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9-9 急流に呑まれる。

 タカが、オレのマンションの方に来てる?  でも、そんな連絡とか無かったよな? そもそも、今はまだ部活中の筈じゃ……。 「何で?」  ぽろり疑問を零したら、回線の向こうでセンパイが困ったように小さく息を吐いた。 『それはおれが知りたいかな。トッキーが驚くってことは、約束とかはしてなかったんだね? おれはどうすればいいかな?』 「えっと……とりあえずオレ、そっちに行きます。センパイは出ないでください」 『おっけー。身を潜めとくよ』  通話を切り、背後の九重の方へと振り向いた。 「タカが、来てるって」  簡潔に内容を告げると、九重は眉間のシワを深めた。 「何の用だ」 「だから、オレに聞かれても……」  溜息と共に、するりと九重の腕から抜けた。すかさず、質問が飛んでくる。 「行くのか?」 「そりゃ、まぁ」  そのまま玄関の方へ向かおうとすると、引き止めるように腕を掴まれた。 「行くな」  強い力。思わず怯む程の、真剣な眼差し。 「つっても……放っておく訳にもいかないだろ。スマホ使えない状態で何か急用が発生したのかもしんねーし」  そう言い聞かせても、九重は不満顔だ。全く、仕方ない奴だな。苦笑が漏れる。 「心配すんなよ。ちょっと用事聞いて……夜までには戻るからさ」  宥めるように九重の腕を軽くぽんぽんと叩いた。九重はまだ納得していないようだったけど、やがては渋々ながらも手を離してくれた。 「じゃあ、行ってくる」 「……気を付けろよ」  オレは微笑んで頷いた。  ――今にして思えば、九重のこの警告は、何か良からぬことが起きるのを予期してのものだったのかもしれない。    ◆◇◆  車田さんに送って貰い、急ぎマンションに駆け付けた。早速、玄関前に立つタカを見つけると、オレは何気無い風を装って声を掛けた。 「あ、あれぇ? タカじゃん! どうしたんだよ」  ……ちょっと、わざとらしかったか? ええい、オレが大根なのは今に始まったことじゃない。何とか乗り切るしかない。  タカはオレが室外から顔を出したことにも、そんなに驚いた様子はなかった。冷静に問い返してきた。 「トキこそ。何処に行っていたんだ? 俺よりも早く帰宅した筈だろう」 「えっと、オレは……ちょっと買い物に」  手に提げた紙袋を持ち上げて示してみせる。こんなこともあろうかと実際にショップに寄っといた。スーパーは鬼混んでたから、ペット用品店で〝おはぎ〟用の玩具をば。もしかしたら、五十鈴センパイがもう買ってるかもしれないけど、これならいくつあっても大丈夫だろうし。  タカが、じっと見つめてくる。心の裡を見透かすような、鋭く怜悧な眼差し。居心地の悪さに目を背けそうになるのを、必死に堪えて笑顔をキープした。 「それで、タカは? 来る時は連絡くれるって約束したじゃん。大体、部活は」 「話があるんだ、トキ」  被せ気味にキッパリと、タカは切り出した。何かを決意したような、迷いの無い口調。 「何だよ、改まって」 「立ち話も何だ。上がらせて貰っていいか?」 「! ……ああ」  ここでノーと言える訳が無い。内心ヒヤヒヤしつつ、部屋の鍵(センパイにあげちゃったから、もう一本新たに作っておいた)で開錠した。恐る恐る玄関扉を開く。……センパイの靴は置かれていない。流石センパイ、何処かに隠したのか。  ホッとして、タカを案内した。片付いた室内。靴以外のセンパイの痕跡も無い。センパイは何処に身を潜めているんだろう?  オレ達の来訪に反応して、小屋の中から〝おはぎ〟がミーミー鳴き始めた。小さな白黒ぶち猫の姿を見て、タカが初めて表情を変えた。 「猫を飼ったのか」 「飼ったっていうか、一時保護? 捨てられてたのを拾っちゃって、新しい飼い主が見つかるまで預かってるって感じ。〝おはぎ〟っていうんだ。可愛いだろ?」  ドヤ顔で覗うも、タカは浮かない様子だ。 「聞いていない。どうして、俺には何も相談してくれなかったんだ?」 「それは……」  拾ったのがオレじゃなくて、五十鈴センパイだったから、なんて言えねえ。 「タカんとこのおじさん、確か花粉症だったじゃん? 猫の毛とかもマズイかな、と思って」 「そうじゃない。どうして、話すらも……」  言葉の途中で、タカはふと諦めたように口元に皮肉げな笑みを浮かべた。 「最近のトキは、隠し事ばかりだな」  ドキッとした。発言内容もそうだけど、タカの表情が酷く哀しげだったから。擦り切れそうな糸をすんでのところで繋ぎ止めたような、傷だらけの草臥(くたび)れた自嘲の笑みだった。  それも一瞬のことで、次にはもう元の硬い表情に戻っていたけれど……オレの目には、さっきのタカの笑みが焼き付いて、離れなくなった。  見つめるオレの視線を真っ向から受け止めて、タカは静かに本題に入った。 「トキ……俺、サッカー部を辞めた」 「え!?」  いきなりの衝撃的な宣言。思わず耳を疑った。 「な、何で」 「やっぱり部活なんかやっていたら、お前を守れない。これからは、登下校の際も必ず俺が付き添う」 「っ……オレは、タカにオレの為に自分を犠牲して欲しくないって!」 「トキの為じゃない」 「!」 「俺自身がそうしたいから、そうする――自分の為だ」 「タ……」  呆気に取られていると、タカは更に驚くべきことを申し出た。 「それと、今日から俺もここに住む」 「ふへぇっ!?」 「ここの管理人に問い合わせたら、近い部屋は空いていないみたいでな。距離があると意味が無いし、それならいっそ、お前の所に転がり込むことにした。お前には無断で勝手に決めた上に、急で申し訳ないが……こうでもしないと、お前を守りきれないと悟った」 「で、でも、タカのご家族の方には」 「家族には、トキとルームシェアをすると話したらすぐに賛成して貰えた。……俺達は兄弟同然に育った幼馴染だ。何も問題無いだろう? 部屋代はちゃんと折半する。狭くはなるが、辛抱して欲しい」  タカの中では、それはもう揺るぎない決定事項のようだった。 「た、タカ……でもオレ」 「嫌なのか? ……俺が傍に居るのは」 「っ!」  ズルい。そんな言い方。それに、またあの表情だ。――そんな傷付いたような目で見られたら、何も言えなくなる。 「そうじゃ……ないけど」  逸らした視界の端で、タカがこちらに手を伸ばすのが見えた。反射的に身を固くしてしまう。タカはオレの肩の辺りから何かを摘み上げて、スッと眼前に示してみせた。  釣られて見ると、それは細長い糸のようなものだった。初め、それが何かは分からなかった。だけど、すぐに思い至ってハッとした。  紫がかった艶のある黒――九重の、髪だ。 「九重と一緒に居たんだな」 「それ、は……」  タカは言い訳など要らないといった風に、(かぶり)を振って見せた。 「いい。分かっている。トキを責めている訳じゃない。アイツの方が、無理にお前に付き纏っているんだろう」 「ち、違」 「トキ、お前……九重に脅されているんじゃないのか?」  ギクリとしたのを、見咎められたようだった。タカは確信したように頷いた。 「やはり、そうか」 「違う! いや、違……くもないけど、でも」 「庇う必要はない。トキは甘い。ずっと、おかしいと思ってたんだ。あれだけ嫌っていたのに、急に仲良くなって」 「だから、それは」 「〝過去に知り合っていた〟と言っていたな。それが本当だろうと関係ない。付き合っているのかとも思ったが、そうじゃないな。……恋人なら、あんな状態でお前を放置したりなんか、しない」  言葉の最後は、静かな激情を孕んで空気を揺らした。  タカの怒りは、水泳勝負一つで散る程の薄いものなんかじゃなかった。晴れることのないその想いが、今尚胸の奥に燻っているのが見える。  あれは、だって、九重じゃ――。  誤解だと、そう伝えたいのに。圧倒されて声を失った。ただその場に凍り付くオレを、タカは強い力で抱き寄せた。そうして、耳元で囁く。 「もう大丈夫だ。今後一切、九重をお前に近付けさせはしない。九重だけじゃない。お前を傷付けるもの、お前に迫る危険は、俺が全て跳ね除けてみせる」    ――ああ、そうか。  唐突に悟った。タカがここに来る連絡を寄越さなかったのは、きっとわざとだ。  オレがここには居ないことを……タカを裏切ったことを、確かめる為に。  なのにタカは、オレを責めることもせず、こう言うんだ。 「今度こそ……今度こそ、絶対にお前を守ってみせる」  見上げたタカの栗色の瞳には、怒りとも焦りとも哀しみとも取れる、複雑な感情が混ざり合っていた。それらを不安と共に覆い隠すように、強い意志の光が揺らめいては焦がしていく。  ――オレのせいだ。  オレがタカを、ここまで追い詰めてしまったんだ。  誰も居ない教室での抱擁の時と違い、タカの腕はもう、震えてはいなかった。――突き放すことなんて、出来なかった。    【続】

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