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第36話
従業員以外立ち入り禁止のドアを開けて中に入ると、奥に事務所、手前に更衣室のドアがある。
静は17時から0時までのシフト。翌日に講義がない時はラストまで入るが、出席日数ギリギリの静にはそれは月に四回ほどしかない事だった。
学業に本腰を入れなければいけないのだが、いざバイトを掛け持ちしだすとそっちに重点を置いてしまう癖がなかなか抜けない。
更衣室のドアを軽くノックして開けると、部屋の中央に置かれた会議室でよく見る長テーブルに松岡が腰かけていた。
「松岡さん、テーブルは座るとこじゃないですよ」
静はクスクス笑いながら言う。目の前にパイプ椅子がきちんと用意されているのに、変な男だ。
「高いとこが好きなんだよ」
煙草を銜え携帯を弄る松岡は、子供の様なことを言って口元で笑って見せた。
「終わりか?」
「はい」
「俺も終わりだ。オマエ、飯食った?飯行くか?」
携帯をシャツのポケットに滑りこますと、松岡が長テーブルから降りた。
今日はやけに誘いを受ける日だなと思いつつ、静は首を振った。
「すいません。今日来た奴いるでしょ?」
「関西弁の賑やかなガキか?」
「そう、あれ、ちょっと知り合いでアイツと飯行くんですよ。あ、アヤさんも」
「アヤ?」
「あの、カウンターの端にいつも座る、俺を呼ぶ客。アヤっていう名前しか知らないんですけどね。関西人同士意気投合したみたいで、一緒に飯行くぞってなって」
「へぇ、じゃあ俺も混ぜろよ」
「え?」
松岡の申し出に、静は少し驚いた顔を見せた。あんな賑やかなのと一緒で良いんですか?と、静が心配になる。
多分というよりも確実に、田中は”謙虚さ”とか”目上の人への配慮”に欠けている人間だ。それはアヤへの態度で分かった。
もしかしたらそれが関西人の人懐っこさかもしれないが、同じ日本人でも、その土地の風土を受け入れられない事も多々ある話だ。
それを分かっていて松岡は静と来ると言っているのか。そんな心配をする静を他所に、松岡はさっさと着替えを始めた。
「松岡さん、いいんですか?」
「何が?俺は飯食いてえし、明日休みだから酒飲てぇの。あの客、相当強いだろ?」
「はぁ、強いとは思いますけど」
松岡がそう言うのならば、静には断る理由がない。
あの田中の賑やかさを知っていても、”酒”だけを理由に来ると言うのは松岡自身だ。
田中は松岡を知らないだろうが、人類皆兄弟の関西人代表の田中ならばそんなことは何の支障もないことだろう。
「あ、松岡さん、京都と滋賀と兵庫の違いってなんすかね?」
「は…?」
アヤと田中は先に行くと、店の名前と場所だけを告げて静のシフト終了と同時にcachetteを出て行っていた。
着替えを終えた静と松岡は、早瀬に挨拶を済ますと裏口から外に出た。
まだまだ賑やかな街。表通りに出れば、宴は始まったばかりと誰も彼もが今を楽しんでいるように見えた。
静と年端も変わらぬような若者が持て余したエネルギーを爆発させるが如く、騒いでいる。
本来ならば、あの中に混じってもおかしくないのかもしれないが、長年、暗い中に閉じ籠っていたからか、あのノリは苦手だ。
これはもう、性格なのかもしれない。
「もうすぐ夏休みか」
松岡は煙草を銜え火を点けると、徐に静に聞いてきた。
「え?ああ…」
そうだ、世間ではもうすぐ夏休みか。静は言われて気が付いた。
いつからだっただろう?補講を受けないといけないかも。いや、受けなければどうにもならないだろう。
大学の夏休みは長い。昔は稼ぎ時だと朝から晩まで働いたが、四回生、そんなことをしている場合ではない。
就職先を考えるよりも先に、卒業出来る様に単位を修得しなければ。
「新鮮だな。夏休み」
「…はぁ」
静は現役の大学生なので、新鮮さはないが借金に追われない夏休みは初めてかもしれないと思う。
そう思えば、補講を受けてなんて考える夏休みは初めてかも知れない。
「ま、俺はろくすぽ学校も行かなかったから、夏休みとかあんま記憶ねぇな」
「そうですか」
見た目まんま、噂まんまという事だろうか。
噂、なんだっけ?ヤクザ事務所を潰した。族を潰した。背中一面に菩薩が描かれている…。
どれが本当でどれが嘘かは知らないが、一番最後のは外れだと思った。
松岡の背中に何も描かれていないのは、着替えを見た静自身が知っている。
「一緒に居たの、お前の連れなのか?ガキの方」
「え?あー、連れって言うか。ちょっと知り合って」
「知り合って?」
「町で絡まれてたのに、口挟んだから」
としか言いようがないなと、静は肩を竦めた。
「見かけによらず、勇ましいな」
松岡はそう言って笑ったが、静はグッと前を向いた。
「嫌いなんで」
「あ?」
「ヤクザとかチンピラとか、暴力を地位と勘違いしてる人種」
暴力さえあれば、何もかも思い通りになると思っている破落戸。
土足で踏み込み、唾を吐きかけ、自分を崇めろと言わんばかりに胸を張る無法者。
そして人の生活に踏み込むだけ踏み込んで、飽きた玩具を捨てる様に捨てた傲岸不遜な男。
「言うね…お前も」
怒気を含むような静の言葉に何か探りを入れるわけでなく、松岡はそう言うだけだった。
指定された店は静達の店とは少し趣の違う、リーマン御用達の居酒屋と呼べるような店だった。
暖簾を潜れば大将の勇ましい声が出迎えた。こんな時間だというのに、店内はスーツ姿のサラリーマンでごった返していた。
「いらしゃいませ、お二人で?」
「連れが居る」
松岡が言うと、ホール店員と思しき若い男が中へと促す。どうやら店員に伝えていたのか、店員は迷う事無く静達を奥へと導く。
「お連れ様が参りました」
連れられたのは座敷で、中を覗けば田中とアヤが既に宴会状態だった。
店員がどうぞと静達を促し、また騒がしいホールへと戻っていった。座敷は個室になっているが、扉もなく開放感がある席だ。
「来た来た、キララ!あーっと、そっちのん誰?」
アヤの隣に座り、すでに出来上がった様子の田中が静の後ろに居る松岡を指差してきた。
「やめろ、バカ。松岡さんだよ。店のバーテン」
静がその指を叩いて、座敷に上がり田中の前の席に腰を下ろした。
斜め前のアヤに頭を下げると、アヤはクスクス笑って松岡を見た。
「あんたも来たんか」
アヤの言葉に、もしかしてダメだったか?と静は困ったような顔を見せた。
「招待されてない奴は、お断りか?」
松岡はそんな静の様子を気に留めることなく、静の隣に腰を下ろした。
「吉良のボディーガードかと思うてな」
「ボディーガード?まさか。コイツを飯に誘ったら、あんたらに誘われてるって言うから。俺は酒が飲めるなら何でもいいし」
「せやな、あんたは酒強そうやしな。何にする?」
二人して酒の話をしだしたので、静もホッと胸を撫で下ろした。
「キララ、何食べるん?」
「キララぁ?」
田中の言葉に、松岡が顔を顰めて静を見た。静は気にしないでくれと言わんばかりに、手を振る。
「好きなもの食うたらええ。遠慮はいらん」
アヤの言葉に静は頷いた。タイミング良く店員がオーダーを聞きに来て、静はメニューを開いた。
隙間なく料理の写真で埋められたメニュー。どれもこれも食欲をそそる物ばかりで、写真の料理に釣られる様に腹が鳴った。
「じゃあ、唐揚げとカレイの煮付けと刺身盛り合わせ、手羽先煮込み、海鮮焼きそば…串盛り合わせと豚しゃぶ大根サラダ。あ、とんぺいとチャーハン大盛りで」
次々と出すオーダーに、田中ばかりかアヤまで固まる。松岡に至っては、誰が食べるんだと言わんばかりの顔だ。
「…とりあえず、俺はそれで。松岡さんは?」
メニューを松岡に渡すと、松岡は怪訝な顔を見せた。
どうしてそういう顔をするのか分からずに、静は首を傾げた。
「お前が食うの?」
「キララ一人で?とりあえずって、まだ食べるん?」
松岡と田中からの言葉に、静は食べたらダメなのか?とアヤの顔を見た。
そんな静の顔を見て、アヤはククッと喉を鳴らした。
「おい、ここ魔王あるで」
「え?マジで?じゃあ俺それ」
アヤの言葉に、松岡が食いつく。
”魔王”は聞いた事あるなと、静は料理とは別になっている酒のメニューをちらりと見る。
「キララは痩せの大食いちゅーのんやろ?」
「あ?さあ?普通だろ」
田中に言われて首を傾げた。確かに身体は細い方かもしれない。だが、大食いかどうかはよく分からない。
どちらにしても、あまり嬉しくないフレーズだなと思う。
「厨房の巨大オムレツ食ったの、お前か」
「え?ああ、昨日?食べたよ」
「何なん、巨大オムライス」
「飯を炊くの失敗したんだよ、バイトが。硬すぎて客に出せねぇから、俺がオムライスにしたんだ。十合。分けて作るのも面倒で、嫌がらせのつもりで一気にオムライスにして置いてたら、夜になくなってやがった」
「だって、店長が食べていいって」
昨日は相当、腹が空いていた。だが賄いは食べてしまったし、水でも飲んで飢えをしのぐかと思っていた矢先の事だ。
厨房の真ん中の料理台。そこに置かれた松岡の言う通り、本当に嫌がらせのような食べ難そうな巨大なオムライス。
店ではオムライスはメニューにないので、上客のリクエストか何かかなと思っていた。
すると早瀬が”吉良クン、オムライス好き?”なんて聞いてきたのだ。
静は好き嫌いがない人間だ。大好きですの言葉に、食べれるだけ食べてくれない?なんて言われれば、それはもう二つ返事で食べるに決まっている。
バイト仲間に涙目で”ありがとう”なんて御礼を言われたが、そうか、そういう事があったのかと静は笑った。
「一人で食べたん?」
「え?うん。一人で。あれ、松岡さんが作ったんですね。すげー美味いの」
「へえ、お前、料理もやんの?」
アヤが松岡に聞くと、松岡は首を振った。
「料理って呼べるものでもねぇし」
そんな話をして居ると、静の注文した料理が次々と運び込まれてきた。そして、それに合わせるように宴は始まった。
松岡もアヤもやはり無口で、静もどちらかと言えば無口だ。
四人のうち三人がそんなのってどうなんだと思ったが、その三人分をカバーするように田中が喋った。
どうでもいい話が多かったが、こういう機会が今まで皆無だった静には新鮮だった。
大学生とは名ばかりで、バイトとまるで指名手配犯のように逃げ回る生活。
親友の暁と食事へ行く機会すらなかった。
それが今はバイト仲間と客とでの食事を楽しむ状態だ。それは静にとって、とても新鮮で不思議な時間だった。
暁にも連絡してないな…。京都へ行く前から連絡していないし、大学に行っても暁の居る研究室へ行く時間もなかった。
やはり携帯は手に入れておかないと。そうだ、明日、暁の研究室へ行って食事に誘おう。
静はそう思いながら、箸を進めた。
「キララ、何か飲みーや。飲めるやろ?」
絡み酒の様に田中が静に酒のメニューを突き出して来る。静はそのメニューを取り眺めてみたが、どれもこれも良く分からない。
アヤが講義よろしくに教えてくれた酒は、ほとんどがモルトだ。
そしてcachetteに置いてあるのは高級モルトで、そんな物はこの店には置いてはいない。
そもそも、モルト自体を置いてないようだ。それを証拠に、cachetteではモルトしか飲まないアヤが焼酎を嗜んでいた。
「甘いの好きなら、カクテルにしたらどうだ?」
松岡がメニューを見たまま固まる静に助言した。
カクテルと纏められたスペースには、カシスやモスコミュール等の名前が連なる。
静は、うーんと唸り首を振った。
「いや、飯に集中したいんで…ビールくらいなら」
「ほな、決まり!…兄ちゃーん!!生中一つ!!」
静の注文を今か今かと待ちわびていた田中が座敷から顔を出し、我鳴った。
すると直ぐさま田中の声も小さく聞こえる賑やかな店内から、軽快な返事が返ってきた。
「松岡、何や?」
アヤが魔王の入ったグラスを傾けながら、徐に松岡に聞いた。
そう言えば下の名前は知らないなと、静も隣の松岡を見た。
「せーいち」
「へぇ、せいいち君ねぇ」
アヤはタバコを銜えながら、復唱するようにゆっくり言った。
妙な違和感を覚えながら、静は運ばれてきたビールに口をつけた。
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