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深い海の底に/嘘⑷
吹き抜ける風の冷たさに、目を覚ました。
どういうわけか、吐き気も怠さも溜まった熱も、幾分かマシになっている。
慌てて身体を起こせば、はらりと地面に落ちる何か。
……これは、ジャケット?
砂埃を浴びた袖の隣には、きちんと揃えられた革靴。
そこから伸びる脚にも、恐らく同じ生地のスラックスが纏われていた。
なんだ。よかった。
通りすがりの誰かが助けてくれたのか。
そう、安心したのは束の間。
顔を上げた途端、全身が硬直する。
小さく体を丸め、地面に座り込んでいる彼は──。
「気が…つきました、か」
「綾…っ」
αだ。
安心感は一瞬にして恐怖へと変わり、楽になった身体の理由をいち早く察知した俺の手は
反射的に頸に触れた。
「あ、の……僕、よくせ…ざい、持ってて…から、噛んでな…です。
今は…匂い、落ちつ……ので、早く帰……さい…」
途切れ途切れに紡ぎ出される綾木の言葉は、とても嘘を言っているわけではなく思えて
現に、触れた頸は痛みも無く、俺の着衣に一切の乱れもない。
…本当に、噛まずに居たのか。こいつは。
綾木の唇と、固く握られた手の甲にはまだ新しい固まってもいない血液が目立つ。
ガタガタと震える半身は、この季節に似つかわしくないシャツ一枚の有様だ。
「…ご迷惑をおかけしました。
綾木さん、今日あった事は全て忘れてください」
拾い上げたジャケットを綾木の肩に掛けると、
枕にしていた鞄の中から未開封の箱を取り出して火をつけた。
礼儀知らずは自覚済み。
だが、これ以上綾木にかける言葉も見つからない。
ここからなら、歩いて家に帰るより一度戻って車を出した方がマシだ。
引き返すか。
遠ざかっていく小さな影は、ジャケットを握りしめたまま動く気配もなく
俺を呼び止める事も、追いかけて来る事も無い。
秘密がバレた以上、明日からは職場も地獄。
明日にも異動を申し出て、通るまでの間くらいは有給で繋げるといいが。
そうなれば、ここへ来る事はもう無くなるな。
最後にあなたの優しさに触れられて良かった。
綾木さん、ありがとう。
最悪の別れ方になってしまうが
どうか無理はなさらず、お元気で。
声として外に出る事の無かったそれらは、紫煙に姿を変えて夜空を揺らす。
頬に伝う一筋限りの涙が持つ意味を、俺は既によく理解していた。
厚い雲に覆われた世界で、“綺麗だ”と言いたい相手がすぐ傍に居てくれたのに
厄介者のΩには、月の明かり一つ拝ませては貰えない。
どうせなら、噛んで欲しかった。
どうしようも無かったと、仕方がなかったのだと言い訳をされても良い。
俺の気持ちに応えるつもりが無くても良い。
性別を知らぬまま宿っていたその気持ちは
今でも灯り続けている。
俺は、綾木が好きだ。
どんなに憎いαでも、綾木なら。
そう思ったのに、初めて受け入れても良いと思えたαを自らの意思で手放すだなんて…本当にバカだな。俺は。
吐き出す煙は、一瞬顔を出した月光を濁した。
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