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第2話

     1 「リオン、今日は牛の乳搾りに行くが、一緒に来るか?」 「いく! つれていって、おとうさん!」  父のケインに言われ、リオンは元気よく即答した。 「だって、ジェインちゃんはないてばっかりで、いっしょにあそべないんだもん」 「まだ赤ちゃんなんだから仕方ないでしょう?」  カタリナはちょっと厳しめな顔で、泣いているジェインをあやしながら答える。  リオンはえへへーと笑いながら、母の膝にまとわりつき、にこっと笑った。 「ごめんね、ジェインちゃん。もっとおっきくなったらおにいちゃんとあそぼうね」  そして、カタリナに向けて花が開いたような笑みをみせる。 「ねえおかあさん、こんどのぼくのおたんじょうびには、りんごとはちみつのパイをつくってね」  このリオンの笑顔には、誰も敵わないと近所でも評判だ。  時々、女の子に間違えられたりもする大きな黒い瞳は宝石を散りばめたように輝いていて、小さな顔の周りは、つやつや輝く亜麻色の髪がくるくると渦巻いている。通った鼻筋に、楽しそうに笑っている唇は苺のようにみずみずしい。リオンは隣の町までその噂が届くほどの器量よしだった。  だが、性格は好奇心旺盛で活発。およそおとなしいとは言えないが、頭の回転もよくて、健やかに育っている。ケインとカタリナの自慢の息子だった。 「はちみつのパイね……わかったわ」  カタリナは、リオンがわからないほどかすかに表情を強張らせた。祖母は揺り椅子に揺られながら、一瞬だけ目を伏せる。 「じゃあ、いってきまーす!」  一方、リオンはケインが御す荷馬車の後ろに乗って、大きな声を張り上げた。 「こら、危ないから座っていなさい」 「はーい」  父に言われて、乾し草にもたれ、リオンは足を投げ出して座る。こうして父の仕事についていくことが、リオンは大好きだった。ゴトゴトと荷馬車に揺られ、途中で出会った人たちに挨拶していると、森の入り口の前を通り過ぎた。  昨夜、祖母が語ってくれた野獣族の話を思い出し、リオンはあどけなく父に訊ねる。 「ねえねえ、おとうさん、もりには、もうほんとうに、やじゅうぞくはのこっていないとおもう?」 「残っていないだろうよ」  ケインは素っ気なく答えた。 「あれだけ、森が燃えちまったんだ。いくら野獣といっても……」 「ぼくは、だれかひとりくらいのこってるっておもうんだ……ねえ、ぼくがもっとおおきくなったら、もりのたんけんにいってもいい?」 「絶対にだめだ!」  ケインは声高に言い切った。リオンがその勢いに驚いていると、ケインは声を小さくし、今度は諭すように言った。 「あの森は、人が行くところじゃない。野獣や魔獣など、滅んでいいんだ。わかったな?」  リオンはそれ以上何も聞かなかったが、父親の乳搾りの様子を眺めている間も、ずっと考えていた。 (どうしてみんな、やじゅうさんたちのことをわるくいうのかな。そりゃ、まじゅうは、わるいまほうをつかったかもしれないけど)  野獣は人の国を守ってくれたのに……小さな心に、リオンは理不尽な思いを抱える。 (ぼくはいつかきっと、もりにはいってやじゅうさんたちにあうんだ。きっと、いきのこってるとおもうから)  五歳の誕生日を間近に控えたある日。それは、リオンの心に灯った小さな決心だった。           *  「アルマ、お茶を淹れてくれる?」 「はい、ただいま」  ユリアス・ホーンバルトは、窓辺にもたれて、城の庭園を眺めていた。 庭園には、泉が湧き、果樹が立ち並ぶ一角がある。そこから庭の中心部へと続く遊歩道沿いに、つるバラが蕾をつけはじめているのが見えた。 (よかった。今年もなんとか咲いてくれそうだ)  今こそ手入れも十分でないが、かつてここは母の自慢の庭だった。泉に小さなボートを浮かべ、光がキラキラと水に反射するのを見るのが好きだった。  ここには、ユリアスの幸せな記憶が多く残っている。そしてこの庭は、十年前の魔獣族との戦いで、唯一、被害の少なかった場所だった。  ユリアスは十五歳になったばかりだ。獅子のような見事な金髪に、獣を思わせる琥珀色の目をしていても、その表情は寂しげで憂いがあった。 (もうすぐ冬か)  季節がなんであれ、この庭の他は何も変わらない。城を囲む森は、荒れ果てたままだった。  以前の森は、春には新しい芽が芽吹き、夏には青々とした葉をつけた。秋には紅葉して落葉し、冬には、冬眠する動物たちを守るように、雪がふわりと降り積もった。  まだ、鮮やかにその風景を思い出せるのに。  魔獣族と相討ちになり、両親が亡くなり、一族のほぼ全てが滅んだあの戦いから十年。  自分の周りにいるのは、生き残ったわずかばかりの者たちだ。彼らのために、彼らがいる限り、私は王子として、彼らとこの森を守っていく。だが、十五歳のユリアスにとって、それはとても大きな責任だった。 「アルマ、お茶美味しいよ。いつもありがとう」  自分の好きなブレンドやフレーバーを、その時の心持ちを癒やすかのように淹れてくれる。豊かな黒髪に優しい黒い目をした侍女のアルマは、もともとユリアスの乳母だった。そして、今やただひとりの宰相となった、ベイリーの妻でもある。 「もったいないお言葉でございますわ」  アルマは頭を下げ、そして、おずおずと口を開いた。 「あの、ユリアスさま」 「どうしたの?」 「夫が……ベイリーがまた無理を申し上げたのではないでしょうか、あの……」 「アルマが心配するようなことはないよ」  ユリアスは、柔らかく微笑んだ。 「ベイリーは、この現状を早くなんとかしようと一生懸命なんだ。それは私だって同じだよ。だから、二人で議論を交わすことは当然さ」  昨日、ユリアスとベイリーが言い争いになったことを、アルマは憂いているのだろう。彼女を心配させないように、ユリアスは明るく答える。だが実際のところは、ベイリーに一方的に責められ続けていたのだ。  早く森の復興を、早く一族の安心を。お父上たちの無念を!  そのためには一刻も早く、この『呪い』を解く鍵を……! ひとつずつでもいい。三つの枷を外していくのです。 『今年は、人の国に三百年に一度生まれるオメガが、五歳になる年です』  ――わかっている。わかっているけれど、どうすればいいというのだ。オメガを見出す術などない。  ユリアスの無言の葛藤に、ベイリーは髪と同じ赤茶色の顎ひげを捻りながら、淡々と答える。 『人の国から、五歳になった子どもを片端から攫ってくればいいのです』 『なんてことを……! そんなことをできるわけがないだろう』  ベイリーの無茶な意見に、ユリアスは眉間を険しくした。しかし、ベイリーは引き下がらなかった。 『ユリアスさまはお若い。まだお考えが甘くていらっしゃる。彼らはもともと、我々を忌み嫌っているのですよ。だから、そんな優しさなど無用です。それくらいのことをしないと、我らの呪いは解けぬのですよ!』  ユリアスの父に仕えていた頃のベイリーは、子どもを攫ってくればいいなどと、そんな無慈悲なことを言う男ではなかった。全ては呪いのせいなのだ。呪いがベイリーを非情な男に変えてしまった。  父も母も一度に失った淋しさは、よく知っている。だからこそ、たった五歳の子どもを両親から引き離すなどできないと思う。 『オメガはアルファに惹きつけられるもの。そしてアルファもまた、オメガに惹きつけられる。あなたはアルファなのですよ、ユリアスさま。だから、あなたはオメガさえ見つかれば、孕ませることができるはずなのです』  孕ませる、という生々しい言葉に、ユリアスは眉をひそめる。 『そんな、オメガの子を道具のように扱うなど……!』  だが、ユリアスの苦悩を、ベイリーは一刀両断にした。 『そういうところが甘いと申し上げているのです。あなたは、気高き森の王家の最後のひとりなのですよ。オメガと番うことを運命だなどと夢を見るのは、いい加減にやめなければ』  アルファとオメガのつながりに、私たちの間に、心は邪魔なのか? (私は、そして、オメガとはいったいなんなのだろう……)  残された一族を守り、『呪い』を解くという重責は、たったひとりで背負わねばならないものだ。そこに心はいらないという。ユリアスは孤独だった。 (誰か、私を癒やしてはくれないか……)  アルマの淹れてくれたお茶に心を温められながらも、ユリアスはそう思わずにはいられないのだった。

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