43 / 58

#101~#102

#101 12月21日 俺は大好きなまもちゃんの腕の中で目が覚めた。 フカフカのベッドは…布団より寝心地が良かった。 眠り続ける彼の寝顔を見つめながら、俺はそっと指先で彼の鼻筋を撫でた。 「…イケメンだろ…?」 すると、まもちゃんが口元を緩ませてそう言った。 だから、俺は眉を顰めてこう言ったんだ… 「寝てる振りしてて…」 そんな俺の注文に、彼は、ニヤけた顔をそのままに、寝ている振りを続けた。 俺はそんな彼を見つめながら…独り言の様に呟いたんだ。 「起こる事象を…どのように捉えるか、それはその人の感性によって…様々だ…」 「ふんふん…」 そんな俺の独り言に、まもちゃんは、寝たふりを続けながら相槌を打った。だから、俺は…そのまま続けてこう言ったんだ… 「だとしたら…俺は、あの子が取った行動の全てを…簡単には結ばれない自分の代わりに…俺に幸せになって欲しいと、願ってやってくれた事の様に感じる事にする…。」 すると、まもちゃんは瞳を開いて俺を見つめた。 そして、優しく頬を撫でながら、眉を下げて…こう言ったんだ。 「あぁ、泣かないで…」 そんな彼に抱き付いた俺は、溢れて止まらない涙を彼に沁み込ませながら…泣きじゃくった。 「ま…まもちゃん…!俺は、あの子の為にも…ぜ、ぜ…絶対に、幸せになるぅ…!」 豪ちゃん…お前は、本当…散々だ。 可哀想すぎて、涙が止まらないんだ。 こんなのって無いよな… 悔しくって…やってられないよな… やっと、自分を表現して自由になる術を手に入れたというのに、その代わりに…お前は、また、何かを失わなくちゃいけないなんて。 これが、ギフテッドの代償だとしたら…俺は、そんな物を受け取らなくて良かったとさえ思えてくるんだ。 笑顔の可愛い子…気立ての良い子。優しくて…強情っぱりで、美しい子。 バイオリンなんて弾けなくても、音楽に特化していなくても、お前は…ありのままで幸せになれたのにね。 あんまりじゃないか…神様。 -- 12月21日 僕は、先生と一緒に朝食をとって、久しぶりの納豆を食べた。 それは魅惑の味だった…! 「ん~~!美味しいぃ!ねばねばぁ~!ねばねばぁ~!」 僕は…納豆を3つも食べちゃった。 すると、先生は眉を顰めて僕を上目遣いに見てこう言ったんだ。 「知ってる…?納豆は食べ過ぎると、お腹を壊すんだ…」 えぇ…! 知らなかったぁ…! 「嘘つきぃ~!」 僕がそう言って先生の足を蹴飛ばすと、彼は怒ってこう言い返して来たんだ。 「嘘じゃない!」 ふふぅ!面白い! 天井の高いレストランの中には、同じ様にホテルに泊まった人が朝ご飯を食べに来ている。気のせいか…僕と先生を見ている人と、目が合った気がした。 「先生?何時に行くぅ?」 視線を先生に戻した僕は、足をブラブラさせながら、目の前でコーヒーを啜る先生にそう聞いた。すると、彼は首を傾げてこう答えたんだ。 「1:00に…会う約束をした…」 へぇ… 僕は、揺らしていた足を止めて、窓から見える空を見上げた。 惺山… あなたも、三軒茶屋で朝を迎えてる…? 僕は、若者の聖地…渋谷に居るよ? あなたの寝起きの顔が好きだった…掠れた声が可愛くって、ついつい話しかけちゃうんだ。 寝ぼけたままヨロヨロと体を揺らして壁にぶつかりながら歩く姿も、乱暴に髪をかき上げる仕草も、咳払いする声も、やけに姿勢を良くして朝ご飯を食べる様子も… …全部、好きだった。 スズメが空に飛び立つのを見送った僕は、先生を見つめてこんな事を聞いた。 「…ねえ、ケンタッキーは…フランスにある?」 「あるけど…美味くないよ…」 先生の言葉に口元を緩めた僕は、体を傾けて…先生を見つめてこう言った。 「パリスみたいで可哀想だけど…今度、チキンを自分で焼いてみようかなぁ…?ジェンキンスさんのおばあちゃんが、ハーブを使った美味しいチキンの焼き方を教えてくれるって言うんだぁ。でもぉ…ほらぁ、僕はぁ…パリスを飼ってるからぁ…どうかなって思ってたんだけどねぇ…。お客さんを招待するなら…きっと、そんなご馳走を用意した方が良いと思うんだぁ…ね?そう思うでしょ?」 すると、先生はにっこりと笑ってこう言った。 「そうだね…教えて貰うと良い…」 ふふ…! 僕はにっこり笑って頷いて答えた。 先生は1時に惺山に会いに行く…だから、僕も…一緒に、1時に公会堂へ向かった…そして、惺山の楽屋へ歩いて行く先生を見送って…僕は、ほっくんの楽屋に入って行ったんだ。 「コンコン…」 そう言いながら入って行くと、ほっくんが僕を見上げてギョッと顔を歪めた。その後…ウルっと瞳を潤めると…にっこりと笑って、こう言ってくれたんだ。 「よく来たね…豪ちゃん…!」 そして…優しく抱きしめたくれたんだ。 そんなほっくんのあったかさに照れた僕は、彼に言ったんだ。 「今日、楽しみぃ~!ふふぅ!」 「あぁ、期待してくれ!昨日はとっても上手く出来たんだ…。聴かせてあげたかったよ。…豪ちゃん、良いかい?舞台も、コンサートも、ひとつとして同じ物は出来ない。同じ曲を弾いたとしても、同じ物になるとは限らないんだ!だからこそ、何回も通って、何回も聴いて、何回も見る事に、価値が生まれるんだ。」 ほっくんは偉そうにそう言った。だから、僕はニコニコ笑いながら彼の目の前に座って…足を揺らしながらこう聞いたんだ。 「ひとつもぉ~?」 「そうだよ!ひとつもだ!例えば、調子が悪い時と良い時とでは違うだろ?そんな感じで…舞台もコンサートも少しの変化を見せる。だから…こういうエンターテイメントは、良く…“生もの”なんて表現される。同じ味を再現するレトルトや、お手軽なインスタントとは違う。その時だけの…生ものなんだ。」 へぇ…! ケラケラ笑った僕は、ほっくんの顔を見つめながら体を横に揺らして、鼻歌を歌った。すると、ほっくんが首を傾げて聞いて来たんだ。 「…モミジ…?」 「ん…?うん…ずっと…この前から、頭の中を流れてるぅ…。綺麗な曲だよぉ?」 僕はそう言って、鼻歌で歌い続けた。 先生の向かった先に、彼が居る。 でも… 僕は、会わないんだ。 胸の中でコロコロと揺れるペンダントを服の上から押さえた僕は、ほっくんを見つめてこう尋ねた。 「ねえ、ほっくん。毎日毎日ほっくんが居ない間…まもるは何してるのぉ?」 すると、ほっくんはケラケラ笑って教えてくれた。 「…豪ちゃんさ、俺とまもちゃんの写真を見たって言っていただろ…?あの写真館の隣は、まもちゃんの実家があった所なんだ。そこは昔、バイオリンの工房があってね…彼は、実は、バイオリン職人なんだよ…」 え…!! 僕はびっくりして目玉が飛び出しそうになった!! だって、あの…あのまもるが、料理人じゃなくってバイオリン職人だったなんて… とってもビックリしたんだ! 「うっそだぁ!キャッキャッキャッキャ!」 大笑いする僕を一発殴ったほっくんは、自分のバイオリンケースを膝に乗せて、僕に言った。 「これ…まもちゃんのなんだ。それを…貰った…。そして…中に入っているのは、彼が作ったバイオリンなんだ…」 そう言って彼が開いたケースの中を、僕はそっと体を屈めて、覗き見てみた。それは…いつもほっくんが弾いていたバイオリンだ…。 「…綺麗だねぇ?」 足を揺らしながらそう言うと、彼はバイオリンを取り出して…僕に差し出して言ったんだ。 「弾いてごらん…?」 良いのかなぁ…? 僕は、ほっくんからまもるのバイオリンを受け取って…首に挟んだ。 そして…ほっくんから独特な形の弓を受け取って…そっと弦に当てて一音伸ばして弾いてみたんだ。 「あぁ…!凄い…力強く伸びていくぅ…!」 そう…それは、トトさんのバイオリンとは違う、力強さを感じる音色を出した。 「その弓…どう?」 ほっくんは首を傾げてそう聞いて来た。だから、僕はにっこり笑って答えたんだ。 「使いやすぅい。特に…軽さが良い。あとぉ、弓の加減が、とっても繊細に反映するんだぁ…、だからこうして少しだけ指を動かしただけで…音色が変わるぅ…!」 すると、ほっくんはにっこり笑って、上目遣いで僕に言った。 「豪ちゃん…俺に、そのバイオリンで…“愛の挨拶”を弾いて…?」 わぁ…!美人さんだぁ! 彼の美しさにドキドキした僕は、もじもじしながら…男の威厳を保ってこう言った。 「ほっくんはぁ…ほんとに甘えんぼさんなんだからぁ!僕はぁ、危ない男なんだよぉ?この前なんて…女の子をビチョビチョにしたんだからねぇ?ん…もう…!」 「ぐふっ!」 きっと…興奮しちゃったんだ。 だって…鼻水が飛び出してたもん…! 僕は椅子から立ち上がって、姿勢を美しく構えた…。 そして、ほっくんの様に、凛と澄ました顔をしたんだ。そのまま一礼すると、バイオリンを首に挟んで…彼を見つめながらそっと弓を弦に下ろした。 「あぁ…不思議だ…。まもちゃんのバイオリンなのに、君の音色に聴こえる…」 そう言って微笑んだほっくんの穏やかな笑顔を見つめて、僕は…とっても安心した。 まもるに会いたくても会えなくって…ほっくんの音色は枯れて汚れてしまっていた。 でも、もう…そんな事は過去の話。 目の前で、優しく微笑みかけてくれる彼は…とっても、幸せそうだもの。 だから…この”愛の挨拶”は…あなたへ贈らせて下さい。 どうか、僕を許してね…どうか、僕を許して… 優しいあなたは…すぐに、誰かを愛して…幸せになる事でしょう。 そして…子供を得て、家庭を築いて行くんだ。 あなたが僕を忘れても、僕は…きっと、ずっと…あなたを忘れる事無く思い続ける。 惺山… あなたは僕の全て、僕の幸せ、僕の人生です… だから、どうか…生きてね。 「ふぅ…とっても繊細な弓だぁ。僕は、とっても気に入っちゃった…!」 ”愛の挨拶“を弾き終えた僕は、閉じていた瞼を開いてそう言った。 すると、目の前のほっくんは…顔を歪めて涙をボロボロと落としていたんだ。 だから、僕は大慌てで…彼を抱きしめてこう言った。 「あぁ…!ほっくぅん。良いんだよぉ?僕は、まもるよりもイケメンだから…仕方が無いよぉ。僕の方が好きになっちゃったんだよねぇ?」 ふふ…もちろん…冗談で言ったんだぁ。 すると、ほっくんは僕を優しく抱きしめて、こう言ってくれた。 「大丈夫だよ…。俺が、傍に居るからね…」 あぁ…もう… 僕の音色が、見えてしまったの…? …やだな…もう… 「…うん。」 僕は、そう答えて…ホロリとこぼれた涙をほっくんの肩に落とした。 彼は…凄腕のバイオリニストなんだ。 そして…バイオリンの神様。 だから、きっと…僕が音色に乗せた情緒が、伝わってしまったんだ… コンコン… そんな時…ほっくんの楽屋のドアがノックされた。 だから、僕は…彼の代わりに顔を覗かせたんだ。 すると、そこには…優しい笑顔の先生が立っていた。そして、彼は、僕にこう言ったんだ。 「豪、行くよ…?」 「はぁい!」 僕は元気に返事をすると、ほっくんに大事なバイオリンをお返しして、弓を手渡した。 「豪ちゃん…」 僕の名前を呼んだほっくんは、綺麗な布に弓を包んで僕に再び手渡してこう言った。 「これは、まもちゃんのお父さんが作った…バロック弓だ。豪ちゃんにプレゼントする。俺は使いこなせなかったし、君にあげる。」 わぁ…! 「クリスマスプレゼントぉ?」 僕はもじもじしながら、両手で弓を受け取った。そして、先生を見上げてこう言ったんだ。 「まもるは…バイオリン職人だったんだぁ!」 「へぇ…」 先生は興味が無さそうにそう言って、僕のお尻をパンパン叩いてせっかちに催促して来た。 すると、そんな先生に、ほっくんが言ったんだ。 「…理久。俺、音楽教室を開こうと思ってるんだ…。」 わぁ!! 僕は目をまん丸くして、背中の先生を振り返って見た。 すると、彼は、驚いた様に目を見開いて、ほっくんにこう言ったんだ。 「…良いじゃないか…!」 ふふぅ!僕も、そう思ったぁ! 「キャッキャッキャッキャ!」 ほっくんが先生だなんて、そのお教室は…なんて豪華なんだろう!近所に住んで居たら、絶対、生徒になっちゃうもんね! 嬉しくなった僕は、ほっくんの両手を掴んでブラブラ揺らしながらこう言ったんだ。 「ほっくん先生だぁ~~!」 すると、僕の背中にぴったりくっついていた先生が、偉そうにこんな事を言ったんだ。 「お前は…酸いも甘いも知ってる…。だから、きっと、良い指導者になるだろうね…?」 「理久…教室の名前…どんな物が良いと思う?」 そう聞いて来たほっくんを見つめた先生は、しばらく考えた後…僕の肩に顔を乗せてこう言った。 「…グランシャリオ…」 はぁ~~?! あんまりにもへんてこな名前を言ったから、僕はびっくりしちゃった! 「ほっくんの…ばっかぁん教室で良いよねぇ…?」 だから、誤魔化す様にそう言って、これ以上何も言わない様に先生の口を片手で抑えたんだ。 すると、ほっくんは首を傾げてこう言ったんだ。 「グランシャリオかぁ…」 悪くない…そんな顔をしたほっくんに、僕は顔を歪めてこう言った。 「や~め~な~?そんなへんてこな名前、もっと良いの僕が考えてあげるぅ!そうだなぁ…軽井沢だからぁ…“軽い!触ってごらん?教室”はぁ…?」 「無いな…」 すると、彼は…僕の案を即、却下したんだぁ… 先生と手を繋ぎながら、僕はほっくんの楽屋を後にした。 向こうの部屋には、彼が居るけど…会わずに、その場を…後にした。 #102 やっぱり、豪ちゃんは、今日のコンサートを聴きに来た… でも、惺山に会う事無く、理久と一緒に…帰った。 それを…可哀想と思う? それを、やるせないと思う…? 俺は、さすが…強い子だと思った。 コンコン… 「藤森さん、ゲネプロが始まりますよ。」 扉の向こうから聞こえたノックと、いつもの調子のコンマスの声に、俺は自分のバイオリンを手に持って席を立った。 お客さんの入っていない客席を見つめながら…ため息を吐いて、目の前の惺山を見つめた。 彼は理久に何を言われて…何を語ったのか、そんな事、推し量る事は出来ない。 でも、あの子が理久と一緒にやって来て、俺の楽屋で…”愛の挨拶“を、彼に弾いた事は分かっている筈だ。 それは…確かに切ない気持ちのこもった音色だった。 でも、それ以上に…真っすぐで、強い…愛を感じた。 扱い辛いバロック弓を使って、あんなにも表現の幅を広げるあの子は、やっぱり…普通とは違うのかもしれない。 弓を持った指先をしきりに動かしながら…弓を撫でてみたり、指先を離したり…そんな微妙な変化を付けている様子が、印象的だった。 「では…第一楽章から…」 いつもと変わらない。そんな表情で、惺山がそう言った。 昨日の公演は大盛況だった…俺の読み通り、立ち見の客が入った。 海外のお客が多かったのは、多分…豪ちゃん効果だろう。 今日もそんなお客が多い事が予想される。しかも、あの子が理久と来ているんだ…。 大騒ぎになるに違いない。 森山惺山…あなたは、天使に愛されてる。 だから、注目されているんだ。 「…豪ちゃんが来てる。俺の楽屋に、挨拶に来たよ。」 俺は、指揮棒を手に持った森山氏に、そんな声を掛けた。 すると、彼は伏し目がちに楽譜をめくりながら、クスリと笑うだけだった… 「豪ちゃん…?来てるんですか…?」 すると、コンマスが振り返りながら俺に聞いて来たんだ。 「あの…”愛の挨拶“は、あの子が弾いたの?」 バイオリン奏者の女性が俺の顔を覗き込んで尋ねて来たから、俺はコクリと頷いて、こう言ったんだ。 「あぁ、そうですよ。大切な人を思って弾いたんだ…。とても、美しかった。」 「良いなぁ!何で呼んでくれなかったんですかぁ!はぁ~…豪ちゃん、会いたかったなぁ…ブツブツ…ブツブツ…!」 コンマスは、すっかりあの子のファンだ。 それは、木原理久の秘蔵っ子だから…と言う訳では無さそうだ。 あの子と演奏すると、楽器奏者は、あの子に恋をする。 理久も…直生も伊織も、俺もそうであった様に、曲の中を自在に動き回れるあの子に…感嘆の思いを感じて、畏敬の念を抱いて、虜になってしまうんだ。 あの子に会えず不貞腐れた様に口を尖らせたコンマスは、立ち上がってオーケストラに向かってこう言った。 「…今日は、俺の、豪ちゃんが聴きに来てる!あの子に…素敵なハーモニーを届けてあげようじゃないかっ!」 「オッケー牧場…!」 それは、オーケストラの面々も同じの様だ… そらそうか…彼らもまた、あの子に恋をしたんだ。 あの子の登場は妙な団結感を生んで、リハーサルは滞りなく進行して行った。 昨日、既に一回やったからか、それとも、豪ちゃんパワーなのか…オーケストラも俺自身も、妙な緊張感を失くして…リラックスしながら演奏に集中する事が出来たんだ。 笑顔も垣間見えるステージの上は、すっかり和やかになっていた。 ただひとり…神妙な表情を見せる彼を覗いては。 -- 「先生?コンサートは何時からぁ?」 「4時だよ…」 僕は、この日の為に…蝶ネクタイを作ったんだ。 それは、朝市で見つけた…綺麗な織物で作った真紅の蝶ネクタイ。美しく入れられた刺繍は、上品で、クラシックな印象を、あんぽんたんな僕にくれる。 代々木公園を歩きながら、僕は先生の手を握ってこう言った。 「楽しみだね?早く…聴きたいねぇ?」 すると、先生はベンチに腰かけて遠い目をしながら僕にこう言ったんだ。 「豪ちゃん…先生と、賭けをしないかい…?」 え…? 「トトカルチョ?」 よく、清ちゃんと、てっちゃん…あと、晋ちゃんがやってた。 サッカーの試合で、どちらが勝つか…なんて事を、お金を賭けて予想し合うんだ。 僕は、サッカーに興味が無かったからやらなかったけど…酷い時は、喧嘩にまで発展する趣味の悪い賭け事だと思ってる。 「…森山君が、君を迎えに来るか…来ないか…」 先生はそう言うと、僕に温かいココアを差し出して、頭を撫でながらこう言った。 「君は…絶対に来ないと言った。俺は、絶対に来ると思ってる…」 僕は、そんな先生を見つめて…眉を下げながらこう言った。 「…良いよ。では、何を賭けようか…?」 僕がそう言うと、先生は遠い目をしたまま…ため息を吐いて黙ってしまった。 だから、僕はそんな彼にもたれて、目の前を風に吹かれて舞って行く木の葉を見つめながら、温かいココアを一口すすって飲んだんだ。 「もし、俺が勝ったら…彼の元へ戻っても、俺の傍に居てよ。それは物理的な事じゃなく…なんて言ったら良いのか、ただ…傍に居て欲しいんだ…」 そう言った先生は、風に吹かれる僕の前髪を指先で撫でて、顔を覗き込んで言った。 「…良い?」 「…良いよぉ?では、僕が勝ったら…先生が死ぬまで…僕と一緒に居てくれるぅ…?」 僕の言葉に目を丸くした先生は、瞳を細めて…クスリと笑った。 そして、僕の肩を抱きしめて…こう言ったんだ。 「…喜んで。」 きっと、お馬鹿な先生は気付いてないんだ。 賭け事は、どちらかが損をする筈なのに…僕は、負けても勝っても、彼を失う事は無い。 ノーダメージなんだ。 「先生が温かいから、外に居ても寒くないねぇ?」 僕がそう言うと、先生は僕を横目に見てこう言った… 「先生も…豪ちゃんが温かいから、寒くないよ…」 へぇ…そっかぁ… 先生とのんびり公園で過ごしていると、目の前を横切って行く人たちが、遊びに来た人たちから…綺麗な服を着た人たちに変わって行った。 穏やかに地面を照らしていたお日様も沈み始めて、そんな人たちの影を伸ばした。 「…そろそろ?」 もたれかかった先生にそう尋ねると、彼は腕時計を見て、コクリと頷いて答えた。 「早めに行っておくか…」 そう言って先生が立ち上がったから、僕も一緒に立ち上がって、彼の手を握って体を揺らして喜んだ。 あの交響曲をこんな風に…聴けるなんて、素敵だ。 惺山がこの交響曲を作る過程を、僕は知ってる。 傍に居ると死んでしまうかもしれないと思った僕が、彼に言ったんだ。 早く自分から離れてくれ、と… そして、そんな僕に…彼が、こう答えた。 交響曲をひとつ、書き上げたら…東京へ戻る。と… 僕は、彼の願いを聞き入れて…この交響曲が出来上がるまで彼の傍を離れなかったんだ。 朝から晩まで…ずっと、傍に居た。 すぐに夢中になってしまう彼に、ご飯を餌付けした事は…数知れず… ピアノを弾きながら口を開く…そんな、惺山が可愛くて大好きだった。 だから、僕は…喜んで彼のお世話をしたんだ。 いつか来る別れの時を、待ち遠しく思ったり…寂しく思ったり…僕の心は、答えの出ないまま複雑に揺れていた。 そんな中で出来上がったこの交響曲は、僕と彼の…曲なんだ。 だから、とっても…嬉しい。

ともだちにシェアしよう!