの彼のそれとは全く一線を画して、繊細で、情緒的で、徹底されていた。
まるで既にあるお話の情景を追いかけて行く様な細かさに、オーケストラの奏者たちは、彼の指揮棒と表情を真剣に読み始めて、息もつかぬ間に…第一楽章を弾き終えた。
指揮者なんて…誰がやってもおんなじやと思ってる人も多いかもしれないけど…
実は、違うんだ。
特に、今日の彼の指揮には…拘りと思いが詰まっている。
まるで、この交響曲の集大成を…あの子に聴かせるような強い気迫に、俺は…胸を打たれて、唇をかんだ。
「…森山さん。豪ちゃんに、隣に立って貰いなよ。」
俺は、指揮台の上の彼にそう言った。
「あの子は、バイオリンパートを全て弾ける。だから、あの子に隣に立って貰いなよ。」
続けてそう言った俺は、目の前の席に腰かけるコンマスを覗き見て彼にこう伝えた。
「あの子は、ギフテッドです…。木原理久が独占する…バイオリンの天使、豪ちゃん。きっと…オーケストラを、もっと高めてくれる筈です。どうですか…?一緒に弾いてみたいと思いませんか…?」
すると、コンマスは驚いた様に目を丸くしてこう言った…
「…木原先生の…。噂には聞いていました。ぜひ、お聴きしたい…」
へぇ…
意外に、勉強熱心だな。
海外の情報をきちんと仕入れてるじゃないか…
俺は無駄に感心すると、客席で幸太郎の首輪を微調整する豪ちゃんに向かって、大声を張り上げた。
「豪ちゃん!バイオリン持って、こっちにおいで!」
「えぇ…?どうしてぇ?」
豪ちゃんは、首を傾げてポツリとそう言った。
すると、状況を察したのか…幸太郎が、そそくさとバイオリンを取り出して、あの子に手渡した。そして、ポンと背中を押してこう言ったんだ。
「…豪、終わったら俺の所に戻って来るんだよ?飼い主なんだからね?」
「はぁい…」
豪ちゃんは首を傾げながら、トコトコとステージに上がって、オケにペコリと頭を下げた後…俺の目の前にやって来た。
そんなあの子に、俺は森山氏を指さして…こう言ったんだ。
「彼の隣に立って…弾くんだ。」
「え…」
驚いて目を丸くした豪ちゃんは、俺を見つめたまま…時間が止まったかの様に固まってしまった…
その表情は…まるで石膏像の様に美しくて…本当の、天使の様だった…
「…さあ、行きなさい…」
俺はあの子の体を回れ右させて、背中をトンっと押してあげた。
すると、豪ちゃんは戸惑いながら、森山氏を見上げてこう言ったんだ。
「僕が、ここに立っても…良いのかなぁ…?」
「もちろん…」
嬉しそうに目じりを下げた森山氏は、涙を拭いながら楽譜を読んで、オーケストラに向けてこう言った。
「では…次は、第二楽章の初めから…」
豪ちゃんは森山氏を見上げたまま…彼のバイオリンを調弦して、首に挟んだ。
そして、弓を高く掲げて…真剣な表情で、森山氏をジッと見つめた。
どうしてかな…そんな様子を見ただけで、涙が込み上げて来そうなんだ…
だって、あの子は、ここに立つ事を夢見ていたんだ。
森山惺山の隣に立って…バイオリンを弾く。
…そんな思いを糧に、あの暴君の様な才能に翻弄されながら、慣れない環境で、懸命に自分らしく生きようとしていた。
そんな事を知ってるせいか…今、目の前の光景が…胸の奥を揺さぶるんだ。
このふたりは愛し合っているのに、傍に居られない。
そんな事を知ってるせいで…涙が溢れて来るんだ。
しっかりしろ…北斗、お前はプロだ…
気合を入れ直した俺は、美しく姿勢を正してバイオリンを首に挟んだ。
そして、森山氏の指揮棒が上がって…第二楽章が始まった。
一斉に鳴り始める音色の中に…あの子のバイオリンの音色が、確かに聴こえて来る。
オーケストラのどの音色にも被らない…透明感を持った、天使の音色だ。
きっと、こんなに沢山の楽器と一緒に演奏した事なんて無いだろうに…
あの子は…俺の言いつけ通り、動揺を見せる事もなく凛と澄ました顔をして、森山氏の指揮を見つめながらお利口にバイオリンを奏でている。
すると…森山氏が豪ちゃんを見下ろして、あの子に笑顔でこう言ったんだ。
「…豪、あなたの自由に…弾いて…」
すると、豪ちゃんは…ポッと顔を赤くして…モジモジしながらそっと瞳を閉じた。
間髪入れずに、顔をオーケストラへ向けた森山氏は、指揮棒を振ったまま大きな声で彼らにこう伝えた。
「…今から、この子に自由に弾かせます!どうか、引っ張られないで…!」
そんな異様な光景に驚きを隠せないオーケストラたちは、首を傾げながらも演奏を続けた。
しかし、それは怒涛の波の如く押し寄せたんだ。
そう…
あっという間に、豪ちゃんのバイオリンの音色が情景を作り始めて…目の前に、おどけた道化師の姿を映し出し始めたんだ…!
「はぁ…?!」
隣でバイオリンを弾いていた女性は、目を丸くして、思わず弓を止めた…
怖がるな…!
止まるな…!
「あはは!この機を逃したら…こんな体験、きっと、もう…出来ないぞ…!!」
俺は満面の笑顔になりながら、あの子の情景の中へと、手放しで飛び込んで行った。
それは…よく晴れた青空の下…
見渡す限りの緑の草原の中を、順序良く均等な列を作って進み続けるマーチが見えた。
始めがどこなのか…終わりがどこなのかも分からない位の…大所帯のマーチングバンドだ!
あてがわれた楽器を奏でて、張り付けた様な笑顔を見せて、目的もなく、楽しい振りをしながら前の人に続いて行く…。そんな、どことなく不気味なマーチングバンドが奏でている旋律は、ずっと同じフレーズを繰り返してる。
すると、そんなマーチに後れを取ったドラムが…
ブチっと、音を立てて潰れて死んだんだ。
ゲゲッ!こわっ!
列を離れたシンバルも、後れを取ったトランペットも、先を行って均衡を乱したサックスも、みんな…潰れて死んで行った。
どうやら、このマーチは…美しく整った均衡を乱すと、潰されて死んでしまう様だ…
そこへ、どこからともなく道化師が現れて、ヒョコヒョコと体を揺らしながら、マーチングバンドの周りを一緒に踊って進み始めたんだ。
楽器も持たない…歩く速度も、歩幅も、てんでバラバラ…
そんな道化師はマーチングバンドには入れなかった。
だからすぐ傍を、おどけながら、進み続けたんだ。
こんなに広い大草原の中…マーチングバンドは、列の中をひたすら前へ行進する事しか出来ない。
道化師はどこまででも自由に行ける筈なのに、離れる事が怖いのか、傍を付いて回っている。
マーチを真似してみたり、楽器を持っている振りをしたり、歩幅を合わせようとしたり…まるで、自分もマーチングバンドの一員だと思いたいみたいに…必死に追いすがってる。
…それが、お前なんだね。豪ちゃん…
「ふふ…!凄いなぁ…。なんだろう…これは…」
そんな笑顔混じりの、誰が言ったのかも分からない感嘆の声に口元を緩めると、俺は瞳を閉じたまま…あの子の情景の中にどっぷりと浸かって行った。
そして、豪ちゃんと一緒に、道化師のジレンマを、目で見て…音色で、表現した。
情景を叩きつけて来る…それは、オーケストラを相手にしても変わらなかった。
…彼らだって、プロ中のプロだ。
今まで沢山の表現を繰り返して来た、音楽家の集団だ…
そんな彼らは、あの子の情緒を、より鮮明に…より大きくして、壮大な情景を共に作り上げて行った。
素晴らしい…相乗効果だ。
…第二楽章が終わって、森山氏が指揮棒を下げた。
誰もがあの子に拍手を送ろうとした、その時…
豪ちゃんは間髪入れずに、第三楽章を弾き始めたんだ。
瞳を閉じたままのあの子は…すっかり、この交響曲のお話の中に、入り切ってしまっていたんだ。
「…ま、マジかぁ!」
方々で上がる、悲鳴の様な歓喜の声にケラケラ笑って、俺はあの子と一緒にマズルカのリズムを強調させたバイオリンのパートを弾き始めた。
--
ここは…僕が、バイオリンと出会った瞬間なんだ。
つまり…惺山と出会った瞬間。
だから、大好き…
僕は美しい舞踏会場の中に、素敵な服を着た惺山を用意した…
そして、彼は素敵な笑顔を僕に見せて、こう話しかけて来たんだ。
「こんばんは。今日は月が綺麗ですね…?」
ふふっ!ダセェ…!
「ふふぅ…ダッサぁ…」
僕はポツリとそう呟くと、瞳を開いて…目の前に見えるオーケストラを見つめた。
そして、にっこりと笑いながら、体を揺らしてバイオリンの音色で帯を作って、彼らの音色の帯と重なる様に…揺らぎの波を合わせて行った。
こんな大きな音の波に揺られるなんて…なんて、素敵なんだろう…
何度もひとりで弾いた…この曲。
左手は勝手に弦を押さえて…右手は自然と動いて行くんだ。
それは、まるで…呼吸をするみたいに、自然だ。
「あぁ…惺山…素敵だねぇ…」
顔を見上げて彼にそう言うと、惺山は僕を見つめたまま…嬉しそうに瞳を細めて、涙を落した。
なんて美しい人だろう…
僕は、彼が…大好きだ。
僕は、そのまま…音色を繋げてバイオリンのソロに入った…
「わぁ…」
これは、僕が自由になった瞬間。
だから…一音一音に感謝を込めて…もっと、もっと、高くまで飛んで行けるように…羽をつけてあげた。その姿はまるで、小鳥の様に可愛らしくて…このホールの中を、自由に飛び回るんだ。
「豪ちゃん!良いぞ!」
そんなほっくんの声に、ついつい、口元が緩んでしまうよ…
小鳥たちは、惺山の頭の上に止まった後…無事に巣立って行った。
僕から…?
違うよ。
…この曲の中から巣立って行ったんだ。
…そして、お話は…最後の第四楽章に繋がる。
「森山さん…ちょっと一旦…止めませんか…?」
そんなコンマスさんの言葉に我に返った僕は、第四楽章へ行く事を止めて…”タランテラ・ナポリターナ”を、小気味の良い踊りを踊りながら弾き始めたんだ。
だって…止まれないんだ…!
…この楽しい時間を止めたくないんだ!
だから、大好きな…この曲で繋いでる。
僕は“タランテラ・ナポリターナ”を弾きながらステージの上をスキップして進んだ。そして、コンマスさんの前でクルリと回って、彼に聞いたんだ。
「このまま…第四楽章に入るとしたら…どのタイミングが素敵かなぁ…?」
「へ…?」
すると、コンマスさんは首を傾げて目を丸くした。僕は、そんな彼の顔がおかしくて…ケラケラ笑った。
「そんなの、曲が終わってからに決まってる…」
ほっくんはバイオリンを首から外して、僕を横目に見てそう言った。
「へえ…じゃあ…これが終わったら、一斉で入って来てね…?きっと、すんごい大きな波が出来る!…その音の波で…惺山を吹き飛ばそぉ~う!」
僕はケラケラ笑ってそう言った。
オーケストラの人たちは、水を飲んだり、汗を拭いたり、それぞれの休憩タイムを過ごしている。僕は、そんな彼らを1人づつ見ながら、スキップして進んで、惺山の元へ戻った。
そして、僕を見て目じりを下げる惺山を見上げたまま、“タランテラ・ナポリターナ”を弾き続けたんだ。
#87
なんてこった…!
ただでさえいつもと違う演奏に集中して疲れるのに、ぶっ続けで演奏をするんだ。
俺の隣のバイオリニストはヘトヘトだ!
HPが、一桁だぞ…!
まるで麻薬みたいに…あの子と演奏していると、めちゃくちゃハイになる。
だけど、事切れた時の疲労感が半端ないんだぁ…!
これを人は…トランス状態なんて言うのかもしれない…
未だに…あの子は、森山氏の周りをグルグルと回りながら、タランテラを弾き続けているんだ。
その様は、まるで、友好の儀式だと勘違いして、笑顔を見せる能天気な探検家と…彼を殺して肉を食べようと考えている原住民の様に…見えなくもない…。
「ぐふっ!」
思わず吹き出し笑いをしていると、オーケストラが、あの子の”タランテラナポリターナ”の終いを読んで…楽器を構え始めた。
おぉ…
彼らは彼らで…この子との演奏を、楽しんでいる様だ…
そらそうか!
こんなに、楽器を演奏して…楽しいと感じる合奏は、なかなか…ない!
俺はバイオリンを首に挟んで、あの子の曲が終わるタイミングと…導入のタイミングを計りながら、聴こえてくるタランテラのメロディに注意した。
すると、あの子は…タランテラの中に、第四楽章の一節を混ぜて、俺たちに伝えて来たんだ。
このテンポで…入りますって…
「ふふ…ジャズのソロ終わりみたいだな…。これを即興でやるのか、やばいな…」
クスクス笑いながら、隣のバイオリニストがそう言った。
俺はそんな彼に笑顔を向けて頷いて、豪ちゃんを見つめて…口元を緩めた。
豪ちゃんはタランテラを弾き終わる前に、合図でもするかの様にオーケストラを見渡して、にっこりと微笑んだ。
そして、わざとテンポを強調して弾き始めたんだ。
…上手いな…。
曲の雰囲気を壊さないまま、次の曲へのアプローチを始めてる。
これを、勘でやってのけちゃうんだもん…やんなるよ。
すると、あの子のオリジナリティに触発された音楽家たちは、うずうずして堪らない様子で、自己主張を始めた。
豪ちゃんのテンポに合わせる様に、コントラバスがテンポを刻み始めて、それに合わせてバイオリン奏者が第四楽章のフレーズを所々で弾き始めたんだ。
すると、遊び心の過ぎたパーカッションが、ティンパニーをドラムロールの様に鳴らして…それに喜んだ豪ちゃんが、右手をグルグルと回し始めた。
なんだこれ…!
こんなの…普通やらない!
「あ~はっはっはっは!なぁんだこれ!」
気が付いたら、俺は頬が痛くなるくらいにゲラゲラと大笑いしていた…
それは、他の奏者も同じようで、ステージの上は、楽器を構えて緊張する雰囲気と、ゲラゲラと大笑いする雰囲気が混じった、ちょっと変な雰囲気を醸し出していた。
ご機嫌になった豪ちゃんは、森山氏の隣でクルリと回転すると、まるで決めポーズでもする様に、客席の向こうを指さして言った。
「いっけぇ~!!」
そんなあの子の掛け声と共に、ずっと繋いで来たコントラバスのリズムに合わせて…オーケストラが一斉に第四楽章を始めたんだ!
それは、自分たちの目でも分かる…音の波だった…
音色の…ソニックブームが、放たれたんだ!
「どわぁ!」
そう言って指揮台を落っこちた森山氏は、アホみたいにケラケラ笑いながら、豪ちゃんの隣で指揮棒を振り始めた。
ヤバい…凄い技、出しちゃった…
そう思ったのは、俺だけじゃない筈だ。
「タランテラは…苦しみを、楽しみに変える曲だよ?」
豪ちゃんは、ステージの上を、縦横無尽にスキップしながらそう言った。
あの子の左手は…この第四楽章のバイオリンパートの超絶技巧を難なくクリアして、美しい音色を紡ぎ出し続けている。
しかも…落ち着きなく、ずっと動き回ってるんだ。
そんなあの子を捕まえた森山氏は、豪ちゃんを指揮台の上に乗せて…動きを止めた。
「ふふ…!」
少しの段差の上。それだけでスキップが出来なくなったのか…豪ちゃんは大人しく真顔でバイオリンを弾き始めた。
「ぐふっ!」
哀愁を感じさせるあの子の様子を見て、誰もがクスクス笑うと…音色に笑顔が乗ったみたいに…明るく色付いた気がした。
すると…第四楽章のタランテラは…あっという間に、壮大な曲から、明るくて楽しい曲へと雰囲気を変えて行ったんだ。
そして、バイオリンパートの見せ場とも言える…一番の盛り上がりを見せるパートが始まった。それは…バイオリンの音色だけが、他の楽器の上を滑る様に、踊る様に、駆け抜けて行く所なんだ…。
そんな見せ場を、豪ちゃんは他のバイオリン奏者たちと一緒に…駆け抜けた。
その音色は、目立たず…しかし、しっかりと手を繋がれた様な一体感を持たせた。
「あぁ~、気持ち良いねぇ…?」
あの子は、バイオリン奏者たちに向かって、そう言いながらうっとりと瞳を細めた。
そんなあの子の表情を見たバイオリニストたちは、思わず自分もうっとりして…知らない内に、音色を穏やかで、丸みのある物へと変えて行った…
凄いな…
この子が指揮をしたら、面白そうだ。
ただ、この子と交渉するコンマスにだけは…なりたくないけどね。
--
惺山が一緒に交響曲を弾くオーケストラの人たちは…みんな、優しくて良い人だった。
コンマスの七尾さんには、特に、僕はとっても礼儀正しくしたんだよ…?
だって、惺山と仲良くして欲しいもん。
ここでは、ジンギスカン体操は…踊らなくても良さそうだ!
ルンルン気分で、惺山と僕と、ほっくん。そして、幸太郎の4人で、惺山の車に乗って彼の家へと向かった。
幸太郎は放し飼いに出来ないから、もちろん…僕は、彼と一緒に後部座席に座って、首輪を付けてリードを持って移動したよ?
でも、惺山は、そんな彼の首輪を、ずっと、気にしている様にチラチラ見て来たんだ。
だから、僕は、運転席の彼に教えてあげた。
「あのね、幸太郎は…少し馬鹿な犬なんだぁ。躾を放棄された犬なの。だから、僕がこうして、躾し直してるんだぁ…。」
すると、惺山は首を傾げてこう言った。
「…でも、豪ちゃん。彼は人間だよ…?」
「なんだ!惺山はまともじゃないか!」
ゲラゲラ笑った幸太郎の頭を引っ叩いた僕は、きちんと躾してるって、彼に証明するみたいに、いつもよりもしっかりと怒って言ったんだ。
「幸太郎!めっ!駄目だよ!駄目!車の中で、大きな声を出さないの!」
そんな中、ほっくんは、なんだかドギマギしている様に…僕から視線を逸らし続けているんだ。
きっと、僕に殺されるって…怯えてるんだ。
でも、僕はほっくんに…そんな事なんてしないよ?
だって、彼は、僕を煽って…おちょくって、怒らせて、惺山の元へ来る様に、仕向けてくれたんだ。
あんな事が無ければ…僕は、彼の元へ来て、一緒にあの交響曲を弾く事も出来なかった…
だから、ほっくんを殺したりなんて…しない。
「ほっくんは、命がけで…僕を煽ってくれたんだよねぇ?」
僕は、助手席の彼を覗き込んでそう言った。
「は…!」
すると、ほっくんは怯えていた表情を急に変えて、目をキラキラさせながらこう言って来たんだ。
「そうだよ!俺はね、一世一代の賭けをしたんだ!そして、俺はその賭けに勝った!」
そんな彼にケラケラ笑った僕は、調子を合わせてこう言っておだてたんだ。
「わぁ~!さすがぁ!ほっくんはやっぱり、バイオリンの神様だったぁ!」
「あ~はっはっはっは!」
そして…車内には、ほっくんの高笑いが響いたんだ。
惺山のお家の前まで来た。
すると、ほっくんは幸太郎のリードを僕から預かってこう言ったんだ。
「俺は幸太郎と、ホテルに泊まるよ。」
「え…」
そう言って驚いたのは、幸太郎だった。
しばらく悩む様に眉を顰めた彼は、ほっくんを上から下まで眺めてこう言ったんだ。
「…タイプじゃないけど…頑張ってみるよ。中折れしたら許してくれ…。」
「死ねば良いのに!」
顔を歪めたほっくんにどやされた幸太郎は、僕を見つめてしょんぼりと眉を下げた。
そして…チラチラと後ろを振り返りながら、ほっくんに連れて行かれたんだ…
「あの人は…犬なの?人なの?」
惺山はそう言うと、僕をギュッと抱きしめて…髪にキスをくれた。だから、僕は、彼を見上げて、ニッコリ笑って教えてあげたんだ。
「…ん、すぐに、僕にエッチな事をしようとするから、犬にして…飼ってあげてるんだぁ。幸太郎だよぉ…?」
「なんだそれ!」
眉を顰めた彼は、幸太郎が立ち去った彼方を睨みつけて、鼻でふん!と言った。
そして、僕は…やっと、フォルテッシモに会う事が出来たんだ!!
「あぁ…本当だぁ。あの、黒さつま鶏の面影を残してるね…?」
リビングの片隅で、体の羽毛を膨らませて、フォルテッシモは警戒心をむき出しにしていた。そんな彼から少し距離を取ってしゃがんだ僕は、クスクス笑ってそう言った。
すると、惺山は僕の背中を抱きしめて…同じ様にクスクス笑いながら言ったんだ。
「パリスの面影も、残ってる…」
確かに…!
どちらの要素も同等に受け継いでるみたいだ!
「あぁ…惺山…!」
後ろを振り返って彼に抱き付いた僕は、彼の匂いを嗅ぎながら、彼の胸に顔を埋めて言った。
「…本当は、来ちゃダメだって…思ってたんだぁ。でも…あなたに会ったら、そんな事忘れてしまったみたいに、喜んでしまったぁ…」
すると、彼は僕の髪を指の間に通しながら、優しい声でこう言ったんだ。
「…俺が死ぬまで、傍に居てよ…」
僕は、そんな彼の言葉に、首を横に振って静かに言った…
「僕も考えたんだぁ…そんな事を、幾つも考えた…。でも、結局、選択したのは…あなたが生き続ける未来だった。だから、あのお手紙を出したの…」
僕はそう言うと、コルベール夫妻の話を彼にして、女の人が妊娠すると運気が変わるなんて、噂の話もしてみた。
すると、惺山は僕にキスしながらこう言ったんだ。
「…代理出産をすれば…良いんじゃない?」
代理出産…?
首を傾げた僕は、惺山の髪を指先で撫でながらこう言った…
「僕のお父さんは、奥さんを得て子供を作った…。コルベール夫妻も…夫婦だ。つまり、夫婦になって…子供を作る。これが条件の様に感じるぅ…」
すると、惺山はため息を吐きながら、仰向けに寝転がって言った。
「はぁ~!やんなる!」
僕は、そんな彼に覆い被さって、顔を覗き込みながら言ったんだ。
「…でも、そうすれば…あなたは、死ぬ事を心配しなくても良くなるよ…?」
「豪ちゃん…」
惺山は眉を顰めて僕の名前を呼んだ。
そして、優しくて力強い手で僕をギュッと抱きしめると…続けてこう言ったんだ。
「俺は、死にたくないから…君から離れた訳じゃない。君が怖がるから…離れたんだ。毎日、毎日、俺が死ぬんじゃないかって…怖がっていただろ…?だから、可哀想で…堪らなかった。今も、同じだ…。」
そんな彼の声を振動する胸越しに聴いた僕は、いつの間にか近付いて来たフォルテッシモに手を伸ばしながら、頷いて返事をした。
「…うん。」
「もう…豪ちゃんを、そんな恐怖から、解放させてあげたいんだ…」
「…うん…」
「…だから、その為だったら、俺は…やるよ。」
指の先の匂いを嗅ぐみたいに、フォルテッシモは僕の伸ばした指先をくちばしで撫でた…だから、僕は、何もしないで…ジッと彼の瞳を見つめ続けた…
「…惺山、ごめんね…。僕は、見当違いの事をしていた…。1年…無駄にしてしまった。もっと早くに気が付けば良かったのに…!僕は…馬鹿だから、気が付かなかったんだぁ…。ごめんなさい…」
「豪ちゃん…もし、俺が誰かと家庭を築いても…会ってくれるでしょ…?」
そんな彼の言葉に眉を顰めた僕は、体を起こして惺山を見下ろした。
すると、彼はダラダラと涙を流しながら…こう言ったんだ。
「奥さんなんて要らないよ。子供なんて要らないよ。俺が欲しいのは…豪ちゃんなんだ。だけど…君は、このモヤモヤが無くならない限り…俺の傍に来てくれない。俺が死ぬ事を怖がって…来てくれない…!だから、やるんだ!だから、もし、晴れて…モヤモヤが無くなった時は、俺の傍に…来てくれるって…約束してくれよ!」
あぁ…惺山…
「ん、でもぉ…」
僕は惺山から視線を逸らして、唇をかんだ。
すると、彼は、僕を強く抱きしめて…喉の奥から絞り出す様に…声を掠れさせて叫んだんだ。
「豪ちゃん…!そう約束してよ…!」
僕を抱きしめる彼の体は…小さく、震えていた。
でも、僕は…
「出来ないよぉ…!だって、あなたは…誰かの夫になって、誰かの親になるんだもの。それは…終わらない役目だよ…?だから、僕の事は、ここでお終いなんだぁ…!お手紙にも書いたぁ!お終いなんだぁ!」
ポロポロと流れて来る涙を堪え切れずに、俯いて…彼の中で震えた。
愛してるんだ…
手離したい訳…無い。
守りたかったんだ。
でも…
でも、僕じゃ無理だった…
あなたが、僕、以外の誰かを愛している所なんて…見たくないんだ…
堪えられそうにも無いんだ…
「う…うぅ…」
惺山は、シクシクと泣き続ける僕の顔を覗き込んで、優しくこう言った。
「君と一緒になりたいから、俺は…寂しくても、恋しくても…堪えて来た。でも、君と会えなくなるなら…もう、止めだ。豪…このまま傍に居なよ。そして、俺が死んでから、自由になりな。その方が、君だって、何も怖がる心配がなくなるよ…?俺も、もう…離れているのは嫌なんだ…」
惺山…
瞳を歪めた僕は、彼にしがみ付いて、おんおん泣きながらこう言った。
「やぁだぁ!死なないでぇ!死なないでぇえ!もっと…素敵な曲を作り続けて…!もっと…楽しい事を沢山して!笑顔で…過ごして欲しいんだぁ!!…愛してる。愛してる…だから、失いたくないんだぁ…」
震える彼の体を強く抱きしめた僕は、彼の耳元で…懇願する様に言った。
「惺山…死なないで…。僕の為じゃなくて、自分の為に生きて…。あなたは素晴らしい人だよ。そして、とっても…優しい人。愛してるんだ。そんなあなたが、大好きなんだ。だから、どうか、生きて…お願いだよ。お願いだぁ…。」
神様はきっと、僕の事が嫌いなんだ…
だから、こんなに苦しめて、こんなに虐める。
僕は、大好きな惺山を両手で優しく包み込んで、力いっぱい愛をこめて、温め続けた。フォルテッシモは、泣いている惺山を、心配そうに見つめている…
だから、僕は、フォルテッシモを見つめてこう言ったんだ。
「…フォルテッシモ、おいで…」
すると、彼は首を傾げながら、僕の傍までやって来て、喉を少しだけ鳴らした。
「惺山…子供は、命だ…。このフォルテッシモみたいに、あなたと誰かの面影を残した…新しい命。それは、きっと…何よりも可愛いだろう。そして、何よりも…身近な奇跡なんだぁ…。だから、きっと…“死”も追い払えるんだね…。」
「…君と、縁を断って…生きる事なんて無理だ…!」
僕の話に首を横に振った惺山は、そう言って項垂れてしまった。
縁を断つ…
そんな強い言葉に、僕は瞳を揺らして…改めて、実感したんだ。
彼と会わないという事が、どういう事なのか。
そして、急に…怖くなった。
フルフルと震え始めた手で惺山に思いきり抱き付いた僕は、取り繕った綺麗事を脱ぎ捨てて…しゃくりあげながら…彼に言ったんだ…
「…で、でも…ぼ、ぼ…僕は…あなたが、誰かと…幸せになる所なんて…見たくないんだぁ…!だって…だって…!めちゃくちゃ悔しいもの!僕の惺山なのに!僕の…愛する人なのに!許せないよっ!大嫌いだぁ!大っ嫌いだぁ…!!だから…もう、会わないぃ…!も…もう、もう…会わない!神様は!僕の事が大嫌いなんだぁ!だから…だから、こんな酷い事をする!あんなに頑張ったのに…!あんなに願ったのに!僕の嫌な事ばかりするんだぁ!!うわぁあん…!」
幸せになって欲しいなんて…嘘だ。
離したくない、離れたくない、だって、こんなに愛しているのに…!
僕は神様を…殺してしまいた程、恨んでしまうよ。
込み上げてくる感情は、目も当てられない位に汚くて、泣きじゃくる声は掠れて聞き取り辛くて、歪んだ顔は…決して綺麗じゃない。
だけど…僕は、惺山の顔を見つめて…僕の本音を言った。
「せ、惺山…し…し、死なないで欲しいのに…!僕は…真逆の思いを、抱き続けてしまうんだぁ…!生きてて欲しいのに…僕の隣に居て欲しい…!誰も、愛さないでぇ…!僕以外愛さないでっ!僕以外と…幸せになんて…ならないでぇ!!いやぁだぁ!いやだよぉ…!あなたと一緒になる為に…その為に、耐えて来たのにぃ…!!」
これが…僕の、本当の気持ちなんだ…
このまま彼と一緒に過ごして…彼の死に顔を見て、その後…後を追って死んでしまいたい。
きっと…その方が、僕も彼も幸せになれる気がするんだ。
すると、惺山は僕のぐちゃぐちゃになった顔を、同じ様にぐちゃぐちゃになった顔で見つめて…ケラケラ笑って言ったんだ。
「ほらぁ!だから言ったじゃないかぁ!だから…言ったじゃないか…。豪…俺の体からモヤモヤが消えたら、俺の傍に来るって…約束して…。そして…ふたりで、一緒に幸せになろう…?」
「…約束するぅ…」
僕はそう言って…彼の頬を撫でてキスをした。
惺山。あなたは、分かってない…
家族の愛情を…
きっと、結婚をして共に過ごせば、愛情は形を作って…確固たる物へと変わるんだ。
そして、そんな人と赤ちゃんを作ったら…可愛くて仕方が無くなるんだ…
この…フォルテッシモの様に、どちらの面影も残す…自分の子供に、愛情を注がない訳がない。
あなたは僕のお父さんとは違う。とっても、優しい人だもの…
きっと、僕の事など…そんな幸せを前にしたら…自然と、忘れてしまうだろう…
「約束だよ…。豪ちゃん…絶対に、約束だよ…」
そう言って僕を抱きしめる彼に…僕は、涙を落としながら…頷き続けた。
僕は、沢山の未来を考えて…この選択を選んだ。
愛する彼が…生き続ける未来を選んだんだ。
それが、例え…僕と一緒に歩む未来じゃなくても、彼が生きていてくれるだけで、僕は、幸せなんだ…
そうでしょ…?豪。
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