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#119~#120

#119 「ここで…一昨年、一緒に過ごしたんです。あの時…もうじき死ぬと思っていた俺は、結局…2年も生き続けている…。」 縁側に一人腰かけた惺山は、自嘲気味にクスクス笑った。 そして、さっぱりすっきりした髪を項垂れさせて、俺とまもちゃんを横目に見てこう聞いて来たんだ… 「…あの子は…?」 俺は肩をすくめて、答えた。 「思いっきり泣いて…バタンと気絶して、理久と帰った…。健太が、近所に住んでてさ、飛んで来て…あの子を安心させてくれたんだ。」 「…健太。」 ため息と一緒にそう呟いた惺山は、項垂れた頭をもっと下に下げて…ぽたりと涙を落した。 すると、まもちゃんは縁側に腰かけて、隣に座る惺山に話し始めたんだ。 「…俺は、兄貴を自殺で亡くしてる。その復讐の為に、好きでもない女と結婚して…毎日、毒を盛って…最終的に内臓が悪くなった彼女は死んだんだ。」 は…?! 「まもちゃん!」 目を点にした俺は、咄嗟にまもちゃんに大きな声を上げた。すると、彼は俺を見つめてこう言ったんだ。 「良いんだ…。北斗。彼に聞いて欲しいんだ…」 「…悪い、冗談ですよね…?」 惺山はまもちゃんを横目に見てそう言った。 すると、まもちゃんは首を傾げて続けて言ったんだ。 「…俺はね、その女の親父を恨んでいた。そして、兄貴の自殺の原因になった…そいつの孫娘も恨んでいた。だから、孫娘も殺そうと思ってたんだ。ねえ…惺山さん、あなたは、どこまで覚悟してるの…?」 そんなまもちゃんの言葉に、惺山は眉を顰めて大きな声を上げた。 「…あんたに、関係ないだろ…!」 語気を荒くした惺山を静かに見つめて、まもちゃんは首を横に振って言った。 「関係なくない。豪ちゃんは、俺の、可愛い孫みたいなもんなんだ。だから、あの子の大好きな…あなたの覚悟が聞きたいんだ。北斗から聞いた…病弱な奥さんがいるんですよね…?そして、彼女は妊娠してる。その子供が生まれて、あなたの体の周りから…豪ちゃんが言う所の、モヤモヤってやつが無くなったら…あなたはどうするつもりですか…?」 すると、惺山はまもちゃんを睨みつけたまま…こう答えたんだ。 「あの子を…迎えに行く…!」 「だとしたら、奥さんと子供はどうするつもりですか…?」 まもちゃんは淡々と彼にそう聞いた。すると、惺山は仏頂面をもっと膨れさせてこう答えたんだ。 「関係ないだろっ!」 そんな彼を見つめたまもちゃんは、肩を落として諭す様にこう話した。 「…関係なくない。もし、捨てて行くつもりなら…綺麗に別れなさい。養育費はきちんと支払って…」 「死ぬんだよっ…!!」 惺山は、叫ぶ様にそう言うと…クッタリと項垂れた。 そして、涙を落としながら…ポツリポツリと、話し始めたんだ。 「豪ちゃんの話を受けて、俺は…すぐにホスピスに、慰問でピアノを弾きに行った。そして…もうすぐ死にそうな彼女に狙いを付けて、近付いた…。さっさと死んでくれるなら、遺恨を残さないだろうと思って…彼女と結婚をして、子供を作った。」 惺山はそう言うと…口を一文字に瞑って…押し殺したような声で話し続けた。 「でも…共に過ごす時間が増えて行くと、情が沸いて来て…自分が、とてつもなく、クズだと自覚するようになった…。」 あぁ…やっぱり… 惺山は…奥さんを、愛してしまったんだ。 そして、自分以外の誰かを愛する彼を見て…あの子は、想像をはるかに上回るショックを受けて、打ちのめされてしまったんだ。 背中を丸めたまま…惺山は、堰を切った様に話し続けた。 「余命…6カ月と言われた彼女は…妊娠が分かると、何としてでも…10月10日、お腹の中で子供を育てようと頑張った。そんな健気な姿を見たら…愛おしく思ってしまったんだ…。彼女の体力では、出産に耐えられないと医者に言われている…。病状もどんどん悪化していく一方だ。つまり、彼女は…豪ちゃんのお母さん同様…自分の命と引き換えに、子供を生む事になるんだ…。俺の…浅はかな考えのせいでね…」 そう言ったっきり、押し黙ってしまった惺山を見つめたまま…俺は何も言えなくなった。 彼は…子供を作る目的で相手を選んで…いつの間にか、自覚する事も無いまま、死にゆく彼女を愛してしまっていたんだ。 俺は、それを責める事なんて…出来ないよ。 彼は…良心の呵責に苦しんで、自分の選択を後悔しているんだ。 …豪ちゃん。 子供を作るって、家庭を築くって、こういう事なんだね。 そんな中で、ずっとお前だけを大事にする事なんて、無理だったんだ。 …それが分かっていたから、別れを選んだんだよね…? でも、彼に縋られて…嬉しかったんだね… まだ、愛し続けてくれるって、そう期待してしまったんだね… だから、傷付くって分かっているのに、約束を取り付けてしまった。 …まだ、彼が自分を愛し続けてくれるって希望が…捨てきれなかったんだ。 愛しているからこそ…手離せなかった… 可哀想に。俺の天使… あの時、俺が傍に居たのに… あの時、惺山の様子に疑問を感じたのに… 俺は何を見ていたんだろう。 もっと早くに気付いて、あの子に言ってあげるべきだった。 期待するなと…釘をさすべきだったんだ。 責めるべきは、理久じゃない… 節穴の目を持つ、俺自身だ。 目の前で、押し黙ってしまった惺山とまもちゃんを見つめて、俺は深いため息を吐いた。そして、あの子への後悔の思いを胸に抱いて天を仰いでこう言ったんだ。 「こんな満天の星空の下で、豪ちゃんの…きらきら星が聴きたかったな…。きっと、とっても可愛く星を飛ばしただろうに…。この場にあの子がいない事が…ただただ、残念でならない。」 そんな俺の言葉に、惺山は両手で顔を覆って、体を揺らしながら泣き始めた。 …惺山、あんたも…可哀想だな。 彼は、奥さんを愛すなんて思ってもみなかったんだ。 だから、豪ちゃんにあんな約束を取り付けて、毎年、会う約束なんてした。 しかし、現実は違った。 彼は奥さんを愛して、自分の言葉に期待を寄せてわざわざフランスから会いに来た豪ちゃんを、蔑ろにして、傷付けた。 …次から次へと溢れてくる涙は、あの子を思っての後悔の涙なのか… それとも、家に残して来た奥さんを心配しての涙なのか… 俺はね、彼の心の奥まで追求する事を躊躇して来たんだ。 …でも、あの子を傷つけた今は違う。 お前の覚悟を聞くまでは、帰るつもりも、帰すつもりも無いんだ。 そんな気持ちで、ここに来て、話をしているんだからね… …あの子の決心が揺らいだ根本の原因は、俺なんだ。 良かれと思って、あの子を煽ってまでも惺山と会わせてしまった。 …その結果が、これだ。 俺の選択が天使を傷つける結果に繋がったなんて、最悪じゃないか… 俺は、二度と…あの子を傷つける様な選択をしたくない。 …だから、俺の責任において、お前の覚悟を見極めさせてもらう…! 「子供はどうするの…?」 涙が落ち着いて来た惺山に、まもちゃんは眉を顰めてそう尋ねた。 すると、惺山は彼を横目に見て…こう答えたんだ。 「…育てたいと、思っています…」 「じゃあ…豪ちゃんは?どうするの?」 まもちゃんの声の調子がどんどん荒くなって行く様子に、俺は彼がイラついているのを察した。 復讐の為に心を鬼に出来た彼にとっては、自分の目的の為に誰かを利用して、心を痛めている惺山が…ぬるくて、甘く見えるのかもしれない。 俺はそこまで責める気なんて無いさ。 それは、良心って物があるから起こる事だからね。 問題は、もっと先の事なんだよ… すると、まもちゃんの苛つきなんて気付きもしない惺山は、俺の真似をして星を見上げてこう言ったんだ… 「豪ちゃんと一緒になって、あの子に…子供を育てて貰おうと思ってます。」 「はぁ~~~~?!」 俺は思わず、しかめっ面をしながら彼の頭を引っ叩くと、怒りを爆発させながらこう言ったんだ。 「お前、さいっていだなぁ…!しんみり懺悔したいなら…1人でやってろよっ!ひとりやもめで一生独身で生きて行けっ!お前が愛した女の子供を育てるなんて…あの子が、傷付くと思わないの?!何でそんなに馬鹿なの?!あの子に散々期待させて、梯子外して傷つけた癖に!…お前は、想像力が欠如しているっ!!クズだ!」 すると、惺山は…泣きながらケラケラ笑って、力なく項垂れてこう言った。 「だって…子供が欲しいって、豪ちゃんが…言ってたから…俺の、子供が欲しいって…言ってたんだ…。だから…だからぁ…」 はぁ…?! 信じられない!! 見た目はクールで男前な森山惺山は、とんでもない馬鹿で、クズで、最低な男だった。 それは、末っ子という事を加味したとしてもカバーできない程に、無謀で、無策で、無思慮で、無神経だった。 こいつは…馬鹿だ。 俺は一気に頭の中が混乱した。 こんな奴に、俺の天使を託すの…? あり得ない! 理久の方が、100倍も1000倍もマシだ! 年は取っているけど、繊細で、ジェントルマンで、優しくて、お金持ちで、地位と名誉もある様な理久の方が、あの子にお似合いだ! …しかしながら、あの子の望みは、この馬鹿な男なんだもんな。 わらけてきちゃうよ。 だから、俺は彼の頭を引っ叩いてこう言ったんだ。 「惺山。あの時、お前とあの子を会わせたのは、俺だ。それは、きちんとお別れを済ませる為に設けた機会だった。しかし!結果として、その事が原因で、あの子は打ちのめされる事態になった。俺はね、責任を感じているんだよ。」 そんな俺の言葉に、惺山は首を傾げてこう返した。 「…責任?どうして…?」 「…あの子の為を思ってした事が、あの子を傷つけたんだ。その事に責任を感じない訳無いだろ?俺は、豪ちゃんに幸せになって貰いたいんだ。お前なんて、その為の手段でしかないよ。ぶっちゃけ、奥さんの事も、お前の心情も、どうでも良いんだ。非情だと言われようと、最低だと罵られようとどうでも良い。だから、ここで、俺の目の前で、今すぐに、ハッキリさせろ!」 俺はそう言って、間抜けに口を開けっ放しにする惺山の顔を見下ろした。そして、顔を近付けて凄んで聞いたんだ。 「…豪を諦めるか、諦めないか、お前の気持ちを聞かせろ。それは、揺るがない物でなければならない。中途半端な思いであの子を語る事は許さない。なぜなら、あの子は…豪は、俺の天使だからだ!」 ギロリと眼光鋭く惺山を睨みつけたまま、彼の答えを待った。 諦めて、消え失せろ…! もう、二度と、あの子に近付くな…! そんな念を込めた俺の瞳を見つめ返して、惺山はこう答えた。 「…諦める訳がない。…あの子は、俺なんだ。」 くそっ! くそっっ!! 彼の答えに、俺は、思わず下唇を噛み締めて、歯を食いしばった。 すると、惺山は俺を見つめたままこう言ったんだ。 「…消え失せろ…。そう、思ったんですか…?」 「そうだな。そう思った。」 彼の言葉にすぐにそう返した俺は、体を起こして大きく伸びをした。そして、鼻からため息をついて続けて言ったんだ。 「…しかし、豪の好きな相手が、あんただけというのも事実だ。だとしたら、俺がする事はひとつ。もう、二度と、あんたがあの子を傷つけたりしない様に、監督する。」 「…監督…?」 俺は、怪訝な表情を見せる惺山を煽って見下ろした。 そして、こう言ったんだ。 「惺山、これだけは言わせてくれ。あの子は一旦は別れを選んだんだ。それは、お前が他の誰かを愛する現実を見たくなかったからだ。だけど、お前があの子を繋ぎとめた。毎年会おう。モヤモヤが無くなったら一緒になろう。まるで、不倫相手を唆す男みたいに、あの子を唆した。そして、結局…手段に使った女を愛して、あの子を傷つけた。それを、俺は、決して許さない!」 俺の言葉に震える唇を噛み締めて、惺山はジッと黙って頷いて答えた。 そんな彼を見下ろしたまま、俺は続けて言った。 「…あの子は、俺の天使だ。だから、これ以上の暴挙は許さない。俺がお前を監督して、俺の責任で事を進める!勝手は許さないぞ!これからは、俺と連絡を密に取って、勝手な判断で行動を起こすな!ここにいる、俺とまもちゃん…そして、惺山。お前は、ひとつの分隊になった。そして、その分隊の隊長は…俺だ!分かったか!これが守れないようなら、お前は除隊させて、排除して、駆逐して、抹殺してやる!」 「…分かった…」 惺山は、ダラリと項垂れてそう答えた。 彼の判断は、ことごとく…駄目な道を選んでばかりいる。 そう感じているのは、惺山、本人も然りの様子だ。 だから、こんなに素直に、俺の言う事を聞いているんだ。 俺は、惺山の隣で大きな背中を丸めるまもちゃんをジッと見つめた。 すると、彼は、何度も頷きながら…こんな事を言い始めたんだ。 「…さっきの話だけどさぁ…確かに、豪ちゃんなら、子供を育ててくれそうだなって…。何も言わずに、愛情を注いでくれそうだなって思った…。しかも、惺山!あなたはやっぱり、優しい人だったぁ!なんて言って…彼が奥さんを愛した事も、ひっくるめて…受け止めてくれそう…」 「はぁ~~~~~っ?!」 馬鹿な男が…もう一匹増えたね。 考えてみれば…この場に居る男は、馬鹿な末っ子と無責任な次男。 しっかり者の長男は、最年少の俺だけだ… だから俺は、お互いの顔を見つめ合って…徐々に通じ合い始める、まもちゃんと惺山に釘を刺してこう言ったんだ。 「馬鹿野郎ども、現実を見てくれよ。惺山が髪型を変えただけで死にそうに悲しむ豪ちゃんが、そんな事、簡単に受け入れる訳がない。あの子は、今…どん底に落ちているんだ。頼みの綱の理久は…ハッキリ言って、惺山をあの子から遠ざけ様としている。」 俺がそう言うと、まもちゃんが顔を歪めてこう言った。 「ったく!あの、ロリコンスケベ爺はぁ!どうしようもねえなぁ!」 そんな感情じゃない… 彼は、あの子を愛してるんだ…馬鹿野郎め! 惺山は、そんなまもちゃんを無視して、思いつめる様に口元に手を当てて、眉を顰めて話した。 「あの子は…俺の襟足を指に絡めるのが、大好きだったんだ…。中古で買った車も、あの子が選んでくれた物だった…。」 「そうだな…それをお前は、バッサリ、切ったんだ。」 そんな俺の言葉に口を歪めた惺山は、ポロポロと涙を落として話し続けた。 「今日…俺は、彼女が心配で…なかなか家を出られなかった。だから、買い物も…適当に籠に入れた物だった。なのに、咄嗟に嘘をついて…俺は、あの子がそれに気が付いていると分かっていたのに…分かっていたのに…どうして、あんな風にしてしまったんだろう…。きっと…きっと、傷付いたんだ…!俺の嘘に…心を痛めたんだ…!可哀想に…!可哀想に…!!」 両手で顔を覆った惺山は、思い出したかの様に再び項垂れて、ボロボロと涙を落として泣きじゃくりながら話し続けた。 「…ずっと、彼女に後ろめたさを感じて…あの子の手紙を読めずにいた。すると、だんだん…手紙からポストカードに変わって行って…この前届いた物は、ただ…元気です。とだけ、書かれたものだった…。可哀想で仕方が無かったのに、胸が痛んだのに…!俺は、目の前の彼女を優先してしまった…!!…きっと、寂しかったろうに…豪ちゃん…ごめんよ…ごめんよ…!」 「…申し訳ないが、俺は豪の事しか頭にない。彼女が死ぬ前提で話をする…」 今更な事をグダグダ言う惺山に苛ついた俺は、簡潔にそう言って話を終わらせた。 そして、俯いた彼の顔を覗き込んで淡々と言ったんだ。 「…今更言ってもどうしようもない後悔なんて、聞きたくない。俺が知りたいのは、お前が、豪をどうするかって事だけだ。奥さんが死んだ後…あの子をどうするんだ。迎えに行くのか?それとも…」 すると、惺山は…俺をジッと見つめてこう答えた。 「…待つ。ここで…待つ。」 そして、彼は自嘲気味に笑いながら続けて言った。 「元から…そのつもりだった…その、つもりだったんです…」 予定は未定なんだ… そのつもりも、どもつもりもない。 実際…お前は、奥さんを愛してしまったじゃないか。 俺は、項垂れて涙を落とし続ける彼に、ため息を吐きながら言った。 「…待つ。そう言ったな?俺とまもちゃんは、お前の思いを聞いたぞ。…だから、それが実現する様に協力をする。」 すると、彼は顔を上げて、信じられない…とばかりに、目を見開いて首を横に振って聞いて来たんだ。 「…ど、どうして…?」 俺はそんな惺山の問いかけに、首を傾げて答えた。 「言っただろ?俺たちは、同じ目的を持った分隊になったんだ。」 「どうして、そんなに…俺を助けてくれるんですか…?」 怪訝に表情を歪める惺山を見つめて、俺はそんな彼の問いに、こう答えた。 「勘違いするな。お前の為じゃない。俺の天使の幸せの為だ…」 そう。 俺は、惺山も、彼の奥さんも、どうでも良いんだ。 ただ、豪ちゃんが…あの子が、幸せになってくれればそれで良い。 惺山の居ない未来をあの子が望むなら、喜んで目の前の男を無視しよう。 罪悪感と、後悔に打ちのめされて、彼がひとりで野たれ死んでも構わない。 ただ、今のところ…あの子は、この男が好きなんだ。 惺山を助ける事は、あの子の幸せを願っていたら、避けては通れない道なだけだ。 俺の言葉にコクコクと頷き続けるまもちゃんを横目に見ながら、俺は、惺山をジッと見つめて、彼にこう言った。 「3日後…あの子は、新宿の公会堂でコンサートのソリストを務める。1日前と、当日の午前中にリハーサルをして、本番が終わったら、そのままフランスに帰る。長い公演の合間のスペシャル出演なんだ。俺は、それが失敗すると思ってる。だから、お前は会場に行って…あの子を立て直して…存在感を示せ。そして、グダグダ話し出さないで…すぐに姿を消すんだ。」 俺がそう言うと、目を見開いたまもちゃんは首を傾げてこう聞いて来た。 「どうして…?どうして失敗するなんて、思うんだよ。」 そんな彼を見つめた俺は、惺山と見つめ合って…首を横に振ってこう言ったんだ。 「…大好きな惺山が、自分よりも他の誰かに心変わりをした…。そんな事実を実感したあの子は、今、どん底だ…。上手にバイオリンを弾けるとは思えない…。醜態を晒す可能性の方が…高いんだ。」 すると、惺山はホロリと涙を落として…唇を噛み締めて力なく項垂れた… -- 「…うん。悪くないね…」 明日はオーケストラとのリハーサルがある。 だから、今日はスタジオを借りて、先生と一緒に個人練習をしていたんだ。 惺山のバイオリンを使いたくなかった僕は…先生のお高いバイオリンを借りた。 「キュルっと…キューティクルがある…音色がするぅ!」 ケラケラ笑ってそう言うと、先生は僕の弓を持つ右手を持ち上げて、眉を片方だけ上げてこう言ったんだ。 「バロックボウが…邪魔だと思う…」 なぁんだ… 僕は仕方なく弓を普通の物に変えた。 そして、もう一度初めから、バイオリンを弾き始めたんだ。 「あぁ…!断然、良いじゃないかぁ!」 上機嫌の先生を見つめて嬉しくなった僕は、情景を込めて…もっと、音色が美しくなるように体を伸ばして弾いた。 ”タイスの瞑想曲“… この曲を、オーケストラを伴奏に使って…僕だけがメロディを弾くなんて…超豪華な形でソロ演奏をするんだ。 それは…きっと、とっても美しいだろう… そう考えただけで、僕は…胸がいっぱいになってしまうよ。 だって、ポッカリと開いた穴の隙間風を忘れて、満たされた気持ちになれるんだ。 まるで、曲の情景や、音色…情緒に、助けて貰っているみたいに、傷付く事の無い、美しい世界にだけ…身を置けるんだもの。 「あぁ…美しい音色だぁ…はぁはぁ…」 そんな先生の楽しそうな声に、僕はにっこりと笑った。 本当…とっても、美しい音色なんだ…そして、このメロディが堪らない。 僕は、あまりの美しい旋律に…思わず瞳を閉じて、うっとりと体を揺らしながら”タイスの瞑想曲“を弾き続けた。 「ん~~!ブゥラボー!」 先生の渾身の誉め言葉を頂いた僕は、バイオリンを首から外して、ニッコリと微笑んだ。 「帰りにラーメンするぅ…?」 「その前に…お兄さんに連絡をしなさい。昨日、とっても心配なさってたから。」 バイオリンを綺麗に拭いた僕は、携帯電話を渡して来た先生に、肩をすくめて舌を出した。 だって、兄ちゃんと電話したら…彼の話をするかもしれないじゃないか… もう、思い出したくないのに。 「はぁ…」 ため息をつきながら先生の携帯電話で兄ちゃんの名前を探していると、ふと…彼の名前を見つけて、そのまま…スライドさせて素通りした。 そして、携帯電話を耳にあてながら、呼び出し音を聞いたんだ。 「…はい、もしもし…」 「…兄ちゃん?僕だよ?僕、僕ぅ…!」 僕は…兄ちゃんが僕僕詐欺に遭わないか…確認する為に、敢えてそう言ってみた。 すると、兄ちゃんは…まんまと、引っかかったんだ。 「…豪か?」 そう聞いて来た兄ちゃんにクスクス笑った僕は、ふざけた様に芝居がかった声でこう言った。 「あ~~!だぁめなんだぁ!名前を言って来ない人に…○○か?って聞いたら、もう…それは、詐欺に騙される人の一歩手前だよぉ?」 すると、兄ちゃんはクスクス笑って、落ち着いた声で…こう聞いて来たんだ。 「…もう、落ち着いたの…?」 「うん。大丈夫だよぉ…心配かけて、ごめんなさいぃ…。」 僕は兄ちゃんの言葉にそう答えると、弓に松脂を塗る先生の膝に乗って、足をブラブラと揺らした。 「…惺山と、何かあったの…?」 あぁ…やっぱり… 僕は、そんな兄ちゃんの言葉に押し黙ると、誤魔化す様に…こんなパワーワードを放ったんだ。 「兄ちゃん?昨日…足臭かったぁ…!ほっくんの家…臭くなっちゃったよぉ…?僕、恥ずかしくって…話せなくなっちゃったんだからぁ~!」 すると、僕を膝の上に乗せていた先生が、足を揺らして、首を横に振りながら僕を諫めた。そんな彼にクスクス笑った僕は、電話口で動揺する兄ちゃんの声を聞いて、頬を上げて笑った。 「…だぁっ!んぁっ、なぁんだ!そんな事ないだろっ!兄ちゃんは、最近…足だけ、柿渋石鹸で洗ってるんだぁ。だから、匂うはずがないだろぉ…?」 確かに、兄ちゃんの足は全然臭くなかった。 でも、僕は意地悪してこう言ったんだ。 「えぇ…?!それって…本物の、柿渋石鹸~?」 「偽物なんて無いだろ!馬鹿野郎!」 兄ちゃんの怒った声にゲラゲラ笑った僕は、先生に頭をペチンとされた。 だから、こう言って…おしゃべりを終わったんだ。 「僕は…元気だよ。だから、心配しないで…」 すると、兄ちゃんは口ごもりながらこう言った… 「…分かった…。あんまり、我儘を言うんじゃないよ…。」 「はぁ~い!」 僕は、そう言って電話を切った。そして、先生の胸ポケットに携帯電話を戻しながら、彼を見つめて言ったんだ。 「ねえ、先生?僕…あんなに泣いたのに…バイオリンが弾けるねえ…?」 すると、先生はケラケラ笑ってこう答えた。 「…もう、君の中でバイオリンは、彼の為に弾く物じゃなくなったんだよ。自分が楽しむ為に、弾いてるんだ。だから、骨折でもしない限り…問題なく弾けるんだ。」 わぁ…! にっこり笑った僕は、先生の眼鏡をカクカクさせながらこう聞いた。 「直生さんも言ってたぁ…。豪ちゃんは、バイオリンが好きみたいな事を言うって…」 すると、先生は弓をバイオリンケースにしまって、首を傾げながら話し始めた。 「…君は沢山の奏者と演奏をして来た。それは、トリオだったり…カルテットだったり、クインテッドだったり…オーケストラともある。癖の強いジャズバンドとも演奏をした。そして…どの演奏も、とっても楽しんだんだ。豪ちゃん?君は音楽が大好きだ。それは、彼が求めたからじゃない…君が好きだからやっているんだ。…そうだろ?」 そんな彼の言葉に、僕は力強くコクリと頷いて…こう答えた。 「ウィ!ムッシュー!」 僕は、惺山に執着する…僕を捨てた。 今は、大分…スッキリしている。 ただ、ポッカリと開いてしまった穴を持て余していたんだ。 でも、それも…何とかなりそうだ。 だって…曲の中に没頭すれば、そんな事を忘れられるって…気付いたから。 #120 「…電話で話したんだけどさ、めっちゃ元気だったよ。一体、何であんな大泣きしてたんだかっ…!どうせ、北斗が虐めたんだろ…?良くないよ、そう言うの…。可愛いは正義なんだからさ。無いものを持ってる人に、意地悪したって…自分が可愛くなる訳じゃないからね…?まもちゃんもさぁ、そこんところ…北斗に、ちゃんと教えてやってよ。大人だろ~?」 「えぇ…?!」 お昼休みに、お店にやって来た健太は、誤った思い込みの元に、まもちゃんにとくとくと説教を始めた。 「…北斗は…ほらぁ、可愛いと美しいが、半々だからさぁ~!」 健太に肩を組まれたまもちゃんは、キョロキョロと視線を泳がしながらそう言った。 すると、健太は、彼の淹れるコーヒーを見つめながらこう言ったんだ。 「…へえ。」 なんだ。 含みを持った…へぇ。だな… 眉を顰めた俺は、ギロリと健太を見つめて、そして…すぐに察した。 …まもちゃんの手元を見つめ続ける彼の表情は、腑に落ちない色を付けたままだったんだ。 「…解せないの…?」 健太を横目に見た俺は、彼にそう尋ねた。すると、彼は肩をすくめてこう答えたんだ。 「…なぁんか…また…思い出しちゃったんだよね。はぁ…。俺はさ、兄貴失格なんだよ。…豪が、自分の気持ちを隠して生きていたなんて、気が付かなかった…馬鹿兄貴なんだ。あいつは、自分の事を“豪ちゃん”なんて呼んでさ…馬鹿みたいだったんだ。」 すまない…今もそんなに変わらない。 俺はそんな思いを胸にそっとしまって、憂鬱に翳る健太の表情を見つめた。 「電話で話した時の…やけに明るい声が、そんな当時を、思い出させるんだよ…。あいつは、本当の事を言っていないって…そう、思ってしまうんだ。」 へぇ… ジッと表情を曇らせてそう語った健太は、もれなくイケメンに見えた。 まもちゃんからコーヒーを受け取った彼は、深いため息をひとつ吐いてこう言った。 「…惺山が、そんな豪を助けてくれたんだ。そして、豪が…俺に本当の事を話す、きっかけを作ってくれた。あいつは、俺の兄貴みたいな奴だけど…豪の大事な人なんだ。だから…だから、知りたいんだ。あいつが、今、どうしてるのか…。それが、豪があんな風に泣いた理由なんじゃないかって…考えが、頭から拭えないんだよ。」 ビンゴだ… 俺は、兄の力の前に…降参した。だから、健太にこう言ったんだ。 「…森山惺山。知ってる。そして、豪ちゃんと彼の事も知ってる。言わなかった事を、許してくれ…。」 そんな俺の言葉に、意外にも健太は落ち着いた様子でこう言ったんだ。 「…だと思った。」 なぁんだと!! そして、続けてこう聞いて来たんだ。 「…それって、俺に言えない状況だったって事だろ…?なあ、あいつは、死んだのか…?だから…豪は、あんなに取り乱したのか…?」 まもちゃんのアイランドキッチンを指先で撫でながら、伏し目がちに健太はそう聞いて来た。だから、俺は、彼に…全てを話したんだ。 だって…彼も、知る必要があると思ったんだ。 惺山は生きている事。豪ちゃんの願いを受けて、あの子と一旦の別れを選択した事。 それでも、諦めきれずに…あの子に期待を持たせてしまった事。 そして…あの子が深く傷ついてしまった事。 惺山が、俺たちに…あの場所であの子を待つと話した事… 全て、包み隠さず、健太に伝えた。 すると、彼は口を一文字にして、項垂れながらため息を吐いた。 「あぁ…そうか…それで…それで…」 そう言ったっきり…健太は唇をかみしめたまま、大粒の涙を幾つも落として、言葉を詰まらせた。 そして、黙々と啜り続けたコーヒーを飲み終える頃…ポツリとこう言ったんだ。 「…多分、豪は戻って来るよ。あいつは、頑固者だから、引っ叩いても本音を言わないかもしれない。でも、はぁ…惺山だけなんだ…。あいつが大好きなのは、彼だけなんだ…。だから、きっと…彼の元へ戻って来る…。だから、そん時はよろしくな…。」 「あったり前だろっ!」 突然、まもちゃんは、鼻息を荒くしてそう言った。 ダラダラと両目から涙を流して健太を見つめた彼は、唇を噛み締めてこう言ったんだ。 「俺と、北斗に、任せろってんだぁ!」 すると、健太はにっこり笑って、まもちゃんの胸を、ぐーパンしてこう言った。 「…よろしく頼むぜ!まもちゃん!」 ぷぷっ! 胸を押さえて途端に大人しくなったまもちゃんは、目をキョロキョロさせながらニヤニヤ笑って彼の言葉にこう答えた… 「…う、うん…分かったぁ…!」 ウケる… 俺様な健太に…理想の兄貴像でも当てはめているのか… 護は、かなり年下の健太に従順なんだ。 子弟、子分、弟…その姿はまさに…みっともなかった。 でも、俺は嫌いじゃないよ…? こんな、まもちゃんも、守備範囲だ! しかし…兄というものは、偉大だな。 豪ちゃんの声色や話し方ひとつに…そんな引っ掛かりを感じたんだもん。 「ご馳走さん!またな!」 スッキリした表情に戻った健太は、ケラケラ笑いながら店を後にした。 そんな彼の様子を見た俺は、本当に豪ちゃんが戻って来る気がして、不安が少しだけ解消されたんだ。 兄貴の言う事だ…間違いはないだろう… 豪ちゃん… 惺山の子供は、10月に産まれるそうだ。 その後…お前の言う所の、モヤモヤが消えたら…彼はお前と一緒になりたいそうだ。 あの家で、お前が帰って来るのを待つ。そう言ったんだ… だから…戻っておいで。 「…理久先生は、そんな豪ちゃんの変化、気付きもしないんだろうな!」 まもちゃんは、俺のマグカップにコーヒーを注ぎながら吐き捨てる様にそう言った。 そうかな… 「…それは、無いと思うよ…?」 俺は、彼からコーヒーを受け取ると椅子に腰かけてこう言った。 「…理久は、あの子の変化に気付くさ…。だって、一番…あの子に近い場所に居るんだから。」 「はぁ~!悪戯されてないと良いけど、心配だよ!」 そんなまもちゃんの言葉にクスクス笑った俺は、肩をすくめてこう言った。 「…あのふたりを見ただろ…?豪ちゃんは、理久が来た途端…健太を放って、彼に抱き付いたんだ。あの子は理久を信用してる。そして、頼ってる。それに…一番近いって言ったのは、距離の問題じゃない。心が近いんだ…。あのふたりは、妙なんだ。普通の定規じゃ測れない、妙な関係なんだよ…。」 俺がそう言うと、まもちゃんは首を横に振りながらこう言った。 「…だとしたら、理久先生が、豪ちゃんを促すしかないだろうね…。惺山の元へ帰った方が良いよって…促すしかないだろうね?」 そうだね… 俺も、そう思ってる。 そして…それが、難しいとも思ってる。 -- 「さあ…今日はリハーサルだ。」 「はぁい…」 僕は、先生のたっかいバイオリンを手に持って、オーケストラがリハーサルを行っているスタジオへやって来た。 ワクワクする? うん!とっても…ワクワクしてる! だって…今回のコンマスさんは、どんな人なのか…気になっちゃうんだ。 フランスでも、ソリストのお仕事をいくつかしたんだ。 その時、ハッキリ分かった。 コンマスって凄いんだって…! 指揮者は、所謂…代えの効く人。それに対して、コンマスは代えの効かない人。 オーケストラのボスは、指揮者じゃなくて…コンマスさんなんだ。 バイオリンのトップでありながら、全てのパートを束ねて、指揮者と、楽団を繋ぐお仕事をしてるんだもん。偉そうにして当然だよね? 「こんにちはぁ~。よろしくお願いしますぅ~。豪ですぅ。」 僕は先生の後に続いてスタジオに入ると、すぐに頭を下げてご挨拶をした。 すると、オーケストラはまばらな拍手で迎えてくれた。 ドキドキ…ドキドキ… 指揮者の人と、コンマスさんにご挨拶をして、もう一度、オーケストラの人たちに頭を下げた。 先生が言ってた。挨拶は大事だって。 そして、ふんぞり返ってると…幸太郎になる。とも、教えてくれた。 もちろん…昔のって言ってたよ? だって、今の幸太郎は、良い犬になったもん。 「では、豪さん…“タイスの瞑想曲”を初めからお願いします。」 そんな言葉を掛けられた僕は、バイオリンをケースから取り出して、指揮者の隣に立った。そして、首に挟んで、右手に持った弓をそっと弦に置いて、指揮者を見つめたんだ。 彼は、僕を横目に見て、指揮棒を振り始めた。 だから、僕は弓を引きながら美しい音色を旋律に乗せて紡ぎ始めたんだ。 すると、すぐに指揮者の目の色が変わったのが分かった。 僕は、そんな彼を無視したまま…オーケストラの音色と一緒に、ゆったりと、美しくて、途切れる事の無い、一本の音色を紡いで行ったんだ。 あぁ…素敵だぁ… まるで、静けさの中の…ほんの少しの和らぎの様なこの旋律は…本当に、美しい。 僕は、最後の最後まで、掠れて消えそうな高音の音色を細く…でも、温かく弾いた。 指揮者が指揮棒を下ろして、僕はバイオリンを首から外した。 そして、首を傾げて指揮者を見上げた。 すると、彼は満面の笑顔になって、僕に言ったんだ。 「…素晴らしい!!噂通りの…美しい音色だ!!」 わぁ…! 「キャッキャッキャッキャ!」 僕は嬉しくなってクルリと回って、ポーズを取りながらこう言った。 「やったぁ~~!」 すると、指揮者もコンマスも、オーケストラも…一気に緊張が解けた様に、ニッコリと笑ってくれた。 初めての時は、少しだけ緊張しちゃう。でも、すぐに…仲良くなれる。 こうして音を交わして、一曲を弾くだけで…おしゃべりなんてするよりも、もっと早く仲良くなれるんだぁ… 僕は、それをニューオリンズで教えてもらった。 始めこそ訝し気に僕を見ていたジャズマンたちは、僕が彼らのメロディに加わった瞬間、みんな笑顔になってくれたんだ。 そして、曲を吹き終えた僕を、思いっきり抱きしめて、褒めてくれた。 言葉なんて分からなくても、音楽は…人と人を繋げてくれるんだって、そう思って…感動したんだ。 だって、彼らは、言葉で意思疎通を図る事なんて、どうでも良いって思ってるみたいに、音色で話しかけてくれたから。 だから、僕は安心して…彼らとのセッションを楽しむ事が出来たんだ。 特に、ジャズマンのアドリブは最高に興奮した。 僕の耳が追い付かない位に…目まぐるしく転がっていく旋律は、追いかけるよりも遠くから見た方が良いって、トランペットのおじさんが教えてくれた。 僕はその言葉の意味なんて分からなかった。 でも、先生は、いつか分かる日が来るから…覚えておきなさいって、そう言った。 僕は、そこで、毎晩の様にジャズバンドとセッションをして、チップなんて…お小遣いも、お客さんから沢山もらっちゃった! 先生は、豪ちゃんのお仕事がもし無くなったら、ニューオリンズで一緒に老後を過ごそうって、言ってくれた。 でも…多分、先生の方が早く死んじゃう。 だから、僕は、先生がニューオリンズで死んでから、フランスに戻って来ようって考えてるんだ。 だって、放ったらかしの畑が、とっても…心配だったんだもん。 パリスも、ニューオリンズを楽しんでいたよ? 彼女は、どこでも…気高くて、上品で、人気者だったんだ。 「良い人ばっかだったねぇ~?」 僕は先生と手を繋ぎながらスタジオを後にした。 すると、先生は首を傾げてこう言ったんだ。 「良い人ばかりじゃない…意地悪な人もいる!でも…君の圧倒的な音色の前には、みんな…降参せざるを得ないんだよ。だから、みんな…君には、良い人に見えるだけ!」 そんな彼の言葉にケラケラ笑った僕は、先生の手をブンブン振り回して…高く上げて、くぐって…高く上げて、くぐって…を繰り返していた。 体の周りにモヤモヤを纏わりつかせた人が居ても…僕は、もう怖くない。 それが無くなる方法も、僕とは関係の無い事だって言う事も、分かったもの… だから、顔を下げないで、先生の笑顔だけ見つめながら…まるでワルツを踊るみたいに、くるくると回って…彼に抱き付いたんだ。 「今日の音色は、一段と素晴らしかった…まるで、陶酔してるみたいだったね。」 僕の髪を撫でながら先生がそう言った。だから、僕は首を傾げて肩をすくめて見せた。 「…そう?」 すると、彼は僕をジッと見つめて…瞳を細めて返した。 先生がこんな顔をする時…思考を巡らせている時だって…僕は、知ってる。 だから、僕は…黙って先生の体にしがみ付いて…好きなだけ考えさせてあげた。 「豪ちゃん…夜ご飯は、何を食べる…?」 そんな事を考えてたの?! 思いもよらない先生の言葉にクスクス笑った僕は、体を揺らしながらこう答えた。 「すき焼き~~!」 「あっはっはっは!…じゃあ、すき焼きを食べに行こう…!」 やったぁ! 言ってみるもんだぁ…! 僕はスキップしながら先生を見つめてこう言った。 「やったぁ~!」 すると、僕と先生の目の前に…惺山がやって来て、短くて見慣れない髪型でこう言って来たんだ。 「豪ちゃん…この間は、ごめんね…」 だから、僕は先生と繋いだ手を強く握りながら、彼を無視して通り過ぎたんだ。 怒ってる訳じゃない…拗ねてる訳でも、不貞腐れてる訳でもない。 ただ、彼は、もう…関係のない人なんだ。 「森山君…もう、この子に構わないでくれ…」 先生は惺山にそう言った。すると、彼は…瞳を細めて…僕にこう話して来たんだ。 「…きらきら星を、君と一緒に…空に上げたいんだ…」 きらきら星… そんな言葉に、込み上げてくる思いを胸の奥で堪えた僕は、感情を切り離す様に無表情になった。 「森山君…君は、またそんな事を言って…」 「先生…?僕、自分で言えるよ…」 ムッとした顔の先生を見上げて、僕はそう言った。 そして、惺山を見上げて、自分の思いを伝えたんだ。 「…惺山さん。僕は、あなたに生きて欲しい…。だから、お別れしたんです。あなたが他の誰かを好きになる事に傷ついたりするのは、間違っていた。だって、あなたは、もう…僕とは関係のない人なんだから。お別れを決めた時…そんな事、覚悟していたんです。だから、どうぞ、気にしないで下さい…。もう、お会いする事もない…。さようなら…」 そんな僕の言葉に、彼は眉間にしわを寄せてこう言った。 「約束を破らないで…豪ちゃん。」 約束… それを先に破ったのは、あなたじゃないか… 僕だけを愛してくれると言っていたのに、あなたは…僕を裏切ったじゃないか。 そんな溢れてくる…醜くて、自分勝手な思いに必死に蓋をした僕は、彼を見上げて首を横に振って言ったんだ。 「そんな約束、あなたを縛るだけだ…。僕は、あなたを縛らない。」 「お前は…俺の天使だろっ?!」 惺山は顔を歪めてそう言うと、僕に手を伸ばして腕を掴もうとして来た。 すると、先生は、僕を自分の背中に隠して…彼にこう言ったんだ。 「森山君…これ以上、この子を混乱させないでくれ。明日、コンサートのソリストの大役を控えてるんだ…。だから、止めてくれ…」 「豪ちゃぁん!」 そんな悲痛な声を上げる彼を見ても…顔を歪めて涙を流す彼を見ても… 僕は、なんとも…思わないんだ。 胸にポッカリと開いてしまったあなたという穴を、僕は…音楽を奏でる事で、忘れる事が出来るもの。 音楽の中は…どれだけ主観が介入しても、どんな形になっても、失敗なんて物には、ならないもの。 「僕は、天使じゃない…。あなたを散々振り回した…悪魔です。惺山さん。あなたは…もう、自由だ。どうぞ、お元気で…」 僕は淡々とそう言うと、先生の手を繋ぎ直して、そのまま惺山に背中を向けて歩き始めた。 これで良いんだ。 彼は、誰かを、愛してる。 …だから、これで良いんだ。 次の日… 控室で僕は、素敵な“燕尾服”というしっぽの付いた…黒いスーツを着せてもらった。 ピリッと決まった姿に嬉しくなった僕は、先生を見ながら…偉そうに胸を張って歩いて見せたんだ。その度に、ひとつに縛った長い髪が、お馬のしっぽの様に揺れて、おかしくて、クスクス笑った。 「そうだ、これを拾ったんだ…」 すると、先生はそう言って、僕に…ごみ箱に捨てた筈の…あの、ネックレスを手渡して来たんだ。 「あぁ…もう…これは要らないんだぁ…」 僕は、手のひらに乗ったそれを見つめて、表情を固めてそう言った。 そして、すぐに再びゴミ箱の中へ、放り込んだんだ。 すると、先生は、そんな僕の後ろを追いかけて来て、ゴミ箱からネックレスを拾い上げると、自分の胸ポケットにしまってしまったんだ。 そして、肩をすくめてこう言って来た。 「…じゃあ、俺が貰っておこう。」 変なの… 僕は先生と同じ様に肩をすくめて、そんな彼を見つめた。 …そして、本番を迎えた。 「お行儀良くね…?」 先生の言葉に頷いた僕は、袖から…ステージへと向かって歩いた。 ほっくんの様に…凛と、澄まして、姿勢を正しく…美しく。 そして、リハーサル通り…指揮者にお辞儀をして、オーケストラにもお辞儀をした。 最後に、客席を見つめて…丁寧なお辞儀をした。 ほっぺがピリピリするくらいの拍手の波を貰った僕は、バイオリンを首に挟んで、弓を美しく構えた。 そして、指揮者の指揮棒と一緒に…”タイスの瞑想曲”を弾き始めたんだ。 リハーサルの時にも感じた… この場所の音の跳ね返りは、最高に心地良い。 自分の音色と、オーケストラの音色がひとつに合わさって…お客さんの上をゆったりと波を作りながら、川の様に…永遠と流れて行くんだ。 その光景は…まさに、美しく紡がれた生地の様で、少しの揺らぎにもはためく姿が…とても、美しかった。 「…素晴らしい…!」 そんな指揮者の言葉に、僕はお返しとばかりに…もっと音色に情緒を込めた。 決して途切れる事の無い一本の糸を、太く紡いだり…細く紡いだり… それは、コットンから糸を紡ぐ、糸車の様だ。 どうか…この旋律よ、終わらないで… 永遠に続いてよ。 僕に…僕に、このまま…弾かせ続けてよ… この曲が終わったら、僕は再び…現実へと戻らなくては行けなくなる。 だから、この美しい情景も、旋律も、オーケストラの束になった音色も、永遠に…永遠に続いて、僕を…ここに、この美しい場所に、閉じ込めてくれ… うっとりと陶酔しながら高音の音色を最後まで伸ばした僕は、指揮棒と同時に、音を止めて…バイオリンを首から離した。 「ワァーーーーッ!!ブラボーーー!」 お客さんの歓声の津波を全身に浴びた僕は、深々とお辞儀をして…指揮者と、オーケストラにお礼のお辞儀をした。そして、先生の待つ…袖へと、凛と澄ましたまま、歩いて向かったんだ。 「素晴らしかったぁ…!!鳥肌が立ったぞ!」 そんな彼の笑顔と…言葉と、ギュッと抱きしめてくれる体が、大好き… バイオリンの音色と、先生だけは…決して、僕を裏切らない。 僕を、傷つけたり…しないんだ。

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