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#125
#125
買い物から帰って来たら、豪ちゃんが、店の前で汗を流しながら張り紙に夢中になっていた…
黒いロックバンドのTシャツと、細身のパンツ…。腰に巻いた柄物のシャツは、あの子らしい…ダラしない縛り方がされて、今にも落ちそうだった。
両手には、バイオリンと、サックスのケース。
そして、惺山の贈ったキャップをかぶって、ひとつにまとめられた長い髪と大きな黄色のリュックを揺らしながら、張り紙を凝視しているんだ。
奇抜…?
そうでもない。
…俺は、しばらくあの子の様子を観察したんだ。
しかし、ブツブツと文字を読んで、感心する様に頷く…そんな行動を繰り返し続けるばかりで、一向に変わらないんだ。
…恐怖を感じた俺は、気持ち悪くなってすぐに声を掛けたんだ。
俺の言葉に振り返った豪ちゃんは、ハッと目を丸くして…バツが悪そうに視線を逸らした。
でも、すぐに…覚悟を決めた様に、にっこりと笑いかけて…いつもの調子でこう言ったんだ。
「ほっくぅ~ん!僕、ちゃんと、命令を聞いて、ここまで来たんだよぉ…?」
ふふ…
3年ぶりに見る豪ちゃんは、全くといって良い程変わっていなかった。
劣化する事なく…天使のままだって事だ。
でも、やっぱり…ここに来るのが、怖かったのか…躊躇していた様だった。
だから、俺は…そんな事に気が付かないみたいに、こう言ったんだ。
「お帰り。大変だったね…?移動で疲れただろ?上で、少し休む…?」
俺は、お店の鍵を開きながら豪ちゃんを横目に見た。すると、あの子は…お教室のピアノを指さして、こう答えたんだ。
「ねえ、何か…弾いてぇ?」
ふふ…!
そんなあの子の言葉に、俺は、クスクス笑ってこう言った。
「良いよ…?もちろんだ…!」
冷蔵庫に今夜のご馳走の材料を入れた俺は、まもちゃんを呼びに…奥の工房へと向かった。すると、後ろを付いて来る豪ちゃんは、鼻をクンクンさせながらこう言ったんだ。
「木の良い匂いがするねぇ?トトさんの工房みたぁい!キャッキャッキャッキャ!」
豪ちゃんはご機嫌だ…!
でもね…これは、この子の…外っ面なんだ。
心の内側は、きっと…上手に隠してる。
そんな豪ちゃんを探る様な思いを察せられない様に、俺はいつもの様にぶっきらぼうに振舞って…まもちゃんの工房のドアをノックした。
コンコン…
「まもちゃん、豪ちゃんが来たよ!」
扉の向こうにそう声を掛けると、部屋の中から、ドタドタと派手な足音と、工具を落とす音が聴こえて来た。
ガララ!!
そして、引き戸を勢い良く開いて現れたまもちゃんは、豪ちゃんを見下ろして…グッと、涙を堪える様に眉を下げて…大絶叫したんだ。
「豪ちゃぁ~~~~ん!!」
大きな体のまもちゃんに抱きしめられる豪ちゃんは、圧死でもするんじゃないかと心配するほどに、彼の体に埋もれて行った…
「あわ…あわあわあわ…あわ…!ん、やぁだぁ!」
まもちゃんの余りの勢いの強さに、豪ちゃんは本気で嫌がって顔を歪めた。そして、地団駄を踏んで怒り始めたんだ。
「ん、もう…!もう…!!いたぁい…!」
そんなあの子を見下ろして、まもちゃんは目じりに涙を湛えて…涙声でこう言った。
「豪ちゃ…ん。よく、来たね…?のんびりして行くと、良いよ…」
まもちゃんの涙を見た豪ちゃんは、驚いた様に目を丸くして、彼の涙を指先で拭った。そして、首を傾げてこう言ったんだ。
「…泣かないでぇ?…まもるぅ…。」
「泣いてない…!嬉しいんだ…!」
まもちゃんは、あの子の体を抱きしめる手を緩めて…髪に頬ずりしながらこう言った。
「…お帰り…豪ちゃん!」
すると、あの子は、まもちゃんの胸にクッタリと頬を付けて…困った様に眉を下げて、いつもの様に…気の抜けた返事を返したんだ。
「…はぁい。」
「下ごしらえをしちゃうもんね~~!ん?豪ちゃんは、まもるの手際が気になっちゃうかなぁ?やっぱり…プロの技を盗みたくなっちゃうかなぁ~?ん?ん?」
アイランドキッチンに立ったまもちゃんは、豪ちゃんをチラチラと横目にみながら、腕まくりを始めた。
しかし、豪ちゃんは、そんなまもちゃんを無視して、俺の手を引いてピアノの前に連れて行ったんだ。
そして、首を傾げて、こう聞いて来た。
「ほっくん…何か弾いてぇ?」
んふふ…本当に、この子は…
呆れた様に首を横に振った俺は、ピアノの椅子に腰かけて、あの子を見上げて聞いた。
「…何が良いですか?」
すると、あの子は俺の隣に腰かけて…こう答えたんだ。
「スティービーワンダーの…“Sir Duke”をお願いしまぁす!」
豪ちゃんは、おもむろに床に置いたサックスのケースを開いて、どこかで見た事のある年季の入ったサックスを取り出した。
そして、リード付きのマウスピースをはめながら、ネックストラップを首にかけてこう言って来たんだ。
「このサックス、先生に…貰ったんだぁ!」
マジか…!!
あの理久が、自分の愛用のサックスをくれるなんて…
あり得ない…!
フルフル震えた俺は、ピアノの鍵盤を指先で撫でながら首をカクカクと揺らした。
すると、あの子は俺の動揺なんてお構いなしに、“Sir Duke”の冒頭をサックスで吹き始めたんだ。
その音色は、バイオリンとは一味違って…粋で、洒落てて…まるで、理久の様だった。
「はは!!すげぇな…!!」
ケラケラ笑った俺は、あの子のサックスに合わせてピアノを弾き始めた。
すると、豪ちゃんは、ピアノの音色にご機嫌になった様子で、体を揺らしながら、クルクルと踊りはじめた!
「ははっ!良いねぇ!」」
俺は思わずそう言って笑うと、しみじみと…こんな事を思ったんだ。
あぁ…!!
こんな風に、音楽を楽しんでいる人の姿を…子供たちにも見せてあげたいよ!
言葉で“楽しめ”って言っても、なかなか伝わらない。
この臨場感も、この興奮も…実際に目で見て、体感しないと分からない物なんだ!
そんな中、アイランドキッチンから飛び出て来たまもちゃんは、おもむろに教室の窓を全開にして、俺と豪ちゃんの演奏を、店の外へと聴かせ始めたんだ。
「わぁ…!すごぉい…!」
そんな感嘆の声を上げながら、通行人たちが足を止めて、部屋の中を覗き込んだ。
そして、サックスを吹きながら踊っている…イカした豪ちゃんを見つめて、うっとりと言ったんだ。
「カッコいい…惚れる…」
そうだよね…?
俺も、惚れそうだ!
あの子のサックスの音色は、揺れる事も、乱れる事も無い。まるで…何度もレコーディングしたプロのサックス奏者の録音の様に、安定して、的確だった。
理久が、サックスを譲る気持ちも分かる…!
だって、この子のサックスは…イカしてるんだっ!!
あぁ…!
ここに、コントラバスと…ペットがいれば、もっともっと良いのに!!
俺は歯がゆい思いを感じながら、あの子のサックスの音色にうっとりと体を揺らして、ピアノを弾いた。
すると、まもちゃんは今晩の料理の下ごしらえを放り投げて、豪ちゃんと一緒に踊り始めて、歌なんて歌い始めたんだ!
護…!!凄い、ノリノリじゃないかぁ!
俺はそんなまもちゃんの踊りに、ケラケラ笑いながらピアノで豪ちゃんの“Sir Duke”を盛り上げて行った。
沿道に集まった通行人たちまで一緒に歌い始める始末だ…!
豪ちゃんは…やっぱり、凄い影響力を持ってる…
躍動感あふれるこの子の演奏スタイルは、見る人を興奮させて…楽しませるんだ!
「フォ~~~~~!」
曲を弾き終えると、窓の外から盛大な歓声が上がった!
すると、豪ちゃんはキョトンと首を傾げて、ペコリとお辞儀をして見せた。
「…あの、女の子…めたくそ可愛い…!付き合いたい!」
そう言った、そこの男性…
彼は、男だ…。
それなりのイチモツを持った…男なんだ。
「はぁ~~!スッキリしたぁ!ねえ?ねえ?ほっくん…次は何を弾こうかぁ…?」
豪ちゃんはケラケラ笑って俺の隣に座り込んだ。そして、じんわりとかいた汗を、ジジ臭いハンカチで拭いながら首を傾げて見せたんだ。
だから、俺は、顔を歪めてこう答えた。
「…ピアノが、かき消えない曲にしてくれよ!俺の見せ場が台無しになったんだぁ!」
「キャッキャッキャッキャ!先生は言ってたよぉ?ジャズのソロは…譲り合いの精神が大事なんだって…どうぞ?はい、どうぞ?では…次は僕が行きますねぇ?はぁい、どうぞ?って…そんな、譲り合いの精神が大事なんだよぉ?」
うぉおいっ!
だとしたら…サックスで俺のピアノの音色をぶっ潰したお前は、どこを譲ったか言ってみろよ…!
この…剛田野郎…!
俺は、顔を歪めて、チャッキーのような表情になりながら、豪ちゃんを見つめた。
すると、あの子はネックストラップのねじれを指先で直しながら、俺を横目に見て、こう言ったんだ。
「“モーニン”はぁ…?」
…ふぅん。
悪くないだろう…
譲り合いの精神…そんな物を念頭に置いて、俺は…”モーニン”というジャズをピアノで弾き始めた。
すると、豪ちゃんは、さっきよりも控えめに…サックスを吹き始めたんだ。
ウケる…!これが…譲り合いの精神なのか…?
違う。
俺の睨みが利いたんだな…
満足げにピアノのソロを弾き始めた俺は、沿道に集まったお客さんの注目を一身に浴びて、得意げになっていた。
すると、豪ちゃんは、そんな俺のピアノの旋律にうっとりと体を揺らしてこう言ったんだ。
「勃起するぅ~~!」
止めろ…
豪ちゃんの発言を聞いた通行人たちは、苦笑いをするか…子供の耳を両手で塞ぐか、顔を歪めた…
そんな事お構いなしの豪ちゃんは、俺のソロが終わるタイミングを見計らって、軽くかぶりながらソロを吹き始めた。
頬を掠めてぶん殴っていくそのスタイルは…まさに、剛田だな。
呆れた様にピアノで同じフレーズを弾きながら、俺はあの子のソロに聞き耳を立てた。
最高だ…!
最高に、クールなソロをかますんだ…
理久が惚れる訳だよ。
…納得しかしない。
豪ちゃんはソロが終わる頃、ピアノを弾いている俺の視界に入って…いと可愛いウインクをした。
それは、一緒に…主題へ戻ろうの合図だな。
お返しとばかりにニヤリと笑い返した俺は、あの子と一緒にしっとりと主題へ戻って…沿道から上がる拍手に、首を伸ばしてドヤ顔をした。
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ほっくんのピアノは…かっこ良かった…!
先生程ではないけど、僕は十分に…彼のピアノに、勃起しそうになったもん!
「…もう、弾~かなぁ~い!俺の演奏は、タダじゃないんだぞ!」
そして、そんなほっくんの言葉を最後に…僕と彼のセッションは突然終わった。
でも、彼との合奏のお陰で、僕の胸の中の震えが少しだけ治まった…
きっと…サックスの振動が胸の震えを抑え込んでくれたんだ。
僕は、ホッとため息をついて、汗ばんだ額を先生のカッコいいハンカチで拭った。
まもるは集まって来た人たちに、ほっくんの音楽教室のチラシを細々と配っていた…
だから、僕は彼のシャツを引っ張ってこう言ったんだ。
「まもるぅ。お腹空いちゃったぁ…何か食べさせてぇ?」
すると、彼は僕を見つめて、うっとりとこう言ったんだ。
「豪ちゃん…良いよ。まもちゃんが…特別、美味しい物を作って、あ・げ・る。」
イラっと感じたこの気持ちは、何だろう…
僕は首を傾げたまま、そんなまもるを見上げて、コクリと頷いた。
「…あの…すみません。豪さんですよね…?あの…有名な、バイオリニストの…!なぁ~んでこんな所にいるんですか?!僕、あなたの…ファンなんです!ベルリンにもあなたの演奏を聴きに行ったんですぅ!ど、どうか…握手して下さぁい!」
「はぁい…」
僕は知らない人と握手をした。
だって、先生が言ってたんだ。
余裕のある時、握手を求められたら、知らない人とでも手を繋ぎなさいって…
すると、目の前の知らない人は、とっても嬉しそうに瞳を細めて微笑んでくれた。
だから、僕は彼の手を掴んだまま、ブンブンと振り回してあげたんだ。
「あぁ~~~!豪ちゃん、豪ちゃん、そこら辺で…も、もう…彼の肩が抜けちゃうから…。はいはい…すみませんね…。彼は、プライベートで…師と仰ぐ、俺の所に遊びに来てるんですよ。はっはっはっは…!」
ほっくんはそう言ってゲラゲラと馬鹿笑いすると、僕をお店の中へ叩き入れた。
目の前のアイランドキッチンでは、まもるが美味しそうなピザを僕に差し出して、にっこりと笑ってこう言ってくれたんだ。
「はい、焼き立てだよ?召し上がれ…?」
「わぁ!メルシー!」
背の高い椅子に腰かけた僕は、まもるの焼き立てのピザを頬張りながら、足をブラブラと揺らした。
モッツァレラチーズの乗ったまもるのピザは、もちもちとした生地がとっても美味しかった。それは、僕の作るパン生地よりも、繊細で…しっとりとしていたんだ。
「どうしてこんなにもちもちに仕上がるのぉ?僕のは…やっぱり、少しだけパンって感じになっちゃうのぉ。こんなに柔らかくてもちもちに出来なぁい。ねえ?どうして?どうしてぇ?」
そんな僕の言葉を聞いて、目の前で、得意げに鼻を鳴らしたまもるは、流し目をしながら…こう言ったんだぁ。
「…知りたい?」
どうしてだろう…
一気に知りたくなくなったんだ。
だから、僕はまもるから目を逸らして、モグモグと美味しいピザを頬張りながら、味を確認した。
「…あぁ、米粉が入ってるんだぁ…へぇ…安易だぁ。」
そう言って、空になったお皿を突き出した僕は、嫌な顔をするまもるに首を傾げて、こう言ったんだ。
「まもるぅ。おかわり…ちょうだぁい?」
お腹もいっぱいになった僕は、美味しい紅茶を自分で淹れた。そして、のんびりと足を揺らしながら、ほっくんとまもるのお店をジロジロと見まわしたんだ。
美味しい物を食べたお陰か、胸の中の震えはすっかり治まって…僕は、ホッとしていた。
「豪ちゃん、今夜…ここに、君の幼馴染たちと、惺山を招待してるんだ。久しぶりに会うだろう?楽しみにしててね…!」
ほっくんが、紅茶を啜る僕にそう言ってケラケラ笑った。
その言葉に目を丸くした僕は、ティーカップをソーサーの上に置いて…ぼんやりと、固まってしまった。
惺山…?
「え…」
顔を歪めた僕は、ほっくんを見つめて、首を横に振ってこう言った。
「嫌だ…」
すると、彼はキョトンと目を丸くして、首を傾げて見せたんだ。
いつもだったらガミガミ怒ってくるはずのほっくんが、やけに良い人そうに瞳を細めて、したり顔を向けながら僕の隣に座って来るもんだから、僕は…警戒しながら彼の様子をジト目で見つめたんだ。
すると、ほっくんはお兄さんの包容力と雰囲気を醸し出しながら、僕の髪を優しく撫でてこう言ったんだ。
「豪…?聞いてくれる…?」
その瞬間。
僕は、察した…
だから、全力で…拒絶したんだ。
「嫌だ…!」
迷う事無く椅子から降りると、自分のサックスをケースにしまってバイオリンを手に持った。そして…困った様に眉を下げるほっくんに言ったんだ。
「…か、帰るぅ…!」
嫌なんだ…
「豪ちゃん…逃げなくても良いんだ。怖くないんだ…」
ほっくんは優しい言葉とは裏腹に、僕の手からサックスとバイオリンを奪い取って、まもるの足元に置いて、コソコソと彼にこう言ったんだ。
「…絶対、あの子に、取られないで!」
酷いじゃないかぁ!
絶望に顔を歪める僕を無視して、ほっくんはそそくさとお店と教室…開け放たれた窓を閉じて施錠をした。
そして、僕を軟禁した癖に…にっこりと笑いかけて来たんだ!
「…ほっくぅん…!」
僕は、眉を下げて…そんなほっくんを見つめた。
すると、彼は僕を無理やり椅子に座らせて、こんな事を言い始めたんだ。
「豪ちゃん。惺山は…あの家で、君を待ってる…。これから、会いに行こう…?」
え…?
僕は、ほっくんを見つめたまま…首を横に振って、彼の言葉を拒絶した。
「なんだぁ…!も…もう、嫌だぁ!」
椅子から転げ落ちる様に体を翻して、僕はまもるの体を思いきり蹴飛ばした。そして、足元に置かれていたサックスとバイオリンのケースを手に持って…出口へと一目散に逃げたんだ。
すると、ほっくんは…僕に、こう言った。
「…逃げるな。豪…。お前は、強いんだろ…!」
「逃げてない!」
僕は、顔を歪めてほっくんに怒鳴った。
すると、彼は、僕をジッと見つめたまま…淡々と話し始めたんだ。
「…彼は、奥さんを亡くした後…あの家に、娘を連れて引っ越して来たんだ。そして、君の幼馴染のご両親たちに、助けてもらいながら…子育てをしてる。」
え…?
目を点にした僕は…顔色を変えずに話し続けるほっくんを凝視したまま…固まった。
「哲郎のお母さんは、君に着せた…フリフリのドレスをその子に着せて、何枚も写真を撮ってた。晋作のお母さんは、可愛いポンチョを手編みで編んであげて、清助のお母さんは、紙おむつを沢山買って来てくれて、大吉のお母さんは、美味しい離乳食の作り方を教えてあげてた。君が育てて貰った家族に、彼はお世話になりながら…1人で、娘を育ててる。今…その子は、2歳。もうすぐで…3歳になる。」
あぁ…
僕の家族たち…!
会いたいよ…
とっても、会いたいよ…
お母さんに、お父さん…晋ちゃんに、大ちゃんに、清ちゃんに…てっちゃん…!
僕は、彼らの笑顔を思い出しながら、鼻を啜って、ほっくんを見つめた。
すると、彼は僕の止まらなくなった涙に苦笑いしながらこう言ったんだ。
「…惺山に、会いに行こうよ。豪…」
馬鹿だな…ほっくん…
今更、彼に会った所で…僕は、どうしたら良いのかも分からないよ。
「…断る。」
僕は、目に力を込めて…目の前で僕を見つめ続けるほっくんにそう言った。
すると、乙女みたいに両手を口に当てていたまもるが、何を思ったのか…僕をギュッと抱きしめて、勝手に興奮して来たんだ。
「豪ちゃん…!!3年間…ずっと、ひとりで…堪えて来たね…。しんどかったろうに。俺、気が付いちゃったんだよ…。君の顔がどんどん悲しくなって行く事に…!惺山だって気付いてる…。だから、とっても…心配して…」
…はぁ?
「うるっさぁい!」
僕は怒った!
話し終わる前のまもるの頭に頭突きをかまして、彼の頬を思いきり引っ叩いて、泣きながら怒鳴ったんだ。
「…黙れっ!あんな奴っ!大っ嫌いだぁ!!あいつは裏切り者だぁ!僕だけを愛し続けると言った癖に、簡単に、簡単に…捨てたんだぁ!」
そうだ…
僕の事だけを、愛してるって言った癖に、彼は…あっさりと僕を忘れたんだ。
…許せないよ。
悲しくて…悲しくて…堪らないよ…
胸の奥に押しつぶして来た…どうしようもない思いが、先生の言葉で息を吹き返したみたいに…僕の胸を揺さぶって、翻弄し始めるんだ。
酷い…
裏切り者…
最低な男…
僕は、惺山を恨んでいるのかな…
それとも、憎んでいるのかな…
愛していたのに…
ただただ…悲しかったんだ。
…自分でお別れを選んだくせに…
主観に支配された僕は…未だに、そんな簡単な事さえも分からなくなってる。
だから…馬鹿みたいに、傷付いてる。
それは、お父さんに捨てられた時と同じ…絶望と諦めを僕に感じさせるんだ。
本当の事を言っても…良い事なんて何もない。
未だに、彼を愛していて、未だに…傷付いているなんて言ったとしても…
そんな物、何の意味も無いんだ。
まもるは、感情的に暴れまくる僕を抱きしめたまま、涙を流して…こう言った。
「よしよし…よしよし…辛かった…!辛かったね…。」
…辛い?
「あんたに何が分かるんだよ…クソッタレ…」
僕はそう言うと、まもるの顔を見つめて首を傾げたんだ。
「…何が分かるんだよ!」
そんな僕の問いかけに、まもるは涙を落としてこう答えた。
「…君が苦しんでいるのが…分かる!」
はっ!笑わせる!
「僕は…強いんだ!馬鹿野郎!離せっ!離せぇっ!!ぶん殴ってやる…!」
僕は、鼻息を荒くしたまま、まもるの胸に頭突きをかまし続けて、彼の顔面目掛けて…思いっきりジャンプした。
ガツンと鈍い音を立てて…僕の石頭が、まもるの鼻にクリーンヒットした!
それでも、彼は、僕を離さないまま…ただ、悲しそうに涙を流し続けるばかりだった…
そんな中、ほっくんは…僕の髪を優しく撫でながら両手で抱きしめて、僕の耳元で…静かに言ったんだ。
「…豪ちゃん。強さとは…自分の中に、思いを封じ込めて…ひた隠し続ける事を言うんじゃない…。人は、そんな強さをずっと続けては、生きていけないんだ…。それに、自分の素直な思いを…受け入れて…認める事だって…強さだよ。」
知ってる…
知ってるよ…
でも、僕は…怖いんだ。
再び、彼に会う事が怖い。
変わってしまった彼を見て、感じた恐怖を…感じた絶望を、いつまでも忘れられないんだ…
3年経った今でも…あの時の事を思い出すと、僕は…体が震えて、涙が止まらなくなってしまうんだ…
怖かった。
彼が自分を愛さなくなった事実を目の当たりにして…僕は、恐怖のあまり、気が狂いそうになったんだ…
怖かった。
愛する彼が、僕を忘れて…蔑ろにして…嘘を吐いた事が…堪らなく怖かった。
どこかに隠れて…身を縮めて、静かに死んでしまいたくなった…
また、あんな目に遭うのは…ごめんなんだ。
「…豪。怖くないよ…?強くならなくても良いんだよ…?」
そんなほっくんの言葉に、僕はボロボロと涙が自然と溢れて来て、胸の奥からは叫び声みたいな泣き声が込み上げて来たんだ。
「…ほっくぅん…ぼ、僕はぁ…こわぁい…怖いんだぁ…!!」
だから、強くなって…!踏ん張って…!乗り越えないといけないんだ!!
いつか忘れて行くこんな感情に…こんな思いに、ただの主観なんかに、支配されてたまるかよ…!!
フルフルと震えて止まらない足をぶん殴った僕は、溢れて来る涙を拭う事も忘れて、必死の形相でほっくんに言った。
「いやぁだぁ…!も…もう…嫌なんだぁ…!やめてよぉ…!ぼ…僕のバイオリンの音色は変わらない…!人を楽しませる事だって…笑顔にする事だって…出来るんだぁ…!だ…だ、だから…今更、彼に会う必要なんて…無いんだ…!」
そんな僕の手を掴んで止めて、ほっくんは、僕をジッと見つめて、声を低くして言ったんだ。
「…バイオリンの音色なんて…どうでも良い。誰かを楽しませる事も、笑顔にする事も、どうでも良いんだ。俺が知りたいのは、お前の事だけ。お前は…どうなんだよ。お前は、辛くないのかよ…。」
え…?
僕は、目を点にして彼を見つめ返した。
そして…小刻みに震える唇で、かろうじて出てくる声を喉の奥から押し出した。
「…僕は、ぼ、僕は…」
「人は…幸せになる為に産まれて来た。そう教えてくれたのは…君だろ…?」
ほっくんは、優しく微笑んでそう言った。
そんな彼の言葉に、僕は…ただ、顔を歪めて涙を落とす事しか出来なくなった…
すると…同じ言葉で、僕を諭した…先生の顔が目の前に浮かんで来たんだんだ。
先生…
僕は…目を見開いたまま、震える瞳から大粒の涙を落した。
ヤマアラシのジレンマ…そんなお話を僕に聞かせてくれた。
そして、もう…針をしまいなさいと…言ったんだ。
先生…
首にかけたネックレスを胸の奥から引っ張り出した僕は、ほっくんに見せながらこう言ったんだ…
「…先生は…あ、あなたの…幸せは、ここにあるよって…そう言ったぁ…」
僕がたどたどしく伝えた先生の言葉に、ほっくんは瞳を潤ませて、僕のロケットを開いて中を覗き込みながら言ったんだ…
「あの時は…とっても、怖かったね…。とっても、ショックだったね…。それは、もう…どうやっても、拭えない。…でも、豪。今…彼は、君を待ってるんだ。それは、主観じゃない。俺が、彼の口から聞いた…事実なんだ。」
惺山が…僕を…待ってる…?
「…」
僕はどうしたら良いのか分からなくなって…両手で顔を覆いながら、声を上げて泣き喚いた。
ほっくんは、そんな僕を優しく包み込んで、温かい声で僕を撫で続けてくれた…
「理久は…豪ちゃんを愛してる。だから、君が苦しんでいるのを、助けてあげたいんだ…。俺も君を愛してる。だから…助けてあげたいんだ。ねえ…豪ちゃん。惺山に…彼に会いに行こう…。」
僕が…彼に会ったら、先生は…僕が苦しまなくなると思っているの…?
僕が幸せになれるって…そう思っているの…?
…だから、僕に…このペンダントを返したの…?
ほっくんの温かい手は、僕の震えの止まらない背中を、ずっと優しく撫でてくれた…。
僕は、そんな彼の温かさを感じながら…涙の止まらなくなった目を擦って、鼻を啜り続けた。
どうしたら良いのか…分からないよ…
先生…助けて…
先生、教えて…?
僕は、どうしたら良いの…?
堪らなく怖いんだ。
怖くて…怖くて…ほっくんの言葉も、まもるの言葉も、耳に入ってこないんだ…!
彼らが僕を思ってしてくれている事だって…頭では理解できているのに、恐怖で…素直に聞く事が出来ないんだ…!
すると、僕の頭の中に先生が現れて…眉を片方だけ上げてこう言ったんだ。
「君は、森山惺山の天使だ…。彼は…豪を傷つけないし、忘れる訳もない…。だから、もう…針を収めて、彼に、会って来なさい…」
「うっうう…!先生…!!」
瞳を歪めて涙を溢れさせた僕は、先生の言葉に応える様に…頷いてこう言ったんだ。
「…はぁい。」
お店を出る時…ほっくんは、僕にバイオリンを持たせた。
ほっくんの車の助手席に腰かけた僕は、心配そうに僕を見つめるまもるに、少しだけ手を振ったんだ…
「ばぁ~か…」
僕がそんな悪態を吐いたなんて知らないまもるは、ニコニコ笑いながら手を振り返して来た…
「さあ!行くぞぉ~~っ!!」
元気いっぱいのほっくんの掛け声に…僕は、ついつい一緒になってこう言ってしまった…
「いえ~い…!」
…今更、彼に会ってどうするんだよ…
そんな思いを抱えたまま、僕は、ほっくんの運転の荒い車に揺られて、自分の故郷へと向かった…
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