33 / 55

第33話

電車に揺られながら、車窓から見える沈みがかった夕陽を眺めていた。 用事があるからと、静は逃げる様に新藤家を後にした。涼子の養子縁組の話は決して悪い話ではない。 直樹は真面目で勤勉な男だし、景子も清子に似て家庭的で優しい女だ。直樹は大企業ではないものの、そこそこの会社に勤め役職もある。 一般平均よりも収入が多い家なので、涼子も養女になれば不自由なく暮らしていけるだろう。 叔父の清子を引き取りたいという話だってそうだ。 今の様に、絢爛豪華な病室に閉じ込めているよりは、身内の病院に居る方が清子も気が楽だろう。 本当に、独りになるんだな。 借金もなくなり、大多喜組とも切れ、心とも切れ、極道と関わりがなくなった途端に何もかも失った。そんな気分だった。 駅に着く頃には、空はすっかり闇に覆われていた。 こんな気分のままあの部屋に帰るのも憚られて、静はマンションとは反対方向に歩き出した。 ここ数ヶ月であまりにも変わりすぎた環境は、大多喜組の督促が始まった頃のそれに似ている。あれは地獄の序章だったが、今は何だろうか? 「くそっ…」 呟いて、目に入ったベンチにドカリと腰掛けた。 駅前の広場は待ち合わせに都合が良いのか、人待ち顔の人が溢れていた。 スーツ姿のサラリーマン。これから数年後には、自分もああいう恰好で仕事をするのかな?と思ってはみたものの、想像がつかなくて笑ってしまう。 これからどうなるのでろうか。縛られるものは何もないのに、何もないそれが不安だった。 「こんばんは、良かったらどうぞ」 フッと目の前に影が出来たと思ったら、ギャルソン姿の青年が立っていた。 その手には店のチラシと思しき紙が束で持たれていて、その中の一枚を静に差し出していた。 「ああ、どうも」 「ちょっとここからは距離があるけど、雰囲気の良い店だし一人で飲むのも全然いけますよ」 「ああ、はい」 青年は、来てくださいねと笑顔で静の前から立ち去った。 「cachette…隠れ屋か」 シンプルなデザインで店の名前と場所が書かれている以外は、特に何もない。刷るだけ無駄の様な感じもするが、色とりどり余す事無くコピーの書かれた物よりも断然に好感が持てた。 チラシの下の気が付かない様なところに、小さく従業員募集(バイト可)の文字が書かれている。 「バイト可か…」 昨日、PCから何軒かには面接の申し込みはした。だが、時期もあってか短期のバイトが多かった。 夏期休みになれば掛け持ちをして、朝から晩まで働けるかもしれないが補講があるのは確実だ。 どっちを優先にするべきか考えると、言う迄もなく後者だ。 「時間、何時からだろ?」 バーなら夜か?”一人で飲む”と言っていたくらいだから、バーと決めつけたが…。 考えながら、空虚さだけが溢れ出て来た。 何のためにそこまで働くのか。涼子も清子も静から離れようとしている今、何も残っていない気がした。 残ったのは、心へ金を返すという静が決めた目的だけ。 心からも誰からも、一言でも金を返せとは言われていないし”不要”だと追い出されたくらいだ。関わりたくないのは、心の方だろう。 とりあえず、目の前の目的はあのマンションから出て行く事だ。静はぐっと目を閉じた。 何か、何か目的がないと本当に足下から崩れて行きそうで、平穏な日々をあれだけ求めていたのに、いざ目の当たりにするとこうも不安なのか。 そもそも平穏とは何か、静は本当に分からなくなっていた。 「じゃあ、明日から来てもらえますか」 三十半ばの早瀬という男は、静の履歴書を仕舞いながら言った。 結局、四回生で就職先も決まっていない、加え一年留年というのが響いたのか、バイトで応募していた先は見事に全て断られた。 本当にどうしようかなと思っていた時、ジーンズのポケットにあの夜のチラシが入っているのに気が付き応募してみた。 cachetteという店は、やはりバーだった。その名の通り、ひっそりとまるで隠れるようにしてある店。治安は悪くないし店内もお洒落で上品だ。 店主の早瀬は”大人の男”という雰囲気で、とてもお洒落な美丈夫だった。 バイトも既に決まっているかと思いきや、意外な事にまだ決まってもなく静は即日採用となった。 調理場の人間が急に辞めて、困っていたというのが理由だ。調理場だからホールに出なくて良いし、店の営業時間も夕方からと大学との都合も良い。 ここなら、あんな連中と罷り間違えても鉢合わせになることはないだろう。 「吉良くん、これ実家かい?」 「え?」 「現住所」 「ああ、知り合いのマンションで…早く出ていかないといけないんです」 言いながら、俯く。 仕事を探すに辺り、一番困ったのが履歴書に書く住所だ。 前に住んでいたアパートは引き払っていたし、嘘の住所を書くわけにもいかずに、今居る心所有のマンションを現住所として書いた。 一等地の高級マンション。他の面接でも現住所の指摘は多く、静を悩ませた。 「スゴいね、ここ一般人じゃ買えないんだよね?」 「さあ…。どうなんですかね」 曖昧な返事に、早瀬はそれ以上に何かを言うのをやめた。 一般人じゃないな、確かに。極道で、組長でクソガキ。 「部屋、探してるのかい?」 「ええ、安くて…。良いとこあれば教えてください」 「そうなの?じゃあ、僕も探しておくよ」 早瀬はそう言って笑った。 なかなか良いところに当たった。運が向いてきたかななんて思いながら、店を出た。 銀行で残高を確認して、嘆息する。残高は侘しい額で、とりあえず三食毎日食べるのは無理そうだ。 胃は小さい方ではない静にすれば、辛いものだが仕方がない。とりあえず、何とか食い繋いで乗りきるしか方法はないのだ。 「ゼミにも出ないとな」 また留年するわけにはいかない。就職活動もしないといけないが、とにかく生活するためには稼がないといけない。 もういっそ大学を辞めようかとも思ったが、その度に父親の顔が頭を過り躊躇う。はーっと、息を吐いて静は銀行を出た。 とりあえず、今日は帰って寝ようと思った時、バタバタと前から人を掻き分け、誰が見ても何かに追われている男が走ってきた。 皆が皆、驚いたように避ける。 「待たんか!クソガキ!」 怒声が男の背中を突き刺した。静は気がつくと、走ってくる男を受け止めていた。 「助けて!」 男はそう言って静にしがみついた。 直ぐ様、いかにもの風貌の男達がわらわらと集まり静達を囲む。やっぱり運は悪いままかと、静は男達を睨み付けた。 「そのガキ渡せ!」 「どうして?」 「ああ!?」 「コイツが何かしたのか?」 静は自分にしがみつく男を指差した。 「何もしたあらへん!ちょっとぶつかっただけで鬼ごっこや!」 男は顔をあげると男達に吐き捨てるように言った。その男の顔を見て、静は驚いた。えらく可愛らしい顔をしていた。 自分が人の事を言える顔ではないにしても、大きな目が印象的な美人だ。聞き覚えのある言葉に蛾眉を顰めながらも、静は男達を見据えた。 「こんなガキにいちゃもんつけんなよ。ちょっとぶつかっただけだろ?」 「せやせや!…あっ!サツや!」 静の横から顔を出した男は、男達の後ろを指差し叫んだ。男達はチッと舌打ちすると、覚えとけよと捨て台詞を吐いて、その場を立ち去った。 男がサツだと指差した方向を見ても、らしき人は見えない。こんな古典的な芝居に引っ掛かるとは…。 「おおきに!あんた、肝据わってんなぁ!俺、田中」 田中と名乗る男は言いながら静の手を取り、痛いくらいに振ってくる。 「じゃあ、俺は」 「待ってぇな、命の恩人をこのまま返すわけいかへん。飯奢るわ」 「いや、いいよ」 別に大したことは何もしていない。サツだとホラを吹いて男たちを追い払ったのは、田中だ。 「あかんあかん。飯くらいええやん。俺、こっち知らんから、案内してや」 「はあ?」 「来たばっかりやねん。親戚に会いに。でも親戚が仕事や言うて、俺一日暇人やねん。で、ブラッちしよったら、あんなんに捕まって鬼ごっこ。洒落ならんやろ」 知らねーよ。言いかけて、静は少し考えた。 「飯、奢り?」 「当たり前や。何でもええで」 「わかった」 今日は食事を諦めていたくらいだ。こんなありがたい話を、無下にしなくてもいいんじゃないか? 「あんた、名前は?」 「ああ、吉良」 「キラ?外人?」 「な訳ねぇだろ。吉良だよ。吉良上野介の吉良」 「吉良上野介?おとんか?」 「……好きに呼べ」 どうせ今日だけの付き合いだ。静と田中はそのまま雑踏に消えた。 「へぇ、大学生なん」 二人して入った居酒屋。時間が早いこともあり、客は疎らだった。 「四年生…留年してるから」 「ほな、就職や」 「まあな…。ちょっと色々あって、就職活動もままならないけど」 本当に、今頃から就職活動なんて遅すぎる。 就職難のこの時期に、バイトをしているのなんて就職が決まった人間か、静くらいだ。 「なーんや、大変やな」 「お前は?学生か?」 「まさか、働いとるよ。あ、でもリーマンとかやないで。サービス業」 「そうか」 関西人というのはフレンドリーらしい。一般常識になりつつある豆知識。 だが、静の周りの関西人はろくな人間が居ない。なんせ、静の中の関西人代表は心だ。続いて眞澄に御園。 無敵艦隊のような三人が揃うと、成田のフレンドリーな人柄の良さは特別だなんて錯覚してしまう。 それくらいに、静の中の関西人は印象が最悪なのだ。 「キララ、女おるん?」 「きららぁ?」 なんだ、そのメルヘンチックでファンタスティックな呼び名は。 静の明らかな不満顔に、田中はケタケタ笑う。 「好きに呼べ言うたやん。キララって似合うてんで」 「似合わねぇよ」 「東京はべっぴんな姉ちゃん多いなぁ」 聞けよ、おい。言いかけてやめる。好きに呼べと言った手前、それは嫌だと言いにくいし、それに今だけの付き合いだ。何とでも呼べ。 田中と話をしていて、気が付いたことがある。どうやら心が人の話を聞かないのではなく、関西人というのは人の話を聞かない質らしい。 「今更、どうでもいいけど」 「なんやて?」 「何でもない。お前は彼女は?」 女みたいな面構えだけどとは付け加えずに、聞いてみる。 「おるよ、めっちゃヤキモチ焼きやから悪さ出来んから、東京の姉ちゃんにも声かけられへん。気強うてかなんわ。怒らしたら怖いしな」 クツクツ笑いながら、田中は言った。言ってる事は文句だが、幸せそうだなと静は思った。 何てことない話をして、気がつけばかなりの時間が過ぎていた。 「おい、俺、そろそろ帰るぞ」 「ん?そないな時間か。な、あんた学校どこ?俺、当分こっちおんねん。また飯行こうや」 「…お前、道わかんの?って大学も毎日は居ねぇよ。バイト先がバーだから飲みに来るか?俺は厨房だから相手出来ねぇけど」 「ほんま?行く行く。携番教えてや」 「ああ、携帯持ってねぇ」 静の言葉に田中はがっちり固まった。無理もないかと、静は笑った。 「キララ、友達おらんの?もしかして指名手配犯?やったあかんことしたんか?」 「違うって」 「ほな、ボンビー?キララの連絡手段は伝書鳩?」 「飼ってねぇよ。必要なかったんだよ、携帯。まあ、そのうち契約するかもな」 「変わったやっちゃ。とりあえず、これ俺の。キララの店はどこ?」 田中は店の“アンケートにご協力ください”の用紙の裏に携帯番号とメルアドを書いて、静に差し出した。 「アンケートにご協力しろよ」 静は言いながら、財布から必要なくなったレシートを取り出すと裏に店の住所と名前を書いた。 「ま、大阪帰るまでに一回くらい来いよ。会えるか分かんないけど」 「会えるよ」 田中はニコッと笑った。

ともだちにシェアしよう!