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第34話

「じゃあ、あとはよろしくね」 早瀬は静にそう言うと厨房を出ていった。 バイト初日。朝から大忙しだった。 ギリギリまで大学の講義を受け、休んでいた分のノートのコピーをなんとか手に入れるために奔走。 こういう時は、人付き合いをもう少ししておけば良かったなんて思う。 そろそろ試験が始まる。これを落としたら、本当に洒落にならない。 「吉良、こっちの皿洗って」 厨房には社員の横山という三十過ぎの男と、バイトが何人か居た。厨房を仕切るのが横山だ。 少し強面の横山はとても無口だ。長めの髪をバンダナで纏めて、淡々と作業をこなす。 他のバイトはフリーターばかりで、意外にも学生は静だけだった。 ホールスタッフはギャルソン姿で対応に当たっていて、規模が大きいとは言えない店だが、とても繁盛していた。 そして、これもまた意外にも女性スタッフが一人もいなかった。 「横山さん、ホールに一人カウンターヘルプお願いします。洋介がナイフで手切って」 「ああ。…すまん、今日だけ吉良出てくれるか?」 ホールには出ないという約束を横山も勿論知っているのか、ひどく申し訳そうに静に言った。それをまさか嫌ですなんて言えるわけなく、静は頷いた。 程よく落とされた照明に、骨董品の蓄音機がジャズを奏でる。テーブル席はそれぞれがパーティションで区切られていて、テーブルの真ん中では、水の入ったグラスに浮かべられたキャンドルが仄かな灯りを灯す。 波上にカーブを描くカウンターでは、静かに飲みたい客がグラスを傾けていた。 本当に静かに飲みたい客をターゲットにしているのか、テーブル席よりもカウンターの方が席数は多い。 それでも見知らぬ人間が近すぎない様に、座席の間隔はかなり広い方だ。 厨房を出てすぐのカウンターの中を覗けば、長身の男が見えた。男は静に気が付くと、手招きした。 「悪いな。俺は松岡。そこのパイナップル切ってくれ」 ワイルドという言葉がよく似合いそうな、バーテンスタイルの松岡は静にそう言うとニコリともせずにシェイカーに手際よくカクテルを混ぜていく。 静はそれを見ながら、綺麗な手だなと思った。手がというか鋭い切れ長の目に高い美鼻。 薄い唇はきゅっと結ばれ、親しみ易さはゼロである。 客商売でバーの売りにもなるバーテンがそれはどうなのかと思ったが、松岡は絵になった。 鼻筋や顎のライン、全ての線がとても綺麗な男なのだ。 男振りのいい松岡がシェイカーを振ると、店内に居る客が一斉に注目する。 手中の銀色に光るシェイカーが独特な音を奏で、パフォーマンスが始まる。松岡の背には色とりどりのリキュールが飾られ、作り出されるカクテルも、まるで宝石のような輝きを醸し出していた。 「ジャックローズです」 そう言って上品なスーツを着た男の前に、カクテルグラスに注がれたローズ色のカクテルが差し出された。 綺麗な色だなと思いながら、パイナップルと格闘する。 店内をゆるりと見れば一人の客が多く、少し驚く。皆、酒だけを楽しみに一人で来店するのだろうが、静ならば落ち着かない。 人目が気にならない様な演出はされてはいるが、THE 大人の店みたいな感じが自分には落ち着かないと思った。 「兄ちゃん」 呼ばれ、見れば、カウンターの端に座っている男がヒラヒラ手招きしていた。 松岡を見ると、目だけで合図をされ静は男の元へ急いだ。 初日なので右も左も分からないが、それは客には関係がないことだ。どうにか対応しないとなと、静は緊張を隠すように笑った。 「お呼びですか?」 カウンターと言えども、照明は落とされている。派手な明るさはなく、ほんのりとした照明だけが頼りだ。 客から見えない位置にある台には手元を照らす灯りが施されているが、それ以外は客の顔すら見え難い。 自分一人の空間を大事にして作られていると面接の時に早瀬に説明を受けたが、バーには珍しくない演出らしい。 「同じのくれ」 グラスを差し出され、暫し固まる。 何を飲んでいたのだろう?そんな静の困った様な顔に、男はクツクツ笑った。 「グレンリベット12年やで」 「あ、はい」 返事はしたものの、くるり後ろを振り向いて顔を顰める。 同じ様なラベルと、同じ様な形の瓶。酒は飲めるが、そんな強い方でもないしそこまで酒に興味もない。 稀に参加する大学の飲み会では、”じゃあ生で”が基本だ。そんな静が男の言う”グレンリベット12年”をスッと出せる訳もなく、諦めて男の方を振り返った。 「申し訳ありません、少々お待ち頂けますか?」 「それ、二段目の真っ赤な瓶の隣や。氷はなしで。そのままな」 男は静の丁度、肩のあたりにある瓶を指差した。 真っ赤なボトルの隣を見れば、白いラベルに”GLENLIVET”と書かれた瓶が目に入る。 静はホッとしたようにそれを手に取ると、指紋一つないロックグラスに注ぎ、男の前に差し出した。 そこでコースターに載せていない事に気が付いたが、静は見ない振りをした。 「新人か」 「あ、はい。すいません」 「カウンター専門か?」 疑問を持つ男に静は首を振った。男の疑問も勿論だろう。 厨房から引っ張り出された静は、勿論、バーテンの制服は持ち合わせておらすに白いカッターシャツにノーネクタイ。 どれだけラフなバーテンダーだと言われても、おかしくないスタイルだった。 「あの、ヘルプで。いつもは奥です」 「そうか、あんたみたいなんは奥がええな。酒入るとややこしい客、増えるからな」 最近、関西人に縁があるな。静は男と会話しながら、そんなことを考えた。 「名前は?」 男がタバコを銜え、ジッポで火を点ける。その火に灯された顔を見た瞬間、静は身震いした。 人を射抜くような鋭い眼光。光と影のコントラストで写し出された顔は彫りが深く、まるで血の通っていない彫刻のようだった。 後ろに無造作に撫で上げられた髪型は男によく似合っていて、薄く形の良い唇はニヤリと弧を描いていた。 「名前は言うたらあかんのか」 「あ、いえ。吉良です」 「そうか、俺はアヤ」 俺はアヤと名乗り、グレンリベットをクイッと飲んだ。 その間も静の鼓動は高鳴った。似ていると思った。アヤは、とても心に似ていたのだ。 「カリラの25年はあるんか」 「………お待ちください」 今度こそは分からない。あるのかどうか、そもそもカリラとは何だろう?25年とは何の称号なのだろう? 首を傾げながら、静はグラスを磨く松岡に近づいた。 「どうした?」 「あの、カリラの25年ものって…」 「あの客がか?」 松岡が訝しむ顔を見せるので、静は何か間違えたかと怯んだ。 だが松岡はフンッと鼻を鳴らすだけだった。 「それだ」 「ああ、はい」 静は松岡が指差した瓶を手に取ると、アヤの元へ戻ろうとした。 「おい、それ、気をつけろ」 松岡の言葉に振り返ると、松岡は静が握っている瓶を指差した。 「ん?」 「一本2万だ」 松岡の忠告に思わず手が滑りそうになり、静は慌ててカリラを抱き締めた。 一本2万円。この酒にそこまでの価値があるのか静にはさっぱり理解出来ないが、これを落として割るなんていう失態は犯せない。 一本2万ということは、1ショットいくらなのだろう? Cachetteは大衆居酒屋のようにメニューがある訳ではない。好きな酒を料金を気にせずに飲むというシステムだ。 そして松岡の作るカクテルは、また特別な料金システムがあると聞いた。ようは会計で金額を知るという事だ。 いよいよ自分とは縁がない世界だなと、静は一人思った。 「お待たせしました」 静が戻ると、アヤは静が大事に抱きかかえるボトルを見て、感心した様な声を出した。 「あるん?へぇ、ええのん置いてるやん」 「はぁ……」 ない前提で注文したのかと非難めいた視線を送りつつ、カリラをグラスに注ぎ、アヤの前にゆっくり置く。 アヤはグラスを持つと、匂いを嗅ぐ様に鼻を近づけた。 「これはな、フルーツの香りがするんやで」 そう言いながら、静の前に差し出す。 さっき瓶を見た時にアルコール度59.4度というのが目に入った。どうせアルコールのキツい香りしかしないだろうと訝しげにスンと鼻を啜ると、本当に甘いフルーツの香りがした。 静が本当だと驚く顔を見せると、アヤは満足げに笑った。 「水割りにしても美味いけどな、俺はこっちが好きや」 言いながら、美味そうに酒を呑んだ。 アヤは朴訥(ぼくとつ)な男だった。顔が似てると、何もかも似るのだろうか? あそこまで得手勝手で、理も非もなく我侭を通す様な性格まで似ているとは言わないが、雰囲気や仕草がとても良く似ていた。 一つ喋って酒を嗜む。 関西人はお喋りだなんて良く聞くが、静の周りの関西人は皆、無口だ。 唯一、無口ではないのが御園だったが、あれがお喋りの部類に入るのかどうかは疑問だ。 「この町は久々や。変わりようが凄まじいな」 「そうですね」 静の返事を聞くと、アヤはまた黙ったまま酒を嗜み始めた。 一人が良いのかと思ったが、静が他の客に呼ばれてそこを離れれば必ず呼び戻された。 特別、何か話すわけでもない。たまに、酒は飲むのか?だとか明日の天気はとか、言ってしまえばどうでも良いことを聞いてきた。ただそれだけ。 どうもかなり変わってる様だ。変なところまでそっくりだなと、静は心を思い出し笑った。 アヤが帰ってから松岡と共に休憩に入る様に言われ、更衣室兼休憩室の部屋の椅子に座り、静は一息ついてた。 久々にこうして働くと、身体が鈍っているのか疲れる。 馴れていないのもあるが、客の前に出なければいけなかったのは正直堪えた。 「あの人、知り合いか?」 松岡が静の前に腰を下ろしながら聞いて来た。それに静は首を振った。 アヤに似た人間なら知っていたが、昔の話だ。関西人に縁はあるが、アヤは本当に初対面だった。 「知り合いかと思った。何度も呼ばれてたろ」 「呼ばれたけど、酒を注いだだけで。無口な人だったから会話もしてないし」 あれから次々と聞いた事のない酒の名前を注文されたが、その度にその酒の由来や味を教えられた。 酒がとても好きなのか博識なのか、静には新鮮な話ばかりで思わず聞き入った。 だがやはり無口なのか言葉数は少なく、とても沢山喋ったという訳ではなかった。 「口説かれてるのかと思った」 「俺は男です」 ムッとした顔を見せる静を、松岡は小さく笑った。 「なに言ってんの。俺でも口説かれるんだぜ。俺みたいなチンピラかぶれ口説いて、どうするんだか」 「チンピラなんですか?」 「見たら解るだろ?こんな面構えで紳士とかないだろ。色々あるんだよ」 煙草を一本取り出し火を点けながら、松岡はクツクツ笑った。 確かに、他の従業員とは少し違う雰囲気を感じた。それに、冷めた感じの瞳はどこか寂しそうに見えた。 「あれってなんだろうな。道行く他人が全員、敵に見える時期。ある奴とない奴が居るけど」 「敵に?」 「お前はない奴か」 「考える暇もなかったんで…」 他人のことなんか、正直どうでも良かった。 テレビも新聞も見る暇がなくて、今、世間を賑わす事件が何かも分からなかったくらいだ。 誰が敵かなんて、あの頃の静に言わせれば一つしかない。 「あの客はどうだか知らないけど、ヤクザには関わるなよ。ここの店は安全だけど…」 「…はい」 今更だななんて思いながら、静は松岡の持つ煙草からゆらゆら上がる紫煙を眺めていた。 極道を知りすぎた静には、何の意味もない松岡の言葉だった。

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