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#12 握られた手の尊さ

 いつから、何が狂ったのか。  柚弥も、梗介も、日菜佳も誰も悪くない。  悪いのは全部、醜く汚れた、誰よりも存在することの許されないこの俺だ。  心が澄み渡るように、晴れた陽のひかりの中に立つと想い出す。  長く柔らかな髪が、振り返ると光や空気をはらんで揺れて、まぶしかった。  そこから覗いた笑顔は、待ち焦がれた春の訪れを感じさせるような、生ける者誰もに安らぎを与える陽だまりのようだった。  傍にいると、まるで自分のこの存在さえ浄化されていくような心地がした。  誰よりも美しく優しく、温かった。  あんなにも(きよ)らかな女性はこれまでもこの先も存在しない。——日菜佳(ひなか)。 『瀬生(せのう)さん』  鈴の音のような声と、あの澄んだ美しい眼差しに捕らえられると、痺れたように動くことがかなわない気がした。 『私と、……結婚してもらえませんか?』  目尻に恥じらいが染まるように入り混じり、伏せられた睫毛と、握られた手の温かさを、今でも鮮明に想い起こせる。  伏せた瞳は、優しさに包まれながらもすぐに凛とした光で自身を見上げてきた。 『ゆうちゃんのお兄さんに、なって下さい…………』  先には出会ったのは、柚弥の方だった。 彼も、いや彼こそ、出逢った時は天使なのではないかと、疑うほど澄んで溢れるほどに輝いていた。  だが、日菜佳といる時の柚弥(かれ)は、自身の感情を奥底に押し込めて、美しく浄らかな姉を、この世の総ての汚れから守らんとするばかりに、ひそかに張り詰めて、輝くように微笑む姉の傍らで、人知れずいつも静かな瞳差しで彼女を見護っていた。  日菜佳と結婚すると告げた時も、瞳を僅かに見開き、時折見せる、どこか冷めた、薄暗い光を澱ませた瞳で、祝意を口にするより先に、唇を薄く歪ませて笑っていた。 『…………そう。瀬生さん、俺のになるの……』  だが、穏やかに幸福だった日も、確かにあった筈だ。  あの美しく(けが)れない姉弟と、自分が家族になれるとは、こんな倖せが自身に降っていいものなのかと胸が震えた。  与えられる光があまりにも尊くて、怖れさえ感じていた。  短い間だったが、日菜佳と、柚弥と、共に暮らしたこともあった。  朝、出勤の間際まで寝起きの悪い柚弥を待って、ようやくリビングにやって来た、頭に酸素の周り切っていない柚弥に『……まだいたの。美術の先生は、お気楽でいいね』軽口を叩かれ、  窘める日菜佳と三人で食卓に着き、日菜佳の作った温かい朝食を、三人で手を合わせて食べた。『いただきます』  『醤油取って』徐々に頭が冴えてきたらしい柚弥が手を伸ばす。目の前にあった瓶を手渡し、柚弥が目玉焼きにかけた、あの時の香ばしい醤油の匂いが、今にも目の前に、本当に置かれたように鼻先へ拡がってくるようで、 そこまで情景が胸に迫って来たところを潮に、椋田は過去を追憶するのをやめた。  日菜佳がいなくなり、全部こわれて、柚弥とは離れることになり、梗介は火のように自分を憎んだ。  だが、と椋田は想う。  自分は、生きなければならない。どんなに汚濁と罪に(まみ)れていても。  託されたのだ、柚弥を。今際の際まで、日菜佳はただいっとうに、弟を慈しんでいた。  椋田は向けていた刃を離し、置き忘れられたケースに歩み寄り、丸刀をそこへ仕舞った。  柚弥が不安定に陥りやすいのは、姉の死も筆頭の一つで、複雑な事情が絡み合っている。  自分は、教師として、——義兄(あに)として、彼を支えていかなければならない。  日菜佳がいなくなり、実質的な繋がりがなくなったとしても、もし本当に、必要な時が来たならば、『家族』として、彼を迎え入れて良いと椋田は胸の内でとうに決めていた。  だが、先ほどのように、過去や自身の触れられたくない部分に前触れもなく手を伸ばされると、途端に自身を護って拒んでしまうのを抗えない。  柚弥は、人のこころの芯に隠しているはだかの部分へ、いつだって躊躇いなくその指を触れてくる。  不快なのではなく、解き放って構わないのか、という怖れなのだ。  解っている。不安定だったのは、転校生との関わりからだ。  そもそも始めは相談事で現れた。頻繁に来る訳ではない。ふらりと訪れることもあるが、大抵切羽詰まるまで悩んで、やり場のなさを持て余して駆け込むことが多い。彼なりに、自分達の関係を思慮しているのだ。  それなのに、自分を護るあまり、彼の悩みを掬い上げることが出来ず、自身の不甲斐なさを椋田はひどく責めた。  結局、なるようにしかならないだろうが、先程彼にも告げた通り、同年代の友人のことを打ち明けるのは珍しかった。年頃らしい、無視できない繊細な悩みだ。  出来れば、どうにか心を和らげてやりたかった。 『…………柚弥には、梗介君がいる——』    所詮、自分にはどうすることも出来ず、彼に自ら近づくことも許されない。  情けないことは熟知している。  言い訳のように、そう結論づけていた。  傍らにある油絵の道具箱は開いたままだった。  課題の画を再開させようかという思いが浮かぶ。幸い梗介に穿たれた穴は小さく、絵の具を塗り重ねれば目立たくなるだろうことは窺えた。  画の前に立って、筆を手に取る。  だが、どんな色を塗ればいい。  瞳の奥にその色を見つけることが出来なくて、椋田は上げていた腕を降ろした。

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