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深い海の底に/嘘⑴
まさかあの綾木がαだとは思いもしなかった。
αとは本来、人を見下し横柄で
俺たちのような力の弱い性を罵って生きるゲスな生き物だ。
そうでなくてはいけない。
でないと、俺が何のためにここまでのし上がって来たのか説明がつかなくなってしまう。
番に捨てられた母親が弱っていく姿は、今もこの目に焼き付いている。
αは最低なんだ。
だから俺は、一人で生きていくと決めた。
と同時に、こんな世界を覆して、αを見返したいと思ったのだ。
…αなんて、大嫌いなのに。
綾木の声が、笑顔が、あれから一向に離れてくれない。
“ 香水か何か付けていらっしゃいますか…?”
なんだ、そういう事か。
確かあれを聞かれたのはヤニの切れたタイミングだ。
ヒントは確かにあったはずなのに、気が緩んでいた。
…α相手では、やはり抑制剤だけでは封じ込められないか。
後ろの壁に掛けられている交通安全ポスター…の下の、お飾り程度に印刷されたカレンダーを眺めた。
クソ。そろそろだな。
今日にも来てしまいそうだ。アレの時期が。
副作用による頭痛を紛らせようと、一番上の引き出しを開ける。
──が
…ない。
無い。いつもしまってある場所に。
あるはずの頭痛薬が、容器ごと。
どうしてだ、どこへやった。
自身の制服のあらゆるポケットの上を叩くが、手応えはない。
別の引き出しに入れるようなことも無い。
頭痛薬だけじゃない。あの中には抑制剤も…。
生憎予備は持ち合わせていない。
常備薬は全て菓子のケースに入れ、出勤と共に引き出しにしまうのだ。
落としたか…?いや、そんなはず。
朝ここへ入れた記憶はある。
無くなる事なんて…。
ゾクリと背骨を駆け上がるように虫が這った。
用法用量を無視して服用し続ける安心感により、何とか蓋をしていた学生時代の記憶が
じわり、じわりと蘇る。
“ごめ、なさ…やだぁっ、”
“嫌じゃねぇだろ…こんな匂い漏らしてさぁ…”
“ぁ、いれないで…いれ、な゛ぁ゛ぁ──…”
落ち着け。
取り乱すな、俺。
大丈夫。朝も飲んだし、まだ発情期が来たわけではない。
今日来るとは限らないだろう。
大丈夫。…大丈夫。
俺は、強いから。一人でも平気だから。
……平気、だから。
指先から、腕、肩。
瞬く間に全身に広がった震えは、精神を正常に保つことはもはや不可能なのだと叫んでいる気がした。
取り敢えず…煙草。
気休め程度のそれでも、多少は震えも治るはずだから。
慌てて椅子を引く俺に、鋭い矢のような視線を浴びせる下郎がいる事なんて
全く気がついていなかった。
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