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#92~#94

#92 「森山さん!豪ちゃんは…?!」 ホールへ向かうと、コンマスが森山氏に興奮した様子で詰め寄った。 森山氏は、そんなコンマスにたじたじになりながら…顔を強張らせてこう答えたんだ。 「…か、帰りましたよ…?」 「はぁ~~~~~?!」 大絶叫をして室内音響をフル活用したコンマスは、森山氏の肩をガシッと掴んで、グラグラと揺らしながら唾を飛ばしてこう言った。 「あの子は…!フランスで、引く手数多のバイオリニストだった!」 だから言ったじゃないか! こんな機会は、滅多にないって…! 俺は肩をすくめてコンマスにこう言った。 「…知ってたから、オケとの合奏を許可したんでしょ…?あなたの判断は、間違ってなかった。」 すると、彼は首を大きく横に振ってこう言ったんだ。 「あまりに凄い演奏だったから、家に帰った後…もう一度、調べたんです!すると、木原理久先生は、あの子のバイオリンの音色を聴く人を、より分けて、選別して、彼のお眼鏡に掛かった限られた人にしか聴かせていない様なんだ!つまり…」 「つまり…そう言う事だ。そんな…レアキャラが、森山氏の交響曲を気に入って…オケと一緒に合奏をした。そして、あの子は…惺山先生がだぁ~い好きなんだ!」 ケラケラ笑った俺は、あの子の評判に便乗して…凛と胸を張ってこう言った。 「そして、俺の事を…バイオリンの神様って、呼んでるんだ。」 「そんなぁ!今日、みんなに聞いたら、あの時の音源を誰もとっていないんです!あんな貴重な音源を…!!はぁ~~!惜しい事をしたぁ…!」 俺の言葉なんて聞かずに、コンマスはただただ項垂れて、背中を丸めながらステージへと歩き始めた… 「凄い反響だな…」 俺は森山氏を横目に見てそう言った。すると、彼は目を輝かせて嬉しそうに微笑んでいたんだ。 そして、コンマスの丸まった背中をポンポンと叩きながら、こんな事を聞いていた。 「…でも、あの子と一緒に演奏して、楽しかったでしょ…?」 すると、コンマスは唇を尖らせて頷いて答えた。 「…すげ、楽しかった…」 「あっはっはっはっは!」 森山氏は満足そうにケラケラ笑うと、コンマスの顔を覗き込んで嬉しそうに声を弾ませた。 「それなんですよ、七尾さん!音源を録音したとしても…あの臨場感は得られない。それは、あの時…この場に居て…更に、同時に演奏をしていた…私たちだけが得られた…楽しさなんです!」 「あぁ~~~ん!豪ちゃぁ~~ん!」 コンマスは未だに豪ちゃんの名前を大絶叫して、未練たらしくステージの床を這いずり回ってる…そんな事お構いなしに、森山氏は嬉々と笑顔を輝かせて、軽くリズミカルに体を揺らして…超ご機嫌になっていた。 カオスだ… そんな中、コントラバスのおじさんが、森山氏にこう聞いた。 「…豪ちゃんと一緒に居た男性は、チェリストの幸太郎さんですよね…?」 「チェリスト…?」 森山氏はそう言うと、首を傾げてこう言った… 「俺は、犬…だと、聞きましたよ?人違いでは?」 犬! 案外、森山氏は…しっかりと、幸太郎を嫌っている様だ。 俺は、クスクス笑いながら、バイオリンをケースから出して調弦をした。 そして、無駄口を止めたオーケストラたちは、準備を整えて、目の前の森山氏を見つめて指揮者の合図を待った。 さあ…これから、また気合を入れて…追い込みだ! -- 「はぁ…疲れたぁ…」 僕は、幸太郎の運転する車で、先生の家まで送り届けて貰った。 すると、目の前の玄関が開いて、中から髪の毛が爆発した先生が飛び出して来たんだ! 「豪ちゃぁ~ん!」 今にも泣きそうな声を出した先生は、僕を抱きしめて…脱力した様にぐったりしてしまった。 「先生?ただいまぁ…」 僕はそう言って先生をギュッと抱きしめた。 すると、先生は僕を抱きしめたまま…押し殺したような小さな声で言ったんだ。 「…もう、帰って来ないかと思った…。帰って…来ないかと、思った…。」 「…杞憂だよ。」 僕は、先生の頬を両手で包み込んで、彼の顔を覗き込んでにっこり笑って言った。 「だって、無い事を考えて心を痛めているんだもん。それは、杞憂だよ…?」 すると、先生は瞳をグラグラと揺らして、何も言わずに…僕を、強く抱きしめた。 先生は、心配していたんだ… 僕が、帰って来ないんじゃないかって…心配していた。 きっと…幸太郎とやる予定の…アンサンブルって奴を、僕がすっぽかすと思ってたんだ。 僕は先生の体を抱きしめて…彼の胸に顔を埋めてこう言ったんだ。 「先生…急に出かけてしまってごめんなさぁい。でも、ちゃんと間に合う様に帰って来たよぉ…?僕、すっぽかして無いよぉ?」 先生は、そんな僕を見つめて瞳をグラグラ揺らすと、大きなため息をひとつ吐いて、再び、僕を抱きしめた… 「先生…髪の毛がグチャグチャだよ…?どうしてぇ…?」 僕はヨレヨレの先生を抱えて玄関へ向かった。すると、僕の荷物を幸太郎が運んでくれて、玄関のドアを開いてくれたんだ。 「わぁ…幸太郎、ありがとう…。でも、先生が…グチャグチャなんだぁ…。クッキーは、また今度あげるね…?どうも、ありがとうね。」 僕は幸太郎にそう言って、ニッコリ笑った。 すると、幸太郎は、僕の頬にキスをしてこう言ったんだ。 「明日、演奏会…忘れないで。」 あぁ…明日なんだ…忘れてたぁ… 「…ん、はぁい…」 僕はそう返事をして、先生を玄関まで運んだ。そして、走り去っていく幸太郎の車に手を振って見送ったんだ。 「…豪ちゃん、部屋の中を…荒らしてしまった…」 ポツリとそう言った先生を見上げた僕は、眉を下げてこう言った… 「ん、もう…どうしてぇん!」 「…だって、もう…君が、帰って来ないと思ったんだ…」 先生は鼻を啜ってそう言うと、俯いて…クスクス笑った。 「ん、もう…程度によるよぉ?酷かったら…ん、パンチするからぁん!」 僕は頬を膨らませてそう言った。 そして、しゃがみ込んでしまいそうな先生を支えて…部屋の中へ向かったんだ。 「あぁ…正直、微妙…」 僕は、リビングを見渡して…そう言った。 それは、僕の兄ちゃんが暴れた後と比べたら…些細な物だった。 でも、先生にしては…暴れた方だった。 ソファがあっちこっちに移動していて…ダイニングテーブルの椅子が倒れていた。ピアノの上に置いてあった楽譜は床に、散らばって…そんなピアノの足元には、お酒の瓶がゴロゴロと転がっている。 「…先生は、酔っ払いしてたんだぁ…」 ため息を吐いた僕は、先生をソファのひとつに座らせた。そして、せっせとバラバラになったソファを組み立て直して、座らせ直してあげた。 僕のお仕事はまだまだ終わらない! グチャグチャになってしまった先生の髪を手櫛で整えて…歪んだ眼鏡をセロハンテープで直して…掛け直した。そして、お水を手に持たせて、彼の顔を覗き込んでこう言ったんだ。 「…お水を、飲んでぇ…?」 「…うん…」 そんな僕の言葉に素直に従った先生は、しょぼくれて、お水をちびちびと飲み始めた。 僕は、テラスの窓を開けて…いつもと変わらない様子のパリスと庭の畑…そして、テラスのテーブルと椅子を眺めて、先生にこう言ったんだ。 「こっちには、暴れん坊しなかったんだね…?良かったぁ…。パリスは、臆病だから、暴れん坊の先生を見たら、怖がっちゃう所だったぁ…。」 すると、先生は…俯いて、首を傾げてこう言ったんだ。 「…だって、そっちは…君のテリトリーじゃないか…。荒らしたり…しないよ…」 ふふ… 「偉いね…そっかぁ。」 僕はケラケラ笑って、先生にひざ掛けを掛けてあげた。そして、どんよりと籠ってしまった部屋の空気を換気しながら、床に散らばった楽譜を拾い集めたんだ。 「豪ちゃん…森山君は、なんて言ってた…」 そんな先生の言葉に体を起こした僕は、手に集めた楽譜をトントンしながら、振り返ってこう言った。 「…やってみるって、言ってたぁ。」 「…何を?」 鋭い先生の声に驚いた僕は、彼を見つめてこう答えた… 「…僕の…言った通りに、してみるって…言ってくれたぁ…」 「…つまり?」 言葉を濁す僕に、先生は容赦なく詰め寄った。 だから、僕は…彼から視線を逸らしてこう言ったんだ。 「…彼は、誰かと結婚して…子供を作るんだぁ…」 「間違ってるよ…」 先生はそう言って立ち上がると、僕のすぐ隣に座って顔を覗き込んだ。 そして、こう言ったんだ。 「…好きでもない人と結婚して、子供を作って…命が助かったら君を連れて行くの…?子供と奥さんは…どうするの?捨てるの?」 悲しそうに眉を下げる先生を見つめて、僕は、首を横に振った。 「…迎えになんて、来ない…!」 「嘘だっ!」 僕の言葉を全否定した先生は、僕の腕を強く掴んで怒った顔をしてこう言った。 「お別れしてくるんじゃなかったの…?!さようならするんじゃなかったの…?!」 「ん…も、して来たぁ…!」 僕はそう言って顔を背けると、先生のお腹を蹴飛ばして自分から離そうとした。 でも、先生は…退かなかった。 僕の両腕を引っ張り寄せて、こう言ったんだ。 「嘘だ!俺は断言出来る!もし、お別れを済ませて来たとしたら、君がこんなに元気な訳が無いんだ!これは、主観じゃない!経験に基づく…事実だ!」 先生の勢いに、僕はたじろいだ。 だって…あんな約束をしたなんて知ったら…先生は、きっと怒ると思ったんだ… だって… だって…! 自分でも、馬鹿だったって…そう思ってるから… 僕は目を泳がせながら、必死に取り繕ってこう言ったんだ。 「…本当だもん!本当だもん!どうしてそんな事を言うの…?僕の事…信じてくれないの…?…そ、それに、僕が…惺山とどうなろうと…先生には、関係ないじゃないかぁ!」 「関係なくないっ!」 先生の怒鳴り声をこんな間近で聴くなんて…最悪だ… 僕は、ふるふると唇を震わせて両眼に涙を湛えたまま、先生をジッと見つめて…押し黙った。 すると、先生は鼻からため息を吐いて、こう言ったんだ。 「…豪。俺は君を愛してるよ。だから、放っておけない。だから、聞こう。君は、彼が助かるならと…彼を諦める決心を付けた。森山君が誰かと幸せになる所など見たくないと…実に率直な心理の元に、別れを選択したんだ。立派だったよ…。なのに、どうだ。今の君は…何を期待して、何を待ってるの…?」 そんな先生の言葉に…僕は、両目からダラダラと流れていく涙を止める事も出来ないで、唇を噛み締めるしか出来なかった…。 「…彼に、何を言われたのか…俺に、教えて…?」 厳しいけど、温かい…先生の瞳の奥を見つめて、僕は観念した。 馬鹿だ!って…怒られても仕方ないよ。呆れられても仕方ない… 自分でも、ほとほとうんざりしてるんだ。 僕は、しゃくりあげてくる泣き声を堪えながら、先生に話したんだ… 「…ひっく…ひっく、お別れをしようとしたぁ。でもぉ…出来なかったぁ…!彼は、誰かと赤ちゃんを作るけど…でも、でも…毎年、会おうって…ひっく…うっうう…!も…モヤモヤが無くなったらぁ…ふたりで…うっ…ひっく、一緒に幸せになろうってぇ…」 「人として…そんな行為。俺は許せないよ…。」 先生は、眼鏡の奥の瞳を鋭くして…僕を見つめてそう言った。 人として…許せない… そんな先生の言葉に…僕は、唇を噛んでこう言ったんだ。 「せ…先生…?ぼ、僕の…考えを聞いてぇ…?」 すると、先生は僕の涙を指先で拭いながら軽く頷いて答えた… だから、僕は…震える胸を必死に堪えて、先生を見つめてこう言ったんだ。 「…惺山は優しい人。だから…きっかけはどうであれ、奥さんを愛すると思う。そして、そんな彼女が生んだ子供を…大切にすると思うんだぁ。なぜなら…彼は、命が尊いと知っているから。つまり…僕が、彼の元へ戻る事など…無いんだ。」 そうだ… そうなんだ… ボロボロと流れる涙は、先生の指先なんかじゃ追いつかないくらいに、溢れて、こぼれて、落ちて行った… 「彼は言ったぁ。毎年…8月に、出会ったあの村で会おうって…。でも、僕は…こう思っている。きっと…いつか、来なくなるって…。なぜなら…彼は、家族を愛するからだよ。そんな事実の前には…僕の様な存在は、脆く崩れ去っていくんだ…。」 そう。 これが…事実だ… 僕はそう言うと、空になったお酒を拾いながら、先生に言った。 「…僕が彼とお別れしても元気でいられるのは…きっと、心のどこかで、無い可能性を信じてるからかもしれない…。でも、先生…?僕は…分かってるんだぁ。馬鹿だって…分かってる…。だからぁ…も、もう…言わないでぇ…」 すると先生は、ワインの瓶を持った僕の手首を掴んで、怖い顔を向けて言った。 「もし…森山君が、家族を捨てて…豪ちゃんを迎えに来たら、どうするの?」 え…? 僕はそんな先生の質問に、ただ、苦笑いをして…こう答えた。 「…そんな事は、無い。先生、それは杞憂だよ。ありもしない事を考える事は、時間の無駄だって、自分が言ったんじゃないかぁ…。ふふぅ…馬鹿なんだぁ…」 そんな僕の答えに苛立った先生は、力任せに僕を床に押し倒して、苦悶に満ちた表情で、苦しみを吐き出す様に言ったんだ。 「君を諦める訳無い!君が全てなんだ!だから、君の為に、離れて暮らして…君の為に、子供を作るなんて事を決行しようとしてる!なのに…そんな事は無いなんて…どうして言えるんだ!見誤ってる…!君は、彼の執念を、見誤ってるよっ!」 執念…? 僕は、険しい顔をする先生を見つめて、彼の頬を撫でながら聞いた。 「執念…?見誤る…?どうして?ねえ…。先生は、彼が奥さんを愛するって思わない…?子供を大事にするって、思わない…?」 「思わない…!」 ハッキリとそう断言した先生は、眉間にしわを寄せて僕を見つめてこう言った。 「なぜなら、俺だって…平気でそうするからだよ。人は幾らでも非情になれるし、目的の為なら手段なんて選ばない。彼の最終目的は、君と一緒に暮らす事だ。…奥さん?子供?愛情?その為の手段に…絆されたりするもんかよっ!」 きっと…まだ、酔っぱらってるんだ… 僕は、先生の髪を優しく撫でながら、彼の顔を覗き込んだ。 「先生は…まだ、酔ってるのぉ…?」 「…酔ってないよ。」 先生はバツが悪そうにそう言うと、僕から視線を逸らした。 大抵、酔ってる人って、みんなそう言うんだ… 僕は先生の背中に手を伸ばして、彼をギュッと抱きしめてあげた。そして、床に落ちたひざ掛けを取って…僕ごとグルっと包んだんだ。 先生を見つめて背中を何度も撫でながら、彼に…こう言った。 「先生?…僕と一緒に、少し寝よう…?」 眉間にしわを寄せたままコクリと頷いた先生は、そのまま…僕の上に覆い被さって、ふんわりと僕を抱きしめた。 それは、まるで…何かから隠すみたいに、すっぽりと…体で覆いつくした。 そして、僕の耳元で掠れた声を出して、力なくこう言ったんだ。 「…ごめんね…豪ちゃん…」 頬ずりしてくる彼の頬は、不精髭が生えているのか…チクチクした。 僕はそんな感覚を感じながら、先生の背中を撫でて、彼の耳に頬ずりのお返しをして言ったんだ。 「良いよ…。僕が…馬鹿なんだぁ…」 先生の批判している事は、正論だ。 モヤモヤを消すためだけに、好きでもない人と結婚して、赤ちゃんを作る。そして…モヤモヤが消えた後、家族を捨てて…僕と一緒になる。 そんな非情な事…批判されて当然だ。 でも僕は、惺山が…そんな事を出来るとは、思わない。 彼は、奥さんになる人を、心から、愛すると思ってる。 …これが事実なんだ。 下らない主観を取り除けば、答えは明確だ。 傍に居て、愛してくれる人と…そうじゃない僕… 愛なんて、初めから備え持っている人なんて…どこにもいないんだ。 それは、毎日顔を合わせて、毎日一緒に過ごして、毎日言葉を交わして、徐々に育まれて行く物だから… だとしたら、そう出来ない僕は…天秤にかけられるまでもなく、愛される事も無くなって、忘れられて行く事でしょう。 惺山は、僕を迎えに来ない。 僕の事なんて、忘れて行ってしまう。 そんな事実を認めている癖に… 僕は…未だに、彼との再会を、彼の愛を、期待している。 だから、こんな風に…気丈でいられて… だから、こんな風に…立っていられるんだ。 つまり…僕は、どうしようもない…馬鹿野郎なんだ。 #93 豪ちゃんが帰った次の日… 俺は、いつもの様に…フォルテッシモの鳴き声に起こされて、フラフラとリビングへ向かった。 すると、森山氏が、ベランダの窓を開けて…フォルテッシモを抱き抱えたまま遠くを見つめていたんだ。 眉間にしわを寄せたその表情は、決して、明るくは無かった… だから、俺は…何食わぬ顔でこう言ったんだ。 「…森山さん、おはようございます。寒くないですか…?」 そんな俺の声に我に返った様に目を丸くした森山氏は、風になびく髪をそのままにして、抱き抱えたフォルテッシモを床に下ろしながら言った。 「この位の涼しい風が…好きなんですよ。これ以上寒くなると痛いけど…この位の冷たさなら、身が、引き締まる思いがするでしょう…?」 「そう…?俺は、いつも引き締まってるから、良く分からないよ。」 俺は、適当にそう答えて、ソファに座りながらテレビのリモコンを付けた。 そして、足元に寄って来るフォルテッシモをジロッと睨んで、こう言ってやったんだ。 「…薄情者!」 「ふふ…」 そんな俺の言葉に、森山氏はクスクス笑って窓を閉めると、そのまま寝室へと行ってしまった。 今日の、朝惺山も…セクシーだった… そんな要らない欲求を満たした俺は、おもむろに冷蔵庫の中を漁って、美味しそうな浅漬けを見つけて声に出さずに歓喜した。 これは…豪ちゃんの浅漬けだ…!! コンコン…コンコンコンコン… いてもたってもいられなくなった俺は、森山氏の寝室をノックしまくってこう言った。 「森山さん、森山さん、豪ちゃんの浅漬け、ちょっとだけ食べても良い…?ねえ、ねえ、3個まで、食べて良いでしょ…?ねえ、ねえ!」 すると、部屋の中から顔を出した森山氏は、俺の手に持たれた豪ちゃんの浅漬けを見つめて、クスクス笑ってこう言ったんだ。 「…どうぞ?5個まで食べても良いですよ…?」 やったぁ…!! 「よしっ!よしっ!」 俺は思わずガッツポースをして喜んだ! 早速、タッパーの蓋を開いて…きゅうりをひとつ摘んで、パクリと口の中へ入れた。 ポリポリポリ… 「はぁ~~!絶妙だぁ!まもちゃんの浅漬けは、何だか甘くて…なまくらなんだ!それに比べて…豪ちゃんの浅漬けは、しっかり味が付いてる!!」 これは、豪ちゃんが、おばさん属性だから成し得る味なのかもしれない… 俺はそんなきゅうりをひとつ摘んで、森山氏の口に向けて言った。 「ほらぁ、食べてみて?」 すると、彼は、俺のきゅうりを手で摘んで、自分の口の中へと入れてポリポリと食べたんだ。 あ~ん作戦は、失敗に終わった… そんな俺の下心なんて気付きもしない森山氏は、あの子の浅漬けに目じりを下げてこう言った。 「うん…美味しい。あの子の浅漬けだ。豪ちゃんは、よく漬かり過ぎた漬物を細かく刻んで、お茶漬けに出してくれるんですけど、それが…また、とっても美味しいんです。」 へぇ… 「お茶漬けかぁ…飲んだ後に、悪くないな…」 つまらない森山氏に背を向けた俺はトコトコとリビングへ戻りながら、きゅうりの浅漬けをつまみ食いし続けた。 12月20、21日のコンサート…あの子は来るかな。 ふと、そんな事を考えてカレンダーに目をやると、今週の土曜日に小さな点が付いている事に気が付いて、首を傾げた。 昨日までは、あんな印…無かったのに…。 なんか、予定でも入れたのかな…? ただ、チョンと印をつけられただけの日付に、首を傾げながら、俺は恒例の朝のまもちゃんコールを鳴らした。 「もしもし!」 すぐに電話に出たまもちゃんは、素敵な全裸姿で、お尻を俺に向けてこう言って来たんだ。 「見てくれ…北斗…!」 信じられない… 今、朝の5時半なのに…!! 「ぐふふ!馬鹿だなぁ!も、何してるんだよぉ!」 ヤバい…ウケる! 肩を揺らして笑う俺なんてお構いなしに、画面の向こうのまもちゃんは自分のお尻を指さしてこう言ったんだ。 「こんな…寒い時期なのに…!お尻を蚊に刺されたぁ!」 下らない… まもちゃんは、顔を歪めてそう言うと、携帯のカメラを自分のお尻に近付けて、蚊に刺されて赤くなった部分を見せ付け続けた… 「ぐふっふふふ!」 信じられない…!! 俺は、ゲラゲラと大笑いをしながら、きゅうりを食べ続けた。 そして、気が付いたんだ… ヤバい… あの子の浅漬けが、もう、最後のひとつになっていた事に…!! 「きゃ~~~~っ!」 俺は、思わず、両手を頬に当てて…大絶叫した! だって、これは、あの豪ちゃんが、森山氏の為に、置き土産で置いて行った物なんだ! ヤバい…!ヤバい…!ヤバい…!! 今生の別れになるかもしれない…そんなふたりの、愛の浅漬けを…俺は、食べつくしてしまったぁっ!! 「ど、どうしました…?!」 俺の大絶叫を聞きつけた森山氏は、大慌てでリビングへとやって来た。 そして、携帯電話の中で全裸でお尻を見せ続けるまもちゃんにギョッと顔を歪めると、間髪入れずに、勝手に通話を切ってしまった。 俺は、そんな事よりも…彼に詫びなくてはいけない…!! 「森山さん…ごめん!ごめんなさぁい!豪ちゃんの浅漬けが美味しくって…俺は、ついつい…手が止まらなくなって…あわあわあわあわ…!」 怪訝な顔をしたまま首を傾げる森山氏に、俺は、残りひとつになってしまった浅漬けのタッパーを掲げて見せて、頭を下げて土下座をして謝った。 「と…止まらなかったんだよぉ!」 「あぁ…なんだ…」 思った以上に冷静な森山氏は、俺の手を掴んでソファから立たせると、何も言わずに冷蔵庫の前へと連れて行った… きっと、体で弁償しろって言われるんだ。 立ちバックだ! 悪くないよ…だって、冷蔵庫に抱き付いて立ちバックするなんて…粋じゃないか! おもむろに冷蔵庫を開いた森山氏は、俺を見下ろしながら、野菜室に入った大きなタッパーを指さしてこう言ったんだ… 「藤森さんには、これを。と言って…置いて行きましたよ。」 「は…?」 それは、森山氏に用意した物よりも大きくて、大量に漬けられた、浅漬けの入ったタッパーだった… 「きゃ~~~~~!まんもすうれぴ~~!」 俺はついつい、まもちゃんの最上級の喜びの言葉を口走って、体を揺らして大喜びした。 あの子は…いっつもそうだ。 俺の事が大好き過ぎて、すぐに、特別扱いするんだからぁ…! 「いくつか…私の所に戻しておいて下さいよ…?まったく…はぁ…」 呆れた様に首を横に振った森山氏は、再び…自分の巣、寝室へと戻って行った… 俺は、ずっしりと重量感のあるタッパーを冷蔵庫から取り出して、大量に漬けこまれた野菜を眺めて…ひとり、ニヤニヤした… 俺が、食いしん坊だって…分かってるんだ。 ほんと、お前は…可愛い天使だ! -- 「…ふぅ。」 重い瞼を開くと…僕は、リビングのソファで豪快に寝ていた… 体の上には先生に掛けてあげたひざ掛けが掛けられて、着たままだったコートは脱がされて、しまわれたのか…どこにも見当たらなかった。 「…ふわぁ、寝ちゃったぁ…」 両手を上にあげて伸びをした僕は、そのまま庭に出て、畑の世話をした。 そして、足元に寄ってくるパリスを見下ろして、彼女に報告したんだ。 「パリス…?フォルテッシモは、イケメンだったよ…?」 すると、彼女は、胸を張ったみたいに前に突き出して、こう言った。 「コッコココッココ…」 あったり前だ…そんな風に、言った気がした。 惺山の家のフォルテッシモは、パリスと、黒さつま鶏の…子供。 彼は、山の向こうのお洒落な養鶏家の元から逃げて来た…脱走鶏だったんだ。 そして、本来あった…僕の鶏たちの群れをぶち壊した鶏でもある。 群れを奪おうとする黒さつま鶏と僕の群れの雄鶏は戦って、そして、敗れたんだ。 惺山は、よくパリスにブツブツ言ってた… お前の恋路が、群れを壊したんだって。 お前の恋人が、滅茶苦茶にしたんだって。 でも、彼女は…そんなの気にもしないみたいに…ずっと、卵を温め続けていたんだ。 そんなパリスの様子は…まるで、短い時間でも…大好きな人と一緒にいれて、彼の子供を手に入れた事を…喜んでいるみたいに感じた。 でも、これは、僕の主観だ… 事実なんて、パリスに聞かないと分からないもの。 「パリス…危ない恋を貫くって、どんな感じ…?」 僕は、彼女の首の羽毛にそっと指をさして…優しく撫でながら聞いてみた。 すると、パリスは…僕をジッと見つめて首を傾げて言ったんだ。 「…コケ…」 分からない… 短すぎて、主観の入る余地もない… 「…コケ。かぁ…」 僕は、無理やり納得して、パリスの翼の羽を両手で撫でながら、彼女の背中に顔を埋めた。 お日様の匂いがする… 僕は、彼女の体に付いていた楓の赤いモミジを指先に摘んで、クルクルと回しながらぼんやりと、眺めた。 …コケ。かぁ… 「先生?美味しい紅茶をどうぞぉ…?」 僕は、温かい紅茶にショウガとシナモンを少し入れて、書斎の先生に持って行ってあげた。 でも、彼は…ソファで、不貞腐れた様に、こっちに背中を向けて眠ってたんだ… だから僕は、彼の枕元に座って、ボサボサの髪を撫でながら、持って来た紅茶を一口すすって飲んでこう言ったんだ。 「…あぁ、美味しいなぁ…」 いつまで経っても反応のない先生に苛ついた僕は、彼の髪を掻き分けて…彼の閉じている瞼を無理やりこじ開けて覗き込んで見た。 「ぷぷ~っ!」 寝てる時の眼球って、正面を向いてるんだよね… だから、こうして無理やり瞼を開くと…ただの真顔に見えて、おっかしいんだぁ! 「あははは!変な顔ぉ!真面目みたいな顔ぉ~!」 ケラケラ笑っていると、そんな先生の眼球がゴロッと動いて、僕を見つめて来たから、僕は驚いて目を丸くしてこう言った。 「はっ!あ~はっはっは!動いたぁ!」 すると先生は、そんな僕を無視して…ソファの背もたれを向いたまま、狸寝入りを始めたんだ。 だから僕は、先生の体にもたれかかって、彼の顔を覗き込みながら、体を揺らしてこう言ったんだ。 「お~き~て!」 先生はそんな言葉を無視して瞼を硬く瞑ると、口をひん曲げてこう言ったんだ。 「や~だ~よ!」 ん…もう! やんなっちゃう! 僕は、硬く結ばれた先生の両手を解いて、彼とソファの背もたれの間に体を滑りこませた!そして、ケラケラ笑いながらこう言ったんだ。 「お~き~てぇん!」 すると、先生は僕を見つめて、顔を歪めてこう言ったんだ。 「んん…!やだっ!」 まぁ~ったく! 「まだ酔っぱらってるのぉ…?ねえ?見てぇ?パリスが、真っ白い体に、こんな素敵な飾りを付けていたんだぁ…。可愛いでしょ?」 僕はそう言うと、パリスの体に付いていた紅葉を先生の目の前に掲げて見せて、指先でクルクル回した。 モミジが鼻を掠めると、先生がムズムズと鼻を動かすのが面白くて、僕はわざと先生の鼻にモミジをぶつけてクスクス笑った。 すると、先生は僕の手を掴んで少し遠くに離して、眉間にしわを寄せながらモミジを睨みつけてこう言ったんだ。 「…モミジだ。」 知ってる! でも…眼鏡の無い先生は、よく見えないんだ。 「ふふぅ!あったり~!」 僕はそう言うと、先生の鼻をチョンと指先で叩いた。そして、彼の胸をトントンと叩きながら調子を取って、“もみじ”を歌い始めたんだ。 そんな僕を、先生は瞳を細めて見つめて…優しく撫でてくれた。 僕は“もみじ”の歌詞を噛み締めるように歌いながら情景を目に映した。 すると、僕と先生の乗っているソファの下は、美しいモミジが一面に広がって、頭上からは…絶え間なく、モミジがヒラヒラと舞い落ちて来たんだ。 僕は笑顔になって手を伸ばして、手のひらの上に落ちて来た黄色いモミジを指先で摘んで、先生の頭の上においてあげた。 谷を流れる渓流にモミジの葉が落ちて…波に揺られながら漂っているんだ。赤いモミジや、黄色いモミジ…色とりどりのモミジを糸に例えて、錦を織るなんて…美しい表現だと思わない? 僕は、歌詞の内容にすっかりうっとりしながら、先生を見つめてこう言ったんだ。 「ねえ…先生。美しいと思わない…?情景が歌詞になってる…日本の歌は大好き。歌っていると、目の前に景色が見えてくるんだ…。それは美しいのに…どこか切ない…」 彼の胸に顔を埋めてそう言うと、先生は僕の髪を撫でながら、こう言ったんだ… 「“赤とんぼ”を作った人はね、幼い頃に…両親が離婚して、女中が面倒を見ていたんだ。あの歌詞は、そんな幼い頃の思い出を懐かしんで、偲んでいる様子が描かれている…。幼い頃に生き別れた母親への思いという解釈をする人もいれば、俺の様に…幼い頃の戻らない思い出を懐かしんでいるという人もいる。どちらが正解なのかは、今となっては…分からない。」 穏やかな先生の声を聞きながら、僕は彼のシャツのボタンを指先で撫でてこう言った。 「…聴く人の主観で変わるから、あえて、全てを言わないんだ…。とっても、思慮深いねぇ?控えめだけど…揺るがない情緒がある。そんな上品で、美しい言葉たちを使って表現しているんだ…。素敵な感性だぁ…。うっとりしちゃう…!」 そんな僕の言葉に、先生は何も言わずに僕の頬を包み込んで持ち上げた。 そして、何かを話す訳でも何かをする訳でもなく、ただ…ジッと僕を見つめて、悲しそうに眉を顰めたんだ。 僕はそんな彼を見つめて、唇に触れて来るキスを受け止めた。 でも、あまりにも彼が悲しそうだったから…僕は、頬ずりしながら聞いたんだ。 「どうしたの…?先生。とっても、悲しそう…」 でも、先生は何も話さないで…ただ、僕を抱きしめて、優しく撫で続けるだけだった… 「…僕が、間違った事をしてるから、悲しいの…?」 ポツリとそう聞いた。 「…違う。」 すると、先生もポツリと、そう返した。 「じゃあ…」 「豪ちゃん。…先生も、昔の日本の歌と同じ。敢えて、全てを言わないんだ…。だから、君の主観で…好きに感じれば良い…」 …なぁんだぁ! 僕は眉を上げて、先生を見つめてこう言った。 「じゃあ…そうするぅ!今は、こう考えてるでしょ!動物園に行って、ゴリラにうんこ投げて貰いたいって思ってるでしょっ!」 「なぁんで怒るんだよ…」 眉を下げた先生は、ソファと彼の間で大暴れする僕にたじたじになって、ローテーブルに置いた眼鏡に手を伸ばした。 だから、僕は、彼の上に乗っかって眼鏡を先に取ってやったんだ! 「眼鏡~眼鏡~!」 そんな古いギャグをしながら、僕は先生の眼鏡を耳にかけてぼやける視界で先生を見つめて、首を傾げた。 #94 「…木原先生と豪ちゃんは、仲良くしてますか…?」 そんな森山氏の問いに…俺は窓の外を見つめながら、適当にこう言った。 「親子みたいだよ…。お互い変わってるから…話が合うって言うのはあるだろうね。」 本日も、俺は森山氏の車で…同伴出勤だ。 これが夜の仕事だったら、俺は結構…稼いでる筈だ。 俺を横目に見た森山氏は、髪をファッサァ~とかき上げて、苦笑いしながらこう言った。 「波長が合うって言うんでしょうか…。引き付け合うって言うんでしょうか…。なんだか、あのふたりは…出会った瞬間から、妙なんです。」 どうやら、森山氏は…理久と豪ちゃんの関係を心配している様だ。 豪ちゃんは、森山氏に別れを告げる為…フランスから東京までやって来た。 そして、一晩一緒に過ごして…別れたんだ。 俺は、あの子の様子から…もう、二度と森山氏に会う事は無いだろうと…そんな、覚悟を感じた。 でも、目の前の森山氏からは…そんなものを微塵も感じないんだ。 今も、理久と豪ちゃんの様子を気にしている素振りを見せている。 これはどういう事だ…?! ダークサイドな彼の心の内が全く分からない! 別れた恋人の事をこんな風に聞くのは…未練があるからなのか? だとしたら、あまりにもあっけらかんとし過ぎている気がする… …仕方が無い。 俺は、理久があの子に恋をしているなんて…そんな余計な事は言わないで、ただ、こう言った… 「…豪ちゃんは、理久のお陰で、慣れない環境でも…生き生きと出来ている気がするよ。庭を潰して…あの子の為に畑を作ったんだ。凄いだろ?普通そこまでしない!あっはっはっは!料理が好きなあの子の為に、キッチンまで新調して、ほ~んと、大好きなんだよ!先生?先生?って呼ばれて、鼻の下伸ばしちゃってさぁ!」 俺は何を言ってるんだろう… ついついしゃべり過ぎた自分自身を誤魔化す様に…俺は、不自然に窓にへばり付いて…“愛の挨拶”なんて曲を鼻歌で歌い始めた。 「…大好き。ね…」 そう、ポツリと森山氏が言った。 それは、どことなく…いらつきを纏った声色だった…。 …森山氏が…理久に嫉妬してる…! 別れてすぐだもんな… きっと、まだ、心の整理が付いていないんだろう。 子供を生んでくれる相手も、そうすぐには見つけられないだろうし…なによりも、可愛い天使が自分の手元からいなくなってしまった悲壮感は、彼に現実を直視させる目を少しだけ曇らせているのかもしれないな… ペットロスならぬ…天使ロスだ。 俺は、理久に嫉妬する森山氏を少しだけ振り返って、慰める様にこう言った。 「…理久は、でも、ほら、俺の事がいっちばん大好きだから…大丈夫だよ。」 すると、森山氏は、首を傾げて眉を上げながらこう言ったんだ。 「確かに。豪ちゃんもそんな事を言っていた。先生は青い蝶が大好きだから、僕に何かをする訳が無いって…。そうか…藤森さんが、ターゲットなら…ふんふん。まぁ…大丈夫か…」 くそっ! こう言うのを、なんて言うか知ってる…? 自己犠牲だよ。 失恋の痛手で、昔の恋人の周りの男に嫉妬し始める森山氏に、俺は自己犠牲を払って…夢を見させてあげたんだ。 理久は豪ちゃんにゾッコンで、首ったけで、全身全霊掛けて愛してるなんて…言えるわけない。そんな理久に、全幅の信頼を寄せて、まるで…恋人の様にじゃれるあの子の様子も…言えるわけない。 彼は…天使ロスなんだ。 優しくしてあげようじゃないか… 腑に落ちない感情を胸の奥に秘めながら、俺は森山氏を横目に見てこう言った。 「オケとの息もあって来て、大分仕上がって来たね…?これは、本番が楽しみだ!」 すると、彼はクスクス笑ってこう答えたんだ。 「えぇ…私も、楽しみなんですよ。あの交響曲を、オーケストラの演奏で…お客さんを入れた大きなホールでお披露目出来るなんて…感無量なんです。」 「あれは…あの交響曲は、豪ちゃんへのラブレターでしょ…?」 窓の外を見つめたまま…俺は、森山氏にそう聞いた。 すると、彼は驚いた様に目を丸くしてこう聞き返して来たんだ。 「…あの子が、言いましたか…?」 「いいや。気付いちゃったんだ…」 クスクス笑った俺は、肩をすくめて首を横に振りながらこう言った。 「森山さんも、あの子も、ふたりの関係を知っている俺には、あの交響曲は…ただの先鋭的な音色になんて聴こえないんだ。あの子の半生…そして、これからの未来を描いている。そして、こうなって欲しいと願う…あなたの思いが、伝わって来るんだ。」 「あぁ…はは…ふふ…!ふっふふ…!そうかぁ、バレちゃったかぁ…ふふ…」 クスクス笑った森山氏は残念そうにそう言うと、俺を横目に見て首を横に振った。 「あなただから分かった…。藤森北斗…恐るべし。ですね…」 ふふ…言ってくれるね? 最上級の誉め言葉じゃないか! 駐車場に止まった車の中…余韻を楽しむ様に森山氏を見つめてにっこりと微笑んだ俺は、助手席から降りて、地面に足を付けて…胸を張ってこう言ったんだ。 「さすが…俺だ。バイオリンの神様なだけあるわぁ…!」 そんな中…頭の中に流れ始めたのは、エルビスプレスリーの“Jailhouse Rock”だ。 ロックに、ロカビリーに、格好良く決めたぜ…! 「あぁ~あ、次はもっと上手く誤魔化さないと…嫌だ。嫌だ。」 そんな森山氏の小言を賛辞の言葉に変換しながら、俺は彼の隣を歩いて、ケラケラ笑って言った。 「森山さんって…良い男だね…?豪ちゃんの事が、本当に…大好きなんだ!」 すると、彼は、瞳を細めて微笑んでこう言った… 「えぇ…俺は、あの子の為なら…何だって出来る。」 その言葉の意味を…俺は知ってる。 あの子が信じるから、1年以上離れて暮らして… あの子が求めるから、愛しているけど別れて誰かと子供を作るんだ。 全ては、あの子が愛する…自分が死なない為。 だから、これ以上…何も聞かないよ。 -- 早朝のベッドの上。 僕は、怒っていたんだ… だって、先生が、本当の事を話さずに…僕に適当に返事をしたからだぁ… ベッドの上で、首からぶら下げたペンダントのチェーンを、両手の親指に引っ掛けて引っ張った。すると、コロンと…楕円のロケットが、僕の胸の中から飛び出して来た。 僕はそれを左の手のひらの中に入れて、カチッと音を立てて開いて見つめた。 ロケットの中の僕と惺山は凛と澄ました顔をして、とっても素敵なふたり組に見えて…自然と頬が緩んで行った。 惺山…先生が、怒っちゃった。 きっと、僕が、あなたに…非人道的な事をさせているって、思っているんだ。 そして、それは…間違ってない。 でも…結果を考えれば、それは…一瞬の非道なんだ。 だって…あなたは、本当の幸せを手に入れるんだもの… 「コッコッコココココ…」 膝の上で眠っていたパリスは、夢から覚めたみたいに顔を急に起こして辺りをキョロキョロと見渡した。そんな彼女の様子が可愛くて、僕はふっと口元を緩めた… 「まだ…4時。早いけど、もう…僕は寝られそうにもない…」 大人しく撫でられ続けるパリスにそう言うと、僕はガウンを羽織って、パリスと一緒に部屋を出た。 足元をウロチョロ歩く彼女を、蹴飛ばしたりしない様に気を付けて歩いて、階段を下りた。すると。テラスの椅子にガウン姿の先生が見えて、僕は驚いて目を丸くした… 背中を丸くして座っている姿は、やっぱり…少し、悲しそうだった。 「…早起きだねぇ…?」 僕はそんな声を掛けながら、テラスに出た。 もうすぐ12月なだけあって…早朝の外は、肌寒くて…裸足の僕は、すぐに足をヒョコヒョコとしながら先生の元へと駆けだした。 「ん~~!寒いっ!」 そう言って先生のお膝に乗って、冷えた足を彼のガウンの中に収めると、ぼんやりとパリスの小屋を見つめる先生に、こう言った… 「お腹空いたなぁ~って思ってるの…?」 そんな僕の言葉に口元を緩めた先生は、視線を僕に向けてにっこり笑って言った。 「…森山君の交響曲は、どうだった…?噂になってるよ…。オーケストラと一緒に弾いたんだろ…?」 「うん…」 先生は…僕が何も話していないのに、知っていた。だから、僕は先生の胸に頬を当てて、クッタリと甘ったれながらこう言ったんだ。 「凄かったよ…?音の波が出来て、一気に惺山を吹っ飛ばしたんだぁ…!あれは…まるで、音の津波だったぁ…。オーケストラってすごいね…?先生。」 「そうか…それは、良かったね…」 僕の髪を撫でる先生は、そう言って…ひとつ、小さなため息を吐いた。 「嫌だったの…?」 彼の胸を撫でながらそう聞いた… すると、先生は僕の髪にキスをして…クスクス笑いながらこう答えたんだ。 「違う…。嫉妬したんだ。年甲斐も無くね…」 嫉妬…? それは… 「可哀想だね…。ごめんね。先生…。」 僕はそう言って先生をギュッと抱きしめた。 先生は昨日のトゲトゲした雰囲気を、もう止めたみたいに…大人しくなっていた。 それは、いつもと同じ…穏やかで、優しい雰囲気だ。 …僕は、こんな彼が大好き。 「豪…キスをくれたら、全部元通りになるよ…?」 「本当…?」 ふざけておどけた先生の言葉にクスクス笑った僕は、縮めた体を起こして、先生の頬を両手で撫でながら、彼にキスをした。 先生は僕の体をギュッと強く抱きしめて、僕のキスに舌を這わせて口の中へと入って来た。 でも、どうしてか…僕は、彼が嫌じゃないんだ。 だから、そんな先生の舌を、僕も絡めてキスをした。 あまりに自然で…あまりに普通で…あまりに心地良くて、嫌なんかじゃない。 それは例えるなら…いつの間にか始まっている環境音楽の様に。 穏やかで、繊細で、静かだけど、存在する…心地良い音色なんだ。 「多分…12月のチケットは完売御礼だな…」 朝食を準備する僕に、先生は新聞紙を広げながらそんな話をして来た。 「ん…どうしてぇ?」 僕は、昨日のうちに漬けて置いた浅漬けを取り出しながら、先生に首を傾げて聞いた。すると、彼は眼鏡を直しながらこう言ったんだ。 「…木原理久の元に居るギフテッドが、彼らと一緒に演奏したって…噂になってる。だから…君に興味を持っていた日本の音楽家たちが、森山君の交響曲に注目したんだ。」 へぇ… 「兄ちゃんが言ってた。そう言うのを…客寄せパンダって言うんだってぇ!ふふぅ!僕、惺山のコンサートのパンダになったぁ!ふぉ~!やったぁ~!」 ケラケラ笑った僕は、お野菜をトントン切りながら、次々とお鍋に投入して行った。 少しでも、彼の役に立てて…嬉しかった。 彼のコンサートが、僕の効果で満員御礼だなんて…光栄だって、そう思ったんだ。 きっと彼の心は、僕から離れて行く… 最後だけでも、あなたの役に立てて、良かった。 込み上げてくる…“でも…”なんて思いを押し殺して、僕は淡々と朝ご飯を作って行った。 「…ねえ?お味を見てぇ?」 庭の畑でとれたさつまいもは、発育が良くなくて、どれも小ぶりな出来になった… だから、ぶつ切りにして…甘露煮を作ったんだ。 僕は、出来立ての甘露煮を箸に摘んで、ぼんやりと新聞を読みながら口を開いた先生の口元へと運んで行った。 でも…少しだけ感じた罪悪感が、ふぅ~なんて、息の音を立ててしまって… ジロリと横目を向けた先生は、僕の手に持たれた湯気の立つ甘露煮を見て、ため息を吐きながら項垂れたんだ… 「あ~ん…」 それでも先生は、口を開けてこう言った。 「奥に入れないで…!」 ふふぅ! 「はぁい!」 元気に返事をした僕は、甘露煮を下の方から掴み直して…先生の口の奥に入れた。 「あ~っふい!あふい!あっふい!!おいひいけど…あっふい!」 「キャッキャッキャッキャ!」 ジタバタ暴れる先生を押さえながら、耳の傍で悲鳴を聞くのって…最高に楽しい! 「いつか、先生は、口の中を水膨れでいっぱいにする日が来るかもしれない!」 沢山暴れたせいで、先生は汗をかきながらそう言った。 「大丈夫だよぉ…だってぇ、今までそんな事になってないもん…」 僕は肩をすくめてそう答えた。すると、先生は眼鏡を拭きながらこう言ったんだ。 「じゃあ…!自分で食べてみなさいっ!」 えぇ…?! 「それは…やぁだぁ!」 ケラケラ笑った僕は、卵焼きをお皿に移して、先生の目の前に持って行った。 そして、いつもの様に…先生と一緒に朝ご飯を食べ始めたんだ。 先生は、特に浅漬けが気に入ったみたいで、沢山食べていた。 「ねえ?どうしてさつまいもがこんな小さいのかなぁ…?失敗しちゃったぁ?」 僕は甘露煮を箸に掴んで、持ち上げながら先生に尋ねた。 すると、彼は首を傾げてこう言ったんだ。 「そもそも…種芋にしたさつまいもが、小さい品種だったのかもしれないよ…?日本と海外では、野菜の種類は同じでも、種が違うんだ。」 なる程ぉ… 「そっかぁ~…」 僕はそう言って納得すると、先生の腕にもたれかかりながら甘い甘露煮をモグモグと食べた。 淡白で、味気ないさつまいもの味に、安納芋が恋しくなった…

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