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#24 こじ開けて、ふれたさき

 僕と彼等が立っている場所は、本当に遠く、それこそ昨日廊下から教室の中を垣間見ていたのとまさに変わりない状態で、どこまでも隔たりがある。  梗介がどれほど酷薄で、無情な存在であっても、柚弥にとって彼は無二で、まぎれもなくなのだ。  僕は、そこに言葉を挟みたくなかった。  どんなに二人や二人の関係が、傍から見てたかが外れ歪みを極めていたとしても、 それを語る柚弥にも、僕はれっきとした『真実』を感じたからだ。 「梗介とは、ジジイになっても一緒にいるって誓った。……でも、先のことなんかどうなるか判らない。俺だって、いつまでもこんなちやほやされるなんて思ってないよ。どんどん醜く枯れていくだけだ」 「……」 「それでもう用済みってなったら、いつ捨てて貰っても構わないよ、全然。それ以上醜態見せて縋るのは嫌だ。 それに、梗介だって、あの人もまるで女信用してない割に女喰いまくってるけど、梗介を欲しがる女なんて湧くようにいるし、それでも、いつかきっと、梗介のことを解ってくれる(ひと)がもしかしたら出来て、そしたらそこに、落ち着くのが良いんじゃないの。——『一般的』に」 「……、」 「そしたらその時も同じだよ。 俺はさっさと消えるからいい、眼の前から」  柚弥は、芝生の上に静かに立ち上がった。  ホワイトのニューバランス。アッパーがメッシュのスニーカー。ソールのグリーンが緑蔭に溶けている。  音が鳴るように絞られた脚首には、円やかな骨が浮き出て、今日も昨日とは違った装飾(かたち)のアンクレットが華奢な白銀(ひかり)を散らつかせ纏わっていた。  そこから滑らかな艶を画のように引いた白いふくらはぎが、流線さながら捲られたスラックスの中に吸い込まれている。  ふと、想い出した。その先に存在する、昨日瞳にした、 彼の右腿の内側に刻まれていた花のタトゥー。  今は見えるべくもない。  あれは、彼と繋がりたい、あばいてまでそれを『見たい』と覚悟を決めた者にしか、見ることを赦されない花弁だったのだ。  闇のように吸い込まれそうな藍と、(むらさき)がひとつに溶け合った、桔梗の花。  あの時は、正直うつくし過ぎて怖いくらいだった。だけど、おそらく沢山の目に触れて来ただろうに、なんてその無垢さを喪わずに、咲き誇っていたのだろう。 ——もしかして、夏条先輩の名は…………、  思案の中に見えた答えを辿ろうとしたところ、視線を感じ、 見上げた先には、僕を靜かに見下ろして滲むような、柚弥の微笑があった。 「——付き合い、切れないでしょう……?」  緑蔭の中にその顔色も笑顔も、揺らめくように溶け去ってしまっている。  くすぐるような風に髪が揺れて、枝葉の間から差す(ひかり)が背後から瞬いて、本当に一瞬、彼がそのまま消えてしまうような危惧が感じられて、僕は返事する事が出来なかった。 「やっぱり、俺達友達には、なれないかも知れないね…………」  緑蔭に溶けて朧げなその輪郭は、手向けた微笑をそのまま横に流し、前を向いた。  芝生に置かれていた袋を拾い上げる。そして柚弥は、音もなくそっと丘を(くだ)って行った。  翠の敷布にその足音が吸い込まれている。華奢な肩や髪を風に靡かせている後ろ姿が、映写機(フィルム)のように遠のいてゆき、 昼休み終了を告げるチャイムの音が、晩夏の昼下がりの空、蒼と白い鱗雲のなかへ伸びやかに拡がって、吸い込まれていった。  独りになった緑蔭のなか、濁った纏わりつくような蝉の声が、四方や、どことも着かないところから思い出したように響いてくる。  夏の午後の暑さが、またじっとりと頸や胸の中にその不快な肌触りで忍び込んでくる気配がする。  彼がいたからだ。この場所が、あんなにも清々しさを感じて、解き放たれたようにこころが軽やかで、穏やかさに満ちみちていたのは。  彼がここに連れて来て、隣で笑っていたからだ。ひとりだと、こんなにも意味がない。 「……」  僕の頭の受け皿に、ここに来ただけでもまた、柚弥(かれ)の様々な表情が、切り取られて美しく透かした紙のようにして、舞い落ちながら降り積もっていく。  それらが前後もなく、かたちを翻しながら、柚弥の瞳や言葉までも、頭の中で舞い降りてゆき、それはやがて、満たされて傾けた受け皿から、こころのそれにも流れゆき、僕の脳裏でその像を結ぶ。  僕は折り曲げた膝の上で俯き、右手で額を押さえた。    彼の蓋は開かれた。開いてくれた。勿論、きっと総てではない筈だけれど。  黒と血みどろのような塊のなかにある、おそらく、彼が最も尊くその身を貫かせている想い(もの)を、その片鱗だけ、だけど確実に僕に見せてくれたのだ。  だけど、という想いとともに僕の胸からどうしても消え去らないものがある。  彼は、彼の『真実』を僕に見せてくれた。  だけど、無遠慮に僕がへ手を入れたために、こじ開けられて血を流したのは、 彼の方だったんじゃないのか……? 『友達には、なれないかも知れないね』  少しだけ顔を傾けて、滲むように笑った顔。 まるで、―――しまいそうな。  文字通り、染み込んでいく。  自ら見切りをつけてそう言うのなら、 何て顔をして、笑うんだよ…………。 「……」  額を押さえていても、あと10分で5時間目は始まってしまう。  彼は血を流してまで、生々しく脈打つ濁った塊も、この上なくうつくしいものも、見せてくれた。  僕の決意は、そのさなかから生まれていた。  やはり変えられないから、僕は顔をもたげ、立ち上がるために地面から脚を踏み出した。

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