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10-7 消えない傷

「驚いた。まさか貴方が一人で会いに来るなんて」  扉を開けた四ノ宮の第一声は、それだった。もしも在宅していなかったらどうしようかと思っていたが、それは杞憂だったようだ。 「よくタカさんに止められませんでしたね? もしかして、無断で来ました?」  ふふっと愉しげに笑み零す彼の頬には、痛々しい痣が出来ていた。九重のようにガーゼで隠すでもない、剥き出しの痕跡だ。それでも、他に目立つ外傷などは見当たらず、ひとまずは安堵の息を吐いた。 「良かった……学校来ないから、酷い怪我したのかと」 「早めに降参しましたから。力では敵いませんしね。無理はしない主義なんです」  全く何てこともないように、いつもの調子で語る四ノ宮。玄関で立ち話するような内容でもないので、促されるまま後に続いて室内に上がった。前に来た時と変わらない、狭い廊下に雑多に物が置かれた四畳半の空間。だけど、一つだけ決定的に異なる点があった。  ――有った筈のものが無い。壁にも天井にもあれだけびっしりと貼られていたオレのポスターや写真が、一つ残らず無くなっていた。 「タカは、ここにも来たのか?」  だとしたら、あまり時間が無い。今にもここにタカが迎えに来るかもしれない。内心少し焦るオレに、対して四ノ宮は余裕そうに首を横に振った。 「いいえ。呼び出しを食らった出先でしかやり取りしていませんから。僕の住所まではご存知ないと思いますよ。タカさんも詰めが甘いですよねぇ。携帯の画像データだけを消させたところで、USBメモリにバックアップを残したままだったんですから」 「!」  思わずオレが身構えた次の瞬間、四ノ宮は意外な一言を放った。 「でもまぁ、安心してください。それももう消しましたよ」  ――消した? 自主的に? 「何で……」  四ノ宮のことだから、これ幸いとばかりにひっそりとまた脅迫行為を続行するんじゃないかと思ったのに。 「あれ? 喜ばないんですか? まぁ、僕ももう殴られたくはありませんしね」  なんて、相変わらず人を食ったような態度で笑う四ノ宮。オレは困惑した。まさか、本当にそれだけの理由じゃあるまい。四ノ宮は言う。 「それにしても、殴り込みに来たのがタカさんの方だったとはね。水着の名前に気付くとしたら、貴方と同棲しているらしい会長の方かと思ったんですけどね」  引っ掛かる物言いだった。まるで、気付かれること前提みたいな……。 「もしかして、お前……わざと?」  四ノ宮は無言を返した。それこそが、答えだ。……そうだ。四ノ宮くらい聡い奴が、記名入りの水着をうっかり貸すなんて、そんなミスするか? 大体、自分は競技不参加なのに、わざわざ水着を持ち歩いていたのも不自然だろ。まるで、初めからオレに貸すと決めていたみたいで……。  ――わざとなんだ。自分達の関係を、誰かに気付かせる為に。  思えば、教室でなんて……あんな発見されやすそうな場所ですること自体、破滅的な行為だ。  でも、何で? 「もしかして……止めて、欲しかったのか?」  誰かに。――もう、自分では止まることが出来なかったから。  推測をぶつけると、四ノ宮は鼻で笑った。 「ただのゲームですよ。少しくらいそうしたリスクがあった方が刺激的でしょう?」  その言葉は本当か? それならどうして、無事だったデータまで全部自主的に消したんだ? 写真や、ポスターなんかも……。 「オレ……四ノ宮は、一人になることを恐れてるんだと思ってた」  だから、どんな形であれオレとの関係性を繋ぎ止めておきたいんだと思ってた。……でも、それだと矛盾する。  オレの心を覗き込むように、ベージュの瞳がじっとこちらを見つめた。 「……当てましょうか? そんな風に思っていた貴方が、僕に掛けようとしていた言葉」  スッと、四ノ宮の視線が下方に落ちた。その先には煤けた畳しかない。 「〝オレは決してお前を見捨てない〟〝だから、もうあんなことをしなくても、大丈夫だ〟〝お前の望む形でないとしても、オレはお前の傍から居なくなったりはしない〟……そんなところでしょうか」 「!」  図星だった。呆気に取られて固まっていると、四ノ宮は皮肉げに口元を歪めた。 「……本当に貴方は、残酷な人」  疲れて、()んだような声。 「どれだけ欲しても、貴方は決して僕のものにはならない。それなのに、僕を突き放すこともしない。近くに居るのに、触れられるのに……いっそ、その温もりが憎かった。全て壊れてしまえばいいと思った。いっそ、貴方なんて居なければと……何度も思いましたよ」  静かに紡がれる、四ノ宮の本音。刹那的で、胸を抉る衝撃的な告白。 「なのに、自分から貴方を手放すことは出来なかった。憎いのに……どうしようもなく、愛おしかった」  その瞬間、見開いたオレの瞳に映った彼の表情( かお)は、これまでに見たこともない程に優しくて――哀しい微笑だった。 「いいことを教えてあげましょうか、トキさん。八方美人は優しいようでいて、誰のことも幸せにはしないんです。望みがないのなら、きっぱりと断ち切ってやる方が相手の為ですよ。……それから、もうこんな風に無防備に男の部屋を訪ねたりしないことですね。僕がその気なら、貴方今頃また強姦されていてもおかしくありませんよ。警戒心が無いにも程があるでしょう」 〝警戒心が無い〟――それは、九重にもよく言われたな。  ああ、そうか、オレ……。 「ごめん、四ノ宮……」  ――間違えてたんだ。相手を大切にする方法。  四ノ宮は呆れたように肩を竦めた。 「何で貴方が謝るんですか? 貴方を脅して従わせていた僕の方が明らかに〝悪〟でしょうに。……まぁ、僕は謝る気、ありませんけど」  そうしてまた、鼻で笑って見せる。……彼らしい。  最後に四ノ宮は、こちらを見上げるとオレの胸元をトンと軽く拳で突いた。 「……もういいですよ。貴方の中の〝消えない傷〟くらいには、なれたでしょうから」    ◆◇◆  四ノ宮のアパートから立ち去った後も、オレは暫し茫然とした心地で足だけを動かしていた。四ノ宮の言葉、表情。突かれた胸の奥に、確かに全て刻み込まれていた。――オレはたぶん、この先も絶対にアイツのことは忘れない。  痛みと引き換えに、四ノ宮が教えてくれたこと。……なら、オレがすべきことは。オレが本当に、心から望んでいることは――。  不意に、電柱に貼られたポスターの一つに目が行った。町内会の夏祭り、花火大会のお知らせ。赤青黄、色とりどりの花が夜空を模した紺色の背景に散りばめられた、鮮やかなイラスト。それを見た瞬間、オレの脳裏にある映像が閃いた。  あの広い部屋で、たった一人。無関心に花火を上から見下ろす九重の図――。  衝動に突き動かされるように、スマホを取り出した。念の為オフにしていた電源を入れると、すぐさま着信音が鳴り響く。勇猛果敢な行進曲。それを聴かなくても、誰かは分かっていた。  通話ボタンを押して、端末を耳に当てる。それから、呼び掛けた。 「――もしもし、タカ」

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