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#11 彫刻刀

 戸口で直立していた梗介の影が動き、室内へ脚を踏み入れた。  近づいてくる気配に、顔を横に向け俯いたままの柚弥へ、 「…………もう、ここへは来るなよ」  椋田は囁き、柚弥は目線を僅かに上げた。  それとほぼ同時に柚弥の頭上には既に梗介が現れ、机に置かれていた柚弥の手首を掴み、上へ引き上げた。 「あ……」  椅子が予期せぬように後退する音が響き、柚弥は強制的に立ち上がらされた。  そのまま後ろ手に梗介に引かれ、脚を纏らせながら歩かされる格好となり、その場から離れて行く。  その間、梗介は椋田の方へ一切眼もくれず、そこに存在することは決して許されないかのように、一縷の反応も見せなかった。  頭上の梗介や、離れていく前方で座して動かない椋田を交互に見て、柚弥の頭がおぼつかなく揺れている。  椋田も去って行く二人には瞳を向けず、自分から視線を外させるように、柚弥に向け最後の呟きめいたものを口から漏らした。 「梗介君に、心配をかけるなよ……」  その瞬間、戸口へ向いていた梗介の顔が僅かに横に振れた。  と思われた時には傍らの机に忘れられた、蓋が開いたままのケースにある彫刻刀が抜かれ、  自分の真横を、風のような速さでそれが跳んでいくのを柚弥は何とか認識出来ていた。  梗介の腕は全く力が込められておらず、ほぼ振れていなかったように見えた。自身の右手頸は彼に掴まれたままだ。利き手を使っていない。遅れてそのことに驚愕した。  彫刻刀だけが空を裂いた。あまりの速さにそこまでしか判別がつかなかった。  対する椋田は光のようなものが自身に向かって跳んでくるのは捉え、彫刻刀だとは、一瞬間の内に判断出来ていた。  鳴るように冴えた空気が自身の左顎の下を通過し、背後にある先程まで筆を執っていた油絵が鋭く穿たれた音を聞く。  衝撃で画を支えていたイーゼルも後退し、床を鈍く軋ませる音が響いた。 「瀬生さ……っ……!」  柚弥は蒼白になりながら、口を掌で覆ってよろめいた。  彫刻刀を放った梗介は、そのような動きも姿勢も殆ど見せず、刃の軌跡を冷淡に見届けると、既に上半身を戸口へ向けていた。  ただ、わずかに振り向いた顔は、終始酷薄な無表情で貫かれているものの、 眼だけは、極限まで凝縮された氷から放つ燐光のような、鈍く凍てついた揺らぎが宿されていた。 「俺のいる空間で言葉を発するな。 次は外さねえ」  椋田は僅かに息を()いた。  もう振り向かない梗介に腕を引かれながらも、柚弥の瞳が椋田を追って揺れている。  大丈夫だ。何ともない。  だからもう、 俺には構うな。  瞳を伏せたまま、心ではそう告げていた。  それが伝わったのかどうか、確かめる術も間もなく、二人の姿は美術室の外へ消えた。  姿は完全に消えたが、彼等がそこにいた軌跡はまだ辺りに浮遊しているようだった。  抑えていた溜息を漏らし、椋田(くらた)は背後を振り返った。  描きかけの抽象画に、彫刻刀が刃の部分まで食い込んでいる。  ちょうど花の端辺りだ。花は、この画でいえば人物的対象に捉えられなくもない。そこを狙ったのか。おそらく違うだろうと想像したが、大したものだと椋田は思わず笑っていた。  穿たれた彫刻刀を静かに引き抜く。射られていたのは丸刀だった。  他の種類に比べ鋭利さは幾分劣るが、殺傷力は充分にある。それをあの距離から、ある程度の狙いを定め溜めなしで放って来た。しかも左の片腕で。 「凄いな……」と独り呟き、改めて梗介(かれ)の身体能力に感心するとともに、自身の身の危険は元より念頭から外れており、かえって頼もしささえ覚えていた。  椋田自身は、梗介に対して煩わしさなどの負の感情は初めから持っていなかった。  むしろ、本当にこれは彼には秘した方がいいが、保護者のような、柚弥同様、遠くから静かに見守っていたいような心持ちがある。  柚弥の姉の、日菜佳(ひなか)と同様の気持ちなのだと椋田は自覚している。  一方の梗介はどうなのか。それを思うと、久しぶりに変わりない姿を目にし、実は幾分安堵していた椋田の心は、落ちるように沈んだ。  狙ったのは頸動脈だ。わざと外してはいるが、本当は、迷いなく射抜いてしまいたかったに違いない。  この刃は、彼の心そのものだ。  彼が強く、己れのことをこの世から一刻も早く消え失せるべきだと(のぞ)むほどに憎んでいることは、よく解っている。  彼と、柚弥のことを想うと、いっそ、この彫刻刀が本当に頸動脈ないしは心臓を貫いていた方が、  二人のためには良かったのではないか、という想いに捕らわれてくる。  向けれられた切っ先を、自らもう一度頸筋に翻す。  何故、自分はここに、今も立って存在しているのだろうか。

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