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第31話
薬品の香りが漂う。一般外来もまだ受け付けている時間だからか、ロビーは人で溢れていた。そんな中、静は一人で入院病棟に向かっていた。
用無し。言われると結構クるなと思いながら、静は自虐的に笑う。
崎山に言われた言葉に声を失った。
いつでも強気な静は崎山に意見出来ずに、ただ俯くしか出来なかった。そして崎山はそれ以上、何も言わなかった。
心との関係を望んでいた訳ではない。借金を理由に仕方なくと思っていた。
だが心との暮らしは苦痛ではなかった。
年下で傲岸不遜な男との言い合いも嫌いではなかったし、不器用な優しさも嫌いではなかった。気が付かない振りを精一杯しながらも、しっかり絆されていた。
「本当に。俺って人間は最悪だな」
人の少ない廊下で、一人呟いた。
静は別館の特別入院病棟の廊下に足を踏み入れた。特別入院病棟は不気味なくらい静かで、看護士や入院患者にさえ会わない。
セキュリティも万全でプライバシーも守られている。どの部屋も空きはないようだが、ネームプレートにはイニシャルしか書かれてなかった。
静は清子の部屋の前に立つと、頬を叩いて身を引き締めた。母親というのは恐ろしく勘が鋭い。悟られぬようにしなければいけない。
軽くノックをして、静はドアを開けた。
日当たりの良い、とても広い部屋の奥から聞き覚えのある懐かしい声がして、静の視界が自然と歪む。それを頭を振って拭い去ると、静は奥へと歩みを進めた。
「静?」
清子の顔は驚くほど血色が良かった。点滴もしていないし頬も少しふっくらしている。
「母さん…」
「ちょっとー、静の方が病人みたい。母さん、すごく元気になったのに」
ベッドの上で微笑み、明るい声で話すの清子に静は圧倒された。
数ヶ月、いや数週間前までは死人のような顔で生気すらない清子が、何年ぶりかの笑顔を静に向けてくる。
「すごく…元気だ」
静はベッドの横にある椅子に腰かけた。
「静、大丈夫?」
「え!?」
大丈夫かと問われるような事が思い当たりすぎて、何に対して、どれに対してなのか分からずに静は身体を強張らせた。
「京都、綺麗だった?」
「は?」
「あの、相馬さんって方の仕事の手伝いで京都に行ってたんでしょ?」
清子からの思ってもみない問いかけに、静は暫く思考が止まった。だが、すぐさま頷いた。
「相馬さん、来たの?」
「よく見えられるわよ。お若いのにしっかりした方ね」
さすがと言うべきなのか、何と言うべきか。
まあ京都に居たのは確かだ。不本意ながらも、がっつり京都見学までしたのだ。
「あ、お土産ないや」
「いらないわよ。静が来てくれただけで十分。相馬さんの仕事、これからも手伝うの?今、どこに居るの?」
「あー、仕事は手伝うのは…多分、もうない。家は…家は、今、相馬さんの…上司?の人のマンション?に居る」
たどたどしい説明に清子は首を傾げた。
そう、確かにあれは相馬の上司なのだ。だから説明としては正解だろう。
だがあれがマンションというのか家というのかどうか…。それはノーだろうが、説明しようがない。
それに相馬の上司の家になぜ居るのか聞かれれば、答えに困る。
「何かあった?」
ギクリと身体が強張ったが、静は平静を装った。
頭を振って、ちょっと寝不足だなんて言う。それが通じる相手ではないのは分かっていたが、今は押しきるしかないと思った。
「…静はいつも無理ばっかりね」
「え?」
「我慢ばっかりさせた、お母さんの責任ね」
「違うよ、我慢とか…」
「全部任せっきりにしてきたけどね、相馬さんが借金はもう片付いたって。それを聞いてね、今さらだけど静には好きに生きてほしいの。やりたいことやって、今の若い子みたいに羽目外すくらい遊んでほしいの」
「羽目外して遊んでほしいって」
静は思わず笑ったが、その目からは涙がホロホロと零れ落ちていた。
自由もなく楽しみもなく、現実を恨んで生きてきた。
負けるものかと踏ん張り、唇を噛み締め生きてきた。
楽しみなんか何一つなく、一日一日を生き抜くために必死だった。
逃げたいと、どこかでいつも思っていた。
清子はそれをどこかで察していたのだろうか。子供に不自由な生活をさせていることを悔いただろうか。
「ごめんね、静」
細い指が頭を撫でた。
初めて、救われたと感じた。終わったんだと。
「じゃあ、また来るから」
嬉しそうな顔で手を振る清子を見て、静はドアを閉めた。あんな嬉しそうな、言ってしまえば覇気がある顔を見るのは何年ぶりだろう。
少なくとも静が”極道”という破落戸の存在を知ってからは、見た事がない表情だった。
自分が取り戻してやる事の出来なかった表情を、その破落戸と同じ穴の狢の心はいとも簡単に取り戻した。
それは感謝すべきところなのだろうが、だからとて頭を下げて礼を言うのとは違う。そう考えながら随分と擦れっ枯らしになってしまったなと、自虐的な事を思う。
だが足取りは軽く、心は晴れていた。
何もかも終わって、めでたしめでたしではない。それは分かっているが、何かどこか吹っ切れた、まさにそんな感じだった。
一階ロビーは相変わらず人で溢れていた。この街一帯で一番大きな総合医大病院には、色々な病気の人間が来るようで人の波が絶える事はない。
鉄のプレートの院内案内図には、様々な専門科が彫り込まれていた。清子が驚くほど元気になったのも、ここの優秀な医師のおかげであろう。
そして、その費用を全て出してくれている、心のおかげ…。
静は見上げていた院内案内図から視線を外すと、駐車場に向かった。終わったら駐車場にと、崎山に言われたからだ。
病院の外は噎せ返る様な暑さで、思わず顔を顰めてしまう。季節を夏だと実感させる様な蝉の鳴き声が、あちらこちらでちらほら聞こえる。
3年以上も土の中で眠り、ようやく当たり前の姿に進化しても地上に居れるのは一週間程。咽び泣く様な声が求愛の方法で、しかも人間に疎まれる様な大合唱。
地上に居る短い間に子孫を残すために必死な蝉。昔はそんな事なんて何も考えずに、虫取り網で片っ端から蝉を捕まえた。
虫かご一杯の蝉に震え上がる清子と、何気に虫が苦手な父はこっそり二階に隠れてしまう。
静はハハッと笑った。
こんな昔の事を思い出すのは、いつぶりだろう?それだけ自分の中に余裕が生まれたのか?
「閑さや…岩にしみ入蝉の声。なんだけ?」
ふっと頭に過った句。高校か中学かの時に聞いたような…。
「芭蕉ね」
「へ?」
顔を上げると、杖をついた高齢の女性が微笑んでいた。
「ふふ、懐かしい」
女性はそう言って、静に頭を下げて院内に入って行った。そうか、奥の細道か。
静は何故かクスクス笑った。こんな平穏な時間が来るなんて、夢にも思わなかった。
あの雨の日に変わった人生。明日の事なんて分からないなんて、良く言ったものだ。
「崎山さん」
白のMaserati GranTurismo S Automaticの運転席でシートを倒して眠る崎山に声をかけると、崎山は片目を開いて静を一瞥した。そして起き上がると、ドアロックを外した。
病院がここまで大きいと、駐車場もそれに伴い広大なものだった。同じ様な車が並ぶ中、崎山の乗っている車は静が分かる程に違うものだった。
一見して、とても高い車種だと分かる様な高級感を醸し出していたのだ。
「もういいの?」
崎山は首を回しながら聞く。
「はい、長い時間すいません」
助手席に乗り込み礼を言うと、崎山は欠伸をするだけだった。寝起きは良くなさそうだなと、不機嫌そうな顔を横目に静は思った。
「どこか行く?」
「え?」
「行きたいとこ、あれば」
崎山はシフトをドライブに入れると、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
音もなく、静かに動き出す車。静は少し考えると、崎山をじっと見た。
「なに?」
「崎山さんと、もう少し話がしたい」
嫌われてるのも煙たがられているのも歓迎されていないのも百も承知だが、話してみればなんてこともある。
好かれたいと図々しいことは思わないが、崎山に苦手意識がある自分が煩わしい。今までは他人なんてという考えだったが、これではいけないんだと思った。
「…ドライブね」
崎山はため息をついて、呟いた。
人も車多い町並みを抜け、高速に乗り込む。その間も二人に会話は生まれなかった。
元々、崎山は無口なのかもしれないが、生憎、静もだ。関係の浅い相手との会話は苦慮する。
静は参ったなと、頭を掻いた。
「崎山さんは…下の名前は?」
合コンかと思わずツッコみたくなる。つぎは年でも聞くか。
ボキャブラリーの乏しさに自嘲してしまう。
「…雅、崎山雅。次は年でも聞く?」
完全に読まれてる!静は苦笑いをして頭を振った。
聞きたい事は沢山あるが、それを聞いていいのかと躊躇する。きっと、語りたくない事も語れない事も数多くあるだろう。
「極道を嫌うのは、仕方ないんじゃない?」
「え?」
「極道ってね、どんな慈善事業をしたとしても極道なんだよね。悪の極みの道。その道に居る人間に恐怖を覚えるとか、嫌悪感を覚えるとか普通なんだよね。君の場合は極道に嫌悪感を覚えるんだと思うけど」
「……」
静は反論できなかった。出来るわけがないのだ。
理不尽な罵声と暴力と威圧的な言動に、長年苦しんできた。殺してやりたいとも思った。
存在理由も分からない人種。売れるものは爪の先ひとつまで逃さない汚さ。
どれだけ自分に害はなくても相馬も崎山も成田も、みんなそれなのだ。
清子の表情を取り戻し、最高級の治療を受けさせてくれる病院を用意してくれた心も、やはり極道なのだ。
それは、どこをどうしても変わらない事実。
「でもさ、俺とか成田はさ、極道でしか生きれないんだよね」
「え…?」
「普通で生きるのことが難しい人間もね、居るんだよ?」
「うん」
「普通で生きる人間と、極道に生きる人間は交われないって組長が悟ったってこと」
「……?」
「面倒になっちゃったってこと」
簡単に言われ、静の身体が強張る。
あの世界一面倒臭がり屋と言っても過言ではない男が、そう言い出したとしても不思議ではない。初めに大多喜組との条件を出された時に静が思っていたことだ。
遅かれ早かれそうなるとは思っていたが、でも、その程度のものだったのか?
「組長は俺と違ってゲイじゃないからさ。男同士ってただでさえ面倒だし、堅気はもっと面倒。ね、組長の情人になりたかった訳じゃないでしょ?」
「ちが…ちょっと待って、ちょっと待って」
混乱していた。あまりの急な展開に、頭がついていかない。
「大丈夫。母親のことも妹のことも出来る限りのことをするよ」
「え…?」
「契約は契約。それはうちは守るから。でもその代わり、鬼頭組とのいざこざのこともこっちの内部事情も話さないで欲しいんだよね。特に組長の事はトップシークレットなんだ。君も知ってるだろうけどさ、あの人すごく面倒臭がり屋で出不精でしょ?実際に組長の顔や年を知らない組関係者も多いわけ。顔を知られてないのは凄く好都合なんだよね。護衛もし易いしさ。鬼頭組のしたことを怒ってるかもしれないけど、あの事を口外されると仁流会もバランスが保てなくなるんだよね。だから、誰にも言わないで」
「話すってどこに、誰に…」
崎山の言葉に静はハハッと、どこか乾いた笑いをした。
あんな事を、どこの誰に何のために話すというのか。心の年齢や容姿を、どこの誰に話せと?反対に誰かに話せと言われた方が困る。
「警察」
崎山の声が、ワントーン低くなった気がした。静は前を見据えたままの崎山を見た。
「れっきとした拉致監禁暴行だからね。分かるよね?困るんだよね。駆け込まれたら」
「そんなこと…」
「しない?まあ、させないけど。で、早めにあそこを出て欲しいんだよね」
「出てって…?」
「勝手に連れてきといてみたいな?だってさ、君が居ちゃ、組長が誰か連れてこれないじゃん」
「誰か?」
「モテるんだよ、組長」
「…っ」
崎山の言いたいことの意図することが分かり、静が顔を赤くした。
「もともと俺と同じとこに居ない奴が気紛れで男に手を出しても、必ず女のとこに戻るんだよ?」
「出ていくって。そんなすぐに…」
金はいくらあっただろうか?預金はそこまで残っていなかった。どこかに部屋を借りるにしても、頭金として足りるか?
入れたとしても、それからの暮らしの確保を考えると時間が足りなすぎる。
「大丈夫だよ。家の事は心配しないで。こっちで手配するから。そこが気に入らなければ、働いて金を貯めて出ていってよ。働くのは得意でしょ?」
フフッと笑う崎山の顔は、ゾッとするほど凄艶に見えた。
確かに一番望んでいたことだ。極道に蛭の様に吸い付かれ、それこそ骨の髄までしゃぶりつかれ、こんな人種、消えてなくなれと思った。だが、チクリと痛む胸はなぜだ?
「ね、契約成立だよね?」
「え…?」
「問題ないでしょ?一般人に戻れるんだから」
「あ…うん」
小さく囁くように言った声に、崎山は微笑んだ。
「ごめんね。あの人、得手勝手だからさ。君がクレバーで良かったよ」
そう言う崎山に、静は何も言わなかった。
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