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#122~#124

#122 …3年後 「届いた!届いたぁ~!」 ルンルン気分のまもちゃんは、アイランドキッチンの上に届いたばかりの小包を置いて、ビリビリと包装を破り始めた。 中から出て来たのは、英字で書かれた海外の音楽雑誌… 彼はそれを手に持つと、鼻歌なんて歌いながらペラペラと捲って、にんまりと笑いながら、俺に見せて来たんだ。 「北斗~~!豪ちゃんが、豪ちゃんが!やったぞ!!」 ふふっ! まもちゃんが笑顔で掲げてくる雑誌に目を向けた俺は、ニヤけてくる顔を抑えながら、英語で書かれた記事を読み上げた。 「…イギリス王室のお抱え奏者となった…天使のバイオリニスト、豪。彼の紡ぐ音色は、聴く人の心を癒すだろう…。ははっ!大昇進だな!」 そんな記事の横には、豪ちゃんが素敵な燕尾服を着て、ロイヤルファミリーの隣に映っている写真が載っていた。 …あの子は、この3年の間、まるで差し馬の如く、数々の賞を受賞して行ったんだ。 それは、ロシアで行われた物から…アメリカで行われた物まで、バイオリンという名目の付くコンクールなら何でも良いみたいに、節操なく制覇して行ったんだ。 …突然現れた眩しい程の新星に、クラシック界ならず、音楽業界は激震した。 ギフテッドという存在と、型にはまらない音楽という物に、改めて注目をする様になったんだ。 それは、図らずも…惺山の求めた様な、強烈なパンチをかまして、今までの序列を崩して行った。 自分の頭で考えられない四角四面の奏者はお払い箱となって、今まで肩身の狭い思いをして来たオリジナリティあふれる奏者が注目を浴びる…そんな、ねじれ現象を起こしたんだ。 今までの価値観が逆転した下克上劇は、まるでマイノリティの逆襲だ!と、マスコミに揶揄されて、取り沙汰された。 そして、晴れてこの度…あの子は、ロイヤルファミリーの専属奏者となったんだ。 これで、理久も過去の有象無象に手を煩わされる事も無くなっただろう。 よくやった…豪。 お前は、高みを登りつめたじゃないか… 間違いなく、唯一無二の奏者だ。 「ヴィ…ヴィ…ビル…ヴィル…」 「ヴィルトゥオーソ…イタリア語で、優秀な演奏家って意味だ。」 英語で書かれた記事に目を落としたまもちゃんは、下唇をしきりに噛んで、ヴィ…の発音に熱心だった。…だから、俺はそんなうんちくを教えてあげたんだ。 超絶技巧なんて物を極めたり…優秀だと認められた者がそう呼ばれるんだ。 それは、音楽だけじゃなく、芸術関係において評価された者にも与えられる…称号のような、枕詞の様な…そんな物だ。 すると、俺の言葉に目を丸くしたまもちゃんが、どんどん瞳を潤ませ始めて、震える声でこう言ったんだ。 「優秀な演奏家…?豪ちゃんが…?あの子が…そう、呼ばれる様になったって事か…?」 そうだね… 俺だって、理久だって、直生や伊織だって、そんな呼ばれ方された事なかった。 これは、大変、名誉な事だ。 だけど… 俺は、まもちゃんの顔を覗き込んで、大爆笑しながらこう言ったんだ。 「あっはっは!当の本人は、そんな他人の評価…気にもしていないだろうけどね?ホント、わらけてきちゃうよ!!」 他人の主観に自分の価値を決めさせるな。それは、あの子の…信念だ。 きっと、こんな呼び方をされたとしても、なんとも思っていないんだ。 「しかし…豪ちゃんは、美人さんになったなぁ!」 まもちゃんは雑誌の中の豪ちゃんを見つめて、そう言った。そして、アイランドキッチンに我が物顔で座る惺山に、雑誌を差し出して、首を傾げてみせた。 「どう思うぅ~?」 そんなまもちゃんの言葉に、惺山は、膝に抱えた子供を抱き直して、瞳を細めてこう答えたんだ。 「…どうかな。少し、悲しそうに見える…」 ふぅん… あながち…間違ってはいない。 森山惺山。 彼は、奥さんを亡くした後…軽井沢に引っ越して来て、あの子の育った故郷で子育てをしながら、作曲家の仕事を続けている。 豪ちゃんの幼馴染とその家族たちは、彼の定住を心から喜んで…ひとりやもめの彼を、献身的に助けてくれているんだ。 それは、ミルクの与え方から、おむつの交換の仕方まで… まるで小姑の様に、目を光らせては…ダメ人間な惺山の子育てをカバーしてくれていた。 ひとつの大きな家族の様だ。なんて…彼は言っていた。 確かに… いつも、誰かが助けてくれる状況は…初めての育児をひとりでする彼にとって、安心出来る環境である事は…間違いがない。 そして、意外にも…まもちゃんの存在も…大きかったんだ。 だって、彼は…離乳食を作ったり、おむつを換えたり、時には、仕事に忙しい惺山の変わりに、赤ちゃんをおんぶして世話を代わったりしていたんだからね。 赤ちゃんを代わる代わる抱っこして軽井沢を歩く姿は、イケメンの同性カップルが、子育てしていると…話題になる程だったんだ。 そして、通じ合った…次男と末っ子は、俺の予想をはるかに超えて、仲良くなって行った。 惺山は、俺では無く…まもちゃんに、色々な事を相談している様子だ。 まぁ、良いんじゃない…と、長男の俺は思っているよ? 馬鹿は馬鹿同士でつるみたがるもんだ。 負け惜しみじゃないさ… 「確かに…最近写ってる写真は、どれも悲しそうだな…」 まもちゃんはそう言うと、豪ちゃんの切り抜きを集めたスクラップを取り出して、惺山と肩を寄せ合って眺め始めた… ”天使の記録“…そう名付けられたスクラップブックには、海外で活躍するあの子の切り抜きや、写真が無数にまとめられているんだ。 よくいるだろ…? 有名人の通う店の店主が、まるで…自分の子供の事の様に、有名人の記事をスクラップにして、集めているってやつ。 護も、それを豪ちゃん相手に、やってるんだ… それも、もう…4冊目に突入した。 その他にも、まもちゃんは、あの子が出演したコンサート、リサイタル、全てのDVDを網羅してるんだ。 ある意味…彼は、豪ちゃんの大ファンなんだよ。 でも… 3年も姿を見せていないあの子を、案じてそうしてるって…俺は、気付いているんだ。 だから、海外から発送されるお高いDVDにだって、目を瞑ってる。 豪ちゃんは、あの日…理久と一緒に帰ったっきり、軽井沢に戻って来ていないんだ。 豪ちゃん… 会えないあの子を思って…俺は意図せずに、小さなため息を吐いた。 すると、バイオリンを首に挟んだマミちゃんが俺の足元へやって来て、首を伸ばして言ったんだ。 「てんて~!指がいたぁい!」 ふふっ!そらそうだぁ…! 俺は、マミちゃんの左手の指を直しながら、彼女の顔を覗き込んでクスクス笑った。 「マミちゃん?指がグチャグチャになっちゃってる。もっと…この指と、この指を離して…楽に持つんだ。」 「あぁ~!つるぅ~!てんて~!つるぅ~!」 ははっ!おっかしい!! 幼児の音楽教室をやってて面白いのは、こういう所だ… ほんと、可愛いんだよなぁ。 俺ってば、意外と子供が好きなのかもしれない…そんな優しくて、母性溢れた気持ちが芽生えて来ちゃうんだもん。参ったね。 「てんて~は、ケラケラ笑うだけじゃなくて、ちゃんとマミちゃん達にどうやったら楽に指を置けるのか…教えてやんなさいよっ!」 そんなまもちゃんの叱咤激励を受けた俺は、憩いのアイランドキッチンから離れて、一音を伸ばす練習をしている3歳児クラスへと戻った。 そして、マミちゃんの手を支えながらこう言ったんだ。 「手首でクイッとすると…痛くなるから、肘からこう…もっと、グイっと…そうそう!そんな感じで持ってごらん?そして…そんなに、顎に、グリグリしなくても良いんだ。ぷぷっ…!あぁ…!そんなに、顎で挟まなくても良いんだぁ…んふふっ!んふふふ!」 「てんて~!キモ~イ!」 ったく、こんな言葉はいっちょ前に覚えるんだもん…やんなるよ。 「わぁ~い!キモォ~イ!」 「キモイ!キモォ~イ!」 5名ほど集まったの3歳児たちは、マミちゃんの悪い言葉を皮切りに、キモイなんて言葉を俺に向かって連呼し始めた… まるで制御を失った…猿だ。 そんな彼らを見下ろした俺は、ギロリと眼光鋭くこう言ったんだ。 「良いかい?そんな言葉は使っちゃ駄目だ!なぜなら、失礼だからね?だから、先生にも…誰にも、言ったら駄目だ…!」 すると、ビビった子供たちは…大人しく運指の練習を再開したんだ。 …まったく!ヤレヤレだな! この猿の軍団は、隙を見せるとすぐに統率を失うんだ! 俺の音楽教室…グランシャリオは、優しくて美人の先生が居て、イケメンのカフェ店主が見守る教室として、軽井沢で異色を放って…評判になっているんだ。 まぁ。少し盛ったかな… 実際の所は…子供の習い事が終わるまで、良くしゃべる店主と、コーヒーを飲みながら雑談が出来る…そんな、お手軽な音楽教室として親しまれているんだ。 しかしながら、中学生、高校生クラスにもなると、将来を見据えたバイオリニストの卵たちが、足しげく通ってくるのも事実だ。 特に、海外での演奏経験が多い俺の経歴は、意識の高い母親のお眼鏡に掛かって、評判が良いんだ。 海外遠征の手ほどきや、心構え、その他…コンクールの雰囲気や課題曲の選定なんて物まで、実際、経験して来ている俺の話は、具体的かつ、実用性の高い生きた情報となって、そこら辺のバイオリニストとは一線を画してる。 ふふん…!どうだ! 今までの経験…なにひとつ、俺は無駄にしていないだろ? 音楽教室を開いて…もうすぐ4年。 色々な子供や大人に、バイオリンや、ピアノ、チェロを教えて来た。 それは、自分の自信にもつながって、奏でる音色を変化させ続けているんだ。 でもね、人に教えるという事がだんだんと分かって来ると…時々…考え込んでしまう時があるんだ。 音楽は…音を楽しむもの… 1番も2番も、競争も、勝ち負けも無い… 誰かの主観で、自分の価値を決めるな。 そんな豪ちゃんの言葉を思い出しては、項垂れて…考え込んでしまう。 そうあれたらどんなに良い事だろうか…とね。 残念な事に、発表会、コンクールを経験していくと、他人の評価ばかり気にする様になってしまうのは、当然の事なんだ。 理想と現実…これは、ある意味、ジレンマだ。 でも… あの子の音楽観が世界中に広がれば…そんな根底は崩れていくのかもしれない。 理想を望む事を馬鹿にされずに…現実を生きれる時代が来るかもしれない。 俺のような者にとっては、そんな時代は…厳しい物になるかもしれないけど… 目の前の子供たちが、いつまでも音楽を好きでいてくれるんだとしたら…これほど嬉しい事は無い。 「…今年は、何を贈ったんだっけ…?」 アイランドキッチンでは、未だに雑談に花が咲いていた… 今年の豪ちゃんの誕生日に、何を贈ったのか…?なんて、そんな話題を展開している様だ… ちなみに、俺は…セクシーなエプロンをプレゼントしてあげた。 ムキムキの体が印刷されているエプロンで、身に付けるだけで、誰でもパーフェクトボディになれるんだ… まもちゃんの問いかけに、惺山は首を傾げながら答えた。 「あぁ…えっと、俺のCDと…シンプルなキャップを贈った。…でも、すぐに先生から電話が来て…CDはとりあえず見せてみるけど、期待するなって言われた。キャップは自分からの物って言って渡すからって、言われた…。」 「なぁんだ!理久先生は…!お邪魔虫だな!」 まもちゃんは鼻息荒くそう言うと、オラついてゴリラになった。 俺はそんな彼らを遠目で見つめながら、板挟みにあっている理久を思った。 彼は…ずっと、豪ちゃんを守ってる。 あの子が、これ以上傷付かない様に、守ってるんだ。 俺さえ、3年も、あの子に会えていない。 いくら遊びにおいでって誘っても、理久が…首を縦に振らないんだ。 …理由は明確だ。 豪ちゃんは…心を閉ざした様に、表情が乏しくなって、以前の明るさを失くしてしまったんだ。 だけど…音楽を奏でる時だけは…息を吹き返した様に、生き生きとするそうだ… 惺山を失った後遺症は、こんな形であの子を荒ませた。 可哀想だね… そんなあの子を、どうしたら助けてあげられるのか…彼は、考えあぐねている。 …だから、俺は、今年も性懲りもなく、軽井沢へ誘うんだ…。 あの子を、無事に彼の元に返す事が…俺の役目だからね。 -- 「…先生の…ブルーノートスケールの、きらきら星が好き…」 僕は、足元で眠るパリスを起こさない様に、ゆっくりと体を動かして、先生の胸に抱き付いた。 自然と落ちて行く瞼は、まるで…眠たいみたいに重たくなって行った… …先生の弾く“きらきら星”は、洗練されているんだ。 わざと外した和音のコードが、まるで…先生みたいで、好き。 そんな小粋でお洒落な”きらきら星“が、頭の中をずっと…流れて聴こえるんだ。 このまま…ずっと聴いていても、飽きたりしない。 …とっても、心地良いんだ… 「…じゃあ、また弾いてあげるよ。」 先生はそう言って僕の髪にキスをすると、ニッコリと優しく笑いかけてくれた。 「…うん。」 僕はそう呟いて、彼の唇にキスをした。 溶けてしまう様なブルーノートの和音は、まるで…先生みたい… 斜に構えていて…どんな変化球もすました顔で跳ね返して…動じたりしない。 いつだって…どんな時だって…どんな僕だって、優しく、包み込んでくれるんだ。 「先生…僕に、優しくして…」 僕は、そんな言葉を口走って…先生の首に顔を埋めた。 ベッドはフカフカで、先生はあったかくて、お布団はお日様の匂いがするのに…どうしてか、そんな言葉を口走ったんだ。 「ふふっ…俺はいつだって…豪には、優しくしているのに…」 先生の言葉に口元を緩めた僕は、クスクス笑って彼の耳を食んだ。 今年も、また…4月がやって来て、僕がフランスへ来て、5年が経った… 唯一無二のバイオリニストになれたかどうか…それは、分からない。 だって…結局のところ、それも…下らない、誰かの主観じゃないか。 3年前の10月…彼の奥さんは、子供を産んだ後…亡くなった。 先生は、すぐに…僕に、携帯電話の中の写真を見せた。 そこには、僕の知らない彼が、小さな赤ちゃんと、一緒に映っていた… 僕は、それを見て…こう言ったんだ。 「…モヤモヤは消えている。彼は、自由だ…」 あんなに願った事なのに… あんなに、切望したのに… 僕は、淡々とそう告げた。 そして、先生が涙を落としながら彼にメールをするのを横目に見て…書斎を出たんだ。 赤ちゃんと一緒に映っていた彼からは、きれいさっぱり…モヤモヤが消えていた。 でも、写真に写った彼は、とても悲しそうな瞳をしていたんだ。 愛する奥さんが亡くなってしまって、きっと…とても、悲しかったんだろうね… …僕には、関係の無い事だ。 そんなどうでも良い事を思い出した僕は、眉を顰めて、口を一文字に結んだ。 すると、僕の髪を撫でていた先生が、こう言ったんだ。 「…豪ちゃん。北斗が…遊びに来いって言ってるよ?」 え…? その言葉に我に返った僕は、にっこり笑いながら体を揺らして言ったんだ。 「…わぁい!やったぁ…!」 ほっくん… 久しぶりに、あなたの名前を聞いたよ… でも…どうかな…? 僕は、あなたが望むような姿じゃないかもしれない… 僕は、あの時…もう、死んだんだ。 彼と別れを選んだ時点で…僕は、自分を捨ててしまった。 だから、ずっと、ポッカリと胸に穴が開いてるんだ。 どんなに美しい音色を奏でる事が出来ても、どんなに素晴らしい人の前で演奏をしても、どんなに人々に楽しみを与える事が出来ても、どんなに音を楽しんで音楽をしても、どんなに…どんなに…満たされても… 僕の胸に空いた穴は…変わらなかった。 いつか、埋まるかもしれないし…このまま、冷たい風が吹き続けるかもしれない… でも、音楽を奏でている間だけは…僕は、そんな事を忘れる事が出来るんだ。 そんな僕に会っても、あなたは、がっかりしてしまうかもしれないね… 「どうしたの…?乗り気じゃないの…?」 僕の顔を覗き込んで、先生が心配そうにそう聞いて来た。だから、僕はクスクス笑ってこう答えたんだ。 「…ふふぅ!嬉しいよぉ…?でも、眠かったんだぁ…」 こうして、自分の気持ちをひた隠しにして生きる事に、僕は…慣れっこだ。 心の内側なんて、言わなければ、誰にも分からない。 僕の奏でる音色は美しいままだし…人を笑顔にする事も変わらない。 だから、燻って、疼いて、痛み続ける胸の奥を…無視出来るんだ。 願わくば…ずっと、休む事無く、バイオリンを弾き続けていたい。 そうすれば、もう…誰も、傷付かないし…僕も、傷付かないで生きていられる。 音楽の美しい情景の中で、音色に揺られて…生きていられるんだ。 そう出来たら良いのに…って、いつも思ってる。 でも…それは無理なんだ。 だから、音楽…そのものの様な彼の傍で、美しい音色の彼に、癒されてる。 「豪ちゃん…俺に、話してごらん…?」 先生はそう言うと、僕の頬を優しく撫でながら…瞳を細めて微笑んだ。 僕はそんな彼の頬を撫で返して、頬ずりして、こう言ったんだ。 「…先生。優しいね…。でも、本当に…何でもないんだぁ…」 僕の愛した惺山が助かって…一番喜んだのは、先生だった。 「豪のやった事は、無駄じゃなかったじゃないか…!!君が彼を助けたんだよ…!沢山、頑張ったね…!沢山、辛かっただろう…!でも…君はやり遂げた…。彼を助けたんだ…!」 淡々とする僕に、先生は何度もそう言って…強く、抱きしめてくれた。 それは、もしかしたら…彼のこれからを喜ぶ物では無くて、ただ、僕を、褒めてくれていただけなのかもしれない… 彼を助ける為に…心の声を押し殺して、彼を手離して、自分を捨てた僕を…褒めてくれたのかもしれない。 「…へぇ。」 その時の僕は…ただ、そう言って…窓の外で、風に吹かれる落ち葉を眺めた。 先生は、しばらく、彼が僕を迎えに来るかもしれないと思っていた様だけど…そんな事は起こらないと、僕は知っていた。 だから…そんなのは杞憂だって言って、笑ってあげたんだ。 今更、僕になんて…用は無いさ… そんな事、誰に言われなくとも…分かってるんだ。 #123 「…彼は、どうしてるの…?」 理久は唐突にそう聞いて、俺の返答を待った。 無言になった電話口からは、何か書き物でもしているのか…ペンが紙の上を走る音が聴こえた。 理久は…やっと、豪ちゃんに、俺の誘いを話したんだ。 すると、豪ちゃんは2つ返事で行くと答えたそうだ。 可愛いだろ…? …だから、俺は、その打ち合わせで…理久と電話をしていたんだ。 でも、彼は飛行機の時間や、新幹線の時間よりも…他の事が気になっている様子だった… 彼はどうしてるの…?そんな理久の問いかけに、俺は、こう答えた。 「彼は…あの子の故郷に住んでる。あの子と一緒に過ごした家を、少しばかり改装して…娘と一緒に住んでるよ。あれからずっと、豪ちゃんの帰りを…待ってるんだ。」 俺がそう言うと、電話口の理久は押し黙った。 そして、しばらくの沈黙の後…ポツリとこう言ったんだ。 「…俺の、愛しい天使を…お返しする時が来たのかな…」 それは、落ち込んでいる様な…残念がる様な、でも…どこか、納得したような声だった。 「…返す気はあるの?」 俺は、至極真面目に…彼にそう問いかけた。 すると、理久は…ため息をついて、あっけらかんと…こう答えたんだ。 「…無かった!でも…あの子の様子を見ていると、痛々しくて、可哀想で、胸が痛い…!酷な事に…あんなに心を閉ざしていても、あの子の音色は美しいままなんだ…。音楽を奏でている時だけ、とても楽しそうに…曲の中の情景に没頭している。…まるで、憑りつかれている様に神がかって、聴く者を圧倒している…。きっと…情景の中だけが…安らげる場所なんだ。ふふ…可哀想だと思わないかい…?」 声をどんどんと落として行った理久は、ひとしきり話すと、ため息をついて…押し黙った。 彼は、豪ちゃんを、愛している。 それは、父親や、保護者のそれとは違う、愛しい人を思う…愛情だ。 だからこそ…あの子の痛々しい様子に、悩んで、心を痛めて…耐えかねて… 惺山の元へ、あの子を返す決心を付けてくれたんだ… 「…彼は、後悔していたよ。全てが終わるまで、会うべきじゃなかったと…後悔していたよ。」 俺は電話口の理久にそう言った。すると、彼は乾いた笑いを吐き出して、声を荒げたんだ。 「はっ!俺だったら…そうした!俺だったら、女を好きになる事も無かった!あの子を傷つける事も、無駄に期待させる事も、俺ならしないで、事を全て終えられた!」 そうだね…理久… あなたなら、きっと…何食わぬ顔をして、あの子の元へ戻って…犠牲にした妻や子供の事など忘れて、暮らす事が出来るだろう… でも、彼は違うんだ。 「…豪ちゃんは、あなたの事を愛しているよ。だからあなたの傍にいるんだ。愛して、信頼しているから傍に居るんだ。でも、あの子には、人生を懸けて…何よりも、守りたかった人が居るんだ。だから、その人の元へ…返してあげよう。」 俺がそう言うと、理久は声を押し殺して…泣き始めた。 あぁ…全く… そんなに、大好きなのか… 彼は、堪え切れないのか…泣きじゃくりながら、縋りつく様に…俺にこう言ったんだ。 「…も、もう…傷付いて欲しくないんだぁ…!悲しんで欲しくないんだぁ…!酷い男だ!酷い男じゃないかぁ!あの人に…愛されたくせに、期待させたくせに、糞野郎じゃないかぁ!!彼の元へ行って…また、傷つけられたら…どうするんだよぉ!あんまりじゃないかぁ!あんまりじゃないかぁ!!」 そうだね…そうだね… 喚き散らす理久の声に、俺は涙を流しながら…見えもしないのに、頷き続けた。 「…それでも、あの子は…森山惺山の、天使なんだ…」 そんな涙混じりの俺の言葉に、電話の向こうで…理久がしゃくりあげながら言った。 「…分かってる!だけど…だけど…あいつは、あの子を…雁字搦めにして!手足を縛って!翼をもぎ取ったぁ…!何が、愛だ!何が、愛だぁ!あいつがした事は…あの子の為になんてなって無い!全て、自分の事ばかりじゃないかぁ!会いたいじゃねんだよっ!!寂しいじゃねんだよっ!豪が…豪が!どれ程苦しんだのか!どれ程、我慢し続けたのか!そんなあの子の足元にも及ばない癖に、弱気な事ばかり言って…!足を引っ張って…!挙句の果てに傷付けたぁ!あんな奴!死ねば良かったんだぁ!」 …そうだね。 俺も…そう思うよ。 でも… それでも… 「…あの子は、惺山を愛してる。だから…今も、苦しんでいるんだ。そうだろ…?理久。主観を捨てたら…物事は、至ってシンプルなんだ。」 「はは…笑える…」 理久は、泣きながらケラケラ笑った…そして、深いため息をついて、続けて言ったんだ。 「…北斗。お前に託す…。あの子が、俺の大切な人が、これ以上傷付かない様に…守って、導いてやってくれ…」 それは…一言で言うと、懇願だ。 俺は、理久に懇願された… そんな彼の言葉に、俺は体を震わせてこう答えたんだ。 「大丈夫…。大丈夫だ!豪ちゃんには、俺が付いてる!俺が傍に付いてるんだ!…何も心配しなくて良い!全て、上手くやってやる!俺は、あの子に…返しきれないくらいの借りがあるんだ!今が…そんな借りを、お返しする時なんだ…!理久、俺を信じてくれ!あの子を、惺山に返してあげようじゃないか…!そうしたら、きっと…あの子は、もっと美しく、もっと高く、空へと舞い上がれるんだからっ!」 一度は、もげてしまった翼を、再び…あの子に、付けてあげよう… 森山惺山という、天使の翼を…再び、あの子に取り戻してあげようじゃないか!! 理久は、力なく、俺の言葉に相槌を打って…電話を切った。 俺は、音楽の師であり、人生の父、母…そんな存在の彼に、天使を守る任を受けた。 愛するあの子を、俺に託してくれるなんて…光栄だよ、理久。 唇を硬く結んだ俺は、ベッドの上で…あの子の写真が纏められた、スクラップ#4を開いて眺めた。そして、悲しげな笑顔を見せる天使の頬を指先で撫でて、ポツリと呟いたんだ。 「…惺山の所へ帰ろうね…豪。」 幼い子供の頃から、豪ちゃんは…10年間も、自分を偽って生きて来た。 それは、唯一の肉親である兄でさえも欺く…そんな徹底的な自衛だった。 惺山はそれを頑固者…と言っていたが、俺は、違うと思う。 あの子は…とても強い子なんだ。 そうする事が、他の人も…自分も傷付かない方法だと思って…必死に、ひとりで耐えたんだ。 …だけど、どんなに強い人でも…ずっと、強いままでは居られない。 その事を教えてくれたのは…他でもない、豪ちゃんだ。 「もう…良い。もう…頑張らなくて良い。大好きな…惺山に会おうね…?」 あの子は、今も…必死に歯を食いしばって、耐えてる。 そんな事…もう、しなくても良いんだよ… 込み上げてくる思いを喉で留めた俺は、スクラップブックを閉じて…そっと枕元に置いた。 俺は、あの子のお陰で…今、とっても幸せなんだ。 これからの未来に音楽を教える幸せと、愛する人が傍に居てくれる幸せ。 そして、大好きなバイオリンを弾いて…お客さんを楽しませる事が出来る喜びを感じて、生きている。 だから、豪ちゃん… 今度は、俺が…お前を助けてあげる。 これが…きっと、大奥様が言っていた”お返しをする時“なんだ。 -- 「…そうだ、豪ちゃん。これを、そろそろ返しても良いかい…?」 空港へ向かう車の中、先生はそう言うと、胸ポケットをゴソゴソして…僕に手を差し出した。だから、僕は首を傾げたまま、手を出してそれを受け取ったんだ… 「あ…」 それは…3年前、僕がごみ箱に捨てたペンダント… 先生が、貰うと言って…胸ポケットにしまったペンダントだった。 言葉を失った僕は、ただ…瞳を揺らしてそれを見つめ続けた。 ロケットの中身を見たくて、堪らなくなって、必死に堪えながら…手の中にギュッと包んだ。そして…先生を見上げて、こう言ったんだ。 「…ずっと、持ってたのぉ?」 すると、彼は肩をすくめてこう言った… 「…まあね?」 まあね…? …どうして、今、これを僕に渡したんだろう。 「…変なのぉ…」 手の中に感じるロケットの感触に、昔の思い出を思い出して…僕は、込み上げてくる感情を抑えきれずに、咄嗟に顔を窓に向けて、涙をボタリと落とした。 すると、先生は前を見つめたまま…僕に話し始めたんだ。 「豪ちゃん…。俺は、あなたを愛してるよ…。だから、見て見ぬ振りが出来ないんだ。悲しみをこらえ続けるあなたを、見ていられない。どうか…硬くなった心を解して、自分に素直になるんだ。音色を紡ぐ時の様に…情景を思い描く時の様に…。あなたは、曲の中だけじゃない…今も、自由にして良いんだよ…?」 え… 僕は涙を必死に拭って、先生をチラチラ見ながらこう言った。 「なぁんだぁ!何の事言ってるのか…分かんないもん!ばぁ~か!」 「豪ちゃんは、何歳になったのぉ~!もう、20歳でしょ~!ばぁ~か!なんて言わないんだぁ!まぁったく!」 ケラケラ笑った先生は、僕の髪を撫でてこう言った。 「良いかい…?俺が聞いた言葉の中で、一番…好きな言葉がある。“命は…儚くて、思ったよりも無機質だ…。産まれてくる意味なんて…本当は無い。でも、その出来事に理由を付けるとしたら…何かをする為に産まれて来たと思いたくない…。ただ、幸せになる為に…産まれて来たって思いたい…。”そんな…言葉だ。その言葉を、あなたに贈ろう…。あなたは、不幸になる為に産まれたんじゃない…幸せになる為に産まれたんだ。だから、幸せになりなさい…」 僕は、そんな先生の優しい声を聞きながら…フルフルと、震えの止まらない体を堪えて…手の中でどんどん熱くなって行くペンダントを握り締めた。 「…僕はぁ、幸せだよぉ…?」 唇をかみしめてそう言った。 すると、駐車場に車を停めた先生は…僕の手のひらを、そっと両手で開いて、中からペンダントを取り出した。 そして、両手で、僕の首に…そっと、かけたんだ。 「見てごらん…?これが、あなたの幸せだよ。」 先生はそう言うと、ロケットを開いて…僕に中を見せた。 は… 僕は、その瞬間…一気に顔を歪めて、目から溢れて来る涙を止められなくなった… 「うっうう…!!ううぁあ…せ…せい…ざぁん…!せいざぁ…あん!!あっああ…!!うわぁああ…!!」 それは汚くて…言葉にならない声だった… 久しぶりに見た彼と僕は…変わらず、一緒に座ったまま…こちらを見つめていた。 その二人を見た僕は、あの時の楽しかった思い出を思い出して…堪え切れなくなった感情が爆発したんだ。 体の奥から、震えと一緒に慟哭が沸き起こって、激しく揺れる自分の体に翻弄されながら、先生に突っ伏して泣き叫んだ… そんな僕を受け止めた先生は、優しく何度も背中を撫でて…こう言った。 「よしよし…頑張った、頑張った…!堪えてたんだ…。ず~っと、ひとりで、抱え込んで…堪えてた…!よしよし…よしよし。もう良いんだよ…。もう、良いんだよ…。」 その言葉のひとつ、ひとつが…僕の胸の奥を揺さぶって、我慢出来ない位の寂しさと、後悔を、掘り起こして、心の奥に押しつぶした悲しみを、思い出させて行った… 僕は…何も話せないまま、ただ…先生にしがみ付いて、泣き続けた。 すると、先生は僕の髪をかき分けて…キスをして言ったんだ。 「豪ちゃん…森山君の元へ、帰ろう…!」 え… 僕は、そう言った先生の胸に顔を埋めると、何度も首を横に振ってうめき声をあげた。 「なぁんでぇ!なぁんでぇ!!先生はぁ!僕とぉ、死ぬまで一緒コースなのにぃ!放棄するのぉ?僕の事を…放棄するのぉ?!」 僕は、まるで…拒絶反応でも示す様に、顔を歪めて先生を詰り始めた。すると、先生は、眉を上げてこう言ったんだ。 「はぁ~~?!」 はぁ? 僕は、キョトンとしたまま首を傾げる先生を見つめて…同じ様に首を傾げた。 先生はそんな僕の涙を拭きながら、優しく撫でるような声で…こう話した。 「…ヤマアラシのジレンマって知ってるかい?」 僕は、そんな先生の優しい瞳を見つめたまま、コクリと頷いて答えた。 「寒い時…体を温め合おうとしたヤマアラシが…お互いの針に刺さってぇ、イテってなる事ぉ…。だから、傷付かない距離で…ほんのりと温まりましょうって…そんな、人間関係を、例えた言葉だぁ…」 そんな僕の言葉に、先生は細い目を大きく見開いてこう言ったんだ。 「あれは…嘘だ!」 「嘘ぉ~?」 僕は首を傾げてクスクス笑った。 先生は、同じ様にケラケラ笑いながら、僕に続けてこう話してくれた。 「…そうだよ?ヤマアラシは年がら年中針を立てている訳じゃない。それに、同じ方向を向いて…寄り添えば、針は刺さったりしないんだ。でもね…俺は、この言葉から、違う思いに至ったんだよ。」 へぇ…! 僕は、そんな先生の言葉に、興味津々に体を揺らして、彼の手を揺すって言った。 「教えてぇ?」 先生はじっと僕を見下ろして…頬を撫でながらこう言った。 「…ヤマアラシの針は、心の針だ。…それは…何も、攻撃する事だけを言うんじゃない。豪…君の様に、心を閉ざして、誰も近付けない心理状況も…そう言えると思うんだ。ねえ?もう…針を収めて大丈夫だよ…?誰も、豪を傷つけたりしない。だから、もう、針を収めなさい…」 先生の言葉に、再び…僕はウルウルと瞳を潤ませた。そして、グッと涙を堪える様に…喉を絞ったんだ。 「…それだ。」 すると、先生はそう言って…僕の食いしばった頬を両手で撫でて、顔を覗き込んで言った。 「…もう、大丈夫。俺を信じて…?堪えなくて良い。もう、堪えなくて良いんだ。」 僕は、こんなの…慣れっこなんだ。 みんなにバレない様に、嘘をついたり…気付かない振りをしたり、傷付いても…とぼけて、誤魔化して、やり過ごす… こんな事…慣れっこなんだ! でも…どうしてか、先生の言葉が…スッと…胸の奥まで入って来ちゃうんだ。 すると、食いしばっていた頬がプルプルと震えて、悲鳴を上げ始めて…あっという間に、泣き声を上げて…僕は、先生に縋りついて言ったんだ。 「せんせぇ…!せんせぇ…!!今更、彼の元へ行って…どうするのぉ…?!僕の事なんて…忘れている!絶対に…忘れてしまってるぅ!!もう…傷付きたくないんだぁ!嫌なんだぁ!怖いんだぁ!!だから…だからぁ…!」 「大丈夫…。豪ちゃん…。大丈夫…。怖くないよ…怖くない。」 泣きじゃくる僕を抱きしめた先生は、大事そうに僕の髪を撫でながら…こう言った。 「君は、森山惺山の天使だ…。彼は…豪を傷つけないし、忘れる訳もない…。だから、もう…針を収めて、彼に、会って来なさい…。そして、また先生の所へ戻っておいで…?10月にはリサイタルがあるし、12月には、豪華客船に乗るんだから…ね?」 そんな優しい先生の声に…僕は、彼の胸に顔を埋めて…思わずこう言った…。 「…はぁい。」 #124 「…そうか。分かった。ありがとう…理久。」 俺は短くそう言うと、泣いて訳が分からなくなった彼の言葉に、適当に相槌を打って、電話を切った。 理久、流石じゃないか… 彼が、豪ちゃんの…心の鉄壁を崩した…。 …父親のような、恋人のような理久の言葉を…あの子は聞いたんだ。 だとしたら、俺は、あの子の背中を…ポンと、押すだけか… 8月…昼下がりの軽井沢… 窓から見える外の光景は、穏やかな日常を映し出して、観光客の賑わう声が心地よく耳に聴こえて来る…。ふと視線を移すと、まもちゃんが、お気に入りのアイランドキッチンで、クッキーの型取りをしながら鉄板にひとつひとつ乗せていた。 携帯をポケットにしまって鼻を啜った俺は、まもちゃんを見つめてにっこり笑って言った。 「まもちゃん。…豪ちゃんが帰って来るぞ…!」 すると、彼は、嬉しそうに瞳を細めて、どんどん…潤ませて…何度も頷いてこう言ったんだ。 「良かった…!良かったぁ…!」 彼は、惺山の相談役になって…きっと、彼の胸の内を聞いているんだ。 だからか…豪ちゃんがここへ来る事を、誰よりも喜んでいる様に見えた。 「惺山にも教えてやろう!」 「駄目だ…」 俺はすぐにそう言った。 すると、まもちゃんは訝し気に首を傾げて口を尖らせた。 「…どうしてぇ!」 どうして…? 再会というものは…ドラマティックに展開する物なんだよ。 それに… 「まもちゃんはね、あの子の強情さを知らないから、そんな事が言えるんだ。筋金入りの頑固者で…どうしようもない自己完結型の豪ちゃんが、素直に…惺山に会いに行くとは思えない。どうせ、ここへ来ても二の足を踏んで、でもぉ、でもぉ、って…なるに違いないんだ。」 俺はそう言いながら眉を片方だけ上げて、まもちゃんを見つめてこう言った。 「惺山に伝えたら、彼は…あの子が来るのを期待して待ってしまう。そんな事を知っている俺とまもちゃんも…豪ちゃんの気持ちを蔑ろにして、気が焦ってしまうかもしれない。それは双方にとって良くないプレッシャーなんだ。分かる?だから、今は…まだ伝えない…」 すると、まもちゃんは感心した様に何度も頷いて、鉄板をオーブンへ投入しながらこう言った。 「北斗てんてぇは…流石ですぅ!」 そんな中、お店の入り口が開いて、元気な声と一緒に子供たちが入って来た。そして、俺を見てこう言ったんだ。 「先生!おはようございまぁす!」 「おはよ~ございまぁす!」 「はい!おはよう…!今日は、恭介君と、凛子ちゃんと、英二君だね。あれぇ…?英二君は?」 子供の数を数えながら俺がそう聞くと、凛子ちゃんは肩をすくめて呆れた様な顔をして答えた。 「外で…ず~っと、虫ばっかり見てる!馬鹿なんだぁ!」 そんな彼女の言葉にクスクス笑った俺は、入り口から外を覗き見て…口元を緩めた。 ウッドデッキのテラスにしゃがみ込んだ英二君は、背中を小さく丸めて、膝に抱えたバイオリンのケースを落とさない様に…器用に足をずらしながら、何かを追いかけているではないか…! 「ふふ…何が居るんだ…?」 クスクス笑って入り口を出た俺は、英二君の隣にしゃがみ込んで、彼の視線の先を目で追いかけた。 「あぁ…!」 口を歪めた俺は、英二君の顔を覗き込みながらこう言った。 「アリが、何かの死骸を運んでる…!うげぇ…!」 すると、英二君はクスクス笑って、俺を見上げてこう言ったんだ。 「モンシロチョウだよぉ?翼はぁ…あっちの部隊が運んでるぅ…!このアリさんは、棒っきれみたいになった…モンシロチョウの胴体を、運んでるぅ!」 この子は、英二君…小学4年生だ。 誰かみたいだよね…? だからかな…俺は、この子を転がすのが上手いんだ。 「よし、英二君。アリも働いてるんだ。英二君もバイオリンを弾くよ?おいで…!」 「はぁ~い!チョコッチョコッチョコッチョコ…!」 微妙な動きをしながら入り口を入った英二君は、つんと澄ました凛子ちゃんの隣に座って、彼女の顔を覗き込みながらクスクス笑い始めた。 すると、凛子ちゃんはギロリと英二君を睨みつけてこう言ったんだ… 「何見てんのよっ!ばぁ~か!」 「うえん!こわいよう!」 はは… こんなの良い方だ。 もっと低い学年になると…手まで出るんだからね…? そんな時は、まもるのおじちゃんに…怒って貰うんだ。 「さて、今日は…この前の続きから始めようかな…?」 俺はそう言うと、バイオリンをケースから取り出す子供たちを見下ろして、にっこりと笑った。 -- 正午過ぎ… 僕は…何年ぶりかに、軽井沢へと帰って来た… あれ以来…来ていなかったこの土地に来る事が、少し、怖かった。 自分の故郷があるのに…自分の思い出が沢山あるのに…彼の思い出に触れたくなくて、避けていたんだ。 でも…ほっくんのお誘いなら、僕は断れないよ… だって、ほっくんは…僕の大事な人だもんね。 僕は軽井沢駅を出て、ほっくんとまもるの店がある場所まで、トコトコと歩き始めた。 夏の日本は、フランスと違って…ジメジメしていた。 日差しが有る無いに関わらず、湿度が異常に高くて…僕は、すぐに汗だくになってしまったんだ。 先生に貸してもらった、カッコいいハンカチでおでこを拭いながら…長く伸びた髪をひとつにまとめて…背負ったリュックと背中の間に、手で風を送った。 夏の町は…観光客の団体様がお土産店を潤していた。 そんな変わらない光景を横目に見ながら、彼に吹っ飛ばされた事のある…待ち合わせ場所によく使われる花壇の前を通り過ぎて、横断歩道を渡った。 後ろを振り返ると、僕が…住み込みでバイトをしようと思った…健康ランドの気持ち悪い河童の看板が見える。 …ここは、何年経っても変わらないみたいだぁ。 胸に揺れるペンダントの懐かしい感覚に瞳を細めた僕は、彼から逃げて走った道を…戻る様に歩いて進んだ。 そして、ほっくんとまもるの写真が飾られている写真館の前でしゃがみ込んで…彼らの若い頃の写真をまじまじと眺めながら、服の上からペンダントのロケットをギュッと握った… ふたりは、良いな…だって、今も、一緒に居れるんだもの。 「…夏季休業のお知らせぇ…8月の13日からぁ…8月の16日までぇ…。へぇ…」 そして、やっと…ほっくんとまもるのお店…グランシャリオの前に辿り着いた僕は、お店の前に貼られた紙を読んで、何度も頷いたんだ… 3日間しかお休みを取らないなんて…ほっくんも、まもるも、働き者だなぁ…! 僕と先生は、年がら年中遊んでいるのになぁ… お店はどうやら、今日からお休みに入っている様子で、電気の灯っていない店内には、誰の姿も無かった。 そっと、覗き込んだお店の中には、モデルルームのような佇まいのアイランドキッチンと…奥には、黒く光るグランドピアノが見えた。 …わぁ!ピアノだぁ!良いなぁ…聴きたいなぁ… 「あぁ!そうだぁ!兄ちゃんの所へ行ってみよぉ~!」 僕は、グランシャリオを後にして、兄ちゃんの美容室へと足を向けた。 兄ちゃんに、この長い髪を切って貰いたいんだ。 彼と一緒になるまで切らない…そんな思いを込めて伸ばしていた髪の毛は、あの後…バッサリと短く切られた。 でも…僕は、やっぱり…長い方が好きみたいで…自然と伸ばし続けていたんだ。 肩にかかるくらいが…ちょうど良いって、最近気が付いた! 「こんにちはぁ!兄ちゃんいますかぁ…?」 良く知った兄ちゃんの美容室は、未だに潰れないで営業を続けていた。 そんなお店に入って元気に挨拶をした僕は、ギョッと目を見開いた兄ちゃんを見つめて、ケラケラ笑いながら言った。 「兄ちゃん!豪だよぉ?」 「豪~~~!」 兄ちゃんはすぐに僕に駆け寄って…ギュッと抱きしめてくれた。 兄ちゃんとも…僕は、3年…会って無かったんだ。 放ったらかしにされたお客さんが気の毒だけど…僕は、久しぶりの兄ちゃんの胸に顔を埋めて、懐かしい感触にクスクス笑ってこう言ったんだ。 「ほっくんに遊びに来いって命令されたぁ…!だから、来たんだぁ!」 すると、兄ちゃんは僕の髪に顔を埋めて、クスクス笑いながらこう言った。 「あっはっは!はぁ~ん…なるほどな。まもちゃんが、ご馳走を作るって言ってたのは…豪が来るからだったんだぁ…。だったら、兄貴の俺も、お呼ばれしないとなぁ~?兄ちゃんは8時にお店を上がるから、まもちゃんと北斗に、ビールを冷やしておいてって言っといてよ。」 なぁんだぁ! 僕は…口を尖らせて、兄ちゃんを見上げてこう言った。 「兄ちゃん!たかってるのかぁ!」 すると、兄ちゃんは僕の鼻をツンツン叩いてにっこり笑ってみせた。 「…少しだけ、たかってる…」 最低だなぁ! …自分の兄ちゃんが彼である事が、恥ずかしくなったよぉ? 僕は、そんなせこい兄ちゃんに、自分の髪を摘んで、持ち上げながら言ったんだ。 「ねえ、切ってぇ?」 「今、お客さんがいるんだよ。後で切ってやる…。ほら、帰った!帰った!」 すると、兄ちゃんは、僕を追い払ってお客さんの元へと戻ってしまった… 仕方なく、僕は、お店を出て…ほっくんとまもるのお店…グランシャリオに戻って来た。 そして、再び…ドアの前に貼られた紙を眺めながら…頷くのであった。 前に一度来たから…ほっくんのお家の呼び鈴が分からない訳じゃないんだ。 ただ、どうしてか…僕は、躊躇していた。 胸に当たるペンダントの存在が、先へ進む事を、怖がらせて、躊躇させるんだ… 先生…僕は、彼に会わなくちゃいけないの…? 先生…嫌だよ…怖いんだ。 先生…僕を、守ってよ… ジッと眉間にしわを寄せた僕は、心の中で、先生に助けを求めていたんだ… すると、背後から…聞き覚えのある声に、こう声を掛けられて、逃げられなくなった。 「何してんだよ。豪ちゃん!」

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