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5-1 帰りたくない。

   第五章 記憶の中の男の子  その後オレは、四ノ宮の提案で先に帰らされることになった。 「トキさん、濡れたままだと風邪引きますから。部室棟のシャワーを借りて温まるといいですよ。あそこ、ドライヤーとかもありますし。幸い、記事に使えそうな写真はもう撮れていますから、後の作業は僕がしておきますよ」  一見優しい気遣いだが、たぶんそういうんじゃない。腹芸の出来ないオレに、そのまま長居させておいたらすぐに九重達の前でボロを出すと踏んだんだろう。余計なことを知られたら困るのは、四ノ宮も一緒だ。  でも、正直助かった。あのまま四ノ宮と九重の居る空間には、居たくなかったから。  九重も四ノ宮の意見に同意を示した。オレは昨日も体調不良を起こしたから、大事を取った方がいいだろうって。  九重と八雲も園芸部の温室の件で事務方に相談する必要があるから、まだ残るそうだ。  オレは――九重の顔が、何だか見られなかった。  変に思われたかもな……。でももう、どう接したらいいのか分からない。だって、アイツは――オレのこと、抱く為に傍に置いてるんだ。 「帰りたくねぇな……」  一人、シャワーの水音に紛れて零した。部室棟のシャワールームは、今は他に誰も居ないようだった。運動部はまだ活動中の時間帯だろう。それで良かった。今の自分を誰にも見られたくない。  突発的なことだったので、バスタオルは持ってきていない。体を拭くのは携帯しているスポーツタオルで代用するつもりだが、流石にスポンジの代わりになりそうなものまでは用意が無い。仕方なくオレは、手で身体を洗った。  自然、九重とのバスタイムを思い出して複雑な気持ちになる。九重の吐いた嘘。……もう騙されない。  頬、耳、胸……あそこ。四ノ宮に触れられた場所を、念入りに拭う。アイツの手垢が、涎が、洗っても洗っても、こびりついているような気がした。  ただただ怖くて痛くて気持ち悪かった筈なのに、反応してしまった自分の身体が――悔しくて、呪わしかった。  またふと泣き出しそうな気分に襲われたその時、不意に名前を呼ばれた。 「――トキ?」  びくりと、肩が跳ねる。背後から掛かったのは、耳馴染みのある声――タカのものだった。カーテンで仕切られたシャワールームの個室の外、背後にいつの間にかタカが立っていた。シャワーの水音で、全然気が付かなかった。湯の排出を止めて、問い掛ける。 「た、タカ? 何で? 部活は?」 「休憩中だ。校庭からトキがここに向かうのが見えて……抜けてきた」  見られていたのか。(にわか)に緊張が走る。タカはオレに、同じ質問を返してきた。 「お前こそ、どうしたんだ? 生徒会室に居るんじゃなかったのか? ――何か、あったのか?」  気遣わしげな、優しい声音。心の底から心配してくれているのが伝わってくる。驚きで引っ込んでいた涙がじわりと滲み出そうになり、慌てて呑み込んだ。 「あ……と、その……うっかり転んで頭から花瓶の水、被っちまってさ。濡れたままだと風邪引くから、シャワー浴びて先に帰れってことになって」 「転んだ? 怪我はなかったのか?」 「んっと、ちょっと耳切ったみたいだけど、まぁ……大丈夫」  完全に無いと言い張るよりも、ここで耳のことを話しておいた方が、後日気付かれた時の言い訳になるだろう。  耳……四ノ宮に、齧られた傷。アクセサリー好きのオレが唯一ピアスを付けないのは、穴が空けられないからだ。痛そうで、怖かったから――なのに、ピアッサーよりも数段タチの悪いものに傷付けられるなんて、なんか皮肉だ。 「耳を? 手当てするか?」 「いや、タカは部活戻れよ。休憩時間終わっちゃうぞ。オレまだ、シャワー浴びてくからさ。……心配すんな。手当てもちゃんと自分でやっとく」  如何にタカといえど、今は裸を見られたくない。オレは頑なにカーテンの内側に引っ込んだまま、タカの立ち去るのを待った。タカは暫し逡巡するような空気を醸していたけど、その内にザリ、と背後で足音が聞こえ、そっと安堵の息を吐いた――途端。 「……トキ」  ドキリとした。立ち去るかと思わせて、タカはふと思い留まったようにまたオレを呼んだ。 「うん?」と促す。タカは何故か、声を潜めた。 「お前……シャンプー変えたよな」  全く予想だにしなかった言葉に、瞬間思考を奪われた。 「香りが変わった。一昨日くらいから」 「そ、そんなの、分かんのかよ」  驚いた。てか、そんなこと聞いてどうするんだ? オレが疑問に思っていると、タカは何某(なにがし)か言いたそうな間を置いて、それから思い直したように話題を変えた。 「今日……部活終わった後、お前のマンションに行ってもいいか?」  これもまた想定外だった。 「いいけど……何でまた?」 「……昨日も一昨日も、行って会えなかったからな」 「学校では会ってんじゃん?」 「まぁ……そうだけどな」  苦笑した気配が伝わってきた。タカがどうしてそうしたいと思ったのかは分からないけど、それもいいかもしれないと思った。丁度、前のマンションの鍵も渡されている。今なら問題なくあちらでタカを迎え入れることが出来る。  それに、今日は九重の居るタワマンの方には、帰りたくなかった。どんな顔してアイツに会えばいいのか、分からない。もしかしたら、今日こそアイツはオレを抱くつもりなのかもしれない。……そう思うと、嫌だった。 「そうだな。久々に家で一緒に、飯食うか」  オレがそう答えると、タカは何処かホッとしたようだった。 「それじゃあオレ、先に帰って部屋の掃除しとくから。部活終わったら、ゆっくり来いよ」 「ああ、分かった。ありがとう、トキ」 「またあとで」――互いにそう言い交わして、カーテン越しのままその場は別れを告げた。    ◆◇◆  シャワーを終えて部室棟を出ると、何の気なしに校庭の方を見た。タカはサッカー部員達と試合形式の練習に励んでいた。  味方からのパスを受け、敵チームのマークを猛然とドリブルで潜り抜ける。タカのスピードとパワーには誰もついていけない。――やっぱ上手いな、タカは。  見蕩れるオレの目の前で、タカは見事ゴールにシュートを決めた。途端、視線に気が付いたのかタカがこちらに振り向いた。  オレの姿を視界に捉えると、ふわりと顔を綻ばせて笑う。穏やかで優しい笑み。額から伝うのは、激しい運動量を物語る汗。夕焼けの朱色の光に照らされて、キラキラと光る。肌に貼り付いたシャツの隆起が、タカの逞しさを物語っていた。  オレが軽く手を上げて応えると、タカは一層笑みを深めた。直後、試合が再開され、タカはそちらへと意識を戻す。  放課後の校庭は、何だかすっごい青春って感じの光景で、見ているとオレだけが別の世界に取り残されてしまったような、妙な感傷が生まれた。  同性に抱かれるかもしれないなんていう不安と恐怖を抱えているのは、今ここで自分だけなんじゃないか。誰にも理解されないんじゃないか。……そんな風に思えてしまう。  何も言わずにおくのも怖いので、九重には『タカが来るから前のマンションの方で迎える』とメッセージを入れておいた。これで、ひとまず今日は向こうに帰らなくても済む。……よな? まさか、タカが帰ったら迎えに行くとか言われないよな……? いっそ、タカに泊まってって貰うか?  そういや部屋の家具とかどうなってんだろ。元々置いてたやつは全部タワマンの方に移されてたし、下手したら何も無いんじゃ……。タカに怪しまれない程度に生活感出しておかないといけないよな。  皮肉にも、早めに帰る形になって助かった。……なんて、口元に自嘲の笑みを浮かべた時、不意に横合いから声を掛けられた。 「すみません」  校門を出て、歩いて数分後。直前に通り過ぎた路肩に停められた車の運転席からだった。若い男性が困ったような表情でオレを見ている。 「どうしました?」  戻って、問い掛けた。男性は手にした地図か何かを示して答えた。 「道に迷ってしまって……目的地はここなんですけど」  どれどれ、と覗き込む。直後、車内から伸びてきた男の腕に後頭部を掴まれた。驚愕に声を上げる暇もなく、首筋にチクリと軽い痛みを覚え――ふっと、目の前が暗くなった。  あ、これ……ヤバいやつだ。  ――『だから、お前は警戒心が無いと言ったろ』  いつぞやの九重の言葉が脳裏を過ったのを最後に、オレはそのまま昏倒した。

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