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病める日常の花に/寒凪⑴
12月5日。土曜日。曇り。
本日も人ごみに埋もれながら、どうにか満員電車を脱した。
胸ポケットからパスケースを取り出し、流れに抗う事無く無難に改札を通り抜け──…。
『ピコーン。チャージしてください』
られなかった。
勘弁してくれ。本当に。
繁華街や歓楽街に直で繋がるこの駅に休憩時間は必要ない。
俺が時を止めるうちも両脇には大量の人、人、人。
真後ろからこれ見よがしに舌打ちをされるが、そんな事をされたって俺はもはや正確な引き算とその答えを導き出した働き詰めの機械を労り撫でる事しか出来ない。
舌を打つ暇があるのなら隣のレーンに退いてくれ。
前も後ろも塞がった俺に優しい声をかけてくれるのは、今日も今日とて財布に叩かれながら、しおらしく算数の問題を解き続ける君だけだ。
ま、前を塞いでいるのは他でもない君なんだけどね。
「はぁ…」
早速ついてない日だったな。
いや、俺についている日なんかあるのかよ…。
ようやく改札の行き止まり地獄を抜け出し、袖に隠れた腕時計に触れる。
約束の時間にはまだ少し余裕があるようだった。
そうともなれば、俺の足は真っ直ぐにとある場所へと引き寄せられる。
人の波からようやく解放された事で、アレの存在を思い出したのだ。
よし、初っ端から散々だったけれどまだ運がいい。
接待なんかクソくらえと思ったが、この駅でよかった。
俺は知っている。
通路を曲がった喫煙ルーム横の自販機。
そこには老若男女問わず長きにわたり愛されている王道“ミルクセーキ”が並んでいる事を。
ほとんど駆け足に近い競歩のような足取りでそこを目指した。
次こそ機械に嫌われる事はないであろうパスケースを、未だ右手に持ったまま。
しかし、ゴールを目前に控えた所で
珍しく軽やかであった足はピタリと動きを止める。
俺の記憶では少なくとも3枠は陣取っていたはずのそれが全て消え失せ
代わりにコンポタ、しるこ、チョコレートラテという冬の象徴3拍子がはめ込まれていたのだ。
何が運がいい、だ。
俺に運なんかついてこない。わかっていたじゃないか。
「はぁ」
ため息しかついていない気がする。
それも仕方ない事だろう。
だって、そもそも今日は土曜日で俺は休みのはずだったんだから。
それなのに…。
“すーばるー。明日のY商会との会食お前が行ってよ”
“え…?”
“曜日勘違いしててさー、まさか土曜日なんて思わねえし”
俺、Y商会さん担当じゃないぞ。
というか2,3度顔を合わせたことはあるが、それも全てお前のケツを拭きに行っただけだ。
“土曜日の夜にまで仕事してらんねーって”
“はい……”
お前のせいで休日が潰れる俺はどうなるんだ。
お前がアポを取り違えたんだろ。
向こうだってわざわざ時間を作ってくれているんだから、責任持ってお前が行けよ。
……とでも言えたらきっと俺はカースト最下層にはならなかったんだろう。
言えないから、そこに在る。
そして、ここに居る。
今の俺には苦いコーヒーがお似合いだ。
飲めもしないブラックコーヒーに費やす150円は、先程の一件で迷惑をかけた大多数の人間への罪滅ぼしだ。
ガコンと缶特有の重苦しい音を聞き、何の心構えもなしに伸ばした手は
思いの外熱すぎたそれに驚き力を抜いた。
地面に這いつくばれとでも言われているのか、俺は。
コロコロと不規則に転がる黒を見つめ、道筋をまるで飛行機雲のように辿っていると
──描いた線は突然の終わりを迎える。
汚れ一つ無い立派な革靴が、パイプを咥えたダンディな男の顔をぴたりと受け止めていた。
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