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第35話
店にはすぐ馴れた。
様々な職種のバイトをしてきたが、やはり一番多かったのが接客業だ。なのでCachetteの仕事も苦にはならなかった。
酒好きが酒を嗜みに来る客中心なので、厨房もそこまで忙しなくないだろと思っていたが甘かった。
クラッカーやオリーブなどの軽い物からパスタ等のディナーメニューがあるので、時間帯によっては厨房は戦場に変わる。
だが静に与えられる仕事はそんな大掛かりなものでもなく、困っていれば周りがすぐにフォローをしてくれる。
店の雰囲気が良いのは、スタッフの関係性が良好なのも影響しているように思えた。
そんな人の良いスタッフばかりの中で、静はなぜか松岡と居ることが多かった。
松岡は無口な男で、無駄話も一切しないうえに誰に対しても無関心だった。静はそれが心地良かった。
スタッフは皆が皆、良好な関係性を築いてはいたが、松岡は他のスタッフから距離を置かれていた。
それは松岡の醸し出す雰囲気と、嘘か本当か分からない数々の噂のせいだった。現に静は店のメンバーから脅されてやしないかと、おかしな心配をされたくらいだ。
脅されるどころか、二人で居てもそんなに会話もないのに…。
「吉良、こっち入んな」
いつものように厨房で調理をしていると、松岡が顔を出すなりそう言った。調理の途中なのにと思ったが、他のスタッフに早く行けと促される。
静は持っていた鍋を近くに居たスタッフに任すと、カウンターに顔を出した。
「やっぱり」
静は溜め息交じりに言うと、肩を竦めた。
松岡が呼びに来るときは、カウンターが混んだときとあと一つ…。
「アヤさん、こんばんは」
静が声を掛けると、初めて来たときと同じ席で酒を一人嗜むアヤが顔を上げた。
アヤはあれ以来、フラりと店に現れては静は居ないのかと聞いてくる。居なければ一、二杯酒を嗜んで帰るが、居るときは呼んでくれと言ってくるのだ。
断って横柄な態度を取る男ではないが、松岡は面倒なのか直ぐに静を呼びに来るのだ。
「久し振りやな」
「まだ2日ね」
「そうか?」
アヤはククッと笑った。
口数の少なさは変わらぬ男だが、時折笑うようになった。笑うと、少し刺々しさが和らぐ気がする。
そして、そんなところも心に似ていた。
「何か食べますか?」
「いらん、酒くれ」
本当に酒飲みというのは酒以外口にしないのか。静は飽きれ顔でアヤを見た。
「どないした?」
「いえ、何も…。今日は、何にしますか?」
「グレン アルビン 26年もの」
出た、また知らない酒だ。静は人知れず嘆息する。
アヤは静がカウンターに入ると、次々と違う銘柄の酒を注文してくる。店の酒を全種類呑む気かというほどに注文してくる種類は多く、同じ銘柄の酒を注文する事は滅多にない。
元々、静はメインカウンターの仕事をする人間ではない。勿論、バーテンダーでもないので、シェイカーを振れる訳でもない。
それにアヤも無口だが、静も饒舌な方ではない。くわえて酒の種類も分からないので、十分なサーヴも出来ない。
ないない尽くしなのに、アヤは静を指名して来る。そして、こうして聞いた事もない酒を注文して、数多くの瓶を眺めて肩を竦める静を見て楽しんでいるのだ。
遊ばれてるなと思いながら、静は特段、文句を言う事なくアヤに付き合っていた。
「お手上げです」
振り向き両手を広げると、アヤは満足げに笑った。ほらな、遊ばれてる。
「まだまだやな。それ。こないだのハイランドパーク21年の隣や」
「…ああ、これ」
黒のラベルに金の文字で”RERA MALTS”と書かれたボトル。静はそれをロックグラスに注ぐと、アヤの前にコースターを敷いて載せる。
アヤはそれを満足げに見ると、口をつけた。
「これの仕込み用水はネス湖やで。ネッシーのネス湖」
「…ネッシー」
こんな男でも、あの何ら証明の出来ていない都市伝説並みの生き物の名前を出すなんて。
それがどこか可笑しくて、静はほくそ笑んだ。
「そう言えば、あいつがおったらあんたも安心やな」
「え?あいつ?」
急に振られた言葉の真意を酌み取る事が出来ず、首を傾げる。するとアヤは、静達の向こう側でサーヴする松岡をチラリと見た。
「松岡、ですか?」
「あれ、たまに俺以外の客に吉良のこと聞かれてんねん。呼べとか言われたりな」
「…はぁ」
「まあ、一睨みで終わらしとるわ。おっかないな」
静はそうですかと曖昧な返事をしながら、まさか松岡がそんなことをしていてるだなんて思ってもおらず、戸惑った。
当然、アヤ以外の客が静を指名しているなんていうのも初耳だし、アヤが来店してくる以外はメインカウンターに立つ事は無い。
ちらり松岡を見ると、相変わらずの仏頂面でシェイカーを振っていた。
「キララめーっけ!!」
店内に場違いな声が響き、思わずひっくり返りそうになった。
唖然とする静の視線の先には、先日ヤクザと追いかけっこしていた田中が満面の笑みで立っていた。
「た、田中」
「この店、なかなか見つからんねん。ホラ吹かれたか思った。あ、兄さん隣かまへん?」
田中はアヤの返事も聞かずに、アヤの隣にドカリと座った。
それに焦ったのは静だ。アヤは常に端の席で静かに酒を呑む人間だ。賑やかなのが嫌いなのは一目瞭然だった。
だが、田中は典型的な関西人。お祭り男だ。
「おい!お前な!」
「いや、かまへん。同郷やしな」
「あら!?関西人!?ちょー、こりゃ飲まなあかんやろ!」
「ちょ…!!え?いいんですか?」
「かまへん。知り合いやろ?」
「知り合いというか…」
なんというか…。
「めっちゃツレ!」
黙れ、お前。
静は大袈裟な溜め息をついた。
何だ、一度食事をすれば”めっちゃツレ”になるのが関西人か。
「何飲んでるん?俺、ジンライム」
「ああ、ロングモーン 32年も」
「はいはい…」
静から見れば無茶苦茶な田中の態度にも、アヤは動じる事も顔色を変える事も無く平然と受け入れている。
やはりこれが関西人なんだろうな。とてもじゃないがついて行けない。同郷同士好きにしろ。静は心中で悪態づいて松岡の元へ向かった。
「ジンライムと…ロングモーン 32年?」
「相変わらず、舌の肥えた客だな。あれ、知り合いか?お前と毛並みが違うな」
松岡はチラリとカウンターの端に座る二人を見ると、そう言った。
確かに毛並みが違うな。いや、もしかすると自分はアヤには近いかもしれない。
どこか危険な匂いがして、裏の人間と言われても納得してしまいそうなアヤのそれ…。
結局、自分はあちら側なのかもしれない。
怨み、呪い、抹殺したいと思ったが、長年、自分の意思に関係なくあの色に染まってきた。
それは消したくても消えない色。
「ジンライム。で、もう飲みます?ロングモーン 32年」
カウンターにロングモーン 32年の瓶を置き、田中の前にジンライムを滑らした。
店なんて教えるんじゃなかったと後悔しても後の祭り。他の客の注目を浴びてる場違いな男は、そんな事をものともせずに何やら上機嫌にアヤに話しかけている。
静は、そのうち、というよりも既に関西人は苦手になってきているような気がした。
「あら?キララは飲まへんの?」
「俺はこういう強いのは無理だ」
というよりも仕事中だ。考えろ。と心の中で付け足す。
口に出してしまえば最後、きっと何やら喚いてくるに違いない。
「仕事中やて。残念」
「それ、入れてくれるか?」
「ああ、はい」
アヤに言われ、ロングモーンをグラスに注ぐ。
フワリ、煮たリンゴの様な香りが鼻をくすぐる。良い香りだなと思いながら、アヤの前に置けば静のその表情に気が付いたのかアヤがクスッと笑った。
「結構、一般的にはマイナーなんやけどな、ブレンダーの間じゃあ昔からマッカランやグレンファークラスとならぶトップ・ドレッシングの一つや。モルティーで複雑。エステル風のフルーティーな味わいと、長い余韻が特徴や」
「トップ・ドレッシング?」
「ブレンダー用語や」
「はぁ……」
ブレンダーとはウイスキーのブレンド技術者の事だ。
アヤは静の聞いた事もない知らない用語や、酒の種類や酒の味など沢山の知識をくれる。
だが静はメインカウンターのスタッフではない。折角の知識も、残念ながら何処にも役立てない。
それに、こうしてアヤが来るたびにサーヴはしているが、その度に奥は人手不足になるのだ。
「な、こん人な、俺とおんなじ大阪やねん」
分かるわ、それくらい。口に出しかけて飲み込む。
何だろう、こう、本当にチャラい。きっと、この年頃はそうなんだろうが、静からしてみれば田中は相当チャラく見える。
アヤと隣り合わせて座っているが、こうも違和感のある光景があるだろうか。それに本当に隣に座らせて良かったのかと、今更ながら不安になる。
「関西も広いんやで。京都や滋賀や兵庫でまたちゃうんやから」
「ああそう」
お前は典型的な関西、大阪だよね。
そもそも、京都と滋賀と兵庫が何がどう違うのか静にはよく分からない。強いて言うなら、言葉の違いだろうか。
御園の言葉使いは田中のとは全く違った。御園は緩やかに強弱なく喋る男だった。
「なあ、聞いてる?」
「ん?うん」
物思いに耽っていると、田中がカウンターから身を乗り出して来た。
三人のうちアヤは無口で、バーテン役の静も無口で、その二人の分もがっつり話すのが田中だ。
関西人は喋るマシンガンとは良く言ったもんだ。弾詰まりも弾切れもない。精巧で頑丈なマシンガン。
「キララが終わったら飲み行こう」
「は?何言ってんの」
「仕事中は酒呑まれへんのやろ?飯、奢りやで」
ニヤリ、田中が笑った。
悲しいかな、貧乏。静は溜め息をついた。
引っ越しのために、金を貯めなければならない。金を貯めるためには、とにかく削れるものは削りたかった。
一番に削れるのは食費だ。いや、食費以外ない。
今は家賃から光熱費から、静の預かり知らぬ状態だ。こういうのをヒモと呼ぶのだろうか?
借金もなくなった。母親の入院費も自分の学費も妹の学費も、何もかも心配しなくて良くなったが、同時に二人とも居なくなった。
戸籍から妹が居なくなり、母親は土地を離れる。
静は不本意ながら、自由を手に入れることとなった。
残ったのは莫大な借りだけ。返済すら拒まれる借り。
どちらにしても、早く縁を切りたい。
もう、極道に振り回されたくない。
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