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鈴蘭
鈴蘭は天境館で生まれた。
外見は全く人間と区別がつかなかったが、獣人の血が入っていた。
薄紫の瞳と薄灰色の髪は、遠い国から流れてきたと言えばそう見える。
天境館の研究員の手によって作られた、人間の外見と獣人の体質を持つ、見習いの剣士だった。
彼は元々、おっとりとした気性だった。
剣士向きではないと自分でも解っているくらい、戦いは苦手であった。
師範たちから「お前は、ある人の為にも獣魔狩の剣士にならなくてはならない」と言い聞かせられ続けてきた。
誰とも知らない『ある人』の為に、何故自分獣魔狩にならなくてはならないのか。
言われるたびに鈴蘭はそう思うのだが、気が弱くて口に出すことはできないでいた。
それが変わったのは、数年前だった。
広場で稽古をしているときに、師範が、広場に沿った通路を指差してそっと教えてくれた。
「鈴蘭。あの人が、お前が護らなければならない人だ……誰にも言うなよ。まだ秘密なんだから」
指の先には、鈴蘭も時々みかける若い獣魔狩がいた。
いつも二人ペアで動いている、ノラとサジ。
美しい女のような顔のノラ。獣魔との戦いで片目と声を奪われたサジ。
師範はサジを指していた。
「何故です。二人はとても強いのに。なんで、俺なんかが」
「あの二人は生まれつきの体質で、長く獣人か獣魔と離れていると死んでしまうのだ。今は仕事ついでに獣魔に近づき発作をおさえるようにしているが、やはりそれでは不安だからな。二人にもまだ知らせていないが、あと何年かしたら二人を離して、天境館所属の獣人と組ませるという話が出ている。そのサジの相棒のいちばんの候補がお前だ」
師範の言葉は、半分くらいからは鈴蘭の耳には入っていなかった。
鈴蘭にとって、二人はあこがれの獣魔狩の中に入っている。
特にサジは鈴蘭にとって特別だった。初めて遠目にその姿を見た時から惹かれていた。
だが、所詮は底辺の剣士見習いである。天境館のエースになど、その想いは伝わるはずもないし、伝えて良いはずもないと思っていた。
それが突然、サジの一番近くに立てると教えられたのである。
その日から鈴蘭は変わった。
やがて組むことになるサジの足を引っ張らないように。足手まといにならないように。
おっとりした気の弱い性格はいつしか隠れ、気丈な、きびきびとした気性になって行った。
そして、数年後には苦手で下位だった剣も、上から数えるほどの腕前になっていた。
師範達も感心する上達ぶりだったが、鈴蘭は一つ気にくわない事がある。
天境館の研究員たちが、鈴蘭を見ては時々こぼす言葉だ。
「――ちょっと華奢だねえ」「もうちょっと体つきがしっかりしていたらな」
鈴蘭は、他の剣士と比べると華奢だった。
その言葉の意味は、間もなく知った。
ノラとサジの『体質』を、師範から教えられた時に、全て理解した。
サジの発作を抑える為に、獣人との混血の自分が選ばれた。
知った時に鈴蘭の中にわいたのは、不快でも怒りでもなく、喜びだった。
自分はやがてサジを抱くことができるという、嬉しさに震える様なまた後ろめたいような喜びだった。
故に研究員たちが呟くその言葉に当の自分も苛立った。
サジと比べると、確かに同じか、自分の方が少しだけ線が細い。
これは体質らしくて、どう鍛えても変わらなかった。
鈴蘭はサジと話したことが無い。
話したことが無いどころか、顔を合わせた事もない。
鈴蘭が遠目に見るだけで、サジの方は鈴蘭の事をまだ知らなかった。
もともと正式な獣魔狩りと見習いとではあまり接点もないから、仕方のないことではある。
彼が研修生でいるのは今年までで、何か大きく落第点を取らなければ来年からは正式に獣魔狩として外に出られる。
それを目処に、師範たちはノラとサジの組を解消させるつもりらしかった。
来年になれば、サジは鈴蘭の事を知る。
ノラではなく、自分と顔を合わせ、自分と言葉を交わし、自分に身を任せる。
そう考えるだけで、鈴蘭は身の内が燃えるような心持になった。
その鈴蘭の耳に信じられない知らせが入ったのは、半年後のことだった。
サジが上級の獣魔にさらわれたと聞いて、最初はその意味が解らなかった。
やがて手が震え、その震えは大切な物を奪われた怒りとなって体中に広がった。
上級獣魔はベテランの獣魔狩すら手に余る相手だと知っているのに、怒りに捕われた鈴蘭はそれを忘れた。
ずっと訓練して強くしてきた精神も、サジを奪われたことで簡単に乱れてしまった。
知らせを受けた晩、鈴蘭はそっと天境館を出た。
上級獣魔が何処にいるのかも知らないのに、自分のサジを奪い返すため、無謀にも外に出たのである。
サジが攫われた騒ぎで騒然となった天境館は、鈴蘭の姿が無いことに翌朝まで気がつかなかった。
「鈴蘭という剣士を知っているか」
ヒオウからそう聞かれて、サジは首を横に振る。
ヒオウの手には、また新しい衣があった。
サジは最近暴れることを諦めていて衣が破けることは無い。
そうすると今度はヒオウがつまらないのか、必要が無くても時折サジを着せ替え人形にする。
「ふむ。しらぬか……十日ほど前に、知り合いの獣魔が人間――いや、混血か。どちらでもいいが、自称獣魔狩をとらえたという。剣士のようないでたちで腕前もそれなりらしいのだが、実戦に全く不慣れであったそうだ」
そう言いながら、ヒオウはサジが着ている衣を脱がせる。
「おそらくどこかの剣士に憧れた田舎者の小童か。正式な獣魔狩ではないのだろう。不憫な奴だ。見てくれが悪くなかったから、食い殺されずにその場で知り合いたちの慰み者にされたそうだ」
その言葉にも、サジはもうあまり反応しない。
サジがいちいち怒るのを面白がって、ヒオウは似たような話を今までも何度かしているからだ。
ヒオウはサジを裸にして、その身体に新しく拵えた肌着を着せる。
「そいつは、近々……今日だったか明日だったか、俺たち獣魔の色街に売られるらしい。随分男うけする体だったようで、捨ててゆくには惜しかったそうだ……犯されているとき、そいつは何度か「サジ」と叫んだと聞いたが、本当に知り合いではないのか?」
ヒオウのその問いに、サジは一瞬帯を結ぶ手を止めた。
が、すぐに首を横に振った。
どうせ、ヒオウがまたからかっているに決まっているのである。
取り乱すのを期待しているのだろう。そうはいくものか。
早くその話題を終わらせたくて、サジは衣を見た。
そして、
「――いつもと少し違う」
と気がついた。
光を受けると虹色に光る美しい布地だった。
「そう。同じではないだろう。この季節にしかとれない色の、珍しい糸だ」
ヒオウは満足げに薄い唇を笑ませ、結びかけになっていた帯の続きを結った。
それから柔らかな色の羽織を着せて、言った。
「出かけるぞ。今夜は祭りだからな。たまには外に出たかろう?逃げようなどと思うなよ。周りは俺くらいの強さの獣魔だらけなのだ。なに、いい子にしていれば今より酷い目にはあわぬさ」
ヒオウはサジの手を取った。
ああ、どうりで今日は外から色々な音がすると思った。
サジはぼんやりとそんなことを考える。
薄暗く強い香のにおいが立ち込める、色街の一角。
鈴蘭はその見世の格子のなかに放り込まれた。悪夢のような数日間を終えても体はまだ痛む。
獣魔の世界、天境館の外がこんなだったなんて、鈴蘭は想像もしていなかった。
腕も腰も痛めつけられていたが、それでも気だけはまだ強く持っていた。
格子の中には、自分のほかにも人間や混血の子がいた。
彼らは通りを行く客達に手を伸ばし、甘い声で自分を売り込んでいた。
鈴蘭は自分を値踏みしてくる格子の外を睨みつけ、伸びてくる手を払いのけた。
「おい、生意気なやつだ」
格子の隙間から蹴り飛ばされ、鈴蘭は床に転がった。
「ずいぶん気丈だが、もうどうせ未通じゃあないんだろうが。汚れもんの尻で何様のつもりだ」
客のひとりがそう吐き捨てると、それを見ていた他の客も嘲笑して通り過ぎてゆく。
痛みに呻くと、他の『同業者』たちが心配して鈴蘭を抱き起した。
それを振りはらって顔をあげた時、彼の瞳に遠く、見覚えのある人影が写った。
見間違えるはずもない。
いつも同じように遠くから眺めていた人だったからだ。
「あ、あ……サジ!」
叫んで、格子の間から必死でその人影をみる。
声が届かない距離にある料亭の最上階に、サジは誰かと並んでいた。
獣魔だ。鈴蘭がここ数日で培った獣魔への勘は、一目でその男が並々ならない力を持っていると感じ取った。
「あの人。ヒオウさんだよ」
男娼のひとりが教えてくれた。
「この世界で五本の指に入る強い獣魔なんだって。となりの人間は元は獣魔狩だったんだって……噂には聞いてたけど、見たのは俺たちも初めてだ」
「ヒオウさんが御執心だってのは聞いていたけど、綺麗なべべ着てるよねえ。良い所のお嬢さんだって、そうそう持ってない衣じゃないかな。あの人どうやってヒオウさんと知り合ったんだろ」
他の男娼が呟く。
なぜ戦わない。なぜ逃げない。サジともあろう人が。
やがて表の通りに、華やかな祭りの行列が通り始めた。二人はそれを見るために、あの場所をとったようだ。
通りは俄かに華やかに騒がしくなった。
その喧噪も聞こえないままで、鈴蘭はただ信じられない気持ちで二人を見つめていた。
そして遠目に、サジがヒオウにそっと抱きついたのを見た。
――実のところは、サジはただ衣の裾を踏んでよろけ、ヒオウにつかまっただけだった。
けれど、細かい表情がみえない距離にいた鈴蘭には、サジがヒオウに思慕している姿にしか見えなかった。
「――ねえ、あんた。どうしたんだい」
男娼の一人が鈴蘭を見て心配そうに声をかけた。
鈴蘭は涙を流していた。
涙を流しながら、うっすらと笑んでいた。
サジに焦がれ釣り合うようにと己を作り変えてきたその日々が、自分の中で全て壊れてゆくのを感じていた。
鈴蘭はぽたぽたと涙をこぼしながら、格子の隙間から手を伸ばした。
「――ねえ兄さん。お兄さん」
その声は今まで自分を律し作り上げてきた『サジの隣にふさわしい鈴蘭』の声ではなかった。
元来の鈴蘭である、おっとりした優しい、懐かしい声だった。
「お兄さん、俺を抱いてよ」
やがて通りがかった一人が、その手に触れる。
相手は鈴蘭の顔を見て、その涙を指でぬぐった。
悲しいのかい?と聞いてきたその男に、鈴蘭は頷いた。
数年前までの、穏やかな笑顔だった。
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