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第32話

帰ってからの崎山は驚くほど機敏に動いた。 いつの間に手配したのか荷造り用の段ボールが運び込まれ、すぐに引越しに取りかかれるようになっていた。 そして展開の速さに着いていけない静を前に、テーブルに書類が並べられた。 「好きな間取り選んで」 ずらり並べられた部屋の間取り。立地や間取りの広さからも相当高級だろう。 静でも知っている最高級マンションまで混じっている。 「広すぎるよ」 「そう?ま、そうかもね。あんまり相応な物件がなくてさ。じゃあ、一番狭いここにしよ」 崎山は静の返事も聞かずに、一つ選んだ。 何だかここ数ヵ月で周りは目まぐるしい変化をしている。 極道に介抱され、救われ、攫われ…そして今、解放されようとしている。だが、これは解放と言うのか? 「荷造り、手伝う?」 黙ったまま、じっとしている静に崎山が尋ねた。 「いや、そんなに…ないんだ。ある程度はここに来たときに片付けたから」 俺が好きで来たんじゃないけどな。そう付け足さずに天井の天使を見上げた。 「そう。あ、パソコンは持って行っていいよ」 「え、でも」 「勉学に励んでください。学生の本分ってやつだよね」 崎山は口元だけで笑った。 本当に切り捨て。そんな感じだ。望んでたことなのに、どこかで悲しむ自分が居る。 あれだけ自分に執着していた男は、簡単に静を手離した。身体を開かなかっただけマシなのか、本当に気紛れだったんだ。 「ね、組長に伝言か何かある?」 「伝言?」 「恨み辛みとかね。何でも」 崎山が目を細めて笑った。 「二度と会うことはないかな」 「それだけ?」 「言いたいことがありすぎて。ただニュースであいつが逮捕されたとか、どっかの鉄砲玉に撃たれて死んだら、手ぇくらいは合わしてやるよ」 「了解。じゃあ、俺はこの辺で。とりあえず業者の手配するから、それまでに荷造りしといてくれる?慌ただしくてごめんね」 崎山は一礼すると部屋を出ていった。 ああ見えて、相馬よりも心に忠誠心がありそうなので馬鹿正直に、今の言葉を一文字一句逃さずに伝えるだろう。 だが、あの男はそれを顔色一つ変えずに聞くのだ。 「お前は俺のものだと言ったくせに、簡単に捨てるんだな」 顔も合わさず言葉も交わさず、別れの言葉もなく。 ツーッと流れた涙を慌てて拭い、静は崎山の置いて行った段ボールを組み立て始めた。 一番小さな間取りと言われたマンションは一等地で、しかも最上階。家具家電は全て揃っていて、どれも高級品と呼ばれる物ばかり。 そんな3LDKの部屋のリビングに、不釣り合いの段ボールが四箱。 静は特にそれを開けるでもなく、一人、幅の広いソファに座り外を眺めていた。 一等地で立地条件も申し分ないマンション。贅の限りを尽くした様な内装。 今、静の居るリビングも莫大な広さがあり、目の前の窓からは夜景が一望出来る。最上階という事もあり、物音一つしない。 崎山と他の組員は荷物を運び込むと早々に出ていった。 ”それでは、サヨナラ。お元気で” 崎山が出際に静に言った最後の言葉は、それだけだった。突然に与えられた自由。 今、玄関を出てブラリと外へ出掛けても、誰にも何も言われない。ここ数ヵ月のあれは、一体なんだったのか。 確かに借金はなくなったし、清子の入院費や妹の涼子と静の学費は心が一括して払ってしまった。 どちらかと言えば静にとってプラスなのに、プラスしかないのに落ち着かない。 とりあえず、落ち着いたら返済していかないと。不要と言われても極道に仮は作りたくない。思いながら、沸々怒りが込み上げる。 傲慢知己で得手勝手なのは重々承知だ。だが、人の人生を掻き乱す権利が心にあるのか。 眞澄達の拉致監禁でやっぱり堅気は面倒だと初めから分かりきったことを、しかも人伝に言われる。 馬鹿にしてるのかと文句の一つも言えぬまま、はい、さよならだ。 「撃たれて死ね」 物騒な独り言を言いながら、静はソファに横になった。 翌朝、静は一人で電車に乗っていた。向かう先は妹の涼子を預かってくれている、新藤直樹、景子夫婦の家。 景子は静達の母、清子の妹で新藤夫婦は静にとっては叔父と叔母にあたる。 景子は清子と同じく身体が弱く、子供が産めない身体だった。それもあり涼子を預けたいと相談した時も快く引き受けてくれ、静も一緒にと言われたほどだ。 だが心達に逢う前から大多喜組の追い込みは以前にも増して執拗なものとなり、涼子達にその矛先が行かない様に静は新藤夫妻とも連絡を絶っていた。 その大多喜組の督促もなくなり、改めて、涼子を引き取るために静は新藤家へ向かっていたのだ。 いつまでも新藤夫婦に甘えて居る訳にはいかない。涼子一人なら今すぐとはいかなくとも、静が面倒を見る位は出来るだろう。 幸か不幸か、互いの学費の心配は今はなくなったのだから… 。 新藤家は郊外から少し離れた場所にあった。必然的に涼子は転校を余儀なくされたが、あの頃はそんな事を言ってる場合ではなかった。 同じ都内とは思えないほどに閑静な住宅街。久々に来るなと思いながら、静は見馴れた家の前で立ち止まる。 チャイムを鳴らすと門の向こうのドアが開き直樹が顔を出した。 「しーちゃん!?」 驚いたような顔をした直樹は、静をそう呼んで飛び出してきた。 少し小太りで眼鏡をかけた直樹は、いつでも微笑みを絶やさない。目尻には深い笑い皺が掘り込まれ、笑うとただでさえタレ目の目尻が更に下がる。七福神に居てもおかしくない顔だった。 「ご無沙汰してしまって」 「いいからいいから、早く入りなさい。電話をくれれば迎えに行ったのに。駅から遠かっただろ?」 直樹は静の背を押すようにして家に入らせた。 入ってすぐに、下駄箱の上のクマのぬいぐるみが出迎えてくれるのは昔から変わらない。 上を見上げると吹き抜けの天井が見える。埋め込み窓から差し込む太陽が、とても温かで心地いい。 昔、静達が幸せだった頃の空気に似ている家は、静をどこか寂しくさせた。 「来ると知ってれば…。景子は涼子ちゃんとバーゲンに行っちゃってね」 通されたリビングからは小さな庭が見えた。色とりどりの花が植えられ、とても温かい感じがする庭だった。 あの小さな花はインパチェンスだったような。 その上で、そよそよと洗濯物が風に揺れていた。こういう情景は何年も見てないなと、静はそれを眺めた。 「ほら、しーちゃん。座って座って」 「あ、はい。あの、長いこと、すいません」 「いやいや、大変だったろ。元気だったかい?」 四人掛けのダイニングテーブルに座るように促され、静はそこに座った。 部屋のあちこちに、涼子の写真や静達家族の写真などが飾られている。どれもこれも”極道”とは縁もゆかりも無い時の物だ。 感傷に浸っていると直樹が慣れない手付きでキッチンから麦茶とコップを持って、戻ってきた。 「ごめんね、手間取って」 「お構いなく。あの、涼子のこと、ありがとうございました」 「いやいや、涼子ちゃんが来てから僕も景子も毎日が楽しいよ。本当はしーちゃんも来てほしいけど、大学がかなり遠いしね」 「すいません」 「ご飯は食べてるかい?少し痩せたんじゃないかい?大学は行けてるのかい?」 次々と投げかけられる質問に、静は思わず笑ってしまった。そんな静を見て、直樹は質問攻めだねと頭を掻いて笑った。 「ごめんね。ほら、しーちゃんはなかなか言ってくれないから」 責める訳ではなく、少し寂しそうに言われて胸が痛んだ。 「すいません。もう少し早くに連絡をしたかったんですけど、色々と…」 「いやいや、いいんだよ。そうだね、色々とあるよね。そうだね」 「それで…今すぐとはいかないんですけど、涼子と二人で暮らそうかと思って」 「え!?ああ、そうか。そうだよね。いや、うーん。あの、本当はね、涼子ちゃんや景子が居るときにきちんと話すべきなんだけど」 「はい?」 直樹は麦茶をグッと飲んで、少し考える風に顎を撫でた。 直樹がいやに真剣な顔をするものだから、静も思わず姿勢を正してしまった。 「涼子ちゃんを養女に貰えないだろうか」 「え…?は…?涼子を…養女に?」 唐突の申し出に、静は目を丸くした。 「悪い話じゃないと思うんだ。ほら、景子は子供が産めない身体だろ?僕はそれでも景子と居たくて結婚したんだけどね、景子はずっと僕に対して…罪悪感というかなんというか、感じてるみたいで。そんな時にあの事件が起こって、涼子ちゃんをうちで預かる様になって。涼子ちゃんのおかげで、景子はとても明るくなってね。その、清子姉さんには了解を貰ったんだ」 「母さんが?」 直樹の言葉に静は思わず耳を疑った。まさか、清子がそんな了承をしているとは夢にも思わなかったからだ。 「妹の景子になら、任せれると思ったんだろう。清子姉さんは体調も芳しくないし、身体もちゃんと良くなっていないし。ああ、でもね、養女になっても、しーちゃんは涼子ちゃんのお兄ちゃんだし、清子姉さんはお母さんだ。ただね、景子にもお母さんをさせてやらして欲しいんだ。それに、しーちゃんも年相応の楽しみをしてほしいんだ」 「え?」 「清子姉さんのお兄さん、しーちゃんの叔父さんだね。叔父さんが、清子姉さんを引き取りたいと言っててね。兄弟の中で一番清子姉さんを可愛がっていただけに、義兄さんの自殺の事には胸を痛めていた。景子と同じで清子姉さんは元々身体が強い方じゃない。叔父さんの居る田舎は空気も良いし、清子姉さんには良い環境だ。それに叔父さんは医者で病院もやってるし、叔母さんも清子姉さんとは仲が良い。条件は悪くないと思うんだ」 「母さんを… 」 「しーちゃんは今まで頑張ってきただろ。あんな…ヤクザに突け込まれて。でも、過払い請求も認められた上に慰謝料まで取れるだなんて、世の中捨てたもんじゃないね」 「え…?」 何の話をしているのか、検討がつかずに静は顔を顰めた。 「弁護士さんが来たよ」 「弁護士…相馬さん?」 「相馬?いや、違う。確か… 」 直樹は立ち上がると、テーブル近くのリビングボードの引き出しを漁り出した。 「ああ、これだ。えーっと、崎山雅さん」 その人、弁護士じゃないよ。とは言えずに、静は曖昧な返事をした。 「最近の弁護士さんは、若くて綺麗なんだね。あ、崎山さんは男の人だけど、びっくりするくらい綺麗な人で景子と二人で驚いたよ。何かね、涼子ちゃん名義の口座を教えてくれって。涼子ちゃんの配当分の慰謝料を振り込みたいって。聞けばすごい大金でね。あ、でも僕達が勝手にどうこう出来ないようになってるから」 「えっ!?いや、そんな」 涼子を預けてから静は大多喜組にかかりっぱなしで、涼子の事に関しては全てを夫妻に任せて来た。 本来は世話になる身であるのならば、それ相応の御礼もしなければならないのに、静は夫妻に一銭も渡せていないどころか、ろくに連絡も入れなかったほどだ。 だが涼子の口座に振り込まれているのは、大多喜組からの慰謝料でも過払い金でもない。 心との契約で提示された一つに過ぎず、すなわちそれは心が静に対して契約の履行をしたものに過ぎないものだった。 「これはしーちゃんが頑張って取り返したものだし、僕達はまだ養父でも何でもないしね。いや養子縁組をしても、そのお金は触れられない様になってるから。弁護士さんってしっかりしてるよね。お金は人を救うことも狂わすこともあるので、このお金はないものと考えてくださいって。確かに、僕の従兄弟も遺産相続で大モメにモメてね。お金は魔性だね」 「すいません」 静は思わず頭を下げた。 胸を張って、受け取ってくださいと言える金ではなかった。 それは心の金、即ち仁流会鬼塚組の金であり出所すら疑わしい金だった。 それを考えると、益々、返済しなければと思ってしまう。 「謝ることはないよ。涼子ちゃんはしっかりしてるから、教材費もそこから払って、必要な物も僕たちに頼らずにそこから出してるよ。とても倹約してねぇ。もう少し甘えてくれればいいのに…。本当に君たち兄弟には頭が下がるよ」 ポンポンと大きな掌に頭を撫でられて、静はただ俯いた。

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