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深い海の底に/嘘⑶
身体が火照る。気持ちが悪い。目眩が酷くて視界が歪む。
何とか定時で仕事を切り上げたまでは良かったが、いよいよ本格的に予兆が始まってしまったらしい。
早く家に帰らないと。
でも、どうやって?
この状態で車が運転できるとは到底思えない。
電車は論外。
自ら餌になりにいくようなものだ。
車内で閉じこもったところで、症状は悪化するばかり。水も食料も無い場所から動けないのはマズい。
…となれば、何とか歩いて帰るしか。
幸い煙草は残り半分と、未開封のものが一つ。
これで匂いを紛らす事が出来れば。
おぼつかない足取りで、繁華街方面へ足を進めた。
近道をしても良かったが、この状況ではかえって危険だ。
人通りの多い道を通った方が、いざという時多くの目撃者が居るだろう。
路上喫煙禁止の看板を無視して、呼吸のたびに火を付けた。
焼肉や鉄板焼きの香ばしさに隠れ、人混みをかき分けた。
それでも着実に限界は近付き、通りを抜けた矢先、遂にその時が来た。
熱い。
血が、沸騰しそう。
腹の奥が疼いて、快感が欲しくて、仕方ない。
歩くだけで擦れた布地は湿り、腿に伝う粘液が不快だ。
吐き出す息は熱を帯び、紫煙では庇い切れない甘さが空気を淀ませる。
頼む…どうか、誰も気付かないでくれ。
冷静な判断とは嘘でも言えない。
ただ、目に映ったベンチを目掛けて最後の力を振り絞った。
横になれば、細身のパンツを押し上げる自身の昂りがよく見える。
こんな、だから…バカにされるんだ。
俺がいけない。全て、俺のせいだ。
性に抗えない。惨めだ。俺は弱い。
情けなくて、たまらない。
「…うっ、く……ぅぅ…っ」
煙を焚いたまま、袖を噛んで背を曲げた。
綾木とよく似た、過去の自分が顔を出す。
過去の自分…いや、違う。
これは本当の自分だった。
どんなに厚い鎧を被っていた所で、所詮俺は弱者なのだ。
力の弱い、人権もない、劣等種。
溢れる涙を拭う余裕すら消え失せ、
寒空の下、風に靡く煩わしい髪の毛も放って。
遠のく意識の狭間で、聞き覚えのある声に呼ばれた気がしたが
そんな幻聴を聞かせるのも、全部俺が弱いから。
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