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#117~#118

#117 ピンポン…ピピピピピンポン… 「やばい…変な人が来たぁ!」 異常な呼び鈴の音に、ノートパソコンにしがみ付いて俺が怯えていると、まもちゃんがすかした顔でこう言った。 「あぁ…北斗!バッカだなぁ…うちには、無敵の鉄壁…インターホンがあるじゃないかぁ!」 まもちゃんは、そんな余裕をかまして意気揚々とインターホンへ向かった。そして、すぐに、呼び鈴を押しまくる人を見て、大声で叫んだんだ! 「豪ちゃんだぁ~~~~~!」 「え?!」 目を丸くした俺は、インターホンに映った泣きじゃくる天使に…言葉を失った。 両手を口元に当てて、何度も涙を拭うような仕草を繰り返すあの子は、何かに怯えた様に…体を縮こませていた。 「…どうしたんだよ…」 慌てて階段を下りて玄関へ向かった俺は、扉を開いて…目の前のボロボロの天使を見つめて、息を飲んだ。 いつものあの子じゃない… すぐにそう察した俺は、俺を見て瞳を潤ませて動揺する豪ちゃんに言った。 「豪…どうした…?」 そんな俺の言葉に…あの子は堰を切った様に涙を流して、抱き付いて来た… だから、俺は…震えの止まらないあの子の体を、ギュッと抱きしめて…温める様に撫でてあげた。 どうしたんだ… 一体、どうすれば…強い君をこんなに傷付ける事が出来るの… あの子の荷物を持った俺は、泣きじゃくって腰の抜けてしまった豪ちゃんをまもちゃんに担がせて、2階の自宅へと向かった。 そして、ボロボロの豪ちゃんをソファに座らせて…泣き止むまで、隣で体を抱いてあげた。 震える体は治まる事なく震え続けて…俺は、この天使が、このまま死んでしまうんじゃないかと…本気で、心配になって来た。 「よしよし…もう泣かない…もう、泣かない…大丈夫だ…。俺が傍に居るだろ…?俺は誰だっけ…?豪。言ってごらん…?俺は誰…?」 涙と汗でグチョグチョになったあの子の髪をかき上げて、真っ赤になった目元を拭う手を退かした俺は、豪ちゃんの顔を覗き込んだ。 すると、あの子は…壊れてしまいそうな程瞳を揺らして、震える唇を動かしてこう言ったんだ… 「…ほ…ほっく…ん…」 「そうだよ。ほっくんだよ。」 理久は、一緒に居ないみたいだ… と、言う事は、この子は…ひとりで軽井沢に来た。 どうして…? 「…俺に、会いに来たの…?」 豪ちゃんの髪を撫でながらそう聞いた。すると、あの子は…思い出した様に泣きじゃくって…再び話せなくなってしまった。 「…豪ちゃん…お茶でも飲んで、落ち着こうね…」 まもちゃんはそう言うと、豪ちゃんが好きそうな、はちみつ入りのアイスティーを出して、ハートの形をしたストローを差してあげた。 すると、あの子は、凄い勢いでアイスティーを手に抱えて、ゴクゴクとストローを啜って飲み始めたんだ。 「美味しいぃ…」 ホッと落ち着いた表情を見せたあの子に安心した俺は、空になったグラスをまもちゃんに手渡して、こう言った。 「も…もう一杯…!」 「ラジャ!」 手応えを感じたまもちゃんは、再び紅茶を淹れ始めた。 「…惺山に、会いに…来たんだ…」 豪ちゃんは、ポツリとそう言って、真っ赤になってしまった目元に再び大粒の涙を溜めて、ボロリと音を立てさせながら落とした… 惺山…? 首を傾げた俺は、豪ちゃんの頬をそっと撫でながら、静かに尋ねた。 「…どうして会ったの…さよならしたんじゃないの…?」 そうだ… この子は、あの時、俺の目の前で…彼と別れた筈だ。 惺山は、豪ちゃんの願いを受けて…好きでもない女性と結婚をして子供を作った。モヤモヤが無くなったら…この子を迎えに行く… そんな算段だったんじゃないのか…?! 豪ちゃんの知らぬところで…全てを済ませてから、迎えに行くんじゃなかったのか…?! …惺山…!! 俺は、動揺を隠せないまま目を泳がせた。 すると、豪ちゃんは涙をボロボロと落としながら、悲痛な泣き声を上げてこう言ったんだ… 「さ…さよなら…したぁ…!でも…惺山が、ひっく…ひっく…!モヤモヤが消えたらぁ…!僕と一緒に…またなるって…言ったぁ…!でも、でもぉ…!僕は覚悟していたんだぁ…!もう、彼は、戻らないと…覚悟して、別れたぁ…!そのはずなのに…!そのはずだったのにぃ!ひっく…ひっく…!」 俺の膝に項垂れて体を揺らして泣く豪ちゃんは…まるで、翼がもげた天使の様に、痛々しかった… 惺山… 馬鹿野郎… 豪ちゃんは、二度と会わない決心を付けていたんだ。 なのに…惺山、お前は…この子に、そんな中途半端な余韻を残して…事が全て終わる前に、会う約束を取り付けていたのか…! しゃくりあげて泣き続ける豪ちゃんに…まもちゃんは言葉を失った様に立ち尽くした。 そして、あの子の髪を撫でる俺も…こんなに傷付いた天使をどうしてあげたら良いのか…分からないまま、目の前の光景に打ちのめされていた。 「…そ…それで…それでぇ、毎年…8月のこの日に会おうって…言ったぁ。でも…彼は…遅れて来て、知らない匂いを体に付けてぇ…知らない車に乗ってぇ…僕が、僕がぁ、大好きだった…あぁ…うっうう…!長い髪を、短く切っていたぁ…!あっああああ~~!会わなければ良かったぁ!会わなければ良かったぁ!!」 豪ちゃんは泣き声を悲鳴に変えて…俺の膝に突っ伏して泣いた… この子は、彼を愛している。 望んで、別れた訳じゃない。 生きていて欲しい一心で…離れたんだ。 そして、もう会わない決心を付けていたんだ。 なぜなら、徐々に心が離れて…変わって行く彼を見続ける事なんて、愛しているからこそ…辛いと、分かっていたから。 惺山は…そんな豪ちゃんの思いを聞いて、一旦お別れしたんだと思っていた。 モヤモヤが消えてなくなった後…迎えに行くんだと思っていた。 でも…違った。 彼は、雪の進軍の真っただ中に、豪ちゃんを連れて来て…あの子に一番見せてはいけない姿を見せてしまったんだ。 豪ちゃんじゃない、他の誰かを愛する姿を…見せてしまったんだ。 だから… だから! 事が全て済んだ後じゃないと…会ってはいけなかったんだ…!! こんな事なら…美しい思い出のまま、終わった方が良かったのかもしれない。 二度と会わない方が、良かったのかもしれない… 体を震わせた豪ちゃんは、俺の膝をナデナデしながら、しゃくりあげてこう言った… 「…ご…合成着色料の沢山入った…ひっく…食材を…買って来てぇ…。豪ちゃんに、沢山作って欲しい物があるからぁ、買い物に時間がかかってしまった…なんて、嘘をつかれたぁ…!僕は、あんな物を使って料理を作った事なんて…一度もないんだぁ…。一度もない!あんな体に悪い物…!一度だって…彼に食べさせたことなんて…無かったぁ…!!あぁ…!あぁああああ!!会わなければ良かったぁ…!こんなに、傷付くならぁ…!会わなければ良かったぁ…!!うわぁあああ…!!」 豪ちゃんは大絶叫の泣き声を上げると…パタリと眠ってしまった… 「…え、寝たの…?」 そんなまもちゃんの声に首を傾げた俺は、あの子の前髪を指で掻き分けて、力の抜けた天使の顔を見つめながら、こう言った。 「さぁ…どちらかというと、失神の方がしっくりくるかな…」 豪ちゃんは、毎年会おうと言った惺山の言葉通り…彼に会いに来てしまったんだ。 そして、変わってしまった彼を見て…現実に打ちのめされた。 酷だな… ふと、豪ちゃんの胸に見えたロケットを指先で手繰り寄せた俺は、中を覗き見て…眉を顰めた。 そこには、惺山の家で見た…豪ちゃんと彼が映っている写真が入っていたんだ。 何度も開いて見ていたのか…ロケットの表面の装飾部分が少しだけ色あせて見えた。 「豪、これを…糧にしていたの…?そうか…。頑張って…諦めようと思ったのにね…?お前は、苦渋の決断をして、別れを選んだのにね…。」 クスッと笑った俺は、あの子の汗ばんだおでこを撫でながら…涙を落した。 豪ちゃんは、物分かりの良い振りをしても、彼の言葉を糧にして…惺山が再び自分の元へ来てくれる事を…心のどこかで期待していたんだ。 毎年会おう…モヤモヤが消えたら、一緒になろう… その言葉を…信じて、支えにしていたんだ。 だからこそ…この子は、彼の変化に…拒絶反応を示してしまった。 当然だ。 …簡単に、割り切れる訳ない… だって、この子は…彼を愛してるんだ。 そして…いくら、賢くても…いくら、強くても…愛する者の前では、誰しも…無防備で、弱くて、脆くなるんだ。 「…どうする…?北斗…」 まもちゃんは豪ちゃんにタオルケットを掛けながらそう聞いて来た。だから俺は、あの子のロケットを元に戻して…こう言ったんだ。 「…どうもしない…。ただ、この子は…とっても、傷付いた…。それは…理久には伝えた方が良い。」 寝息を立てて眠る豪ちゃんをまもちゃんに任せた俺は、理久に電話を掛けようと…その場を離れて、携帯電話を手に持った。 すると…思わぬ人からの着信履歴に…ため息がこぼれた。 惺山… 俺は、すぐに彼に電話を掛け直した。 「…もしもし。」 「…はぁはぁ…お久しぶりです。森山です。つかぬ事をお伺いしますが…」 「豪ちゃんなら、うちに来てるよ…」 彼の言葉の先を読んだ俺は、そう言って、すぐに黙った… すると、惺山は気の抜けたような声を上げて、こう言ったんだ。 「はぁ…やっぱり…!軽井沢駅の、前…でしたよね…?すぐに迎えに行きます…」 「やめた方が良い…」 俺は惺山にそう言うと、押し黙ってしまった彼に…こう続けて言った。 「…豪ちゃんは強い、でも…惺山。あんたにだけは…とっても弱くて、デリケートなんだ…。多分、そんな事…俺に言われなくても、分かってると思うけど…。とにかく、今は…会わない方が良いと思う…。」 そんな俺の言葉に、彼は声を押し殺してこう言って来た… 「そんな事…何で、言われなくちゃ駄目なんだ…!ハッキリ言って、余計なお世話だ…!今から行きます…」 「駄目だ…!あの子は、弱ってる…。惺山。あんたの気持ちが分からない訳じゃない事をはっきり伝えて置く。でも、今は、駄目なんだ…。どうか…そっとしておいてあげてくれ…。今にも消えてしまいそうな位…ボロボロなんだよ。今も…泣き過ぎて…気絶した。そんな状態で、会っても…良い事なんて、何もない!」 俺は唇をかみしめながら…懇願する様にそう言った。 すると、電話口の彼は…すすり泣きながら、悲痛な声を上げてこう言ったんだ… 「…どうしてぇ…!この日を…この日を楽しみにして来たのに…!酷いじゃないか…!酷いじゃないかぁ!」 惺山… お前は、自分の気持ちが…あの子から離れて行っている事に、気が付いていないみたいな事を言うね。 自分を騙せたとしても、豪ちゃんの様に感受性が研ぎ澄まされた人には、取って付けた様な嘘は、すぐに見抜かれてしまうよ。 あんなに愛されたのに、あんなに思われたのに、あっけなく…惺山は、豪ちゃんという人を忘れたみたいだ。 分かってるさ… 彼だって、葛藤の中にいるってことぐらい分かってる。 だからこそ… 俺は、酷だと思ったが…彼に、こう言った。 「惺山…あの子は期待してしまっていたんだよ。あんたが、昔みたいに…自分を愛してくれているって、期待していたんだ。なあ…割り切れる訳、無いだろ…?あんたが、髪を切っただけで、動揺するんだ…。抱き付いた体から知らない匂いがしただけで、傷付くんだ!愛するあんたが…他の誰かといるという事実を、割り切れる訳が無いんだ!そんな事、初めから分かってた!あの子は、そんな自分を分かってたから、別れを選択した…!惺山!言わせてくれ!それでも、あの子と一緒になりたかったんなら…あんたは、全てが終わるまで…あの子と会ってはいけなかった…!いけなかったんだ…!」 俺はそう言いながら、涙を落として…床にへたり込んだ。 「惺山。あんたは…あの子の全てなんだ…。そして、あの子が、バイオリンを弾く…理由…。自分でそう言ってたじゃないか…。なのに、そんな…あんたが、どうして…あの子の大好きな髪を切った状態で、会おうなんて思ったんだよ…。豪が、何も思わないと思ったの…?それとも、あの子が自分の長い髪を気に入っていると言う事を忘れてしまったの…?そこに、豪は…あんたの心が、自分から離れた事を思い知って、打ちのめされたんじゃないのかよ…!」 そんな俺の言葉に、言葉を失った惺山は一方的に通話を切った… くそったれ…!! この事が原因で、あの子が、バイオリンを弾けなくなってしまったら…どうしよう… 俺はただ…そんな恐怖を感じながら、体を奥から震わせた。 あんなに自由に…あんなに楽しそうに、周りの人を笑顔にした天使が…翼をもがれた様に…自由を奪われてしまったら…どうしよう… あの、音色が…出せなくなったら… どうしよう… 俺の天使が、落ちてしまうかもしれない。 -- 彼の襟足の髪を指に絡めて、跳ね返って来る髪の感触を楽しむのが、好きだった。 指の間に通すと…冷たい感触がするのが、好きだった。 僕は瞼を開いて…目の前で変顔をするまもるを見つめた… 「…豪ちゃん、まもちゃんが、美味しいご飯を作ってやろうか…?」 そんな言葉を掛けてくるまもるを見つめた僕は…何を言ったら良いのか、分からなくなった。 だから、ぼんやりと彼を見つめ続けて、そのまま…ゆっくりと体を起こした。 どうして、ここにいるのか…どうして、バイオリンを持っているのか… どうして、こんなにも体が重たいのか…僕は、分からなかった。 「豪…」 すると、そんな聞き覚えのある…懐かしい声が聴こえて、僕は咄嗟に顔を上げた… 「…にちゃ…ん…」 そこには、ほっくんの隣で、悲しそうに眉を下げる兄ちゃんが居たんだ。 僕は咄嗟に込み上げてくる思いを押し潰して、出し辛くなった声で兄ちゃんを呼んだ。 兄ちゃんは、悲しそうに顔を歪めて…僕を、思いきり…強く、抱きしめてくれた。 あぁ…兄ちゃん… 久しぶりに感じた僕の兄ちゃんは…あったかくて、力強くて、大きかった。 「…どうした?豪!兄ちゃんの足は臭くないのか!」 ケラケラ笑いながらそう聞いて来る兄ちゃんの声に、潤んで行く瞳を歪めた僕は、ただ…両手でしがみ付く様に抱き付いて、喉に力を込めて…込み上げてくる泣き声を押し潰した。 「なんだよ!豪…!久しぶりに会ったのに…どうしたんだよ…どうして…」 どんどん兄ちゃんの声が震えて…僕を抱きしめる両手が、痛いくらいに僕を強く抱きしめるのに、僕はただ…兄ちゃんの体に顔を埋めて、震えてくる瞳に力を込めて…止める事しか出来なかった…。 すると、ほっくんが僕の顔を覗き込んで、こう聞いて来たんだ。 「…豪ちゃん。理久が今こっちに向かってる。どうする…?健太と一緒に居る…?理久と…一緒に居る…?」 その答えを、どうしたら良いのか…僕は、分からなかった。 だから、ほっくんを見つめたまま…何も答えずにいたんだ… 「豪…。兄ちゃんと一緒に居よう…ね?久しぶりなんだ。豪が、何か作ってくれよ…。兄ちゃんは、そぼろが食べたいな…。豪のそぼろが、毎朝…食べたくなってるんだ。な?作ってくれるだろ…?」 兄ちゃんは僕の髪をかき分けながら、顔を覗き込んで…そう言った。 その答えを、どうしたら良いのか…僕は、分からなかった。 だから、兄ちゃんを見つめたまま…何も答えずにいたんだ… ピンポン… 「理久だ!」 呼び鈴の音に、ほっくんはそう言うと、大急ぎで部屋を飛び出した。 そして、すぐに…階段を上がるドタドタと凄い足音が聴こえて来て、髪を振り乱した先生が部屋へ入って来たんだ。 ぼんやりする僕を見つけると、彼は眉を顰めながら、傍に来て…兄ちゃんと僕の隣に座ってこう言って来たんだ。 「…豪、うちへ帰ろう…」 そんな先生の言葉に、僕は、兄ちゃんの体から離れて、先生に抱き付いた。 そして、潤んでくる涙を押し殺して…泣き声なんて上げない様に、喉を絞ったんだ。 堪えているのは…悲しみ。 今更、後悔しても…遅くて、今更、悔やんでも…遅い。そんなどうしようもない悲しみ… 「…連れて帰ります。落ち着いたら必ず連絡をさせます…」 先生は、僕を心配する兄ちゃんにそう言って頭を下げた。 だから、僕は…兄ちゃんを見上げて、僕は、大丈夫だって…話しかけようとしたんだ。 でも、なんて話始めたら良いのか…分からなくなって、すぐに諦めて、下を向いて…黙った。 「豪…」 兄ちゃんはとっても心配そうな声を出した。 でも…僕は、何も言えない… ただ、先生の腕をギュッと掴んで、力なく項垂れる事しか…出来なかった。 「あっはっはっは…!」 すると、先生は突然ケラケラ笑って、ほっくんとまもるに向かってこう言ったんだ。 「…随分な一等地に、立派な家が出来たじゃないか!ねえ?豪ちゃんもビックリしただろ?こんな素敵なお家…。きっと、ビックリしたね?」 「…は?」 ほっくんの驚いた様な声を耳に聴きながら、僕は先生の顔を見つめて、コクリと頷いて答えた。 彼は、いつもと変わらない優しい笑顔で、僕を見つめていてくれたんだ。 「…あぁ、おかげさまで…」 ほっくんは戸惑いながらもそう答えて、僕の髪を優しく撫でてくれた。 心配そうに眉を下げたほっくんを見つめて、僕は…大丈夫だよって、教えてあげたいのに、上手く言葉が紡げなくて…やっぱり、何も言えなかった。 …僕は、兄ちゃんや、ほっくん…まもるを心配させてしまっているみたいだ… でも、口を開こうとすると、必要ない感情が込み上げてくるんだ。 それは、どれも今更な物ばかりで…意味なんて無い言葉で…話すだけ無駄なんだ。 彼に…会いに来た事が、間違いだった。 決心して別れを選んだ癖に… こうなる事は、分かっていた癖に… なのに、傷付くなんて…勝手なんだ。 僕は、先生の手に自分の手を重ねて…そっと、握った。 「ふふ。特に、下のウッドデッキは小さいながらも素敵だったね?豪ちゃんもそう思わないかい?帰ったら、早速真似してみようじゃないか…。」 そんな先生の言葉に、僕は彼を見つめたまま、コクリと頷いて答えた。 「兄ちゃんの…足は臭くないだろ…」 すると、僕と先生のやり取りを見ていた兄ちゃんが、突然…そんなセンシティブな話題をぶっ込んで来たんだ。 「…健太。」 ほっくんがドン引きする中…僕は、兄ちゃんの質問に首を横に振って、先生の胸に顔を埋めて抱き付いた。 「ふふ…」 すると、ほっくんは心配している顔を少しだけほぐして…小さく笑ったんだ。 だから、僕は…彼を見つめたまま…首を傾げて、眉を下げた。 ほっくん、僕は、大丈夫だよ… 本当は、こう伝えたいのに…僕は、何も言えなかった。 #118 豪ちゃんは…理久に連れられて東京へと帰った。 近所に住んでいる健太を呼んだのは、まもちゃんだ。 兄の存在の偉大さを知ってるからか…彼は、迷わず、健太を呼びに走ったんだ。 一人っ子の俺には分からない感覚だったけど、健太を見た豪ちゃんが、ホッと安心した様な表情を見せたから、あながち…その判断は間違っていなかったのかもしれない。 俺は、まもちゃんと一緒にやって来た健太に、事のあらましを伝えなかった… ただ、落ち込む事があった。…と、だけ、伝えたんだ。 でも、どうかな… あいつは、あの子があんな風になった原因を、言われなくとも…分かっている気がした。 理久に連れて行かれる弟の背中を見つめる瞳が、まるで、何かを悟っている様に落ち付いて見えたんだ。 「豪ちゃん…大丈夫かな…」 悲しそうな声を出して…まもちゃんがそう言った。 だから、俺は…首を横に振ってこう答えたんだ。 「…分からない。」 まるで…明かりが消えてしまった電球の様に、スイッチを切られたおもちゃの様に、あの子は静かになってしまった…。 相当…ショックだったんだろうな。 惺山と電話で話した後…俺は、すぐに理久に連絡を取ったんだ。 すると…彼はなんと、軽井沢のホテルに宿泊していたんだ。 …彼は、豪ちゃんを、ここまで送って来たと言っていた。 理久は、惺山とあの子が会う約束をしている事を…知っていたんだ。 「…そうか。」 俺の話を聞いた後…理久のそんなため息混じりの返事を聴いて、俺は苛立った気持ちを彼にぶつける様にこう言ったんだ。 「…どうして、会わせても良いって思ったんだよ…理久。あんたは、事のあらましを全て知ってるんだろう…?だとしたら、あの子を彼に会わせる事の、危うさも…分かっていた筈だよな…?」 …きっと、豪ちゃんは、惺山に会う事を楽しみにしていたんだ。 …きっと、昔の様に、自分を愛してくれていると…期待していたんだ。 そんな訳無いって…。 理久…お前だったら、十分に分かったはずじゃないか。 だから、俺は、あの子を惺山の元へ行かせた理久を非難したんだ。 すると、彼は…言葉を詰まらせてこう言ったんだ。 「…まさか、そんなに馬鹿だとは思わなかったんだ…」 それは…惺山に対する言葉だ。 軽蔑する様な…嫌気がさした様なそんな彼の声色に、俺は声を尖らせてこう言った。 「…惺山に対抗するなよ!彼だって、苦渋の選択をしてるんだ!」 「…俺だったら、そんな風にしない。」 そんな理久の言葉に頭に来た俺は、唇をかみしめて、彼にこう言った。 「自分の優位性を示すためだけに、あの子が傷付くと分かっていたのに、惺山の元へ行かせたんだとしたら、あんたは、最低だ!どんなに傷付いたと思う?どんなに悲しんでいると思う?理久は、そんなあの子を見ても、平気でいられるのかよっ!」 すると、彼はため息をついて、こんな話を始めたんだ。 「…去年の12月のコンサート前。俺は森山君に言ったんだ。あの子に期待を持たせる事をするなと…。彼の要らない余韻が、別れを選んだ豪ちゃんの決心を鈍らせたんだ。せっかく、自分の意思で音楽を楽しめる様になって来たのに、せっかく、バイオリンが好きになって来たというのに…。森山惺山という存在のある限り、あの子は、自分の為じゃなく、彼の為にバイオリンを弾き続けるだろう。それは、ハッキリ言って邪魔なんだ。あの子が、音楽と向き合う事を阻害している。」 …去年の12月のコンサート… 豪ちゃんが、俺の楽屋に遊びに来た時か… 確かに、惺山は言っていた。 豪ちゃんがバイオリンを弾く理由は、自分だと…。 もっと上手になりたいという思いも、誰よりも一番になりたいという欲も無い…と。 でも、あの子は変わったんだ。 俺の様に、バイオリンが上手になりたいと手紙に書いてあった… 理久は、その思いを…あの子に定着させたかった。 君は、森山惺山じゃなくて、音楽が好きなんだよって…気付いて欲しかったんだ。 でも、惺山が繋がっている限り…あの子は、彼に囚われてしまう。 まるで、自覚する事を躊躇う様に、全ての理由を彼に求めてしまうんだ。 音楽が好きなのは、彼が音楽を好きだから… バイオリンを弾くのは、彼が求めたから… 理久の所にいるのは、彼が自分を預けたから… そんな考えでは無くて、自分事として考えて欲しいと理久は思った様だ。 音楽を好きなのは、自分が好きだから。 バイオリンを弾くのは、自分が好きだから。 理久の傍に居るのは…もっと音楽を好きになる為… …そんな思いを自覚して欲しいと思っているんだ。 一理ある理久の考えに納得した俺は、鼻でため息をついて、電話の向こうの彼にこう聞いた。 「…それで、惺山はなんて言ったの…?」 俺の言葉に、理久は声を落としてこう言った。 「…余計なお世話だと、一蹴したね。彼はあの子の未来よりも、自分の思いを優先させたんだ。身を引いて、あの子を羽ばたかせる事よりも…自分に縛り付ける事を選んだ。その結果が、これだ。…馬鹿以外の何者でもないだろう?何が、愛だよ…」 …余計なお世話、ね。 良く言うよ… 特別な感情を抜きにしても、あの子の後見人として、理久はまともな意見を言ったと思うのに、惺山は聞かなかった様だ。 もしかしたら、惺山もまた、豪ちゃんの傍に居て、あの子に影響を与え続けている理久の存在に、嫉妬をしていたのかもしれない。 だから、理久の言葉を…素直に聞けなかった… しかし…彼がいては、あの子は、妙な足かせの付いた状態のまま… 「…だから、会わせたの…?」 そんな俺の問いかけに、理久はすぐにこう答えた。 「あの子は、強情だ。だから、こうするしかなかった…」 愛する森山惺山との約束を、あの子が反故する訳がない。 だから、こうするしかなかった… そんな理久の話に一定の理解を示した俺は、それでも食い下がってこう話したんだ。 「人は傍に居る人に…知らずに影響を受けてしまうものだ。それは…豪ちゃんも、惺山も同じ。問題はそれを許せる許容範囲があるかどうか…。豪ちゃんには、無かった。許せなかった…。なぜなら、あの子は…きちんと理解していなかったんだ。別れると言う事を、他の誰かと共になると言う事を、分かっていなかったんだ。だから…変わって行く彼を、許せなかった。惺山に会う前に…誰かが、その覚悟をさせるべきだったんだ。」 口では、言葉では、理屈では、綺麗事なんていくらでも言えるし…物分かりの良い振りだって出来るだろう。 でも、本音は違う。 「煩わしく思われても、口を酸っぱくして…言うべきだったんだ!人は変わってしまうと、教えてあげるべきだったんだ…!覚悟をさせてあげるべきだった…!あの子は、無防備で彼に会いに行ってしまった…!その、結果がこれだ!」 …心の奥から、愛する人の変化を納得できるか…? そんなの、大人の俺だって…きっと、無理だろう。 いくら人に言われた所で、納得なんて出来ないし、覚悟なんて決められない。 でも… 「あの子の翼はもがれた…」 …心づもりをさせておけば、こんなにも悲しみに暮れる結末を迎える事を避けられたんじゃないかって、どうしても…思ってしまうんだ。 理久は、敢えて…あの子を傷つけた。 そんな疑念が頭から離れて行かないんだ。 だから、俺は…容赦なく彼を詰って責めたんだ。 「これから迎えに行く…」 彼はそう言って電話を切ると、物の数分で、あの子を迎えに来て…連れて帰った。 「理久…」 暗くなって行く街を窓から眺めて、大事そうに豪ちゃんを車に乗せた彼の背中を思い出した俺は、ポツリと名前を呟いてため息を吐いた。 …理久は、森山惺山という存在を、あの子から離したいんだ。 それは、あの子の音楽への取り組みと成長を思っての思いと、自分の愛する天使を独占してしまいたい思い。そんな物が入り混じった物の様に感じた。 だから、傷付く事が分かっていても、敢えて…あの子を惺山に会わせて、別れを実感させた。 荒療治にならざるを得なかった理由は…あの子が強情で、人の話を聞かないから。 とどのつまり…そういう事なんだろう。 でも、理久。 あの子と惺山の間に、埋められない溝を作る事に必死で 愛する天使の翼を、もいでしまったんじゃないか…? ”会って話がしたい。“ 俺はそんなメールを惺山に送って、返信を期待しないまま…項垂れてため息をついた。 「はぁ…」 -- 「…豪ちゃん、美味しいラーメン屋さんに行こうか…?」 運転席に乗った先生は、僕の膝に手を置いてそう聞いて来た。だから、僕は先生の手を握って、こう答えたんだ。 「…はぁい…」 目の前に映る夜の高速道路は、等間隔に置かれた街灯だけが眩しく見えて…まるで、宙に浮いて、飛んでいる様な錯覚を僕に感じさせた。 僕は、そんな景色を焦点を合わせずに見つめて、自分の胸に手を当てて息を深く吐いた。 …惺山を助けたかったんだ。だから、良いじゃないかって…僕は思ってた。 でも…違かったみたいだ。 ぽっかりと穴が開いてしまった様に… 僕の大事な部分だけ無くなってしまった様に… 体の中に冷たい風が吹き続けているんだ。 遠く離れていたから、僕はどこか…まだ、彼と繋がっている気がしていた。 でも、違った。 彼と会って…彼を失うという事を、改めて、実感として感じてしまった。 それは僕が覚悟していた物よりも、もっと強い衝撃を与えて、嫉妬を抱かせて、どん底へと突き落とした。 どうして…髪を切ってしまったの…? 僕は、あなたの襟足の髪を指に絡めるのが、好きだったんだよ… 指の間に通すと冷たく感じる…あなたの長い髪を、かき分けるのが好きだったんだよ… あぁ、彼のピアノが聴きたかった。 そして…一緒に、また、きらきら星を空に上げたかった。 僕に音楽を教えて、自由を与えてくれた…惺山。 あなたを失う事は、自分を失う事と同じだ… 僕は…あの決断を下した時点で、自分を、手離していたんだ。 そんな事に、今更、気が付くなんて…馬鹿野郎だな… 僕は、運転席の先生を見つめて、彼に言った。 「…先生?」 込み上げてくる悲しみも、後悔も、辛くて張り裂けそうな胸も、僕は…誤魔化せる。 本当の事を言っても…良い事なんて、何も、無いもの。 彼を失った事を実感して、悲しい…なんて、言った所で、今更、どうしようも無いもの。 こんな感情も、思いも、知らんぷりしよう… 先生は、声を掛けた僕を横目に見て…首を傾げた。 「なぁに…豪ちゃん…?」 だから、僕は…クスクス笑いながら先生を見つめてこう言ったんだ。 「賭けは…僕の勝ちだぁ!だから、先生は死ぬまで…僕と、ご一緒コースだよぉ?」 すると、先生は…瞳を細めて、こう言ってくれたんだ。 「喜んで…」 お願いだよ…あなただけは、僕を裏切らないで… 僕を、捨てないで… 僕と先生は、美味しいラーメンを食べた後、東京のホテルにチェックインした。 僕は、あんなに悲しくて、傷付いて、大泣きしたのに…大きな穴がポッカリと胸の中に開いたおかげか、いつもの様に過ごす事が出来た。 きっと…僕は、ずっとそうして来たから…自分の気持ちを誤魔化す事に慣れているんだ。 そして、いつか…こんな事も忘れて行くんだ… 目の前に見える東京タワーは、真夏の夜の空気を纏って、悠々と赤く輝いていた。 そんな景色に夢中になっていると、窓辺の椅子に腰かけた先生は、いつもの様にワインを飲みながら、僕にこう聞いて来たんだ。 「東京タワーに行った事ある…?」 「…ん、なぁい!」 僕はそう答えると、先生の膝に座って…彼のおつまみのチーズを摘んで口の中へ入れた。そして、クスクス笑いながら言ったんだ。 「てっちゃんのお父さんも…こんなの食べてたぁ…!」 すると、先生は僕の腰を抱きしめて、背中に頬ずりしながら優しい声で言った。 「タラでチーズを挟むなんて…よく思いついたよねぇ…」 確かにそうだ… 思いついた人は…きっと、天才だ。 僕の腰を抱きしめる先生の手が、じんわりと温かくて…僕は、胸の奥の悲しみが疼いて来るのを感じた。 でも…その感情は、僕は要らないんだ。 だって…今更、嘆いても、仕方のない事だもの… だから、僕は、温かい先生の手をポンポン叩いて、彼を振り返ってこう言ったんだ。 「お風呂に入って来るぅ~!」 「可哀想に…真っ赤になって、痛そうだ…」 すると、先生はそう言って、僕の目じりを親指でそっと撫でた。 先生の指先が目じりに触れると、確かにヒリヒリした。 でも…それと同時に、再び…悲しい気持ちが沸き起こって来てしまうんだ。 だから、僕は震える瞳を隠す様に、彼に抱き付いて言ったんだ。 「…痛くない。でも…なんだか、馬鹿やっちゃった…」 「馬鹿…?」 先生は怪訝な声を出して、僕の顔を覗き込もうとした。 だから、僕は必死に彼の肩に顔を埋めて…泣き出しそうな顔を隠しながら、教えてあげたんだ。 「…そうだよ。僕は、彼を助けたかったんだ。だから、別れを決断した。なのに…いつまでも、彼に…縋っていた。それは…馬鹿だ。」 すると、先生は…僕を優しく抱きしめて頭を撫でながらこう言った… 「…好きだったんだ。仕方がないよ…」 「でも、あんな約束…するべきじゃなかった。自分を、余計に傷付けただけだった…。」 僕は、唇をかみしめてそう言った。 …覚悟していたんだ。 彼が誰かと家庭を築く事。それは…僕を忘れて行く事だと、分かっていた。 彼の命が助かるのなら…僕は、それで良かった筈じゃないか… それなのに それなのに… 愛する彼の前では…僕は、主観に支配されてそんな簡単な事も、分からなくなってしまうみたいだ。 僕の大好きだった長い髪を…バッサリと切った彼が許せなかった… 合成着色料の沢山入った食材を買って来て、僕に料理を作らせようとした彼が、許せなかった… ずっと…僕だけを愛して。 そんな、ひた隠しにしていた僕の本音は…ことごとく、現実の前に打ち砕かれたんだ… 馬鹿以外の何ものでもない。 窓の外を見つめながら、自嘲気味に口元を緩めた僕は、先生の膝から降りてお風呂へ向かった。 そして、服を脱ぎながら…彼に貰ったペンダントを首から外して、ゴミ箱へ入れた。 さようなら…僕。 もう…会わないよ。

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