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第37話
「き…!!…っら!…ら!」
夢現つに聞こえてくる声に、静は重たい目蓋を押し上げる。
だがフワフワとした感覚と自分を呼ぶ声が籠って聞こえて頭を振る。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
何だ…?確か、食事をして、ビールを飲んで…?
何度か瞬きをして目を開ければ、白む視界に人影が見えた。
「…まつ…お…か、さ」
舌がうまく回らない。一体何がどうなってるのか、思い出そうにも頭も重たい。
とりあえず起き上がろうと身体に力を入れたが、身体もピクリとも動かない。
そこで初めて、腕が後ろ手に縛られていることに気が付いた。
力を入れているつもりの腕は全く動く様子がない。入れているつもりで、一切、力が入っていない様な気もする。
相変わらず重たい瞼は、油断すると閉じてしまいそうになる。
「吉良!!」
松岡の怒声にハッとする。また眠りかけていた。
朧げな視界に目を凝らすと、松岡も後ろ手に縛られていて顔には殴られた痕すらある。
「ま、つ、岡…さ、ん……顔」
「あの田中って、どこで知り合った!?」
「た、なか?…え?田、中…は?」
田中が誰か直ぐには思い出せなかった。だが何度か頭を振って思い出す。
一緒に居たんだ。アヤと田中と一緒に居た。だが今はどこにも居ない。
何がどうなっているのか、頭が自分のものじゃないように働かない。
「あのガキもグルだったんだよ!!お前も俺も拉致られたんだ!!お前、薬盛られたんだぞ!逃げようとしたのに、あのアヤって野郎、やっぱり只者じゃねぇ…っ!」
松岡が苛立った様に言う。だが静には松岡の言っている意味が、イマイチ理解出来なかった。
「拉致?どうして…」
静は頭を振りながら何とか身体を起こした。一体、ここはどこなのだろうかと見回す。
やけに埃っぽい部屋は四方八方をコンクリートの壁に囲まれた窓のない部屋で、天井に埋め込まれた電気には金網のようなカバーがされている。
カビ臭さもあり、長年使われていないのは明らかだった。
「ここは?」
「さあな」
ツキは落ちる一方か。
静は縛られている腕に、もう一度力を入れた。頭はぼんやりするが、身体は何とか思い通りに動くようになってきた。
「…気持ち悪」
ぐるり視界が回り、それに伴い吐き気が催して来た。う…っと、唸り、唇を噛み締める。
「出したきゃ出せ。盛られた薬のせいだろ…。くそ、外れねぇ」
松岡は腕の縄を外そうとしているのか、身を捩った。
「外れへん。諦めぇ」
突然の声に二人してギクリとする。錆びれたドアが、嫌な音を立てて開いた。
逆光に浮かぶ姿に、静の身体が一瞬、震えた。
「あ…アヤさん?」
心に良く似たシルエット。それはアヤだった。
「気分は?」
「なに?どういう…こと?」
「気分はええみたいやな」
アヤはそう言いながら中に入ってきて、部屋の隅に畳まれたパイプ椅子を引き摺り出し広げると、背凭れを前にして跨がるように腰掛けた。
その顔は、静の良く知っているモルトの講義をしてくれるアヤのいつもの顔で、この今起きている状況とあまりにギャップがありすぎて、静は黙考する。
「兄ちゃんも、気分は?」
「…てめぇ」
松岡は今にもアヤに飛び掛からんばかりに闘志剥き出しだ。だがそれをしないという事は、静が知らない間に無駄だということが分かったからだろう。
だからこそ松岡の顔には、痛々しい痣が出来ているのだ。
「…アヤさん」
「ん?」
「これ、どういうこと?アヤさん、何者?」
ようやく頭も冴えて来た。状況も理解出来たが、拉致られる理由は分からない。
真っ直ぐに自分を見つめて来る静に、アヤは静かに笑った。
「泰然自若。さすが肝が据わってる。ま、俺が何者かは秘密や。悪いけど、餌になってもらうで」
「餌?餌ってなにの?」
「分かっとるやろ、あの猛獣のや」
アヤはクツクツ笑いながら、煙草を銜えた。
「…意味が、わかんね」
「なんで?分かりやすう言うたら、鬼塚心を呼び出す餌」
「…心を?」
分かり易くというよりも、ストレートでそのまんまだな。
だが、ここに来てまた心か。静はせせら笑った。
「どないした」
「餌なら俺は賞味期限切れだ。あいつは来ねぇよ」
「はあ?」
「賞味期限の切れた餌は、誰でも捨てるんだぜ?」
それが本人の手によらなくても、賞味期限が切れていればもういらないと易々と捨てる。
人として理も非もない行動だが、それが”極道”だ。
「賞味期限切れてるかどうか決めるんは、餌やのうて持ち主やで」
アヤはそう言って猛禽類が狩りを始める前のような、獰猛さを見せながら笑った。
「ゲストやからVIP待遇にしたりたいんやけど、腕解いたら、彼、暴れるやろ?俺も年やから、付き合うてられへん。悪いけどそのままで、勘弁してな」
「ふざけろ、このボケ」
松岡が自由になる足で、地面を蹴る。そんな松岡を見て、アヤはククッと小さく笑った。
「まぁ、ごゆるり」
アヤはそう告げると立ち上がり、部屋を出て行った。また錆びれた嫌な音を立ててドアが閉まり、カチンと鍵の締まる音がした。
松岡はその音を聞いて、チッと舌打ちする。
「おい、鬼塚心って?」
アヤが出ていった部屋で、松岡が静に聞いた。聞いて当たり前か。静は嘆息した。
「ちょっと知り合った奴」
「ちょっと?鬼塚心って、あの、鬼塚心か?」
どの?鬼塚心はそんなに居るのか?
あんなのが何人も居るのは冗談じゃない。一人だけで十分有害だ。
「鬼塚心を知ってるんですか?」
「仁流会の」
ああ、正解。静は再び嘆息した。
「ちょっとだけ、知り合っただけっすよ」
「…へえ」
仁流会の鬼塚組組長と、ちょっと知り合う大学生って何?と自分にツッコみたくなる。
何の自慢にもならないし、何の得にもならない。だが松岡は、それに関して何も聞いて来る気配は無かった。
「あの、有名なんすか?」
「あ?」
「…鬼塚、心」
「ああ、名前だけな。顔を知ってる奴は、業界でも少ないんじゃないか?あまり表舞台に出ないらしいから」
それはね、世界一面倒臭がり屋だからだよ。
得手勝手で無軌道な男。もう終わった事だと思っていたのに、結局、今も関わっているのか。
「松岡さん、すいません…」
「あ?なにが?」
「俺のせいみたいだし」
「別に、チンピラやヤクザに絡まれるのは慣れてる」
「…はぁ」
それって慣れるものなのか?と思いつつも、確かに慣れる事でもあるなと静は思った。
長年、極道と関わって来た静だからこそ納得出来る話だった。
「俺も好き放題してきたからな。相手がヤクザだろうが何だろうが、お構い無しだ。でも、最後に絡んだヤクザが最強最悪でな…。まあ、ヤクザはどれも最悪か。だから、その時は殺されるんだなって諦めたな」
「諦める…」
言われてみれば、御園に殺すと言われたとき自分も諦めたな。
人間、死ぬと分かれば諦めがつくものなんだろうか。
「諦めてるか?今」
松岡に聞かれて静は押し黙った。
自分が居なくなったところで、どうなるのか。涼子も清子も頼る場所があり居場所がある。
だが、それは自分の元ではない。今、頼る場所も居場所もないのは静自身だ。
「諦めてる…のかも、しれない。正直…疲れた」
突っ走り駆け抜けた日々がある日一転して、それに対応出来ずに転んだ。そして、踞った。
例えるなら、そんな感じだな。
「吉良、俺は…」
松岡が言いかけた途端、鍵の開く音がしてドアが開いた。
アヤが来たのかと視線を入り口に向け、ギクリとする。そこに立っていたのは、鬼の仮面で顔を覆った男だった。
「何だ、お前」
松岡が咄嗟に静の前に身体を移動させた。
長身で見るからに鍛えられた身体だった。黒のスタイリッシュなTシャツとジーンズ。
袖から延びた二の腕は長く、筋肉のフォルムが綺麗だった。
男は何も言わずに松岡と静に立つように人差し指と中指を動かした。二人で渋々立ち上がると、付いてこいとばかりに部屋を出た。
「気味悪ぃ奴」
松岡は吐き捨てるように言いながら、それに続いた。
薄暗い廊下はやはり窓はなく、しかも男一人が通るほどの幅しかないような狭さだ。
窓もなく狭い、それだけで圧迫感を感じだ。静達が居たのは一番奥の部屋で、逃げ道は鬼の仮面を被った男が塞ぐように歩く。
後ろ手に縛られていては、逃げるのも不利だな。どんどん下降する運気に、溜め息が漏れる。
ガチャっと音がして、見てみれば、仮面の男がドアを開けて立っていた。
どうやら入れということか。
「真っ暗じゃねーか」
言いながら松岡が足を踏み入れる。後から続けば、確かに真っ暗だ。
目が慣れていないとかそういう状態ではなく、部屋の中が暗黒すぎて何も見えない。何だか息が詰まりそうで、部屋から出たくなる。
思わず振り返ると、いきなり口を塞がれた。粘着質でゴムの匂い。ガムテープだと分かった。
同じように松岡も口を塞がれたようで、松岡のくぐもった声が聞こえた。
すると次に目隠しをされ、ヘッドフォンをつけられる。
心拍数が異常に上がる。何をされるのかと思っていると、音楽が流れてきた。
その音楽は今流行りのものなのだろうが、目隠しをされ、口を塞がれた状態で生まれるのは訳のわからない恐怖だった。
周りで何が起こっているのかも分からない。うるさいほどのボリュームで、物音すら聞こえなかった。
直立不動で居ると、肩を押されその場に腰を下ろした。
そして、ふと違和感を感じた。静の身体に手が這っていた。
背中から腹、胸。触るというよりは、何か探しているような妙な感覚。
その手が胸元にくると、思わず身体を捩り抵抗した。すると、手はすぐに離れた。
次に何をされるのか、思わず身体が強ばる。
だがそれ以降、何のアクションもなく、ただただ時間だけが流れた。
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