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#9 ピエタと指輪

 あまりにも唐突に、それまでの前後とまるで連関のない話題を投げかけられ、何を言われたのか咄嗟には理解出来ず、椋田は瞳を円くして柚弥を見返した。  対する柚弥は、どこか投げやりな表情を漂わせながら椅子に身体を預けている。 「——……何だって?」 「だから、彼女は出来たのかって、聞いてんの」 「何だよ急に……」 「……」 「…………別に出来てないよ。出会いもないし、特に欲しいとも思ってないし……」  それでも苦笑しながらも柚弥の問いに答えた椋田に、柚弥は左肘を上げて甲を椋田に示した。 「指輪」  右手の人差し指で左の薬指をとんとん、と叩く。 「つけてるからじゃないの」  柚弥に指し示され、椋田は自身の左手を翻す。 「……ああ」  薬指に嵌る、銀のプレーンな輪郭のそれへ、懐かしむように瞳をほそめた。 「…………実はこれ、取れないんだよ。結構前から。きつくてさ」  太ったのかな、と自嘲するように笑って加える。  そんな訳ないじゃん、と柚弥は心中で毒づいた。  まるでミケランジェロのピエタみたいだ、と信奉する美術部員がうっとり呟くような容貌なのだ。  彼を無遠慮に見つめる生徒達に嫌悪を抱きながらも、柚弥も不本意ながらそれには同意している。  しかも、抱かれているキリストではなく、マリアの方なのだ。彷彿とさせるのは。男の身でありながら。  白皙で繊細な顔貌(かおかたち)のなか、いつも愁いを帯びた伏し目がちの表情で微笑を湛えている。  その辺に並んでいる彫刻の中に紛れてもまるで遜色なく、むしろ教える側の彼がモデルになった方が、部員の創作意欲を大いに湧き立たせるだろうと、柚弥はいつも皮肉混じりにそう揶揄している。  それより、惰性で嵌めたままだろうと踏んでいた指輪が、実は外すことが出来ないという事実が、ひそかに柚弥に衝撃を与えていた。  あの優しかった姉の、最後の情念なのではないかと、一瞬そんな考えが過ぎったが、  あの姉がそんな筈ない、ということよりも、 そうであったとしたら、あまりにも恐ろしすぎて、という意識の方が強く、柚弥はその考えをすかさず打ち消した。  表情が動かないため、動揺は漏れていなかった。  だが顔色を喪くし、先程から不安定になりつつある柚弥を椋田は感じ取っており、訝しげにその様子を覗き込もうとした。 「…………というか、何だよ。さっきまでの話はどうした」 「…………ああ。それはもういいよ、終わったから」 「何……?」 「終わったよ。解決した」 「いやしてないだろ」 「したよ。俺はこれから、隣の転校生のの、決っして迷惑にはならないように、当たり障りなく、普通(ふつーう)に接していけばいいんでしょ。ただのクラスメイトとして。 ——出来るよ、別に。今までと同じだ」 「いやちょっと待て、」    またこいつは、どうしてこんなに手がかかると、本来温厚な筈の椋田の声を荒げさせていた。  強がっているようで、殆ど虚勢なのだ。本当に心を開いている者の前では。  人を求めるあまり臆病になり過ぎて、途端に見当違いな、人を混乱させる方向へとひた走っていく。  多分、その手を引いて、連れ戻して欲しいのだ。  解っている。だけど、どうしてどうにもこうにも、この少年は人の心を掻き回してくる——。 「俺がじゃないから、どうせなんか出来ないんだろ。 知ってるよ。ずっとそうだったんだから。だから別に、今まで通り、」 「誰もそんなこと言ってないだろ、落ち着け、柚弥!」  そして、自分達に課していた『校内での約束』も、すっかり飛んでいる。  本来、彼も柚弥と性質(タイプ)は違うが、自分を繕うのは明白に苦手なのだ。 「何、もう……。怒らないでよ。落ち着いてるし、俺は……。瀬生さんの方こそ、落ち着いてよ……」 「お前が、馬鹿なことばかり言ってるからだろ……」 「もういいよこの話は。結構傷ついてるんだから……。もういい、したくない。おしまいね。こっちから来といて悪いけどさ……。 ……つーか、さっきの別の話、戻っていい?」 「何だよ、別のって……」  感情が昂ぶっていて、その前の話はすぐには思い出せなかった。 「——彼女の話」 「……」 「俺じゃ、その『彼女の代わり』には、なれないのか、ていうの」  椋田は唖然と柚弥を見直した。

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