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深い海の底に/寒凪⑴

酷く疲れた夜だった。 乾いた風の叫びを無視し、回らない頭で無意識的にあの場へ向かってしまうくらいには。 月はよく見える。 なのに、半分に欠けたそれを邪魔する無数の粒は見当たらない。 そう。今夜は曇りだ。 月光は、隙間から顔を覗かせただけ。 雲一つ。ほんの一瞬で隠れてしまう儚い輝き。 まるで、彼のようだった。 あの日とは違う。 彼に見つけてもらうのではなく、彼を探す日々。 用事もないのに駐在所や警察署を訪ねる程の勇気もなければ、そこらを練り歩いて別の警官から職質を受ける覚悟も無い。 ただ静かな公園で、足音を探し面影を探しては 酔う気分にもなれず帰路に着く。 そんな毎日を送っていた。 ──が、転機が訪れるのは突然だった。 ブランコを軋ませて眺めた先。 誰も居ないはずのベンチに、一点の灯火が見えた。 それの正体に確信も持てないまま、けれど何処か胸騒ぎがして まるで本能に導かれているかのように、俺の足はその明かりに向いて動き出す。 距離が近づくにつれて、それが人の唇に含まれている事を知る。 覚えのある煙草の煙に混じるのは、俺の身体を蝕んでいく甘い香り。 暴力的に鼻の奥へ入り込んだそれは、直に下半身を奮い立たせる猛烈な凶器となり全身を巡った。 …なん、だよコレ……っ。 急に、身体が熱く…。 走り疲れたわけでも無いのに息は上がり、 寒さなど忘れ去るまでに上昇した体温が、吐く息を白く染める。 飲み込み切れない唾液は唇から溢れ、顎まで伝った。 もはや自分の足では無いかのように、その匂いを放つ人影の元へ引き寄せられる感覚。 僅かに残る理性の果てで辿り着いた結論は そこで寝ている男が、発情期のΩだという事。 いつの間にか月は雲に隠れ、街灯も少ないそこで ようやく男の姿を目視で確認できるまで迫って …堪らず、息を呑んだ。 「ら…来碧さんッ?!」 意識はなく、辛うじて唇が支えていた紙巻きをすぐさま取り上げて火を潰した。 今にも襲いかかりそうになる自身を必死に抑え込み、千切れるほど口元を噛んで、痛みで理性を保たせた。 どうしてこんな所で。 どうしてそんな匂いを。 一体、何があったのか。 早く助けを呼ばないと。 考える事も、すべき事も沢山あったはずなのに そんな思考すらも何もかも吹っ飛んだ。 俺の血が、抗えない性が、全身全霊で訴えている。 喰いたい。噛みたい。孕ませたい、と。 あぁ、どうして俺はαなんだ。 αなんて嫌いだ。こんな性別要らない。 好きな人ひとり守りたいというありふれた気持ちさえ αの本能には抗えない。

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