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10-9 辿り着いた場所

 低い声。突き刺すような冷たい視線。怯みそうになる心を叱咤して、真正面から九重の顔を見据えた。すると、少し印象が変わってくる。硬い表情は怒りの表明というよりも、動揺を押し隠すよう敢えて仏頂面を作っているように見えた。その証拠に、琥珀の瞳の奥は揺れている。  ――予想外だったんだ。オレが来ることは。  ここで、ふと九重の視線が下方に落ちた。その先を辿ると、オレが握り締めた例の合い鍵へと行き着く。途端に九重は、合点が行ったというように皮肉げに口端を吊り上げた。 「ああ……鍵を返しに来たのか。そんなもの、郵送で良かっただろう」 「違う」  即座に否定してやると、九重は今度はキョトンと目を丸くした。 「何か、段々腹立ってきてさ」 「……は?」 「だって、そうだろ? お前が勝手にオレを〝今日からお前は俺の玩具だ〟とかって決めつけて、誘拐紛いのやり方で強制的に手元に置いてさ? 散々強姦っぽいことしてさ? で、今度は何だよ? 掌返したみたいに、〝同じ玩具はもう飽きた〟? 〝お前なんか要らない〟? ――ふざけんな!」 「……つまり、文句を言いに来たのか?」 「それもあるけど、真意を確かめに来た」  オレの勢いに少し気圧され気味だった九重は、ここで怪訝げに眉を寄せた。 「お前さ、わざと悪態ついて、タカに自分を殴らせたんじゃないのか?」  一瞬の静寂。その後に返ってくる問い。 「何で、そう思う」 「何となく。だって、お前の話矛盾してんだもん。前はオレのこと嫌いじゃないとか言ってたくせに、今度はやっぱり嫌いだとか言うし。どっちが嘘かって考えたら……あの夜のお前の言葉が嘘だったとは、オレには到底思えなくてさ」  願望かもしれない。でもさ、あの夜確かにオレ達の心は近付いたと思ったんだ。 「オレを傷付ける為に、敢えて手懐けてからこっ酷く突き落とそう、みたいなこと考えてたんだとしてもさ。普段のお前の態度、オレに甘すぎたもん。タカ級に過保護だったし。それが演技だったとしたらアカデミー賞もんだと思うけど、正直言ってお前、そこまで腹芸上手くないだろ。すぐ感情出るじゃん」  そうだ。腹黒度で言ったら、四ノ宮の方がよっぽど上手( うわて)だったぞ。  その四ノ宮の話を聞いていて、ふと思ったんだ。――もしかしたら、九重( コイツ)も同じだったんじゃないかって。 「お前……わざと悪役を演じることで、オレがお前に心を残さずにタカの方に行けるようにしたんじゃねーのか?」  九重は何も言わない。無言のまま暫しオレを琥珀の瞳に映してから、やがて、そっと視線を逸らした。 「……考え過ぎだな」 「じゃあ、今の間は何だよ。何で目逸らすんだ?」 「俺は、そんなお人好しじゃない。先日放った言葉も、全くの嘘って訳じゃない」  〝嘘じゃない〟? ――胸が、ざわついた。 「じゃあ……何だよお前、本当にオレのこと」 「憎いと思ってた。傷付けてやろうと思ってたのも、本当だ」 「っ…!」  改めてそれが真実だと突き付けられると、先日受けた傷がぶり返したみたいに痛んだ。唇が戦慄( わなな)く。今度はオレが俯いて目を逸らす番だった。 「なんだ……そっか」 「そうなんだと、思ってたんだ。お前への感情が、何だか分からなくて」  ――?  続いた九重の言葉に、オレは顔を上げた。目が合う。琥珀色の瞳は、今は真っ直ぐにオレを捉えていた。 「何でこんなにお前のことが気になるんだろうって、ずっと自問してた。あんなことがあったのに、俺のことを忘れててムカつくから? 思い出させてやりたかった。……それも確かだ。だけど、同時にお前のことを妬ましく思う気持ちも、確かにあった」  ――『俺には、初めから選択肢なんて与えられていないのに、呑気に自由を謳歌するお前が』 「羨ましかった。……眩しくて。目を背けたくなるのに、何故だか目が離せなくて。お前の笑顔を見ていると、胸が騒いだ。とにかくお前が気に障る。何でだ? 分からない。ムカつく。そうだ、ムカつくからだ。俺の気持ちも知らずに、自由気ままに過ごすお前が。……だからきっと、俺はお前が嫌いなんだと、思っていた」  ――ああ、やっぱり。 「お前の笑顔は、いつもオレ以外の誰かに向いていた。……ムカついて、こっちに向けさせたかった。それが敵わないのなら、いっそオレの手で歪めてやりたかった」  ――コイツは、四ノ宮に似ている。 「そのチャンスが、巡ってきたと思った。〝憎い〟お前を傷付けて……めちゃくちゃに壊したら、この胸のモヤモヤもきっとスッキリするだろうと思ってた。実際、ズタボロに泣かせて確かに気分は高揚した。もっと見たいと思った。だから、手元に置くことにした。でも、一緒に暮らして、お前が俺に笑い掛けるようになって……壊したかった筈の笑顔を、いつの間にか大切にしたくなっていた」  ハッとした。九重は、ふっと眉を下げて情けなく微笑(わら)った。 「結局俺は、お前が欲しかっただけだったんだ」  〝それだけだった〟――いつかの夜に語ってくれた真実。それもまた、嘘なんかじゃなかったんだ。 「あの夜、お前は俺に言ったな。〝オレと友達になりたかったんだな〟って。それで、また考えた。そうなのか? って。だから俺は、お前が欲しかったのか? と。……でも、それは何だか違う気がした」 「え? 違うのかよ」  ここに来て、肩透かしを食らった気分だ。じゃあ、何なんだよ。ジト目で見つめると、果たして九重はさらりと続けた。 「俺は、お前が好きだ。……たぶん、そういうことだと思う」  数秒、頭が真っ白になった。  え? 今、コイツ何て言った? オレが、好……!? 「そ、れは……友達として、とかじゃなくて?」 「恋愛対象として」  はぁあ!? 「いや、だって、お前……恋愛とかそういうの、興味無いって言ってたじゃん!!」 「そう思ってた。だから、ビックリした。まさか、俺がお前に抱いていた感情が、それに該当するとはな」  何だよ、それ!? ビックリしたのは、こっちだよ!!  目の前の九重は、至極真剣な表情をしている。嘘とか冗談じゃ……ないんだ。本当に、オレのこと……?  意識したら、一気に顔に熱が上がった。内心パニックに陥りかけたオレを引き戻したのは、次に九重が零した小さな溜息だった。 「恋愛なんて……忌むべきものだと思っていた。両親のことを散々見てきたからな。そんなもの、肉欲を満たす為の一時の錯覚に過ぎない。振り回されるだけ、愚かだと思っていた。だから、まさか自分にもそんな感情があるなんて……思いもしなかった」 「九重……」  まるで、悪いことみたいに言うんだな。含まれた自嘲の響きに、胸が締め付けられる。 「気付いてから、悩んだ。脅して無理やり手に入れたこの状況では、お前に〝愛している〟など到底言えたもんじゃない。脅迫で繋ぎ止めた不自然な関係性だ。いつかは終わらせなければと思っていた。それでも、手放し難くて……傍に居るというお前の言葉に、甘えてしまっていた」  だけど、状況が変わった。 「お前が風見に相談したと知った時……ショックだったが、契機だとも思った。遂にお前を解放する時が来たんだと。……後は、概ねお前の言う通りだ。煽って風見に殴らせたのも、俺なりにケジメを付ける為だ」  ――それが、あの時の九重の真意。  場を暫しの沈黙が満たした。黙り込むオレに、九重は再び何某かの言葉を掛けようと、口を開く。しかし、それより先に声を発したのはオレだった。 「ふざけんな」  静かに紡いだ怒り。九重が驚いたように軽く瞠目した。 「それで、〝はい、分かりました〟ってオレが素直に従うと思ったか!? 勝手に話を終わらせんな! 解放? 何だよ、人の気も知らないで勝手に決めやがって! いいことしたみたいな気になって、自己満足に浸ってんじゃねーぞ、バーカ!」 「なっ……」 「大体お前、分かってんのか? オレのスマホには、お前の偉っそ~なメッセージとかのやり取りがそのまま残ってんだからな! これ、クラスの奴らに見せたら、皆ビックリするだろうなぁ? てことで、今度はオレの番だ」  ――オレが、お前に命令してやる。 「傍に置けよ……オレのこと。欲しいなら、素直にそう言え。本当は好きなくせに、嫌いだとか言うな、バカ!」  一気に吐き捨てると、九重はこれまでに見たこともないような狼狽っぷりを見せた。目を白黒させて、オロオロ。王子様が聞いて呆れるような、スマートさの欠片も無い姿。 「いや、だってお前……俺から離れたかったんじゃないのか?」 「オレがいつそんなこと言ったよ!? タカにお前のことを話したのは、誤解を解く為で! オレが自分の意思でお前の傍に居るんだと伝えて、それを認めて欲しかったからだ!」 「!」 「早合点してんじゃねーよ、バーカ!」  琥珀色の瞳に、動揺が広がっていく。どうだ、思い知ったか! 「つーか、このタイミングで好きとか言うか!? ずるくねえ!? 訳を聞いたら、オレも一発くらいぶん殴ってやろうと思ってたのに、出来ねぇじゃん!! しかも、何でオレ嬉しいんだよ!?」 「……嬉しい?」 「ああ!! お前に好きだって言われて、何か知んねーけど、めちゃくちゃ嬉しいよ、ちくしょう!!」  ああ、もう自分でも何言ってんだか分かんねーや。頭ん中ごちゃごちゃに取っ散らかって、ちっとも整理が付かねえ。完全なる逆ギレだ。  九重が、慎重に問う。 「……それは、お前も俺のことが好きだと解釈してもいいのか?」 「分かんねえ!」 「分かんねえのかよ」 「オレだって、何度も考えたんだ。もしかしたら、お前のこと好きなんじゃねーかって。でも、吊り橋効果とかかもしれないし、タカには同情だのストックホルム症候群だのって言われるし! そうじゃないって言いたかったけど、オレの中でも前例の無い感情だから、ハッキリ断言出来る程の自信もねーんだよ!」  だから……だからさ。 「お前が分からせろよ。オレはやっぱりお前のことが好きなんだって。確信させろよ」  乞うように言い募ると、次の瞬間、九重の腕の中に居た。  力強い抱擁。熱い体温。布越しに伝わってくる脈動。――何だよ、お前。心臓バクバクじゃん。それは、オレも人のこと言えないけどさ。  背中に手を回して、抱き締め返した。二つの鼓動が、一つになっていく。落ち着かないのに、落ち着く……不思議な心地。  ――ずっと、こうしていたい。 「いいのか? 折角逃がしてやったのに、もう知らないぞ」  耳元で、九重が囁いた。何だ、今更そんなこと。 「いいよ……もう、離すなよ」  九重の掌が、オレの頬に滑る。促されるままに顔を上げ、至近距離から見つめ合った。欲するような、切ない眼差し。琥珀の瞳の奥に、映り込む自分の姿。――囚われたのは、どっちだろう。  宿る熱を交わすように、唇が重なり合った。

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