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第110話
大きな欠伸をしながら部屋のドアを開けると、微かに甘いにおいがする。
優登…?
向かいの部屋から明かりが零れているが、このにおいは明らかにお菓子だ。
こんな夜にお菓子を作るのは次男のはず。
母親は、父と三男と眠っている時間なのだから。
繋げたままの画面の向こうへと声をかけてから、トン、トン、トンと階段を降りていく。
すると、いつもならこの時間は真っ暗なはずのリビングに明かりが付いているのが見えた。
それに、階段を降りればおりるほど甘いにおいも濃くなっている。
「優登?」
「あ、兄ちゃん」
部屋着のままオーブンを覗いている次男がいた。
優登は、すぐにいつもの人懐っこい顔になる。
「マドレーヌ作ってんの。
なんか、混ぜ込んで焼きたくなった」
「あんま無理すんな。
ところで、焼けたら食っても良いの?」
「うん。
良いよ」
「んじゃ、コーヒー飲も」
「俺、牛乳!」
タイミング良く焼き上がりを知らせたオーブンを開けると、ふわふわとバターの良いにおいが溢れ出た。
しあわせなにおいだ。
しかも、この焼き立てのマドレーヌを食べられる。
しかも夜に。
なんてしあわせ。
しっかりとヘソの膨らんだマドレーヌを団扇で扇いで強制的に冷ましていく。
早く食べたいからね!
「そういや、なんでマドレーヌってこの形なんだろうな」
「あー、昔、マドレーヌって女の人が、ばあちゃんから教わった焼き菓子を帆立の貝殻の皿を使って焼いたのがはじまりらしいよ。
だから、昔はもっと帆立の貝殻に似た形だったらしい。
他にもキリストの巡礼の際の携帯食として持ち歩くのに、お守りだった帆立の貝殻に似せたからとか言われてる」
「へぇ」
「丸いのは菊型で、日本だけ。
日本は宗教ごちゃ混ぜだから帆立に拘んねぇの」
「日本はそうだよな。
つか、よく知ってんな」
「好きだから」
好きなだけだ。
「好きな事と得意な事が同じなのは楽しいよな。
好きな事、大切にしろよ」
大切に……。
「兄ちゃんは、古典が好き?」
「好きだけど…。
急になんだよ」
「んーん」
兄が古典の道を選んだように、自分もお菓子の道を歩いてみたい。
1歩、踏み出してみたい。
それを選びたい。
優登の目がキラキラ輝いたのを、本人は知らない。
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