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第279話
「遥登の恋人って得役だよな。
抱き付いてもらえるし、あったけぇし」
「暑いの間違いでは…?」
手を洗う恋人の背中に抱き付きながらその体温を分けてもらう。
ジャケットを脱いだ背中は汗のにおいがする。
長岡のにおいとそれが混じって、だからだろうか。
濃くて安心する。
「あったけぇで良いんだよ。
遥登こそ、暑くねぇか」
「はい。
大丈夫です」
冷たく濡れた手が、自分のそれに触れたかと思うともっとくっ付けとばかりに引かれた。
身体がより密着し、長岡の心音が伝わってくる。
「あの…」
「うん?
どうした」
「……前にも聴きましたが、なんで正宗さんは院にいかなかったんですか。
古典を学ぶなら良い場所ですよね」
古典のロマンを学ぶには院はとても良い場所だ。
教授の手伝いこそあれ、好きな勉強に没頭出来る。
資料も豊富、読み放題。
長岡なら准教授に進む道だって。
塗れる、というには良い生活だ。
三条は息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「院に、誘われました。
俺は夢があって…だけど、こんな時だからそれも良いのではって言われて。
就職が安定するまで居たらって言っていただけて…、でも、俺には分不相応です…。
それに、こんな時だからってそんな気持ちじゃいけない気もしますし…。
そんなの……狡いでしょ。
自分の事なのに全然分かりません」
長岡は掴んでいた手を離し、後ろを振り返った。
顔を見られたくないのか視線が合わない。
いつも真っ直ぐに目を見るのに。
俯く三条の頭をぽんっと撫でる。
悄気た顔が自分を真っ直ぐに見た。
三条は、いつでも真っ直ぐに人を見るが、その目に不安や喜び、しあわせだと思う気持ちが滲んでいる。
今の目には、不安や迷いが濃く映る。
「そうだな、自分の稼いだ金で沢山の本を買えるってのは大きいな」
小さな事でも良いから口に出す。
なんで、教職を選んだのか。
選ぼうと思ったのか。
院を断ったのか。
教師の道を進んだのか。
「俺だって悩んだ」
「正宗さんも…?」
「あぁ。
院に進めば好きな勉強も出来るし、教授の部屋の資料も読める。
魅力的だった。
別に教師になりたかった訳でもねぇし、子供が好きだって訳でもねぇ。
だけど、結果論だけどな」
長岡は言葉を区切るとふわりと優しくて微笑み三条の頭を撫でる。
「進まなくて良かったって思ってる」
そのまま、するりと頬を撫でられ、言葉の意味を理解した。
「最良の選択だった」
真っ直ぐに目を見て、そう言ってくれる優しい人。
「全部、自分で決めなきゃ分かんねぇ事だ。
きっと、どっちを選んでもあっちにしとけば違ったんじゃねぇかって後悔つぅか悩むし考える。
俺だってあって。
だから、沢山悩め」
冷たい手に自分のそれをそっと重ね、頬ずりをする。
このぬくもりに出逢えた事も、この大きな人の隣で生きていられる事も、長岡が選択してきたからこそある今だ。
「古典より、もっと良いもんが此処にいてくれんだしな。
一緒に悩もう」
そうして三条は漸くいつもの力の抜けた顔をする事が出来た。
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