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#103~#107
#103
コンコン…
「惺山…世話になったな。まもちゃんが、お礼を言ってたぞ?」
俺は、そんな嘘を吐きながら、控室で身なりを整える燕尾服を着た彼に声を掛けた。
ヤバい…めっちゃイケメンだ…!
俺はそんなトキメキをポーカーフェイスに隠して、惺山を見つめた。すると、彼は俺を横目に見て、こう言ったんだ。
「…昨日、カップラーメンが3つも無くなっていました。請求しても良いですか?」
ぐふっ!
俺がラッシュを掛けたせいだ…!
「…実は、音楽教室を開くんだ。軽井沢で…。まもちゃんは、裏で…バイオリンを作る事になった。だから…請求書は、宛て先が合ってても…俺の所には届かないだろうなぁ。あ~はっはっはっは!」
高笑いした俺は、惺山のジト目を見つめながらこう言った。
「…顔を見せに遊びに来てよ…。場所は、駅前の写真館の隣だ。」
俺の言葉に目を丸くした惺山は、思い出す様に瞳を泳がせて、クスクス笑いながら頷いて言った。
「あぁ…!逃げ出した豪ちゃんを捕まえた所だ!ふふっ!あっはっはっは!」
物騒な話だ…
俺は、それ以上聞く事を止めるよ。
「藤森さん…運命ってあるのかもしれない。あの子とあなたを見ていると…そんな風に感じてしまう。それは出会う以前から始まっていて…まるで、交差するみたいに…それでも、交わる事無く…影響を与え合っていたんだ。」
「…カノンだな。」
俺はそう言ってニッコリと笑った。そして、得意げに惺山に言ったんだ。
「俺と…豪ちゃんの…カノンだ。」
すると、彼はケラケラ笑って、楽しそうに何度も頷いた。
「確かに…そうだ…!」
俺と豪ちゃんは、出会う前から…カノンを奏でていたんだ。
そして、俺はあの子と出会った事で…運命が一変した。
あの子は…どうかな?
俺と出会った事で、何か変わったのかな…?
俺たちは、会うべくして…出会ったんだって、俺は確信してる。
その出来事に意味を見出すとしたら…きっと、俺の凝り固まってしまった価値観を、もう一度、考え直す時期が来たという事だと思ってる。
…誰かの主観に囚われずに、音楽を楽しめと、そんな神様のお告げを受けているんだ…
「さあ…行きましょうか…」
惺山の言葉に我に帰った俺は、控室を出て、廊下を歩く彼の背中をポンポンと叩いて、ふざけてこう言った。
「ん、もう…!せいざぁんの、ばっかぁん!」
俺の豪ちゃんの物まねは最高だ。
誇張する部分を除いたって、最高に似てるんだ!
「…」
すると、俺の豪ちゃんの物まねにジト目を向けた彼は、指を立ててこう言って来たんだ。
「…ん、ねえ…お味見てぇ?の方が、良く言いますよ…」
ぐふっ!微妙に似ている…!
流石だ…
俺は笑いを堪えながら、惺山を横目に見つめてこう言った。
「全く、人の言う事を、聞かない…!」
すると、彼も首を横に振ってこう言った。
「…あぁ。聞かない…!」
「とにかく、頑固者だ!」
俺がそう言うと、彼もクスクス笑ってこう言い返して来た。
「えぇ…とっても、頑固者!それは、母親譲りの強情っ張りだ…」
へえ…知らなかった。
あの子のお母さんは、強情っ張りなのか…!
「今日の全てを、あの子に…」
俺はそう言って惺山に手を差し出した。
すると、彼は俺の手のひらを叩いて、気合の入った目つきでこう言い返したんだ。
「豪に…!」
惺山。
お前が何をしようとしているのか…俺は知ってる。
でも…
止めたりしないよ。
--
「わぁ…お客さんが沢山入って行くねぇ…?」
僕と先生は公会堂に戻って来た。すると、わらわらと集まって来る人を避ける様に先生が早歩きを始めた。だから、僕も…彼と一緒に早歩きをして、急いで進んだんだ。
「木原先生!少しだけお話を伺えませんか?」
「その子が…ギフテッドですか?」
「音楽界を激震させる逸材とお聞きしました。ギフテッドの公演など、日本でもお考えでしょうか…?!」
先生は、そんな彼らの質問に答える気が無いみたいだ。
取材はお受けしません。そう言ったっきり、テクテクと歩いて進んだ。だから、僕も、彼を見上げながら…一緒に歩いたんだ。
「…どうして取材を受けないのぉ?」
僕がそう聞くと、先生は僕を見下ろして、眉を上げて言った。
「キリがないからね…。それに、話す事も何もない。」
へぇ…
妙に納得した僕は、チケットを出す先生の背中に抱き付いて、彼と一緒にホールの中へと向かった。
ステージの上には、綺麗に並べられた椅子が置いてあった。
僕は、席を探す先生に、指をさして教えてあげたんだ。
「先生?ほっくんは…左側の椅子の…前から2番目に座ってるんだよぉ?」
すると、先生は、適当に頷きながら、僕にこう言った。
「豪ちゃんは、その席ね…」
「はぁい…!」
僕は言われた通り椅子に座って、蝶ネクタイを綺麗に直した。そして、目の前に広がるステージを見上げて口を開けて笑った…
オレンジ色に光るステージは、この前見た時よりも…大きく感じたんだ。
「すみません…木原先生ですか…?」
「…プライベートです。申し訳ないが、ご遠慮下さい…」
先生の苛ついた声を耳に聴きながら、僕は、隣に座った伊織さんにこう言った。
「わぁ…!来たのぉ…?見てぇ?ほっくんはぁ…左の椅子に座るんだよぉ?」
「へぇ…」
興味なさげにそう言った伊織さんは、僕の頭の後ろで先生にこう言った。
「…話が付いた。」
「そうか…ありがとう。」
「直生さん?左の席にほっくんが座るんだぁ…!」
僕は、そんな伊織さんの体の向こうに座った直生さんにそう言った。
すると、彼は目じりを下げてこう返してくれた。
「そう…分かった。」
僕の周りには、先生と…伊織さんと直生さんが座って、目の前は開けた段差のお陰で、誰の頭も邪魔せずに…ステージを見渡す事が出来た。
特等席だぁ!
すると、オーケストラの人たちが、ステージの袖から登場し始めた。
「あれぇ…?ほっくんはぁ…?ねえ、先生…ほっくんはぁ…?」
僕は、一向に現れないほっくんを心配して、隣で頬杖をつき始めた先生の腕をグラグラと揺らした。すると、彼は僕を横目に見てこう言ったんだ…
「ソリストだから…指揮者が登場した後、出て来るんだよ…。北斗は、オーケストラのメンバーではない。所謂…ゲストだ。彼はそのまま…オーケストラと一緒に演奏もするけど、ソロの演奏をする。だから…ソリストと呼ばれて、スペシャルなんだ。」
へぇ…!!
僕は満面の笑顔になって、隣に座った伊織さんにこう言って教えてあげた。
「ほっくんはぁ、スペシャルだよぉ?」
すると、彼も、直生さんも、にっこりと笑ってこう返して来た。
「…知ってる。俺たちのボスは…スペシャルなんだ。」
わぁ…!!
僕は足をブラブラさせながら、オーケストラのみんなが着席する様子を眺めてニコニコ笑った。
この前一緒に演奏した時は、みんな私服姿だったのに、目の前にいる彼らは、真っ黒のスーツとドレスを着ていて…とっても格好良かったんだ。
だから、僕は…つい、嬉しくなって…立ち上がってしまった…
「わぁい…!」
そう言って手を振った僕を、先生は、すぐに着席させ直した。そして、間にあるひじ掛けを退かして、片手で腰を抱いたんだ。
「豪ちゃん。コンサートや、舞台を見る時の基本のマナーを教えてあげるね。大きな声を出さない。立ち上がらない。おしゃべりをしない。ご飯を食べ始めない。携帯電話を弄らない。だよ…?」
僕は、そんな先生の言葉に、もじもじしながら顔を熱くして言った。
「ん…分かってるぅ…。でも、ついしちゃったんだぁ…ごめんなさぁい…」
「何だ…良いじゃないか、別に、まだ始まってる訳じゃないんだから。」
伊織さんはそう言うと、僕との間のひじ掛けを退かして、僕のすぐ隣にまでお尻を動かして来た。そして、僕の肩を抱きながら、こう言ったんだ。
「ねえ?」
すっかり窮屈になった僕は、首を傾げてこう返事をした…
「うん。そうだよねぇ?」
すると、いつの間にか暗くなっていた客席から拍手が上がって…目の前のステージに彼が現れたんだ。
「あぁ…!せいざぁん!」
僕は…つい、言ってしまった…
すると、彼は僕を見下ろして、ニッコリと笑ってくれたんだ。
それだけで、どうしてこんなに…込み上げてしまうんだろう。
僕の膝をポンポン叩いた先生は、もう注意をする事を諦めたみたいだ…
僕は、ただ…自分の口を押えて、素敵な服を着た…立派な彼を見つめて涙を落した。
#104
ステージへ向かった惺山は…気合が満ち満ちていた。
そりゃ、そうか…
あの子へ向けてのラブレターを、本人の前で…読むようなもんなんだからね。
俺は、彼がステージを歩いて指揮台へ向かうのを、袖から見守った。
すると、客席から…よく知った声が聴こえて来て、思わず苦笑いをしたんだ。
豪ちゃんだ…!んふふ!
あの子は、ほんと…ヤレヤレだな。
首を横に振った俺は、惺山の視線を受けてステージへと向かった。
すると、思った通り…豪ちゃんがこう言ったんだ。
「あぁ…!ほっくぅんだぁ…!」
ふふっ!おっかしいね…。この子は、マナー違反だ。
俺はそんな声を上げた豪ちゃんを見て首を横に振ると、ムッと睨んで見せた。
すると、あの子は口に両手を当てて、コクコクと頷いてチョコンと縮こまった…
豪ちゃんの両脇は、理久と伊織によって…がっちりとガードされていた。
手前の席は一段下から始まって…見晴らしの良い特等席を用意して貰ったあの子の様子に、瞳を細めて理久を見つめた。
そして、丁寧にお辞儀をして、自分の席へと向かった…
さあ…惺山。
あなたのラブレターを、あの子へ読む…お手伝いをさせてくれ。
そんな気持ちで、俺は、指揮棒の合図と共に、バイオリンを首に挟んだ。
--
「あぁ…素敵だぁ…」
彼の交響曲第一楽章が始まった…それは、僕が生まれる前の旋律だ…
目の前に浮かぶ情景は、僕の産まれる前。お母さんが…自分の命と引き換えに、僕を産んだ。…そんな瞬間だ。
先生の膝を掴む手に力を込めた僕は、じっと…惺山の背中を見つめたまま、心の中で彼に言った。
素敵だよ…とっても、美しい。
彼の一挙手一投足に、僕は彼の思いを感じて…胸の奥が熱くなった。
そうだね…惺山、僕は…産まれる前からお母さんに愛されていたみたいだ…
あなたの交響曲を聴くと、僕は…こんな風に、いつも思うんだ。
ありのままで良いって…このままを、愛してくれているんだって…
だから、とっても…安心するんだ。
第二楽章のマーチは、明るい行進曲とは別の側面を、遅れて纏わりつくバイオリンが見せてくれるんだ。
ほら、僕の目の前を…道化師が歩いて行くよ?
それは…あなたが、僕を例えた…道化師だ。
僕はね、いつも…彼の帽子が気になって仕方が無いんだ。
だって、パリスが乗っているんだもの。ふふ!
「豪ちゃん…少し、顔を拭いてあげる…」
伊織さんはそう言って、僕の顔を拭いてくれた。
きっと…涙と鼻水で、グチャグチャになってしまったからだ…
「…うっうう…あの、第二楽章は…一生懸命…ひっく、ぐすっ…普通にしようとしていた、僕の情景なんだぁ…」
僕がそう言うと、伊織さんは目を点にして…顔を拭いていた手を止めた。そして、首を傾げて僕にこう尋ねて来たんだ。
「…森山惺山は、君のなんだろう…?」
だから、僕は鼻を啜りながら…こう言ったんだ。
「彼は…僕。僕は…彼。ふたりでひとつの…バイナリー。」
「妙な例えをする…」
クスクス笑ってそう言った直生さんは、僕にお茶を手渡してこう言ったんだ。
「泣き過ぎてる…水分を取った方が良いよ…?」
「はぁい…」
第二楽章が終わって…第三楽章が始まる前の少しの間、惺山は…いちいち袖に行ってしまうんだ。
僕は、この休憩時間に…ステージの上のみんなとおしゃべりなんて出来たら良いのにって思った…
先生に差し出されたティッシュで鼻をかんで、直生さんから貰った飲みかけのお茶で水分を補給した。そして、鼻を啜りながら…僕を見つめて優しい笑顔を向けるオーケストラのみんなを、ひとりずつ目で追いかけながら、にっこりと笑いかけて行ったんだ。
ありがとう…
こんなに素敵な交響曲に仕上げてくれて…どうも、ありがとう…!!
「また泣いてる…」
伊織さんは呆れた様にそう言って…僕の頬を優しくポンポンと拭いてくれた。
だって…とっても、嬉しいんだ…!
オーケストラ失くしては…この曲は完成しない…!
そして、その誰一人として…要らない音も、要らない人もいないんだ…!
こんな奇跡の様な音色を紡げるのは、彼らがここにいて…彼らが演奏してくれるからなんだ。
そう思ったら、僕は…この場に立ち合えて、とても光栄だって思うんだ。
ほっくんが言う通り…これは、一度きりの音色で、毎回違う物で、生ものなんだ…!
#105
「豪ちゃん…凄い泣いてるね…」
「あの隣のふたり組は、有名なチェリストだ…」
そんな小声を耳に聴きながら、俺は袖で涙を拭う惺山を横目に見た。
…堪えろ。惺山。
最後まで…やり遂げるんだぞ…
豪ちゃん、お前の大好きな惺山は、踏ん張って頑張ってる。
だから、どうか…彼を信じて待ってあげて。
それが、例え、人の道を外れていても…俺は、ハッキリ言って…どうでも良い。
お前と惺山が笑顔で一緒に居てくれたら、それが俺のハッピーエンドだ。
だから…お前は何も知らずに、彼を信じて、待っていれば良いんだ。
すると、袖からいつもの様に仏頂面の彼が現れて、俺をジッと見つめた。
はいはい…お仕事だ。
俺は椅子を立って惺山の隣へ移動した。
そして、姿勢を美しく保ちながら、凛と澄ました顔をして丁寧にお辞儀をしたんだ。
目の前には満員御礼のお客さんと、豪ちゃん…そして、理久に直生と伊織。
豪ちゃんと理久を追いかけて来た海外の音楽記者も、理久と謎のギフテッドの取材を取り付けたい日本の音楽記者も、金持ちも、そうでない者も、ただ単に、音楽を楽しみに来た人も入り乱れたこのホールの中は、ある意味…俺の良い宣伝になるんだ。
これから日本で活躍する為の、足掛かりにさせてもらうよ。
「豪ちゃんに…」
俺はボツリとそう言った。すると、指揮台の上の惺山は、俺に視線を向ける事無く…応える様にこう言った。
「…豪に。」
そして、俺はバイオリンを首に挟んで…弓を美しく掲げて構えた。
目の前の…あの子を見つめたまま、俺は全身の神経を全てバイオリンと弓を持つ指先に集中させた。
静まり返ったホールの中…惺山の指揮棒が振られて、第三楽章が始まった。
俺は、バイオリンのパートを弾きながら、うっとりと体を揺らす豪ちゃんを見つめた。
マズルカの特徴的なテンポは嫌いじゃない。むしろ好きだ…
ショパンを…思い出すんだ。
俺は豪ちゃんの真似をして…音色を切らないまま…ソロに入った。
豪ちゃん…今から、飛び立たせてあげるからね…
俺は音色の中に情景を紡いで、あの子が大きな石の翼で自分を守っている様子を映し出した。それは、頑なになってしまった…あの子の心そのものだ。
それが徐々にふわふわな羽毛を立てて、風にそよいで揺れ始めると…黒い表面が…一気に光り輝く白い翼へと姿を変えるんだ。
そして…天使は立ち上がって…ゆっくりと翼をはためかせた。
その翼は大きすぎて、周りを巻き込んでしまったけど、それはあの子が悪いんじゃない。
居た場所が狭すぎただけなんだ。
だから、どうか…もっと広い場所へ行きましょう。
あなたの翼が思いきり広げられる…そんな場所へ向かいましょう。
俺をジッと見つめる豪ちゃんは、真剣な表情をしながら涙をダラダラと落とし続けている。眉間にしわを寄せて、両手を目の前で握り締めている様子は…あの時、公園で…俺に檄を飛ばして、ボコボコにされた時と同じ顔をしていた。
力み過ぎて…眉毛だけ、吊り上がって戻らなくなったんだっけ…
「ふふ…」
思わず、そんなおかしな思い出に口元を緩ませて笑った俺は、天使のあの子を音色に乗せて高くまで飛ばしてあげた…
「行っておいで…」
小さくそう呟いて音もなく飛び立った天使を見送ると、少しだけ…ふんわりと起きた風に前髪が揺れた…
「ブラボーーー!ふぉ~~~!ほっくん!あんたが大将!」
豪ちゃんは、お馬鹿だ…
俺のソロが終わった瞬間、あの子は立ち上がってそんなダサい掛け声を掛けてくるんだもん…
やんなるよ!
--
「豪ちゃん…次したら、退場だからな…」
先生に怒られた…
でも、僕は…言わずにはいられなかったんだぁ…!!
だって、彼のソロは…最高だったんだ。
きっと惺山だって、同じ様に思ったに違いない!
大きな翼の天使が、彼の促す方向へ、音を立てずに飛んで行った様は…それはそれは幻想的で、美しかったんだ…!!
こんな凄い物を見せられて…興奮しない人は、いないよっ!
彼は、やっぱり…バイオリンの神様だ…!!
僕は、胸に手を当てて…治まらないドキドキを手のひらに感じながら、深呼吸を何度もした。
でも、体中が熱くなって…火照って行くみたいに汗ばんで行ったんだ。
「あぁ…汗だくじゃないの。上着を脱ぎなさい…」
第三楽章が終わってしまった…
僕は、ただただ放心したまま…袖に戻って行く彼の横顔を見つめてこう言ったんだ。
「せいざぁん!すっげぇ~~~!かっこいい~~~!」
すると、彼はぷぷっと吹き出し笑いをして、逃げる様に袖へと向かったんだ…
「こら!こらぁ…!」
僕は先生に頭を叩かれた…
でも、そんなの痛くない。
伊織さんが大きな手のひらで、汗をかく僕をあおいでくれる中…先生は僕の上着を脱がせながらこう言った。
「次、言ったら…退場させるからな!俺は、本気だぞ…!」
「はぁい…」
僕はへらへら笑いながらそう答えた…
だって、夢見心地なんだ。
とっても…素敵なんだもの…
「先生?僕…汗いっぱいかいちゃったねぇ…?」
蝶ネクタイを外した僕は、ブラウスのボタンを外して先生に言った。
「中見てぇ…?汗が凄いのぉ…」
「はっ!はぁはぁ…イケナイ!豪ちゃん、イケナイよっ!」
すると、先生はそう言いながら、僕のブラウスの中を覗いて…にっこりと優しく微笑んでこう言った。
「ちっぱいが…じんわりと…汗ばんでるじゃないかぁ…」
「どれどれ…伊織さんも見てあげよう!」
伊織さんはそう言って僕を自分に向かせ直すと、ブラウスの中を覗き込んで顔を真っ赤にしていた…すると、もれなく直生さんも大きな体を屈めて、僕のブラウスの中を覗き込みながらこう言ったんだ。
「どれどれ…直生さんも見てあげよう…おや、これは何かな…?」
そう言って彼が摘まみ上げたのは…ネックレスだ。
「ん…これぇ…貰ったんだぁ。見せてあげるね…?」
僕は鬱陶しい髪をかき上げて、首を傾げて覗き込んでくるふたりに、ロケットを開いて僕と惺山の写真を見せてあげた。
すると、伊織さんが僕の肌を指先で撫でながら、こう聞いて来たんだ。
「豪ちゃんと…彼の関係は…?」
それはぁ…
僕は首を傾げて伊織さんを見つめると、肩をすくめてこう答えた。
「…大事なひとぉ。」
伊織さんは僕の答えに首を傾げて、こう聞いて来た。
「恋人…?」
だから、僕は首を横に振ってこう言ったんだ。
「ん…ちがぁう。大事なひとぉ…!」
それでも、伊織さんは食い下がって、僕に頬ずりしながらこう聞いて来た…
「恋人…?」
だから、僕は…クスクス笑いながら、彼の鼻を叩いてこう言ったんだ。
「ん…もう…ちがぁう…。ばっかぁん…!」
「なぁんだよぉ…ぐへへ…」
「おい!そこっ!」
すると、ステージの上のほっくんが、僕と伊織さんを指さして、隣の直生さんと代われと…指で指図をして来たんだ…
ビックリしちゃった。
直生さんはニヤニヤしながら伊織さんと席を代わると、僕の胸ボタンを直しながらこう言った。
「大事なものはしまっておこうね…?豪ちゃん…」
彼はそう言って、僕の胸の中に手を入れて、ペンダントのロケットをブラウスの中にしまってくれた。でも…手の甲で、僕のちっぱいをなでなでするから、僕は…困って、両手で彼の手を押さえながらこう言ったんだ。
「あぁ…だめぇ…ちっぱいを触らないでぇん…」
「何してんだよ。あんたらは…!」
…先生が怒ってそう言った。
そして、僕のブラウスのボタンを一番上まで留めると、顔を覗き込んで、念を押す様にこう言ったんだ。
「豪、次やったら…」
「アウト~~!」
ケラケラ笑ってそう答えた僕は、お利口さんに座り直して…ステージの袖から現れた惺山をジッと見つめた。
第四楽章…これが終わったら、この交響曲は終わってしまう…
嫌だよ…
だって、ずっと聴いていたいんだ。
#106
「ったく…ばっきゃろだな…」
ブツブツ言いながら目の前の直生と伊織を睨みつけた俺は…次に会った時はボッコボコにしてやろうと、硬く決心するのであった…
豪ちゃんは、能天気に…蝶ネクタイを理久の頭の上に乗せて…ケラケラ笑ってるし、彼らには…緊張感という物が無いんだろうか。
そんな様子を横目に見た惺山は、クスリと口元を緩めて笑いながら、指揮台に上がった。そして、オーケストラを一望すると、感慨深げにコクリと頷いて…指揮棒をあげた。
…俺は知ってる。
ここからは、惺山からあの子への…希望と望みが描かれているんだ。
指揮棒が動き始めると、タランテラのテンポを刻み始めるコントラバスの音色に、誰もが体を揺らすだろう。
それは…まるで落ち着きのないあの子の様に、ホールの上を走って駆け抜けていくんだ。
さあ…タランチュラの毒で苦しんで…アップテンポの音色で、楽しがろうじゃないか!
「いえ~~~!」
豪ちゃん…
俺はあの子のそんな奇声に…ぐったりと項垂れそうな頭を持ち上げて、惺山を見つめ続けた。
あの子は、クラシックコンサートの客じゃない!
だって、馬鹿みたいに…ノリノリなんだ…!
すると、惺山はにっこり笑いながら…オーバーに指揮棒を振って、オーケストラを煽り始めたんだ。
「ふふっ!」
隣のバイオリニストが思わず笑って、バイオリンの音色に…再び、楽しい…なんて情緒が乗っていくと、それは周りに伝染して行く様に広がって…あっという間に第四楽章のタランテラの雰囲気を作って行った。
音を楽しんで…音楽。
今、オーケストラは…それを体現しているみたいだ。
壮大に盛り上がりを見せて行く旋律とハーモニーは、一体感を作ったオーケストラの手によって…あっという間にドラマティックに仕立てられた。
その上を万事を期して登場するのが…バイオリンの音色の束だ!
行くよ!…なんて、掛け声に合わせる様に、バイオリニストたちは息を合わせて、沢山の楽器の音色の上を、まるでスケートでも滑って行く様に…美しく華麗に舞った。
「ふぉ~~~!良いぞ~~!」
そんなあの子の歓声に気を良くしたのか…コントラバスがいつもよりもタランテラのリズムを特徴的に仕上げると、それに合わせた様に…チェロやチューバが悪乗りを始めて、低音のアドリブ演奏を挟んで来た!
「あっはっはっは!」
惺山は、そんなオーケストラたちの様子に大笑いをして、指揮台から降りた。
そして、何を思ったのか…おもむろにオーケストラを指揮棒でぐるっと囲いながらグループ分けして行ったんだ。
そして、32なんて数字を指でサインすると、ステージの端で足でリズムを取りながら、手拍子をし始めたんだ。
「はぁ~~?!」
そう言ったのは、俺と、数人の奏者のみだった…
指揮者の手拍子を見たお客さんたちは、不思議そうに首を傾げながら手拍子を真似し始めて、あの子に至っては…立ち上がって、興奮する始末だから…
も、見ない事にするっ!
誰もこの展開に疑問を持たないのか…?!
そんな表情で俺は周りをキョロキョロと見渡した…
しかし、オーケストラ諸君は、グループ分けされた者同士…ヒソヒソ話を始めて、アドリブ演奏に情熱を燃やし始めていたんだ。
…なぁんてこったぁ!
森山惺山は、初めてのオーケストラとのコンサートで、アンコールでもないのに、交響曲の途中で…アドリブなんてぶち込んできやがった!
しかも…32小節なんて、微妙な長さだ!
「しんじらんない…!」
俺は、苦い顔をしてそう言った。でも、隣の女性バイオリニストは、タランテラのリズムを足で刻みながら、ニヤリと口端を上げて…こう言ったんだ。
「楽しいじゃん…。だって、好きにして良いんだよ?やってやろうじゃん…!うちらのがめたくそカッコいいソロにしてやろうじゃん…!」
「Aと…Bで、最後に…Aに戻った後…Cにするか…」
「いいや…ここは、きっと…最後のパートだ。もっと難解にして…スカぐらいごちゃまぜにした後に、主題に戻った方がカッコいいんじゃないか…?」
そんな小言の相談をしていると、トロンボーンとサックス、チェロの臨場感あるアドリブ演奏に、目の前のお客さんが、どんどん興奮して行く様子が伝わって来た…
凄い熱気だ…まるで、ジャズのセッションみたいだ。
与えられた楽譜を、指示通りに弾く…それがオーケストラ。
豪ちゃんの歓声をきっかけに、オーケストラたちは、そんなやるせなさを爆発させるかの如く…演奏家としてのプライドと、誇りと、熟練度と、洗練されたセンスを、これ見よがしに披露し始めた。
「よっ!日本一っ!」
そんな、場に似合わない合いの手を入れるのは…豪ちゃんだ。
あの子のせいで…こんな事になってるぅ~~~!!
理久は既に豪ちゃんの躾を放棄した様に…呆然と目の前の光景を眺めて…目を丸くして、口を開けている。
「さあさあ…行きますよ?」
そんな、したり声を出した俺の隣の女性バイオリニストは、立ち上がると同時に体を逸らせながら、思いきり弓を弾いた。
「ふぉ~~~~~!」
まるでそれに呼応する様に豪ちゃんがシャウトして、仰け反って…頭をぶつけた。
耳を劈いて行く不協和音は、あっという間にチェロたちの余韻をかき消して、俺たち…バイオリン集団のアドリブが始まったんだ…
「キャッキャッキャッキャ!」
所々で聴こえて来る不気味なサルの笑い声を頭から消しながら、俺は必死にバイオリンのアドリブ演奏に付いて行った。
しかし…さすが、長年バイオリンをやって来ただけある!
俺の周りのバイオリニストたちは…まるで示し合わせたかの様に一体感を見せて、アドリブをそつなく、格好良く、こなしていくんだ!
これが…プロ!
そんな妙技を軽々とやってのけるんだ…!
「藤森さん!少しのソロをあげよう!あなたはスペシャルサンクスだ!」
そんな言葉を受けた俺は、アドリブの演奏に食らいつきながら神経を尖らせて、いつその他の音が消えても良い様に身構えて待った。
「やってやる…!」
豪ちゃん…俺が、最高の旋律を紡いでやるよ…
すると、バイオリンの音色の束がピタリと止んだ。俺はそれと同時にバイオリンで和音を紡いで、自分のソロへと繋いで行った。
アドリブの演奏は楽しいけど…一歩間違うと、恥ずかしい事に変わるんだ…!!
そんな危ない橋を、俺は、今…名誉を掛けて渡ってる!!
俺が…俺様が…孤高のバイオリニストだぁあああ!
そして、あっという間に終わった…
たった、8小節分、弾いただけだった。
俺はチョコンと着席をすると、スカの様に乱れ切った旋律を、一緒に乱れながら弾き荒らした。
惺山が指揮台に戻ったのを見たバイオリニストたちは、見事に旋律を整え始めて、その様子を見ていた他のオーケストラたちは、楽器を構えて惺山をジッと見つめた。
そんな視線を一気に集めた彼は、ニヤリと口端を上げて、思いきり指揮棒と手を振った。
すると、あの時の様に…音の波が一気に客席に向かって放たれたんだ!
ソニックブームが、再び起こった!!
「きゃ~~~~~!」
「うわ~~~~~!」
そんな音の波を浴びて、巻き起こった歓声は、豪ちゃんの声だけじゃなかった!
所々で、上がった楽し気な歓声に…満足げに首をひねった惺山は、盛り上がりを見せた第四楽章を終いへと向かわせて行った。
凄い…
これが、音を楽しむ…それを体感させる、という事なのか…
俺は笑い顔が元に戻らなくなったまま、第四楽章を弾き終えた。
首から外したバイオリンは…いつも以上に熱を持っていて、弓を持った右手は…興奮が冷めやらないのか…小刻みに震えていた。
…シンと静まり返ったステージの上…指揮台の上の惺山は、満足げに満面の笑顔を浮かべていた。
余韻を持って指揮台を降りた彼は、客席に向き直して丁寧にお辞儀をした。
その瞬間…会場中の歓声が、一気にステージに向かって、津波の如く押し寄せて来たんだ!
「…おわっ!」
俺は驚いて目を丸くした!
だって、大勢の声量と空気の振動に…手の中に持ったバイオリンが細かく震えたんだ…!
今まで、こんな事…一度も無かった…。
「凄い…」
ポツリと、隣のバイオリニストがそう言った…。そして、ヘトヘトになった様子で、椅子から落っこちて、馬鹿みたいにケラケラ笑い始めたんだ。
イカれた訳じゃない。あまりの興奮に…きっと、腰が、抜けたんだ。
そんな中、惺山はクルリと体をこちらに向け直して、オーケストラに向けて深々とお辞儀をした。
「楽しかったよ!森山先生!」
すると、オーケストラたちは、そんな言葉と、はちきれんばかりの笑顔を向けて、彼に盛大な拍手で返したんだ。
「せいざぁ~~~~~ん!愛してる~~~~!僕の、僕のせいざぁ~~~~ん!」
会場中を揺らす大歓声の中、奇抜なグルーピーの声を拾った彼は、投げキッスをしながら袖へと帰って行ったのであった…
森山惺山…なんて奴だぁ…
昨日と全然違う…これは、ハッキリ言って、生もの以上に変わりやすい…劇物だ!
--
「はぁ~~~~~!めたくそ格好良かったぁ!見たぁ?ねえ、見たぁ?あれ、僕の惺山なんだよぉ?ねえ?ねえ?見た?見た?はぁ~~~~~~!信じられない!素敵すぎてキュン死するぅ!キュン死するぅ!惺山しか勝たん!惺山しか勝た~~ん!」
僕は、興奮を抑えきれずに、直生さんの胸ぐらを掴んでゆっさゆっさと揺すりまくった。
すると、彼は呆然としながらこう言ったんだ。
「…彼、俺に、少し似てないか…?」
「キャッキャッキャッキャ!」
全然、似てない!
「あ~~~!先生!見たぁ?ねえ!見たぁ?あれ、僕の惺山なんだよぉ?凄いでしょ?ねえ!ねえ!凄いでしょ?!」
僕は、先生の眼鏡をカクカクしながら顔を覗き込んでそう聞いた。
すると、先生は、呆然としながらこう答えたんだ。
「…すごぉい…」
やっぱりね!
「きゃ~~~~~~!痺れるぅ!」
特に…
特に…!
最後の投げキッスは…絶対、僕にくれた物なんだぁ~~~い!
「はぁ…惺山しか、勝たん…」
僕はすっかりくたびれて、先生の肩に顔を埋めて、眠った。
「寝ないで!これから帰るんだから!」
怒った先生は、僕の顔を退かして、親切に上着を着せてくれた。
「クロークに預けたコートを取って来るから…直生と伊織と一緒に居るんだよ。」
そして、そんな言葉を残して…どこかへ行ってしまった。
僕はフラフラ揺れる体をそのままにして、直生さんと伊織さんの間をぶつかって遊んだ。すると、伊織さんが僕を見下ろして、こう言って来たんだ。
「恋人…?」
「ん…だからぁ、違うんだぁってぇ!」
僕はそう言って地団駄を踏むと、伊織さんの靴の上に乗って、彼に抱き付きながら言った。
「ねえ…歩いてみてぇ?」
「ぐふっ!…良いよぉ…」
伊織さんが足を前に出すと、僕の足が後ろに行って…伊織さんが体を動かすと…僕の体が前に押される。それが楽しくって、僕は彼にしがみ付いてこう言ったんだ。
「ん…もっと、早くぅ!早く、動いてぇん…!」
「はぁはぁ…良いよぉ…」
伊織さんの呼吸器系のトラブルはまだ解消していないみたい。だって、頬を付けた胸がゼエゼエ言って聴こえるもん…
「わぁ…すっごぉい!キャッキャッキャッキャ!」
伊織さんのつま先に立った僕を彼が高く上げている所で…先生が戻って来た。そして、僕と彼を見て、顔を歪めてこう言ったんだ。
「なぁにしてんだぁ!」
「ん…強く、突き上げて貰ったぁ!」
僕はそう言うと、伊織さんの肩に掴まっていた両手を離して、彼の上でグリコのポーズを取ったんだ。
「あぁああ…足が、足がぁ攣るぅ…!」
そんな伊織さんの悲鳴に、僕は両手を広げて、先生へと飛び込んで行った。
「だぁっ!」
先生は、見事そんな僕をキャッチして、太ももをプルプル言わせた。
「キャッキャッキャッキャ!」
大喜びする僕を抱えた先生は、直生さんと伊織さんに挨拶もそこそこに公会堂を後にした。
預けていた荷物を抱えて、もう片方の手に僕を抱っこする先生は、意外と力持ちなのかもしれない!
「先生、すごぉい!」
僕はそう言って足をバタバタさせた。
すると、先生はハァハァ言いながら必死にタクシーを拾って…僕を後部座席へと放り込んだんだ。
そして、ものすごく乱暴にタクシーのトランクに荷物を詰め込んで、僕の隣に座ると、先生は息も絶え絶えに運転手さんにこう言ったんだ。
「羽田まで…!」
#107
「理久はぁ?」
「逃げる様に帰ってった…」
そんな直生の言葉に、俺は眉間にしわを寄せて伊織を睨みつけた。すると、彼はとぼけた様にあっちの方向を向いて…こう言ったんだ。
「俺は、何もしてない…でも、直生は豪ちゃんのちっぱいを撫でた。」
「馬鹿野郎だな!」
俺は吐き捨てる様にそう言うと、彼らの頭を順番に引っ叩いた。そして、椅子に座ったまま呆けている惺山を引っ張って連れて来て、ふたりの間に置いたんだ。
滞りなく3人の写真を撮った俺は、すぐさま、まもちゃんにメールした。
“僕たち…だんご3兄弟です”
そんな本文と共にメールを送信した俺は、森山氏を横目に見つめるふたりに、彼を紹介した。
「直生、伊織、彼は森山惺山。作曲家だ。」
「ぐぬぬ…豪ちゃんの彼氏だぁ…!」
伊織が敵意をむき出しにしてそう言った。すると、惺山は、我に返ったように、呆けた顔を元に戻して…そそくさと帰り支度を始めたんだ。
「惺山、世話になったな。楽しかったよ。フォルテッシモによろしく伝えてくれ…」
そんな俺の言葉を聞いているのか、聞いていないのか…彼は適当に頷いて、自分のコートと手荷物を持って、慌てた様子で楽屋を出て行ってしまった…
「失礼なクズだな…」
そんな直生の言葉に頷いた伊織は、顔を歪めてこう言った。
「…豪ちゃんの、彼氏…!」
俺はね、嫌な場面には良く遭遇するんだ。
それは今回も、もれなく訪れた…。
まもちゃんと訪れたレストランに、惺山と、あの…フィアンセの姿があったんだ。
すっかり、探偵モードになったまもちゃんは、目の前の俺の事なんて目に入らない様子で、向こうのテーブルをしきりに気にしていた。
「…北斗ぉ!反射する物持ってないか!」
…馬鹿野郎だな。
「そうだ…まもちゃん、オジジの弓を豪ちゃんに使わせたら、とっても上手に使いこなしていたよ。だから、あの子にあげたんだ。きっと、オジジは驚くぜ?えぇ…?!本当?!あれで弾けたのぉ?!って…驚き桃の木だよ?」
俺がそう言うと、まもちゃんは真顔のまま…眼球だけ向こうのテーブルを見つめて、こう言ったんだ。
「…ちっ!なぁんであんな美人と一緒に居んだよっ!陰気な癖に陽キャの振りして大盛り上がりを見せたかと思ったら…美人とデート!ふっざけやがって!」
嫉妬だな…
色男の定義が変わった事への嫉妬だ。
陽キャ次男坊なまもちゃんよりも…陰キャな惺山が求められる世の中に変わって来たんだ。
彼はきっとそんな世の中の流れに、抗おうとしてる。
「しょうがないよ。実際、惺山は色男だ。陰気な雰囲気が、また…時折見せる笑顔の価値を高めてくれる…」
俺はそう言うと、目の前に出された牛肉をナイフで切りながらこう言った。
「まもちゃぁん、あ~んしてぇん!」
「ぐふっ!」
俺の豪ちゃんの物まねに吹き出したまもちゃんは、クスクス笑ってこう言った。
「ん、もう…ほっくぅん!僕のイチモツはぁ、それなりだよぉ~?」
最低だな…
ここは、いわば…都内の高級レストランだ。
雰囲気のある間接照明と、それなりのドレスコードのある…そんなお店だ。
そんな所で、イケメンのまもるは…下ネタをぶちかまして来る。
きっと…豪ちゃんの真似をすれば、そんな事、全部チャラになると思っているんだ。
俺は、屈託のない笑顔を見せるまもちゃんに、ニッコリと微笑みかけて、付け合わせのブロッコリーを食べながら言ったんだ。
「…知ってるだろ…?彼には、彼の考えがあるんだ…。だから、あんまり邪推して詮索するのは良くないよ…。」
すると、まもちゃんは顔を歪めて不貞腐れた顔をした…
「…あの彼女、あんまり食が進まないね…?もしかして、好みの店を間違ったんじゃないのぉ?いけないな。良い男の基本は、相手をがっかりさせない事なのに…。全く分かってないな…!」
そんなまもちゃんは、目の前の俺を、結構な確率でガッカリさせてる…
昨日言ってたよね。
まもちゃん…
まるで、惺山の選択を肯定する様な発言してたよね…?
なのに、どうだ…
今のまもちゃんは、イケイケドンドンな彼に完全に嫉妬しているでは無いか…!
良いんだよ。
俺はね…こんな器の小さい護も、愛してるんだ。
呆れた様に首を横に振った俺は、まもちゃんの興味がありそうな話題を提供する事にした。
「ねえ…そう言えば、音楽教室の名前決まったんだぁ…”グランシャリオ”にする。」
「何それ…?」
急に真剣な顔になったまもちゃんは、口を歪めてそう聞いて来た。
だから、俺はにんじんをかじってこう答えたんだ。
「…北斗七星だよ。フランス語で、二輪の馬車って言うんだ…」
北斗七星…俺の名前を理久はフランス語で、教室名に提案した。
そして…俺は、その名前を、結構気に入ったんだ。
だって…二輪の馬車は、俺とまもちゃんを意味しているし…何よりも、自分の名前が入っているし…それに、響きが、格好良かったんだ。
「へぇ…悪くないね…」
そう言って微笑んだまもちゃんの背後で、惺山が彼女に指輪を贈っていた…
俺はそんな物を視界の隅で見つめたまま…平静を装って、まもちゃんに笑いかけて言ったんだ。
「…ご飯を食べたらホテルに戻って、寝て…朝一で家に帰りたいな…」
すると、まもちゃんは目じりを下げて、俺の手を握って…頷いて微笑みかけてくれた。
「家に、一緒に帰ろうね…?」
うん…
うん!
「うん、早く帰りたい!」
俺はそう言って、まもちゃんに笑いかけた。
俺とまもちゃんは惺山たちよりも先に店を出て…彼らの事を何一つ話さず…ホテルへと戻った。
クリスマスのイルミネーションが所々に飾られた夜の街は、華やかに暗い空間を彩っていると言うのに、俺も…まもちゃんも、何も話さないまま…ただ、黙々と暗い夜道を横に並んで歩いた…
…あんなに探偵気取りになっていたまもちゃんがすっかり大人しくなったのには、訳があるんだ。
惺山のフィアンセは…普通の人では無かった…
トイレへ向かう途中、彼女が落としたハンカチには、真っ赤な血が付いていたんだ。
それを拾い上げたまもちゃんは、何も言わずに女性に返して…眉を顰めていた。
きっと、彼女は…病気か、何かなんだ。
惺山は…そんな女性を、利用しようとしている。
そう察した俺たちは、それ以上、この話をする事を避けた。
ただ、あの子がこの事を知らぬままで居てくれれば、それで良いんだ。
まもちゃんも、きっと…同じ思いを抱いている。
…だから、口をつぐんだ。
酷いよね…最低だよね…
でも、俺は…あの子の幸せ以外、どうでも良いんだ。
だから、人道に反した行為も、考えも、全て…見て見ぬふりをした。
「惺山は…雪の進軍へと向かったね…」
俺は、ベッドに横になって微睡むまもちゃんの髪を撫でながらそう言った。すると、彼は、首を傾げてとぼけた声で歌い始めたんだ。
「…雪~の進軍、氷を踏んで~」
死を覚悟して…命の尊さなんて頭の片隅に追いやって…目的の為に、全ての恐怖を見ない様に過ごした軍人の様に…
惺山も、きっと…自分の良心を、見ない様に過ごすんだろう。
全てを、あの子の為に…捨てるんだ。
「…ねえ、北斗。グランシャリオ軽井沢って…ペンションでありそうだな…?」
そんなまもちゃんの言葉に我に帰った俺は、クスクス笑って彼に言ったんだ。
「ふふ、じゃあ…民宿でも開くかぁ?」
すると、まもちゃんは顔を歪めて鼻息を荒くした。
「やなこった!」
ふふ!
…長かった惺山との共同生活は、俺の彼に対する感情を少しだけ変えさせた。
とっつきにくい仏頂面の作曲家から、不器用なまでに純粋な作曲家へと印象を変えたきっかけは、やはり…豪ちゃんを心酔して、愛する姿を見たからかもしれない。
既存の音楽観をぶち壊したい…
その思いは、今日のコンサートで十二分に発揮されていた。
ただ、静かに聴くだけの物を…体感して感情を爆発させる物へと変えたんだ。
だから…理久は逃げ帰った。
愛する豪ちゃんを、大事に抱えて…惺山から逃げたんだ。
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「ん…もう…お家に帰ったら、しばらく、塩分控えめの生活だぁ…!」
僕は、そう言いながらタダのラーメンを3杯も食べてしまった。先生は、ぼんやりと頬杖を突いたまま…そんな僕の言葉を上の空で聞いていた。
「…先生?どうしたの?」
彼の顔を覗き込んで聞いた。すると、先生はジロッと僕を見つめて、再び遠くを見つめたまま…鼻からため息を吐いたんだ。
先生がこんな態度をとるのには、僕は有り余る理由を持ちすぎて…何が原因なのか、ハッキリしないんだ。
「僕がぁ…コンサートで、大騒ぎしたから…怒ってるぅ?」
首をかしげて尋ねると、先生はゆっくりと瞬きをして…遠くを見つめてこう言った。
「…森山君は、やったな…」
え…?
やった…?
僕は顔を真っ赤にして、もじもじしながら、先生に言った…
「ん…確かにぃ…この前、少しだけやったぁ…でも、今日は…やってないよぉ?」
すると先生は僕を見つめて眉を顰めた。そして、首を横に振りながらこう言ったんだ。
「違う…。凄い、コンサートだった…。あんなの、見た事が無い。新しい試みだった…。しかも、彼はあれをお膳立てした訳じゃないんだ。オケが勝手に…アドリブ演奏をし始めた…。その様子が…まさに、音を楽しんでいる様に見えて、俺は…がっくり来た。」
がっくり…?!
僕は先生の頬を両手で包んで、彼のしょぼくれた顔を覗き込んでこう言った。
「…先生は、がっくりしなくても良いんだよぉ?だって…彼は先生のお弟子さんだもの…。先生が見つけた、素敵な作曲家だよ?どうしてがっくり来るのぉ?あなたの目に狂いは無かったんだぁ…。素晴らしいじゃないのぉ…!」
すると、先生は…僕の手のひらに頬ずりして言ったんだ。
「…弟子?俺は、そんな物を取れるほど…優秀じゃないさ。ただ、自分の事ばかり考えて生きて来ただけ…。」
あぁ~あ!
惺山があんまり格好良くって…先生は、ショックを受けちゃったみたいだ。
「元気出してぇん…」
僕はそう言って椅子から立ち上がると、先生を胸の中に入れて抱きしめてあげた。そして、先生の髪を撫でながらこう言ったんだ。
「比べないんだぁ…。先生は先生の良さがあるんだからぁ…!僕は知ってるよぉ?先生は、とっても…お洒落なんだぁ。僕は…そんな先生のピアノが大好き。だから、いつも、もっと…もっと…弾いて欲しくなっちゃうもん…!それに、先生の指揮するオーケストラは、安定して、落ち着いて、偉大だったぁ。その雰囲気は、人々の心を感動させる。僕はぁ、それも…大事だと思うよぉ?」
すると、先生は僕の胸に顔を擦り付けてこう言った…
「…本当?」
「本当だよぉ?だって…あなたの指揮する曲には、広大な宇宙が見えるもの…!」
楽しい…嬉しい…悲しい…そんな身近な感情も大事だけれど、感じた事の無い感情を表現する事も、きっと…大事な事。
それは、例えば…神様に抱く…畏敬の念の様な感情だ。
先生の指揮するオーケストラは、そんな偉大な存在を感じさせてくれるんだ。
それはひとえに…彼の想像力が、達観している事も影響しているんだ。
「はぁ…でも、あれは…凄かったぁ…」
先生はそう言って…再び、しょぼくれてしまった。
自分のお弟子さんの出来が良かったのに…落ち込んでしまうなんて。
僕はそんな先生の膝に腰かけると、彼の飲みかけのコーヒーを一口飲んで途方にくれた。
飛行機の中…先生は考え事に耽っていた。だから、僕はヘッドホンを耳に付けて、聞いた事の無い曲を聴きながら、そっと瞳を閉じて、大人しくしていた。
どうして先生が落ち込むのか分からないよ。
だって…惺山の交響曲は素晴らしかったんだ。
彼の思いが爆発していた。
繊細に表現される情緒に、僕はついつい夢中になって…のめり込んでしまった。
特に…ほっくんのソロが最高に美しかったんだ…
あの大きな翼の天使が飛び立った瞬間、僕は鳥肌が全身に立ったんだ。
凄いって…そんな、簡単な言葉しか…浮かばなかった。
あんな事…僕には出来ない。
剛田の僕では表現しきれない…繊細な技術と、落ち着きと…貫禄が、それを実現させた。それは…やっぱり、ほっくんが、小さい頃から…一生懸命バイオリンを弾いて来たから出来た事なんだ。
付け焼刃の様な僕には、到底敵わない事…
やっぱり、彼は…いっちばんのバイオリニストなんだ!
そして…家に帰って来た。
僕は日の出ている内に、ジェンキンスさんのお宅へ、預かって貰っていたパリスを引き取りに向かった。
「“ひよこ”と…“東京バナナ”…」
お土産袋から手土産を取り出した僕は、ソファで横になる先生にこう言った。
「先生…?パリスをお迎えに入って行って来るねぇ?」
「…はいはい。」
急げ!急げ!
僕は大急ぎでジェンキンスさんのお宅へと向かった!
だって…とっても寒いんだぁ!!
ピンポン…
呼び鈴を鳴らしてしばらく待っていると…ジェンキンスさんのお宅の玄関が開いて、可愛いおばあちゃんが顔を覗かせた。
だから、僕はにっこり笑って言ったんだ。
「サリュー!おばあちゃぁん!帰って来たよぉ?パリスをありがとうございましたぁ!」
「ミミ~!」
すると、彼女は僕を思いきりハグして…僕の手を掴んで、部屋の中へと連れて行ったんだ。
元々、こんな強引なおばあちゃんなんだ。
僕は、嫌じゃないよ?
だって、いっつもこんな時は…美味しい物をくれるんだもぉん!
思った通り…僕は、キッチンへ連れてこられた。
ジェンキンスさんのおばあちゃんは、ニコニコと笑いながら…オーブンから鉄板を取り出して、僕に言った。
「タラ~~~~ン!」
「ハッ…?!」
僕は、その鉄板の上の物を見て…愕然とした!!
だって…それは、パリスだったんだぁ!
「あぁ~~ん!おばあちゃぁん!だめぇん!パリスゥ!パリスゥ!」
「あっはっはっはっは!」
大笑いするおばあちゃんの前で、僕は大泣きしながらこう言った…
「パリスゥ~~~!カンバァ~~~ック!」
「コッコココココ…!」
すると、僕の足元に白くてフワフワの彼女が寄って来て、僕を見上げてこう言った。
「コッココケ!」
おっとぼけ…なんて、お茶目な事を彼女が言った様な気がして、僕はクスクス笑いながら涙を拭って言った。
「おったまげ!」
すると、ジェンキンスさんのおばあちゃんは、僕をテーブルに座らせて…美味しそうなどこかの鳥のお肉を振舞ってくれたんだ!
「わぁ~~~!良い香り~~!」
僕は分かった…。
これが前に教えてくれるって言ってた…ハーブを沢山使ったチキン料理なんだ!
家に置いて来た先生の事なんて忘れてしまった僕は、マフラーとコートを脱いで…すっかりジェンキンスさんの家で、美味しいチキンをご馳走になった。
「これは…何のハーブなのぉ?」
「ローズマリー」
へえ…!
僕は要らない紙を貰って、ジェンキンスさんのおばあちゃんの聞き取れる言葉だけをメモに書いて行った。
ローズマリーと…ローリエ…これはハーブだって知ってる。
それを…鶏肉のお腹に入れて…ウゲ…
フォークでブスブス刺す…これは、楽しそうだ…!
ジェンキンスさんのおばあちゃんは僕のメモを見ながら、首を傾げてフランス語で書き足しながらこう言った。
「先生…シルブプレ!」
先生に読んで貰えって言ってるんだ…
「ウィウィ!」
僕は何度も頷いてそう答えた。
ジェンキンスさんのおばあちゃんの作ったチキンは…とっても身が柔らかくって、ハーブのいい香りがして…あぁ、美味しかった。
「ごちそう様~~!」
僕はお土産の“ひよこ”と”東京バナナ”を置いて…パリスを抱っこして、マフラーとコートを着て…ジェンキンスさんのお宅を後にした。
日はすっかり落ちて…とっても寒い!
でも…僕は、温かいチキンを貰って来たから…それを湯たんぽ代わりにして、家まで急いで帰った。
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