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夢の檻

 気がつくとサジは真っ暗闇の中にいた。  立っているのか座っているのか、横になっているのかという感覚もつかめなかった。  手足はどれだけ力を入れても動かせなかった。  そこまでを確認して、彼はすぐこれが夢だと思い当たった。  夢の中で夢と気がつくのもまたおかしな話なのだが、そう見当がつくほど、サジはこの夢を何度も見ていた。  そして、この後続くであろう展開に戦慄して喉の奥から悲鳴をあげた。  けれどその悲鳴も、彼の現実の声と同じく微かな掠れたものだった。  せめて夢の中だけでも元通りの声が出ればいいのにと思いながら、何とか手足を動かそうともがく。  ひんやりとしたものが背に触れて、サジの心臓はゾッと痛んだ。  それは『あいつ』の指だと、もう何度も見る夢で知っていた。  何も見えない暗闇の中で触れてくる指の表面は、艶やか鱗に包まれていると知っている。  鱗は漆を塗ったように、または陶器のようにするりとしていた。 「良い子にしていたか」 耳元で低い声がして、サジは目を閉じた。 「答えよ。――お前のその声でも、ここならば聞こえるぞ」 後ろからサジを抱きしめてくつくつと含み笑いし、その男は唇をサジの頬に当てた。   それはサジの声と目を奪っていった獣魔だった。  あの夜から時々、サジはこのような夢を見るようになった。 「お前の夢など、見たくない」 サジは声を絞り出した。 「何故」 獣魔が楽しそうに問う。 「見たくない。見たくない」 「お前は俺を忘れられぬ。お前が拒もうとお前の身体が俺を欲しているのだ。だから夢に見るのだろう?」 「ほしくなど無い」 では何故俺を夢に呼ぶ。  獣魔はまた問うて、身動きできぬサジの衣の中に手を入れた。  胸をまさぐる鱗の腕の感触に、サジは身をよじった。  夢なのに、逃れたいものの感触だけは何故こんなに生々しいのだろう。  ままならない悪夢の中でされるがままになりながら、サジはこの夢を見るたびに流す涙をもう目の端に浮かべていた。  サジが小さくうなされ始めて、ノラは目を覚ました。  宿の暗い部屋。まだ夜中だ。  それから「ああまた」と思った。  サジがこんなうなされ方をするのは今夜が初めてではないからだ。  借りている部屋の両隣は、今夜は確か客はいなかったはず、と思い出す。  隣に客がいたならサジを一度起こすのだが、誰もいない場合はノラは彼をそのまま眠らせておくことが多かった。  最初の頃は起こしたこともあったのだが、どんなに聞いてもサジは絶対に夢の内容を教えてくれなかった。  ただ、めったに表情を変えないサジが酷く動揺して、その割に目元が潤んで頬は赤らんでいたのを見て、夢とはいえ野暮なことをしたのかもしれないと考えたのだ。  事実うなされているといっても苦しそうなのは最初の少しだけで、すぐにそれは甘やかなものが混ざる吐息に変わる。  誰か……愛しい誰かといる夢でも見ているのだとノラは思った。  こんな体質で、憎い獣魔に片目と声を奪われて、それならばせめて夢の中での逢瀬は存分に叶うといい。  そう思って、起こすことはやめた。  今のサジの声は顔を近づけなければ聞き取れないほど小さい。ノラさえ気にしなければ今夜は宿から苦情が出ることもないのだ。  後ろから抱きしめたまま膝の上に座らせ、その華奢な腰をわざとゆっくり裂く。  もう知っている首の後ろから背にかけての『悦い所』を何度も吸ってやると、サジは堪えられないような声をあげた。  その搾り出すような声を聞くたびに、獣魔はたまらない征服感をおぼえる。  すでに抗うことも諦めて、自分にしなだれかかり肩で息をしている人間の青年を今すぐ壊してしまいたい衝動に駆られる。  まだ、まだ。  彼は気が早る己に言い聞かせた。  まだ許す気はない。この俺を罠にかけ餌にしようとした事を許すには、まだまだ。目玉一つと声だけでは足らぬ。  じっくりと仕置をしてやらねば。  あの晩、この獣魔はサジに誘われた。  獣魔は目が見えなかった。両の瞼と目玉はあるが、生まれつき機能していなかった。  だが額に少しある複眼で少々のものはぼんやりと見える。  その複眼で見ただけで、彼には迷い込んできた人間の目が妙に鋭いように思えた。なんとなく違和感を感じた。  獣魔は早々にこの青年が狩人と見抜いた。そして青年から微かに臭う淫の気も嗅ぎ取った。  腕はそこそこ、顔も嫌いではない。身体のほうも自分好みで心地よかろう。一目で大体そこまで見当をつけた。  この狩人の至らぬところは一つ、相手の力を量る能力が少々未熟であったということだ。  サジの予想よりはるかに力の強い獣魔は、からかうつもりで誘いに乗った。  サジの中に仕込まれた護符もこの強い獣魔には効かなかった。  獣魔が苦しみだすどころか、自分の意思とは関係なく悦びだした身体に驚き、獣魔に見通されていたことに気がつき恐怖を浮かべ、そして瞬く間に快楽に呑まれたサジを眺めているのは大層愉快だった。  そして思いのほか豊かな反応を見せたサジに興味を持った。  それ以来、気が向けばこうして眠りを伝いサジを弄ぶ。  奪った片目を使ってサジの意識にもぐりこむのだ。  故意に操られていると知らず、サジは自分の内の淫らな性がこんな夢を見させていると思っている。  それがたまらなく愉快で可愛かった。 「ゆかせてほしいか」 膝の上で散々じらしてやりながら、獣魔はささやいた。 「あの晩のように、壊れるほどにさ」 「いやだ……」 サジは弱々しく首を振る。 「俺の名を呼べば今日は許してやる。前の夢でも教えただろう。忘れたわけではあるまいな」 ふふと笑って囁くが、サジが名を言えないのは知っている。  夢での逢瀬の度に名は教えてやるが、その記憶は夢からさめる時にいつも一緒に持ち去っているからだ。  もし俺の名を忘れたなら、今宵はまだまだ許さないぞ。  そう言ってやって、許してと涙をこぼすサジの顔を見るのも好きになっていた。  夜明けに住処の寝台のうえで目を覚まし、獣魔は口元に満足げな笑みを浮かべた。  本来機能していない二つの目は、今は片方だけ見えている。サジから奪ったものだ。  改めて教えてやった名を繰り返し呼びながら、恥じらいも嫌悪も脱ぎ捨てて、最後には夢中になって自分にしがみ付いてきたサジを思いだした。  花のようだと、ふと思った。  去るときにまた、自分の名と乱れぬいて抱き合った記憶は消してきた。  サジが目覚めても、『夢にあの獣魔がでてきて体を触ってゆく』という最初の方のことしか覚えていないはずだった。  最後の記憶を残したなら、あれは自分のあさましさにとうとう耐えきれず死ぬかも知れぬ。せっかくの玩具を早々に無くしたくはなかった。 「ヒオウ」 奪って自分のものにしたサジの声で、獣魔は自分の名を呟いた。  実際に夢の中でサジが呼んだのは、掠れた声のほうでだ。  本当ならこの声で自分を呼んでいたかも知れぬ。 「ヒオウ」 ヒオウはまた呟き笑みながら、自分だけが知っている甘く溶けきったサジを思い出した。  まだまだ手放さぬ。  あんなに面白い、面白いサジを。

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